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後編

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 翌日は、なんと宮廷での夜会の日だった。

 薄紅色のドレスに身を包み、飾り立てた鏡の中の自分に向かってハハハと乾いた笑いを漏らす。

 ノアったら、ホントとんでもないタイミングで言い出してくれたものよね。

 寝不足でクマのできた顔を見た侍女が、大騒ぎでマッサージとパックをしてくれたおかげで何とかそれなりの仕上がりになったものの、にじみ出る疲労感を隠しきれている気がしない。

 出発の時間になり屋敷の入り口に向かうと、一応婚約者であるノアが迎えに来ていた。

 階段を降りる私を見上げ、嬉しそうに笑う。

「やっぱりカレンはふんわりとしたラインのドレスが似合うね」
「私はこんな子供っぽいの好きじゃないわ」
「そんなこと言わないで、ニコニコしてなよ。とても可愛いんだから」
「だから嫌なのよ」

 私は、ぎょしやすいと思わせてしまう自分の容姿が嫌いだった。

 幼く見える丸い瞳も、大人しそうに見えるブルネットの髪も、そのくせ出るところは出ている男好きする体型も、余計な奴を惹きつける要因なのだ。

 少しでも凛とした雰囲気になりたくてシックなドレスを選ぼうとするものの、いつもノアに大反対される。君に似合うドレスはもっと他にある、と。

 今日の私の姿も、ノアが見立てたものだ。ドレスはもちろん、アクセサリーも髪型も、メイクにまで口を出してくる。よくもまあ、前日に婚約破棄を言い渡した相手を着飾らせて、ここまで楽しそうにできるものよね。

 王城に到着したところで、ノアは馬車を降りて私に手を差し出した。

 何も知らない令嬢ならうっかり惚れてしまいそうなスマートな仕草が、返って私を苛立たせる。腹いせに、ノアの腕に絡みつきわざと胸を押し当てた。

「ちょ、ちょっとカレン……!」
「さあ、行きましょう婚約者様。 ワタクシも次の恋を探さなくてはね?」

 慌てるノアに嫌味な台詞を投げつけると、彼は悲しそうに眉をひそめた。

(だから、そういう顔をしていいのは私だけなのよ!)

 叫び出しそうになるのをなんとか堪えホールまでたどり着くと、絡めていた腕を解き、ノアから離れ壁際に寄った。

「ここからは別行動にしましょ。あんたといたんじゃ、新しい婚約者なんて見つかりっこないもの」

 棘のある私の言葉に、ノアは何か言いたげな顔をしたけれど、結局はそれを飲み込んでうなずいた。

 他の令息達と挨拶を交わし歩いていく彼の背中を見送り、私は玉座に目を向けた。

 まだ国王陛下はいらっしゃっていない。代わりに、玉座の壇の下に人の輪ができている。その中心には、王弟殿下がいた。

 じろじろと見て目が合っても困るので、横目でそっと盗み見る。

 王弟殿下は御年三十七歳。男盛りの美丈夫だ。一度は隣国の皇女と成婚したのだけれど、その皇女は若くして亡くなり、世継ぎもいなかったため自国に戻ってきたのが十年前。

 それ以降再婚はせず、国王陛下の右腕として働いている。

 帰国してから浮いた話がほとんどないため、実は不能だとか、人を愛せない性格なのではとか、口さがない噂もちらほら聞く。

(噂の真偽はともかく、二十も下の若造が相手にされるとは思えないのよね)

