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7. 白と見る夜景
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月曜日の朝に乗る通勤電車には、独特の空気が充満する。性別を問わず、狭い箱にぎゅうぎゅうに詰め込まれて輸送される感覚は、なんとも言葉にしづらい憂鬱さをはらむ。
ああ、今日からまたこんな1週間が続くのか、という諦めと絶望の入り雑じった空気。そこに、絶対に今日は遅刻してはならない、という殺気じみた無言の重圧感が混ざる。
背広の壁に四方を囲まれ、頼みの綱だった銀の棒から切り離され、精一杯に手を伸ばしてなんとか届いた吊り革に、必死になって安定を求める。酸素を欲して、必死に上を向いていた顔は、電車を降りた途端に下を向いた。今日も転ぶことなく、なんとか耐え抜いた自分の足と靴を労う視線が捉えた新品の黒いパンプスに、自然と口角が上がった。
自分の仕事道具なのだから、自分で金を払う。そんな私の主張を末田さんは一蹴した。
「おれが見つけた靴なんだから、おれからプレゼントしたいんです」
そう言って引かない末田さんに根負けして、結局彼の言葉に甘えることになってしまった。
別れ際、私に靴の入った紙袋を渡しながら、彼は私の耳元でそっと囁いた。
「この靴に魔法、かけときましたから」
困惑する私をよそに、彼はにんまりと満足げな笑みを浮かべて去っていった。
魔法って、一体なんのことだろう? と残りの週末中考えていたけれども、結局分からずじまいで。その答えが、ようやく分かったような気がした。
「中谷さん、その靴どうしたんですか?」
エレベーターホールで唐突に名前を呼ばれて顔を上げる。私の足元に釘付けになっている五十嵐さんに、私は目を丸くした。今まで、業務上必要最低限の事柄以外で五十嵐さんから声をかけられたことなど、あっただろうか? 特に親しい間柄でもない彼女から挨拶もなしにこんな風に話しかけられて、私はただ言葉を失ってしまった。
「あ、すみません、突然こんな質問」
我に返ったらしい五十嵐さんは、急に居心地悪そうに視線をよそへと向けた。私もどんな反応を返したら良いのか分からず、私たちはそのまま無言でエレベーターを待った。
「そんなに有名なメーカーなんですか?」
結局2人きりになってしまったエレベーターのなか、沈黙に耐えかねた私は問いかけた。五十嵐さんは少し迷う素振りを見せてから諦めたように口を開いた。
「有名というよりは、知る人ぞ知る、注目のこれから来るブランドって感じです」
思い返せば、百貨店の婦人靴売り場以外でどの店を巡るかを決めたのはすべて末田さんだった。私はただ、彼の案内に従うだけだった。この靴はなかなかに良いお値段ではあったので、それなりのブランドなのだろうとは推測していたけれども……さすが末田さん。プロは違う。
「男からの貢ぎ物ですか?」
腕を組みながら、五十嵐さんは訊ねた。彼女の中の私のイメージは、男を侍らせる悪女か何かなんだろうか。思わずため息が洩れる。彼女の推測は全くの的はずれというわけではない分、余計返答に困る。
「贈り物です」
そのまま認めるのはなんだか悔しくて、考えた末の答えだったが、五十嵐さんは私の言葉を鼻で笑った。
「美人は得でいいわね」
そんな捨て台詞だけを置いて、彼女はエレベーターを降りていった。
彼女の言葉に、私は強い違和感を覚えた。誰がどう見たって、五十嵐さんは美人なのに、なぜそんなことを言うのだろう、と。私なんかよりも五十嵐さんの方がよっぽど整った顔立ちをしているのに。接点が多いわけでも、ましてや親しいわけでもない私を、彼女はどうしてここまで気にするのだろうか。
五十嵐さんと仁科さんは親しいし、私と仁科さんは同じ部署になったから接点は多いけれども、それだけでここまでの態度を取るだろうか? 五十嵐さんを見ていると、なんだか実家の姉達を嫌でも思い出す。
ため息をつきながら俯いて、例のパンプスが視界に入る。同時によみがえるのは、跪いて私にこの靴を履かせてくれた末田さんの姿。そっと、私の足首に添えられた手に、真剣な表情。伏せ目がちだったからこそ、より長く見えた、彼の丸い瞳を縁取る長い睫と、日の光を受けて輝いたふわふわの茶色い髪の毛。
自然とボーッとしてしまい、はっと気づけば、目的階で閉じられようとしている鉄の扉に、あわてて開ボタンを押した。
これが、末田さんの言っていた魔法。ちょっと、効果が絶大すぎるかもしれない。そう心の中で独り言ちた私の口角は、また自然と上がっていた。
*************************
「明日の夜って、空いてます?」
木曜日の夜に突然かかってきた電話に出るなり、末田さんはそう言った。「空いてますけど」と告げれば、満足げな相槌のあと、今度は「東京タワー行ったことあります?」と訊かれる。「ないです」と答えれば、「じゃあ、決まりですね!」という明るい声で、かかってきたのと同じぐらい突然に通話が終了した。
急になんだったんだろう? としばらくスマートフォンを無言で見つめてから、あまりに唐突な出来事すぎて、思わず笑い声が漏れた。
2回目のデート、ってことでいいんだよね?
