灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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40. 黒とドライヤー

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 こめかみに温かくて柔らかい何かが触れる。それが菊地さんの唇だと気付いて、妙な安心感が全身に広がる。菊地さんの左手は私の頭を抱えていて、右手は私の腰の辺りを擦ってくれる。
 安心。
 やすらぎ。
 そんな言葉を、全身で実感する。
 菊地さんとこんな風に密着するのは初めてなのに、まるでこれが当たり前のような、不思議な感覚を覚える。彼とこの距離にいることが、自然のことのように思えた。

「部屋、戻るか?」

 優しい口調なのに、内容が意地悪に思えて、私は唇を尖らせた。どんなに拗ねた表情をしたって、彼には見えるはずがないのに。この空間から離れたくなくて、私は先ほどまでよりも強く、彼の首もとに抱きついた。

「なーかーたーに」

 まるで駄々っ子に言い聞かせるような口調にも、どこか甘さと優しさを感じて、私は彼の首筋に額を擦り付けた。すると突然、私の無防備な耳に熱くて湿った何かが触れる。驚いてあられもない声を上げながら、私は耳を押さえつつ彼の首もとから離れた。
 驚きのあまり見開いた私の瞳に映ったのは、いたずらに成功したように微笑む菊地さんで。ベッと舌を出す仕草に、心臓が高鳴ると同時に、先ほど耳に触れた何かの正体に気付き、顔に熱が集まる。

「部屋、戻るぞ」

 そう言うのと同時に、ひょい、とそのままの姿勢で私を抱え上げながら、菊地さんは立ち上がった。驚いた私はあわてて彼の首に掴まったが、そのまますぐに、ベッドに座らされた。そこで初めて、私は自分の左足からも靴が消え去っていたことに気付く。自分で脱いだのか、菊地さんに脱がされたのか、私には分からなかったし追求したいとも思わなかった。
 いつの間にか、スリッパを手にした菊地さんが私の前に片ひざをつく。驚く暇もなく、彼は私にスリッパを履かせてくれた。その光景に既視感を覚える。
 ヒールが壊れて、転びそうになったところを、助けてもらったあの日。あの瞬間。菊地さんの優しさに、救われた。それなのに、私はその日の夜に出会った、皓人さんを選んでしまった。あれが、間違いだったんだろう。

「どうした?」

 菊地さんの声で、私は現実に引き戻された。

「考え事?」

 問いかけながら、菊地さんはゆっくりと立ち上がる。私の両足は、すっぽりとスリッパに包み込まれていた。

「ちょっと、春のできごとを思い出してました」
「春?」

 聞き返しながら、菊地さんは床に散らばった私のパンプスを拾い上げる。

「私、菊地さんにお礼するって言ったのに、まだできてませんでしたね」
「お礼?」
「ほら、あのパンプスの」

 右手に靴をまとめて、彼がくるり、とこちらを振り向く。その表情は優しくて、やはりどこか私を安心させてくれる。

「ああ、あれ。別にいいって、そんなの」

 言いながら、菊地さんはそっと左手を私に差し出した。その手を取るべきか否か、つい躊躇してしまう。あの部屋に1人で戻るのは、やはり気が進まない。

「あの、やっぱり戻らないとダメですか?」

 迷惑を承知で、訊ねてみた。胸の内の不安を分かって欲しくて、彼をそっと見上げた。

「ダメ」

 意地悪な即答に、私は小さくため息を溢しながら俯いた。
 あの部屋には、なんだか電話の向こうから聞こえた皓人さんの言葉が残っているような気がする。その亡霊に取り憑かれて、安心できない気がする。
 不安だけでなく、胸の痛みまでもが蘇ってきて、私は無意識に下唇を噛み締めた。

「あ、ほら、また!」

 咎めるような菊地さんの声に、自然と顔を上げる。眉間にシワを寄せる彼の視線と私のそれがかち合う。私の不安が伝わったのだろうか。彼の眉頭に寄っていた力が抜けていくと、私を安心させるような笑顔を浮かべ、そのまま小さく頷いた。

「大丈夫、俺が傍にいるから。ほら、おいで」

 そう言って再び、彼は左手を私に差し出す。私は迷いながらも、彼の手を取ることにした。菊地さんは私を立たせると、流れるように自然と私の指に彼の指を絡ませた。そのまま彼の手に引かれながら、私は自分の泊まる部屋へと歩き始めた。

 カードキーをかざして部屋に入れば、菊地さんはすぐに私を座らせた。彼のジャケットがかかったハンガーラックの下に、パンプスを並べる。

「ちゃんとハンガーに掛けといてくれたんだな」

 菊地さんはラックを指差しながら言った。改めて指摘されて、胸の奥がこそばゆく疼く。ジャケットを抱きしめたときの、あの匂い。つい先ほどまで、その匂いに包み込まれていたことを思い出すと、なんだか照れくさい。

