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19. 白の言葉

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 ピヨ、ピヨ、という聞きなれないアラームの音で目が醒める。首筋の辺りを、スースーと規則正しい寝息が擽る。アラームを止めようと身体を動かそうとするも、腕の上からガッツリと皓人さんに抱き込まれているため、身動き1つ取れない。

「皓人さん」

 腕の主の名前を呼べば、どうやら逆効果だったらしい。身体の拘束はより強くなった。

「皓人さん!」

 先程より大きめな声で名前を呼ぶと、ぬ、と背後から腕か伸びて、ベッドサイドに置かれたスマートフォンを手に取る。

「朝が来るの早くない?」

 アラームを消しながら、皓人さんが問いかける。いつもよりもしゃべり方がもったりしているのが、なんだか愛おしい。

「寝たの、遅かったから」

 私は答えながら、ようやく少し緩んだ拘束から逃れる。

「茉里ちゃん抱えてると寝心地良いんだよなあ」

 起き上がったらしい皓人さんは、その場でグーッと伸びをする。寝ぐせのついた彼のぼさぼさの髪の毛を見て、思わずクスリ、と笑いが漏れてしまう。

「人を抱き枕みたいに言わないで」

 そう言って彼の無防備な脇腹を軽くつねると、ギャーっという声をあげて、彼はその場に突っ伏した。脇腹、弱いのかな。意外な弱点を見つけたかもしれない。
 相変わらずのコミカルな反応に、緩んだ頬を隠さないで私は必要な品々を持って洗面所に向かった。

 顔を洗って、口紅以外のメイクまで済ませた状態で洗面所を出る。足は自然とキッチンへと向かう。白いTシャツにボクサーパンツだけという、またも刺激的なスタイルで皓人さんは朝食の準備をしている。

「今日もグラノーラで良い?」

 と訊きながら、皓人さんはグラスにオレンジジュースを注ぐ。
 お礼を言いながらジュースを受け取り、椅子に座る。

「悪いんだけどさ、会社行く前にゴミ出し手伝ってもらっても良い?」
「もちろん」

 答えながら私は牛乳を手に取り、ボウルに注ぐ。

 朝食を終えてお互いに身支度を済ませると、車へ乗り込む前にゴミ出しへと向かう。いつの間にか皓人さんがまとめていたらしいゴミ袋を手に、並んでゴミ捨て場へと向かう。

「あら、末田さん、久しぶりじゃない!」

 ごみ捨て場の蓋を閉めていると、唐突に後ろから声をかけられた。

「おはようございます、酒田さん」

 皓人さんは声をかけてきた初老の女性に、親しみやすい笑顔を浮かべて頭を下げる。しかし、その時すでに、彼女の興味の対象は、彼ではなく隣に立つ私へと移っていた。値踏みするようにじっと見つめられ、私は少しばかりの居心地の悪さを感じた。

「茉里ちゃん、紹介するね。こちらは酒田さん。そこの緑の屋根の家に住んでる方」
「どうも、はじめまして」

 にこり、と笑顔で頭を下げる酒田さんに私も頭を下げながら、皓人さんは私のことをなんて紹介するんだろう? と疑問に思った。心の片隅で期待してしまっている自分がいた。

「で、酒田さん」

 皓人さんが酒田さんに向き直って、そっと私の背後に片手を回した。
 なんだか、変な緊張が私を襲う。

「こちらが」

 ドキドキ、と彼の口から発せられる言葉に、心臓が早鐘を打つ。

「茉里ちゃんです」

 シンプルにそう告げられ、とりあえず私は頭を下げる。心の奥底でがっかりしたのを、悟られたくなかった。勝手に期待して、勝手に落ち込んだ。なんてみじめで情けないんだろう。

「美男美女のカップルで羨ましいわねえ」

 酒田さんの言葉に笑顔でお礼を言う。傷ついた心を、初対面の人に悟られたくない。

「じゃあ、仕事があるんで」

 皓人さんはそう告げると、私の手を引いて家へと戻っていく。

 茉里ちゃんです。

 間違ってはいない。けれども、恋人、とか、彼女、とか紹介してくれても良かったのではないか。
 そんな思いがふつふつと沸いてくる。

 宣言通り皓人さんは私を会社まで車で送ってくれたけれども。いってらっしゃいのキスまでしてくれたけれども。私はどこか心のモヤモヤが邪魔して曖昧な返事ばかりになってしまった。
 別れ際に今夜の予定を訊かれた。今夜は仕事が終わるのは遅くなりそうだから、なんて適当な事を言ってごまかしてしまった。彼の車に背を向けた瞬間、私はようやく顔に張り付けていた笑顔の仮面を外すことができた。