心の奥がなんだかこそばゆくて、それを誤魔化すようにクローゼットの扉を開ける。東京タワーに行くなら、やっぱり動きやすい格好? でも、ファッションデザイナーなんだもんな、お洒落な格好しないたな、なんて悩む時間も楽しくて。久々の心踊る感覚に、浮き足立つ。
*************************
浮き足立ちすぎた。
コーディネートに散々頭を悩ませ過ぎた結果、翌朝寝坊した。会社にはギリギリ間に合ったから良かったものの、寝坊なんて普段しないものだから1人で勝手に動揺して、小さなミスを重ねた。同じ業務についていた菊地さんはなにも言わなかったけれど、きっと内心は呆れていたと思う。
私は一体、何をやっているんだろう。
落ち込んだ気持ちを抱えたまま、昼休憩を終え、午後になっても調子は戻らなかった会議室を間違えたり、間違った資料を印刷してしまったりと、らしくないミスが続いた。
久しぶりの恋愛に浮かれて仕事に支障を来すなんて、本末転倒だ。落ち込む私の肩を、誰かがそっと叩いた。振り向けば、仁科さんがこっそりと何かを私の手に握らせてくれた。
ほんの一瞬でも、その手の主は菊池さんなんじゃないかと期待した自分が心底憎い。
「貰い物で悪いけど、甘いもの食べて一旦落ち着こっか」
にこり、と笑って去っていく仁科さんに感謝の眼差しを送りながら、手の中のそれに視線を落とす。それは、可愛らしい猫の後ろ姿を模したサブレで、その愛らしさに心が癒される。今度改めて仁科さんにお礼を言おう、と強く思いながら、サブレを口に運ぶ。ほどよい甘さに肩の力が抜けていくのを感じた。
それからは、嘘みたいにいつもの調子が戻ってきて。定時はやや過ぎたものの大幅な残業になることなく、業務を終えることができた。仁科さんさまさまである。
「お疲れさまでした!」
まだ残って頑張っている方々に挨拶をして、はやる気持ちを押さえながら、エレベーターに乗り込む。スマートフォンを確認しながら、早く地上に着かないか、と階数のモニターを見上げる。
駆け出すようにエレベーターを降りて、まっすぐに駅に駆けつけて、ホームに入ってきたばかりの電車に飛び乗った。もう待ち合わせ場所に到着したという末田さんからのメッセージを読んで、1人でにやつくのを抑えられない。
電車を降りて、早歩きで待ち合わせの東京タワー下に着くなり、末田さんの姿を探す。けれども、視界のどこにも彼の姿を捉えることはできない。再び、スマートフォンのメッセージを確認した。もう着いた、と書いてあるのにおかしいな。顔を上げてもう1度辺りを見回しても、やはり見つからない。電話をかけるべきだろうか。不安と焦りが駆け抜けたその刹那、背後に人の気配を感じた。
「お姉さん、待ち合わせですか?」
突然かけられた声に驚いて振り向けば、いたずらが成功した子供みたいに笑う末田さんがいて。
「びっくりしたー!」
なんて声をかけても、カラカラと笑うばかりだ。拗ねるのもバカらしく思えて、軽く、彼の右胸を拳でトンと叩いた。その手は、すぐに彼の手に包み込まれてしまう。少し冷たい彼の手に、待たせ過ぎてしまっただろうか、と心配になる。
「じゃあ、行きますか」
そう言って手を引かれてしまえば、もうすっかり彼のペースだ。驚くほどスムーズに入場手続きを済ませ、エレベーターでデッキへと上がる。
「耳が変ー」
そう言いながら、末田さんは顔をくしゃくしゃに歪める。その姿が、なんともコミカルで微笑ましくて。思わず吹き出して笑ってしまえば、今度は拗ねた子供みたいに口を尖らせる。そんな様も面白くて、また笑いがこぼれる。そんな私に、今度は怒ったように口を真一文字にしていたのに、何秒後かには末田さん自ら吹き出して笑い始めた。2人で笑い合っている内に、エレベーターが停止する。エレベーターを乗り換えてトップデッキにたどり着くと、至るところに鏡がある空間に驚いた。
