『聖女』の覚醒

いぬい たすく

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黒い羊はダイヤモンドの夢を見るか

再び照らさず

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 机の上に、またうずたかく書類がつまれた。顔を上げると、直属の上司が底意地悪く笑っている。

「いやあ、あなた様の高貴なお志には頭が下がりますよ、ファビオ。『高貴なるものの責務』でしたかね。おかげさまで私めは、早々の帰宅がかないます」

 同僚たちが見て見ぬふりで帰り支度をするのを視界の端にとらえて、ファビオはいつものように抵抗を諦めた。

 この年下の上司は、貴族をひどく嫌っていて、中途半端な時期と年齢で部下になった男を目の敵にしてくる。

――生まれてこの方、貴族の旨みなんて味わったことが無いんだがな。

 ファビオは持参金も用意できない貧乏男爵家から、商会を経営する裕福な子爵家に婿入りした。
 妻が少々年上なくらいは、全く問題にならない幸運であるはずだった。

 しかし、それが間違いだとすぐに分かった。年上の妻は、極端な男好きだったのだ。あまりにも酷い悪評のために、逆らわない従順な婿を金で買うしか無かったのだろう。

 ファビオは早々に閨を辞退して、妻と顔を会わせないために商会での仕事にのめり込んだ。

 どうせ向こうは家付き娘だ。タネがどこからでもかまうまい。それで追い出されるならそれまでだ。ファビオはそう考えていた。つまりは、自棄になっていたのだ。

  そんな結婚生活は、意外に早く終わった。妻が痴情のもつれで殺害される、と言う最悪の形で。
少々の口止め料込みの手切れ金とともに、婚家を出された。幸いつきあいのあった商家のつてで、商業ギルドの試験を受け、採用された。

  ろくでもない妻から自由になった開放感は、ろくでもない上司に木っ端みじんにされた。

 そして、そんなある日。

「突然にこれほど書式が整うようになって、気が付かれないとでも思いましたか?
 書類の筆跡と、複数の証人の証言。そのほか証拠は揃っていますよ。
――あなた個人が貴族をお嫌いになるのは結構。でも公私は分けなくてはね。
 それに生まれついての平民の皆さんも、あなたに代表者気取りをして欲しくはないでしょう」

 上司共々、ギルドマスターの前に呼び出されたかと思うと、上司の姿を見なくなった。

 それからは気持ちよく仕事ができるようになった。婚家でがむしゃらに働いた経験も生きて、高く評価されるようになった。

 地位が上がると、ギルドマスターと接することも増えた。

 ギルドマスター、ドロテーアもファビオ同様貴族の出で婚歴がある。ただし、彼女は死別の方だ。実家も頼れず婚家を出された未亡人の身で、再婚はせずに働いて身を立ててきた。

 妻のような女を見た後では、彼女の生き方に、ある種の敬意を感じずにはいられない。苦境から救われた感謝もあって、ファビオはドロテーアを尊敬するようになった。

 そして、めでたく副ギルドマスターに就任し、その職務にもなじんできた頃、ドロテーアから相談を受けた。近々退任したい、と言うのだ。

「ですが、ギルドマスター。例の事業については、どうなさるのです?あと一息というところなのでは?」

 ドロテーアは、亡夫の遺志を継いで、美術学校の開設を目指してきたのだ。
 身分を問わず受け入れるそれは、前例が無く、様々な壁に突き当たってきた。教授陣や後援者の確保、関係各所への折衝を考えれば、ギルドマスターの地位は手放しがたいはずだ。その点を指摘すると

「今の私には、ギルドマスターの職責を果たしつつ、もう一つも成し遂げるだけの体力はありませんから……」

 あと二年。残された時間がそれだけなのだと打ち明けられた。

 ファビオは、渋るドロテーアを説き伏せ、学校の開設に専念し、ギルドマスターの業務を委託するようにさせた。さすがに彼一人では回らない。部下の協力も仰ぎ、どうにか軌道に乗せた頃、ウーゴが現れた。

 ろくでもない上司の下で、不遇だった頃。小さな料理店の経営者の、ほんの些細な不正を見逃してやった。いっそ実家に頭を下げて戻ってはどうだ、と柄にもない説教をした話を持ち出され、ようやく思い出した。

 ウーゴはご丁寧に、いまやファビオのものでもある不正の証拠を保管していた。
 それを盾に妥協を強いられる羽目になった。

 はじめは、ギルドこそ関わっていないがちゃんとした証文を持ってきて、相手が亡くなって貸し倒れしそうだから、土地が抵当に入っていることにして欲しい、と泣きつかれたのだ。それが次第に怪しくなり、小さいながら評判の良い老舗を標的にしたとき、さすがにファビオも反対した。

 過去の過ちを隠そうとしたことを後悔した。些細だったはずのそれは、上塗りされてどうにもならないほど膨れあがっている。

――せめてあと二年。あの人に累を及ばせたくない。失望されたくない。最期が穏やかであってほしい。

 なぜか、ウーゴはドロテーアの余命宣告のことまで知っていた。
 そこを突かれればどうにもならない。

 急き立てられるままに危ない橋を渡り――橋は落ちた。

――落ちるのがウーゴと、私だけなら、それで良かったのに。


 余罪を洗うために入れられている仮牢に、協力を仰いでいた部下の一人が訪ねてきた。

 ドロテーアが亡くなった。

 最期は穏やかなものとは、いえなかった。おそらくは、精神的な原因だろう。そう憎憎しげな表情でファビオに伝え、足早に立ち去った。

 夫も自分と同じように、美しいものをこよなく愛していた。それを生み出すひとたちを育てるのが、夫婦が共有する夢なのだと、語るドロテーアの表情は、少女のように無垢だった。

 それを叶えさせることで、ファビオの過去のやりきれない思いも、洗われるような気がしていた。

 自分を認めてくれたドロテーアに、そのことを後悔されたくなかった。

 ファビオは、固い寝台の上で背を丸めた。もう涙さえ出なかった。
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