 今を時めく近習きんじゅに囲まれ談笑する姿は、全くもって現状に不満がないように見える。

 婚約者の失恋を確信し、こめかみを押さえて嘆息した。

「ほんっとに、ノアってばバカなんだから」

 本当なら、積極的に男性と話して次の婚約者候補を探さなければならないんだけど、とてもそんな気分にはなれなかった。

 一人寂しく壁の花になっているのに、声をかけてくる男は一人もいない。周囲の人間は、私とノアを仲の良い婚約者同士だと信じて疑っていないようだ。

 でもそれは当り前なのかもしれない。

 私ですら、昨日までは自分たちほどお互いを分かり合っている婚約者はいないと思っていたのだから。

 二人の間に恋情はなくても、愛情はあると思っていた。ノアとこの先、ずっと一生一緒にいるのだと、そう信じていたのだ。

 ぽつんと立ち尽くす自分が情けなくて、ぐっと手を握りしめた。


「バカなのは私の方か……」

 自分で思っていたよりも、ずっとショックを受けていたらしい。運ばれてきたシェリー酒をくっとあおると、テーブルに空のグラスを叩きつけた。

 グラスが割れんばかりの大きな音に、周りが腫れ物を見るような目線を向けるが、気に留めることもなく次の杯を喉の奥に流し込む。

 さらにもう一献いっこん、と手を伸ばしたものの、ボーイはすでにこの場を離れてしまった後だった。何よ、もっと飲みたい気分だったのに。

 仕方なく、ひとりバルコニーへと移動する。夜風が火照った頬を気持ちよく撫でた。ちょっとだけ切ない気持ちになり、手すりに手をかけると、星空を仰ぎみる。

 もう、今日はこのまま帰ってしまおうかしら。婚約者探しは、また明日からがんばればいいわよね。

 ひっそりと息を吐いたその時、耳の後ろから突如聞こえた声に背筋が凍った。

「おやおやぁ、おひとりですか?」
「っ!」

 慌てて振り返れば、にやにやとした笑みを浮かべた男がすぐ後ろに立ってこちらを見ていた。全身を舐め回すような視線が気持ち悪い。

「……誰?」

 どこかで見たことがあるような気もするけど、名前が思い出せない。

 私が覚えていないことが勘に障ったのか、男はぴくりと眉を上げた。でもすぐにまた厭らしい目つきに戻り、にやりと笑う。

「いやだなあ、アイデン・フィネスですよ。以前お会いしたことがあるじゃないですか」

 大げさに嘆くふりをする男から距離を取りつつ、記憶を辿ってみる。

 フィネス、フィネス……やっぱりどう考えても思い出せないわ。

 記憶を引っ張りだすのに集中していたら、さりげなく離れたはずの距離を容易に縮められた。

「聞きましたよ、ルセーヌ侯爵家との縁談が立ち消えになったとか。パートナーもなくお寂しいでしょう」

 何よこいつ。人のプライバシーにずかずかと土足で踏み入るやつは大嫌いなんだけど。

 思いっきり睨みつけたにも関わらず、フィネスは無遠慮に私の肩に手を回した。

「ちょっと、触らないでよっ」
「いいなぁ、可愛い顔して気の強いところ。婚約者に振られて寂しいんだろ? 俺が慰めてやろうか」

 力いっぱい押し返しているのにびくともしない。段々と近づいてくる顔が気色悪くて、引っ叩いてやろうとした、その時だった。

「……そこで何をしているんですか?」

 地の底から響いてきたような声に、目の前の男だけでなく、私までびくりと身体が震えた。

 声のした方を見れば、義弟のギルバートが立っている。バルコニーの扉からこちらを睨みつける目は、鋭く刺すような光を放っていた。

 ノアを天使に例えるなら、ギルバートはまるで悪魔のようだと思う。

 ダークシルバーの髪に紫がかった瞳。極上の絹を織り込んだ特製のタキシードが、恐ろしい程よく似合っていた。

 冴え冴えする美貌は見る人に冷たい印象を与える。そのくせ普段はにこにこと愛想を振りまくもんだから、周りの人間はそのギャップにあっけなく陥落してしまう。

 最近はやけに蠱惑的な笑みも浮かべるようになり、本人もそれを理解してすでに相手によって器用に使い分けることを知っていた。

 ただ、今この瞬間だけは、ギルバートの美しい顔から一切の表情が消し去られていた。美人が怒ると怖いというのはこういうことか、と思わず身震いする。

 ギルバートは足早に近寄り、男から剥ぎ取るように私の腕を引いて自分の後ろに隠した。その得体のしれない迫力に、フィネスとか名乗った男はたじろいだようだった。

「いや、カレン様が酔っていらっしゃるようでしたので、介抱しようとしただけですよ」
「嘘ばっかり! 私を手籠めにしようとしてたくせに!」
「てっ、手籠め?!」

 義弟の背中越しになじると、男はぎょっとしたように首を左右に振った。

 ギルバートは顔だけで私を振り返り、呆れたような苦々しい目線を向ける。そして改めてフィネスに向き直ると、丁寧に謝罪をした。

「すみません、口の悪い義姉あねで」

(なんでそんな奴に謝るわけ?)

 抗議の意を込めて上着の裾を引っ張ると、ギルバートは一瞬、びくりを身体を震わせて動きを止めた。

 私からは背中しか見えないけれど、真正面からその顔を見ているはずのフィネスは、信じられないものを見る目でギルバートを凝視した。

「え、え?」
「……何か?」
「いや、だってその表情かお……嘘だろ? まさかあんた、義理とはいえ姉のカレン様を」

 ダァン!!!

 突如大きな音が鳴り響いた。ギルバートが、手すりを蹴りつけたのだ。

 ギルバートと手すりに挟まれる形になったフィネスは、顔を真っ青にして震えている。

 えっ、もしやこれが巷で噂の壁ドンーーいや、手すりドン?