「東京タワーがこんな風になってるなんて、知りませんでした」
そう言いながら、私は思わず年甲斐もなく窓際へと駆け寄った。手を繋いでいるので、必然的に末田さんも共に窓際へと貼り付いた。
「キレイですね」
ひとしきり夜景を楽しんでから声をかければ、気のない返事しか返ってこない。疑問に思って彼を見上げれば、彼の視線はなぜだか窓の外の空を見上げていて。何かあるのだろうか、と同じ方向を見上げる。そこにはただ空が広がっているだけで、雲の加減で星はおろか月さえも見えなかった。
「何、見てるんですか?」
私の問いに、末田さんはゆっくりと口を開く。
「空」
彼の短い答えに、ますます謎が募る。
「どうしてですか?」
私の再度の問いかけに、彼は気まずそうに視線を泳がせる。
「んー、下を見ると、高くてちょっぴり怖くなっちゃうから?」
何かを誤魔化すみたいに遠慮がちに紡がれる言葉に、私は驚いて目を見開いた。
「もしかして、高いところ苦手なんですか?」
「別に苦手じゃないですよ。苦手じゃないんですけど、なんか、思ったより高くてちょっと驚いたっていうか、ほんの、ほんのすこーしだけ怖くなったっていうか」
モゴモゴと強がりを口にしながら明後日の方向を見る彼がおかしくて、またもやクスリ、と笑いが漏れてしまった。
「じゃあ、私が末田さんの分まで、この景色を目に焼き付けておきますね」
そう伝えてから、私は再び窓の外の絶景に視線を戻した。ここに来ようと提案してくれたのは彼の方なのに。まさか、高いところが苦手とは。なら、どうしてここを選んだんだろう? 疑問に思いながらも、私は夜景をじっと見つめた。
「こんなにキレイなのに、勿体ないな」
小声で漏らした私の言葉は、どうやら彼の耳にもしっかりと届いていたらしい。
「キレイなものなら、これで充分」
依然拗ねたような彼の口調に私が余裕の笑みを溢したのは、ほんの束の間だった。繋いでいた手を引かれて、吸い込まれるように末田さんの方を向くと、流れるような自然な動作で彼の空いていた手が私の頬に添えられた。
言葉を発する間も、瞬きをする間もなく、私の唇に末田さんのそれが重なった。
唐突なのに、ゆっくりと重なった柔らかい唇に、思わす甘い音が洩れる。口先から伝わる温かい熱に、心が溶ける。じんわりと、熱い何かが全身に広がる。
そっと、唇だけ離れていく。私たちの鼻はまだ、触れ合っている状態のままだ。いつの間にかつぶっていた瞼を、私は恐る恐る持ち上げた。すぐさま、末田さんの丸い瞳が私のそれとかち合う。
「おれにとっては、中谷さんの瞳の方がずっとキレイ」
そんな甘い囁きと共に、彼の熱い吐息が私の唇を撫でる。そのまま、熱に惹かれるように、私の唇は再び彼の唇と合わさった。
ああ、今日からまたこんな1週間が続くのか、という諦めと絶望の入り雑じった空気。そこに、絶対に今日は遅刻してはならない、という殺気じみた無言の重圧感が混ざる。
背広の壁に四方を囲まれ、頼みの綱だった銀の棒から切り離され、精一杯に手を伸ばしてなんとか届いた吊り革に、必死になって安定を求める。酸素を欲して、必死に上を向いていた顔は、電車を降りた途端に下を向いた。今日も転ぶことなく、なんとか耐え抜いた自分の足と靴を労う視線が捉えた新品の黒いパンプスに、自然と口角が上がった。
自分の仕事道具なのだから、自分で金を払う。そんな私の主張を末田さんは一蹴した。
「おれが見つけた靴なんだから、おれからプレゼントしたいんです」
そう言って引かない末田さんに根負けして、結局彼の言葉に甘えることになってしまった。
別れ際、私に靴の入った紙袋を渡しながら、彼は私の耳元でそっと囁いた。
「この靴に魔法、かけときましたから」