「すみません、返しそびれてましたね」

 菊地さんの匂いを思い出していたなんて知られたくなくて、あくまでも冷静なふりをしてみる。

「いや、いいんだ。明日取りに来るから、それまで中谷が預かってて」

 菊地さんの言葉からはどことなく気遣いが感じられて、私はそれに甘えることにした。私が頷くのを確認すると、彼は優しく微笑んでから、私の隣にそっと腰かけた。ギシリ、とスプリングの沈む小さな音が、無言の室内ではなぜだか響く。ポン、ポン、と菊地さんの優しい手が頭を撫でたかと思うと、そのまま頭のてっぺんに口づけが1つ、落とされる。

「疲れただろうし、今日はもう寝な」

 な? と再び頭を撫でると、菊地さんは立ち上がった。

「てかスマホ、ベッドに放っぽったままじゃんか」

 菊地さんの指摘に、私の胸がズクリと痛んだ。皓人さんとの電話の後、泣いて泣いて、放り出してしまったスマートフォン。あの時の感覚がじんわりと身体に纏わりついてくる。何もかもが終わってしまったかのような、あの独特な空虚さが。
 私の表情の変化から察したかのように、菊地さんはそれ以上なにも言わず、デスクの上へとスマートフォンの居場所を移した。

「シャワー浴びるか?」

 あくまでも自然に彼の口をついて出た言葉に、思わず目を見開いてしまう。疚しい意図がないとしても、なかなかに破壊力を持った言葉だ。

「湯船につかる方が良いって言うなら、お湯張るけど?」

 私の動揺に気づかないのか、菊地さんは顔色1つ変えずに問いかける。きっと、菊地さんは純粋な優しさの気持ちから提案してくれているだけに違いない。それなのに、やたらと意識してしまう自分の邪な感情が恥ずかしくて、思い切り首を振った。

「シャワーで、大丈夫です」
「そう。じゃあ、ここで待ってるから、入って来なよ」

 デスクに置いていた袋を手渡され、私はドギマギしながら浴室へと向かった。ドアノブに手を掛けた瞬間、「あ」という彼の声に振り返る。

「シラフじゃないんだから、足元とか気をつけて」
 
 完全なる純粋な善意から来る言葉に、私は曖昧な笑顔でただ頷いた。
 
 浴室の扉を閉めるなり、私は密かに頭を抱えた。なんだか、経験値の違いをまざまざと見せつけられている、ような気がする。あんなにも下心なく異性にシャワーを促せるものなのか、と驚いてしまう。告白されていなかったら、菊地さんは私のことを女性として意識していないのではないかと疑ってしまっていただろう。それぐらい、下心というものを感じなかった。
 私に、女性としての魅力を感じていないのだろうか?
 シャツのボタンをはずしながら、そんな考えが浮かぶ。けれども、先ほどの彼の部屋での情熱的な時間が、そうではないことを証明している。

 足元に気を付けながら、ゆっくりと空のバスタブの中に足を踏み入れた。
 やっぱり、女慣れしている、ということなんだろうな。
 シャワーの栓をひねりながら、漠然と考える。菊地さんがモテるのは知っているし、昔、恋人がいたことも知っているし、そこに驚く要素は何らない。嫉妬心だって、特には芽生えない。気持ちをきちんと言葉と行動で示してくれる人だ。そこに不安はない。
 にもかかわらずモヤモヤしてしまうのは、どうしてだろう?
 シャンプーを泡立てながら、私は悶々とする。皓人さんとは、違うタイプの余裕に戸惑ってるだけ? 皓人さんは飄々としていた反面、妙に照れ屋なところがあったし。そこまで考えて、自然と皓人さんの顔が浮かんだことに気付いてハッとした。
 
 忘れないと。
 皓人さんのことは、忘れなきゃいけない。
 
 まるで彼との思い出を掻き消すように、頭の泡をシャワーで一気に洗い流した。

 結局、シャワーを浴び終えて着替えた後も、私の中のモヤモヤは解消されなかった。浴室の扉から顔を覗かせれば、デスクに備え付けられているイスに座る菊地さんと目が合う。

「おかえり」

 そう微笑む菊地さんに、私は小さな声で「ただいま戻りました」と返す。

「こっち座って」

 彼は立ち上がると、ポンポン、とベッドの上を叩いた。すっかりこの部屋に馴染んだ様子の彼になんだかドギマギしながら、言われた通りの場所に腰を下ろした。途端、どこからともなく水の入ったグラスを渡されて、そのまま私はグラスを口に運んだ。
 冷たい水が、喉を通って火照った身体の熱を冷ます。
 気持ちいい。
 本能的に、私はゆっくりと瞳を閉じた。