*************************

「女はどうして言葉を欲しがるのかね」

 エレベーターの中、不意にそんな言葉が耳に入り、思わず声の主を横目で確認してしまう。知らない人だ。

「態度で察しろよ、ってのにさ」
「空気読めないよなー」

 まさに自分の悩みに直結するような会話の内容に、耳と心の両方が痛い。女性について好き放題話しながら笑い合っていた二人組の男性社員たち。彼らは、私が降りるよりも先に目的階で降りていった。

「ああいう事をさ、こんな密室の中で大声で話す方が空気読めてないよな」

 自分の目的のフロアでエレベーターを降りると、すぐ後ろからそんな声をかけられた。
 振り向けば、おはよう、といつもの笑顔で挨拶され、私もすぐに挨拶の言葉を返す。まさか菊地さんが同じエレベーターに乗っていたとは、全く気付かなかった。

「中谷がああいう会話に反応するなんて、珍しいな」

 言いながら、菊地さんは執務室の扉を開けると私に先に入るよう促した。

「たまたま、耳に入ったので」

 気になる情報が、と心のなかだけでひっそりと付け足す。菊地さんは「そっか」とだけ答えると、そのまま真っ直ぐ、自分のデスクへと歩き去っていった。

 態度で察する、か。

 察するって、何を基準に察すれば良いんだろう?
 皓人さんの態度だけで考えれば、私の基準だと、私たちは恋人同士だ。それに、彼は私を好きなのだと思う。でも、それはあくまでも私の基準をもとにした推察でしかなくて。
 人によって基準が違うのに、どうやって察することで真実にたどり着けるのだろうか。
 何か、確かなもの。関係性や気持ちという、目に見えないものを明確にするための言葉を求めることの、何がいけないんだろうか。
 
 そして、どうして皓人さんは何も言ってくれないんだろう?

 彼が、照れ屋さんだから?
 すぐに耳を赤くする彼を考えれば、それが一番しっくり来る理由だけれども。それだって、推察の域を出ない。
 不安な気持ちを解消してくれる、何か明確な言葉がほしい。ただそれだけなのに。
 それって、そんなに難しいことなのだろうか?

 ため息をつきながら、じっと目の前の自動販売機を見つめる。自然と視線がミルクティーを探す。販売中と書かれているのを確認し、小銭を投入してボタンを押そうとする。その刹那、後ろから伸びてきた浅黒い指が、ブラックコーヒーのボタンを押した。
 ……え?
 呆然と立ち尽くす私の横を、銀色の腕時計をつけた小麦色の腕が通りすぎていく。その手は、取り出し口から缶コーヒーを奪っていった。

「ご馳走さま!」

 振り返れば、いたずら成功、と言いたげな菊地さんの笑顔とかち合って。思わず私は不満げに唇を尖らせた。

「自販機の前でボーッとしてるからいけないんだよ」

 そう言いながら、菊地さんはポケットから小銭を取り出す。

「セクハラだ! って訴えられるの覚悟で言うけど、彼氏とのことで悩んでる?」

 小銭を入れて点灯したボタンの中から、迷うこと無く彼はミルクティーのボタンを押した。ほら、と差し出されたペットボトルを、私はお礼を言いながら受け取る。

「プライベートの悩みを業務に持ち込むのは、申し訳ないので……」

 それとなく、北野さんとの会話で菊地さんが用いていた言葉を使ってみた。

「中谷が言いたくないなら無理に聞こうとは思わない。けど、遠慮してるだけなら、その遠慮はいらないよ?」

 器用に缶コーヒーのプルタブを片手で開けながら、菊地さんは言った。何故だかは分からないけれども、この人になら話しても大丈夫。そんな考えが、私の口を開かせた。

「今まではそんなこと無かったのに、なぜだか急に不安になったっていうか、言葉が欲しくなっちゃったんです」

 他愛もないことのように、私は言った。

「いつから?」
「え?」
「急にって、いつから?」
「いつって、」
「きっかけ、あるんだろ?」

 ほら、と促す彼の視線は、企画会議や提案についての相談をするときのそれに似ていた。私が口に出せないでいる企画や、アイデアがある時に向けられる視線。
 その視線に慣れているからか、魔法がかかったみたいに自然と口を開いてしまう。