困惑する私をよそに、彼はにんまりと満足げな笑みを浮かべて去っていった。
魔法って、一体なんのことだろう? と残りの週末中考えていたけれども、結局分からずじまいで。その答えが、ようやく分かったような気がした。
「中谷さん、その靴どうしたんですか?」
エレベーターホールで唐突に名前を呼ばれて顔を上げる。私の足元に釘付けになっている五十嵐さんに、私は目を丸くした。今まで、業務上必要最低限の事柄以外で五十嵐さんから声をかけられたことなど、あっただろうか? 特に親しい間柄でもない彼女から挨拶もなしにこんな風に話しかけられて、私はただ言葉を失ってしまった。
「あ、すみません、突然こんな質問」
我に返ったらしい五十嵐さんは、急に居心地悪そうに視線をよそへと向けた。私もどんな反応を返したら良いのか分からず、私たちはそのまま無言でエレベーターを待った。
「そんなに有名なメーカーなんですか?」
結局2人きりになってしまったエレベーターのなか、沈黙に耐えかねた私は問いかけた。五十嵐さんは少し迷う素振りを見せてから諦めたように口を開いた。
「有名というよりは、知る人ぞ知る、注目のこれから来るブランドって感じです」
思い返せば、百貨店の婦人靴売り場以外でどの店を巡るかを決めたのはすべて末田さんだった。私はただ、彼の案内に従うだけだった。この靴はなかなかに良いお値段ではあったので、それなりのブランドなのだろうとは推測していたけれども……さすが末田さん。プロは違う。
「男からの貢ぎ物ですか?」
腕を組みながら、五十嵐さんは訊ねた。彼女の中の私のイメージは、男を侍らせる悪女か何かなんだろうか。思わずため息が洩れる。彼女の推測は全くの的はずれというわけではない分、余計返答に困る。
「贈り物です」
そのまま認めるのはなんだか悔しくて、考えた末の答えだったが、五十嵐さんは私の言葉を鼻で笑った。
「美人は得でいいわね」
そんな捨て台詞だけを置いて、彼女はエレベーターを降りていった。
彼女の言葉に、私は強い違和感を覚えた。誰がどう見たって、五十嵐さんは美人なのに、なぜそんなことを言うのだろう、と。私なんかよりも五十嵐さんの方がよっぽど整った顔立ちをしているのに。接点が多いわけでも、ましてや親しいわけでもない私を、彼女はどうしてここまで気にするのだろうか。
五十嵐さんと仁科さんは親しいし、私と仁科さんは同じ部署になったから接点は多いけれども、それだけでここまでの態度を取るだろうか? 五十嵐さんを見ていると、なんだか実家の姉達を嫌でも思い出す。
ため息をつきながら俯いて、例のパンプスが視界に入る。同時によみがえるのは、跪いて私にこの靴を履かせてくれた末田さんの姿。そっと、私の足首に添えられた手に、真剣な表情。伏せ目がちだったからこそ、より長く見えた、彼の丸い瞳を縁取る長い睫と、日の光を受けて輝いたふわふわの茶色い髪の毛。
自然とボーッとしてしまい、はっと気づけば、目的階で閉じられようとしている鉄の扉に、あわてて開ボタンを押した。
これが、末田さんの言っていた魔法。ちょっと、効果が絶大すぎるかもしれない。そう心の中で独り言ちた私の口角は、また自然と上がっていた。
*************************
「明日の夜って、空いてます?」
木曜日の夜に突然かかってきた電話に出るなり、末田さんはそう言った。「空いてますけど」と告げれば、満足げな相槌のあと、今度は「東京タワー行ったことあります?」と訊かれる。「ないです」と答えれば、「じゃあ、決まりですね!」という明るい声で、かかってきたのと同じぐらい突然に通話が終了した。
急になんだったんだろう? としばらくスマートフォンを無言で見つめてから、あまりに唐突な出来事すぎて、思わず笑い声が漏れた。
2回目のデート、ってことでいいんだよね?