「喉、渇いてただろ?」

 後ろから優しい声が聞こえたかと思えば、ベッドが一気に沈みこむ。後ろから感じる身体の熱に、冷えたはずの私の身体が再び熱を持ち始めた。
 バサリ、といきなり頭にタオルが被せられて驚いていると、そのまま少し雑な手付きでタオル越しに髪をワシャワシャと撫でられる。初めて感じる、男の人の手つきと力加減が妙に気持ち良くて、私は再び瞼を下ろした。

「痛くない?」
「大丈夫です」

 まるで美容室でするようなやり取りがなんだかおかしくて、つい頬が緩んでしまう。

「なんか、手慣れてますよね」

 そんな言葉が口をついて出たことに気付いたときには、すでに手遅れだった。「あ」と小声を漏らす私の後ろで、菊地さんは変わらずに動き続ける。

「俺の姉貴、5つ歳上なんだけど、結構人使い荒くてさ」

 話しながら、菊地さんはベッドを降りた。ベッドサイドのコンセントに何かをつなぐと、すぐさま元居た場所に帰ってくる。

「サークルの飲み会から帰ってくると、ちょっと酔っぱらいながら風呂入って、出てくるなり『水よこせー!』ってうるさくて、仕方ないからコップに水いれて運んで。そしたら、今度はソファーの上で半分寝ちゃってさ。『髪も乾かさないでそんなところで寝てたら風邪引くぞ』って言ったら、『なら、あんたが乾かしなさいよ』なんて命令してくるんだよ」

 菊地さんがそこまで話すと、カチリ、という音に続いて、ゴォーと音を立てながら熱風が頭にかかる。

「熱くない?」
「大丈夫です」

 再びの美容室のような会話に、ついつい堪えきれずに笑い声がこぼれた。
 そういえば、初めて夜を過ごした翌朝、皓人さんも私の髪を乾かしてくれたっけ。あの時はなんだか気まずくて、微妙な空気だったんだよね、確か。お父さんや美容室以外で男の人に髪の毛を乾かしてもらったことなんて、なかった。だから、強烈な出来事として印象に残っていた。けれども、そんな記憶が今、菊地さんの手によってあっという間に塗り替えられていく。

「1回言うこと聞いちゃったらさ、姉貴も調子乗っちゃって。いつの間にか俺は姉貴の専属ドライヤー係だよ。俺が就職して実家出るまで、ずーっと、姉貴が疲れた時のドライヤーは俺がやってた」

 菊地さんの話を聞きながら、なんとなく彼のお姉さんの気持ちが分かるような気がした。丁寧に髪を撫でていく手つきや、時折力強く頭皮に触れる指使いがなんとも絶妙で気持ちが良い。それでいて、耳の近くに熱風を当てる時には、耳を手で覆って熱から守ってくれる。そんな心遣い、1度知ってしまったらやみつきになってしまうだろう。

「よし、おしまい!」

 そんな声と一緒に、ドライヤーの電源が落とされる。自然と自分で髪を触って、乾き具合を確かめてしまう。心なしか自分で乾かしたときよりもサラサラとしているように感じる手触りに、思わず感嘆の声が漏れた。振り返って菊地さんの顔を見上げると、優しさとは少し違った、それでいて心が温かくなるような表情を向けられていたことに気付く。その表情の意味が分からなくて、なんとなく身構えてしまう。

「なん、ですか?」

 恐る恐る問いかければ、菊地さんはさらに満足そうに微笑んだ。

「いや、すっぴんも美人だな、と思って」

 ドキン。
 不意打ちの褒め言葉に、心臓が大きく高鳴り頬へ一気に熱が集まっていく。してやったり顔な菊地さんは、クツクツと笑いながら、ドライヤーのコンセントを抜く。

「あとは、俺の理性を褒め称えてた」
「え?」

 くるくるとドライヤーのコードを本体に巻きつけながら放たれた言葉の意味がよく分からず、私は思わず問い直した。

「つまりさ、今夜は我慢したけど、次は分かんないぞって話」

 そう言って唇の片端だけ上げた意地悪な笑顔を見せると、そのまま菊地さんはドライヤーとタオルを持って浴室へと消えていった。1人残された私は、急上昇した体温をどうしたら良いのか分からず、思わず両頬に手を当てたままベッドに背中から倒れこんだ。先ほどまで抱えていたモヤモヤと入れ替わるようにして、心拍数が急上昇した。
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