 思わず逸れてしまった思考を引き戻したのは、恐ろしく冷たいギルバートの声だった。

「義姉の言葉は言い過ぎにしても、手を出そうとしてたことは事実のようですね。見た目の割に度胸のある方だ」

 鼻で笑われ、さすがにカチンときたのか、相手はやや気色ばんだ。

「な、なんだよ。だってノア・ド・ルセーヌから婚約破棄されるんだろ? だったら……」
「だったら、何です? クレスエンド家の次期当主に許可もなく触れていいとでも?」

 ギルバートが家名を出した途端、フィネスはさっと顔色を変えた。

「今ならまだ許してやる……失せろ」

 唸るような声でささやくギルバートを前に、男はその場から一目散に逃げ出した。

 その後ろ姿を見送った後、ギルバートは今度はこちらに照準を当てた。まだ怒りが残っているのか、紫の瞳がギラギラと燃えている。

「何をやってるんですか、義姉ねえさん」
「私は悪くないわよ。あっちが勝手に近づいてきたんだから!」

 私の反論に深くため息をつき、ギルバートは右手で眉間を押さえた。

「義姉さんは変な男に絡まれやすいんだから、気をつけた方がいいのでは? これまでのようにノア殿に頼るわけにはいかないでしょう」
「わかってるわよ、そんなこと!」
「でもさっき俺が来た時、ノア殿だと思ったんじゃないですか?」
「……」

 図星だった。ギルバートが現れた時、私はノアが来てくれたんだと、ほんの一瞬期待してしまったんだ。

 そして同時に気づいた。これまではずっとノアが守ってくれてたんだって。今さらそんなことに気づいても遅いのに。

 口の端をぎゅっと結ぶと、代わりに目頭が熱くなった。

 そんな私を見下ろし、ギルバートはゆっくりと口を開く。

「そんなにノア殿との婚約を継続したいんですか?」
「そりゃあ……待って。なんであなたがそれを知って、」

 言いかけて、はたと思い至る。

「そういえば、さっきの男も私達が婚約破棄するって確信していたわね」
「今夜のパーティーはその話題で持ちきりですよ。もちろん、本人達の前で話したりなんてしないでしょうが」

 ギルバートの言葉に、驚きで目が見開く。

「どうしてこんな早くに噂が広がっているの? 確かに、今夜はいつもよりぎこちない雰囲気はあっただろうけど……」
「なんででしょうね」
「……ギルバート、あなた何か知ってるわね?」

 素知らぬ顔の義弟を睨みつけると、彼は唇を綺麗な弧にして薄く笑った。

「そうです、俺が広めたんですよ。近いうち義姉さん達が婚約を解消する予定だとね」
「なんてことするのよ……!」

 噂というのは、一度広まってしまえば、それが周知の事実になることが往々にしてあるのだ。

「ノア殿の意志は固い。義姉さんがいくら拒否しようと、婚約破棄は時間の問題でしょう」

 淡々と語るギルバートを信じられない気持ちで見上げる。ただ、彼の言葉にどこか引っかかりを感じた私は震える唇で問いかけた。

「ノアの意志が固いだなんて、どうしてわかるのよ?」

 まさか、まさかーー。

 私の質問の意図を理解し、ギルバートは目を細めた。

「王弟殿下をノア殿に引き合わせたのは俺だからですよ」
「っ!」
「思ったよりも簡単に、恋に落ちてくれましたけどね」
「ギルバート……!!」

 振り上げた手は、いとも簡単に押さえつけられた。

 ギルバートは私の腕を掴んだまま、室内からの視線を遮るように手すりまで私を追い込む。その背は私よりも頭一つ分高く、私は完全に彼の陰に隠れてしまった。

 いつのまにかこんなにも体格に差が出ていたことにおののく。そんな私の心の機微に、ギルバートは目ざとく気がついた。

「義姉さん、俺が怖いの? 可愛いね」

 こちらを覗き込む瞳は、仄暗い光を湛えている。

 ぞっとして後ろに下がろうとするものの、背中には手すりがぴったりと寄り添い、それ以上の退却を許さなかった。

 精一杯の虚勢を張って、紫の目を見つめ返す。

「そこまでして、クレスエンドの財産が欲しいわけ?」
「俺は自分の欲望に忠実なんでね」

 私がどんなに詰っても、痛くも痒くもないんだろう。ギルバートは平然としたまま冷たく言い放った。

「この悪魔! それでノアが傷ついてもいいっていうの?」
「この期に及んでまだ彼を庇うんですか? 彼だって自分の欲望のためにあなたを捨てたというのに」
「違う、ノアは私を捨ててなんていない! 友達だって言ったもん!!」

 思いっきり頭を左右に振って否定する。掴まれた腕が痛いからなのか、悔しいからなのか、涙で視界が滲んだ。

「いい加減にしろよ!!」

 ギルバートの怒鳴り声が響く。その凄味に、体の芯がびりびりと痺れる感覚がした。

「なんであなたはそうなんだ。あいつを妄信するにもほどがあるだろう!」

 私を見る顔は、まるで呼吸を忘れたかのように苦しく歪められている。

 が、次の瞬間、ギルバートは私の腕を掴む手の力を緩め、代わりに強く私を抱きしめた。

「!」

 あまりの衝撃で言葉が出てこない。今、何が起こっているの?