心の奥がなんだかこそばゆくて、それを誤魔化すようにクローゼットの扉を開ける。東京タワーに行くなら、やっぱり動きやすい格好? でも、ファッションデザイナーなんだもんな、お洒落な格好しないたな、なんて悩む時間も楽しくて。久々の心踊る感覚に、浮き足立つ。
*************************
浮き足立ちすぎた。
コーディネートに散々頭を悩ませ過ぎた結果、翌朝寝坊した。会社にはギリギリ間に合ったから良かったものの、寝坊なんて普段しないものだから1人で勝手に動揺して、小さなミスを重ねた。同じ業務についていた菊地さんはなにも言わなかったけれど、きっと内心は呆れていたと思う。
私は一体、何をやっているんだろう。
落ち込んだ気持ちを抱えたまま、昼休憩を終え、午後になっても調子は戻らなかった会議室を間違えたり、間違った資料を印刷してしまったりと、らしくないミスが続いた。
久しぶりの恋愛に浮かれて仕事に支障を来すなんて、本末転倒だ。落ち込む私の肩を、誰かがそっと叩いた。振り向けば、仁科さんがこっそりと何かを私の手に握らせてくれた。
ほんの一瞬でも、その手の主は菊池さんなんじゃないかと期待した自分が心底憎い。
「貰い物で悪いけど、甘いもの食べて一旦落ち着こっか」
にこり、と笑って去っていく仁科さんに感謝の眼差しを送りながら、手の中のそれに視線を落とす。それは、可愛らしい猫の後ろ姿を模したサブレで、その愛らしさに心が癒される。今度改めて仁科さんにお礼を言おう、と強く思いながら、サブレを口に運ぶ。ほどよい甘さに肩の力が抜けていくのを感じた。
それからは、嘘みたいにいつもの調子が戻ってきて。定時はやや過ぎたものの大幅な残業になることなく、業務を終えることができた。仁科さんさまさまである。
「お疲れさまでした!」
まだ残って頑張っている方々に挨拶をして、はやる気持ちを押さえながら、エレベーターに乗り込む。スマートフォンを確認しながら、早く地上に着かないか、と階数のモニターを見上げる。
駆け出すようにエレベーターを降りて、まっすぐに駅に駆けつけて、ホームに入ってきたばかりの電車に飛び乗った。もう待ち合わせ場所に到着したという末田さんからのメッセージを読んで、1人でにやつくのを抑えられない。
電車を降りて、早歩きで待ち合わせの東京タワー下に着くなり、末田さんの姿を探す。けれども、視界のどこにも彼の姿を捉えることはできない。再び、スマートフォンのメッセージを確認した。もう着いた、と書いてあるのにおかしいな。顔を上げてもう1度辺りを見回しても、やはり見つからない。電話をかけるべきだろうか。不安と焦りが駆け抜けたその刹那、背後に人の気配を感じた。
「お姉さん、待ち合わせですか?」
突然かけられた声に驚いて振り向けば、いたずらが成功した子供みたいに笑う末田さんがいて。
「びっくりしたー!」
なんて声をかけても、カラカラと笑うばかりだ。拗ねるのもバカらしく思えて、軽く、彼の右胸を拳でトンと叩いた。その手は、すぐに彼の手に包み込まれてしまう。少し冷たい彼の手に、待たせ過ぎてしまっただろうか、と心配になる。
「じゃあ、行きますか」
そう言って手を引かれてしまえば、もうすっかり彼のペースだ。驚くほどスムーズに入場手続きを済ませ、エレベーターでデッキへと上がる。
「耳が変ー」