「彼が一週間ぐらい海外出張することになったのが、きっかけです」
「一週間ね。そんなに長期って訳でもないけど、まあ不安にならない長さって訳でもないよな」

 缶を傾けながら、菊地さんは腕を組む。

「私、今までに一度も海外に行ったことがなくて。だから私にとっては海外って言われると、ものすごい遠いところってイメージがあって。絶対に手の届かないところっていうか、もう別世界っていうか」
「一瞬でも別世界に行ってしまったら、もう帰ってこないんじゃないかって?」

 菊地さんの言葉に、私は思わず目を見開いて彼を見つめた。
 どうして、彼にはなんでも分かってしまうんだろう? 私の心の中の曖昧な感情を、どうして、いとも容易くほどいてしまうんだろう?
 どうして、私の心の回りに建てた壁を、通り抜けるんだろう?

「私、子供の頃に両親を亡くしてるんです」

 無意識のうちに、私の口からはそんな言葉が漏れ出ていた。
 誰かに訊かれるでもなく、自分から両親の話をしたことなど、今まであっただろうか?
 自分に自分で驚きながらも、私は菊地さんを見つめた。

「だから、大切な人が一瞬でも手の届かないところに行ってしまうのが怖かった?」

 菊地さんの問いかけで、私はようやく自分自身の気持ちを理解した。この不安の正体は、そういうことだったのか、と。
 私は、静かに頷いた。

「だから、何か確かなものが欲しくなった」

 私はもう一度、頷いた。

「ならさ、欲しいって言えばいい」
「え?」
「彼氏に、欲しいって言えばいい。中谷の希望を、相手にもちゃんと伝えるんだよ。それでどう出るかは相手次第。中谷が思い悩むことじゃなくなる」

 菊地さんの言葉は、私の中にスッと馴染んで広がった。私は無意識のうちに、足元を見つめた。皓人さんからもらったパンプスは、今日だって私の足元で輝いている。彼が、魔法をかけてくれたから。
 私は顔を上げると、菊地さんにお礼を言った。

「ありがとうございます」

 そう微笑みかければ、菊地さんはポンポン、と私の頭に手を置いて軽く撫でた。その手の優しい温もりは、私の心にもじんわりと広がっていく。

「じゃ、悩みも解決したようだし、残りの仕事も片付けますか」

 そんな彼の言葉に、私は力を込めて頷いた。

*************************

「仕事早く終わって良かったね」

 スマートフォン越しの皓人さんの声に、そうだね、と同意の言葉を返す。

「おれの方はね、出張の時の写真データとか整理したりね、向こうで注文した素材の到着日時の調整したりでね、なんだかんだバタバタしてたわ」
「そうなんだ」

 いつも通りの会話に、いつも通りの皓人さん。
言うなら今だ、と思いながらも、なかなか踏ん切りがつかない。気付けば、通話を開始してからもう一時間近くが経過してしまっている。

「そしたらさ、スタッフの一人が文字通りバナナの皮踏んで滑っちゃってさ」

 くだらない話をしながらカラカラと笑う彼の声に、自然と心が解されていく。

「皓人さんのその笑い方、私、好きだなあ」

 それは、何か考えを巡らせたわけではなく、自然に口をついて出た言葉だった。それなのに、突然彼の笑い声が止まって。空気が変わったのが分かった。

「最近、茉里ちゃんよくそれ言うよね」

 心なしか硬い彼の言葉に、背中を嫌な汗が伝っていくのを感じた。先ほどまでとはうってかわって、心の温度がどんどんと冷えていく?

「そ、そうかな?」

 そう問いかける私の声は、少しばかり上擦っている。

「もしかしてさ、おれに何か言わせようとしてない?」

 いつもより冷たい皓人さんの声に、胃がズン、と重くなるのを感じた。
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