 混乱する私の耳元で、つぶやくような声がした。

「俺はあいつが許せなかった。労せずしてあなたを手に入れておきながら、そのくせ女性としてのあなたに何の関心もないだなんて」
「ノ、ノアのこと……?」
「他に誰がいるっていうんです? あいつも少しは片恋の苦しみを知ればいいんだ」

 皮肉っぽい口調でそこまで言い切り、ギルバートを口を閉ざした。

 そして私を抱きしめる腕に一層力を籠め、声を落として絞り出すようにささやいた。

「カレン……好きだ。あいつじゃなくて、僕とずっと一緒にいてよ」

 ギルバートが『僕』と言うのは何年ぶりだろう。幼いころに聞いたきり、ずいぶんと久しく聞いていなかった気がする。

 でも、この言葉はどこか聞き覚えがあった。

 ばくばくと脈打つ心臓を抑えるようにごくりとつばを飲み込み、すぐ横にある彼の顔に向かってそっと話しかける。

「ひょっとして、昔ずっと一緒にいようって言ってくれたの、ギルバートだったの?」
「……」

 私を抱きしめたまま肩に顔を埋め、何もしゃべろうとしない。

 背中をぽんぽんと叩くと、ギルバートは弾かれたようにおもてを上げた。その顔は耳まで真っ赤で、なぜか私まで恥ずかしくなり次の言葉に迷ってしまう。

「え、と、ギル……」
「そうです、俺ですよ! 一緒にいようって言ったのは!!」

 心情を吐露したギルバートは、その勢いのまま言葉を続けた。

「7歳の時に、決死の覚悟で告白したんだ。生涯を共にしようって! なのにあなたは悪気のない笑顔で言ったんだ。『ダメよ、ギルバートのお嫁さんに怒られちゃうわ』って」
「そ、そんなこと、言ったっけ?」
「ほら、覚えてないんだ。どうせあなたにとってその程度のことなんでしょう?」

 拗ねたように顔を背けるギルバートに、慌てて弁解する。

「ご、ごめんなさい。忘れちゃってて。でも、その言葉は嬉しかったのよ? 私の思い出の中では、イエスって答えたことになってるもの」
「えっ?!」

 驚いたようにこちらを向いた顔が泣きそうに見えて、幼いころの面影がちらつく。私の大好きだったころのギルバートだ。

 意図せず頬が緩んでしまったら、向かいから息を飲む音が聞こえた。

「っ、このタイミングで微笑わらうのはずるいよ……!」

 再び顔を真っ赤にして口元を隠しながらそっぽを向く義弟に、いたずら心が湧き上がる。

「ギル、なんでそっち向くの? 義姉さんの方、見てよ」

 さっきまでバルコニーの隅に追いやられていたのは私のはずなのに、今度はギルバートがじりじりと後退する番だった。

 楽しくなってきて脇腹をつつくと、ギルバートは「くそっ」と悔しそうに私を睨んだ後、急に手を引っ張った。

「きゃっ」

 引き寄せられた額に、ギルバートの唇が触れる。

 それは一瞬だったけれど、彼がわざとらしく、ちゅっとリップ音を立てたのがわかった。

「な、な、な」

 固まって動けない私を見て満足したのか、ギルバートがにやりと笑った。

「恋にしろ友情にしろ、まだあなたの中でノア殿の存在が大きいのはわかってる。これからどろっどろに甘やかして、全部俺で塗り替えてやるから」

 再び顔が近づいてきて、思わずギュッと瞳を閉じる。

「覚悟してなよ、カレン」

 耳元でささやかれ、今度は耳たぶにキスをされる。

 チリっと感じた熱は一瞬で離れていき、気がつけばギルバートはバルコニーから出ていこうとしているところだった。

「ちょっ、ちょっ、耳たぶにキスなんて、どこでそんなこと覚えたのよ?!」

 私の言葉に振り返ったものの、ギルバートは得意の人を惹きつける笑顔を浮かべただけで黙ったままその場を後にした。

「噓でしょ……これからあんな奴と一つ屋根の下で生活するの?」


 明日からの日々を想像し、私はその場にしゃがみこんだ。






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