そう言いながら、末田さんは顔をくしゃくしゃに歪める。その姿が、なんともコミカルで微笑ましくて。思わず吹き出して笑ってしまえば、今度は拗ねた子供みたいに口を尖らせる。そんな様も面白くて、また笑いがこぼれる。そんな私に、今度は怒ったように口を真一文字にしていたのに、何秒後かには末田さん自ら吹き出して笑い始めた。2人で笑い合っている内に、エレベーターが停止する。エレベーターを乗り換えてトップデッキにたどり着くと、至るところに鏡がある空間に驚いた。
「東京タワーがこんな風になってるなんて、知りませんでした」
そう言いながら、私は思わず年甲斐もなく窓際へと駆け寄った。手を繋いでいるので、必然的に末田さんも共に窓際へと貼り付いた。
「キレイですね」
ひとしきり夜景を楽しんでから声をかければ、気のない返事しか返ってこない。疑問に思って彼を見上げれば、彼の視線はなぜだか窓の外の空を見上げていて。何かあるのだろうか、と同じ方向を見上げる。そこにはただ空が広がっているだけで、雲の加減で星はおろか月さえも見えなかった。
「何、見てるんですか?」
私の問いに、末田さんはゆっくりと口を開く。
「空」
彼の短い答えに、ますます謎が募る。
「どうしてですか?」
私の再度の問いかけに、彼は気まずそうに視線を泳がせる。
「んー、下を見ると、高くてちょっぴり怖くなっちゃうから?」
何かを誤魔化すみたいに遠慮がちに紡がれる言葉に、私は驚いて目を見開いた。
「もしかして、高いところ苦手なんですか?」
「別に苦手じゃないですよ。苦手じゃないんですけど、なんか、思ったより高くてちょっと驚いたっていうか、ほんの、ほんのすこーしだけ怖くなったっていうか」
モゴモゴと強がりを口にしながら明後日の方向を見る彼がおかしくて、またもやクスリ、と笑いが漏れてしまった。
「じゃあ、私が末田さんの分まで、この景色を目に焼き付けておきますね」
そう伝えてから、私は再び窓の外の絶景に視線を戻した。ここに来ようと提案してくれたのは彼の方なのに。まさか、高いところが苦手とは。なら、どうしてここを選んだんだろう? 疑問に思いながらも、私は夜景をじっと見つめた。
「こんなにキレイなのに、勿体ないな」
小声で漏らした私の言葉は、どうやら彼の耳にもしっかりと届いていたらしい。
「キレイなものなら、これで充分」
依然拗ねたような彼の口調に私が余裕の笑みを溢したのは、ほんの束の間だった。繋いでいた手を引かれて、吸い込まれるように末田さんの方を向くと、流れるような自然な動作で彼の空いていた手が私の頬に添えられた。
言葉を発する間も、瞬きをする間もなく、私の唇に末田さんのそれが重なった。
唐突なのに、ゆっくりと重なった柔らかい唇に、思わす甘い音が洩れる。口先から伝わる温かい熱に、心が溶ける。じんわりと、熱い何かが全身に広がる。
そっと、唇だけ離れていく。私たちの鼻はまだ、触れ合っている状態のままだ。いつの間にかつぶっていた瞼を、私は恐る恐る持ち上げた。すぐさま、末田さんの丸い瞳が私のそれとかち合う。
「おれにとっては、中谷さんの瞳の方がずっとキレイ」
そんな甘い囁きと共に、彼の熱い吐息が私の唇を撫でる。そのまま、熱に惹かれるように、私の唇は再び彼の唇と合わさった。
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