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十、
しおりを挟む数百件の新着メッセージ通知を見ただけで、由莉はスマートフォンをテーブルに置いた。
由莉がライターの仕事で使う名刺には、メールアドレスと電話番号が書いてある。それが一部に流出したらしく、知らない人物から罵倒するような電話や嫌がらせのメッセージが山のように届きはじめていた。
自宅の電話もひっきりなしに鳴るので音を消し、自動応答だけで切れるように設定してある。インターホンの電源も切ってあるが、マンションの玄関周辺にはマスコミ関係者がしつこく張り込んでいるようだ。
これからのことを、朝からずっと考えているが、はっきりした答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。ワイドショーが気になってテレビをつけても、事実ではないことをわけ知り顔でコメントするタレントに辟易してすぐ消してしまった。
その朝、ずいぶん早い時間にカオルから電話があった。
「スクープされたわよ」
まだ半分寝ぼけたような状態だったが、由莉は一瞬で目が覚めて身を起こした。
「……どっちなの?」
「覚悟を決めてるような言い方ね。あなたとショーンの不倫報道よ」
カオルの声は硬かった。
「そっか、やっぱりね」
高宮奏も沢彩音も、それぞれ大手の芸能事務所に所属している。どちらも人気のあるタレントを多く抱えているため、業界内では力が強く、不倫や浮気の証拠をつかまれたとしても、もみ消すのは難しいことではない。
特に今は、二人とも小説ドラマという大きな仕事に関わっていて、スキャンダルなど絶対あってはならない時期だ。たとえ動かぬ証拠を撮られてすっぱ抜かれたとしても、あらゆる手段を駆使して記事を差し止めにかかるはずである。
だから由莉はすぐ、スクープされたのだとしたら、彼らの不適切な関係ではなく、自分たちの方だろうと思った。ショーンと密室ではないところで抱き合いキスを交わしたのは事実で、あれを撮られたのならどうしようもない。
「今日発売の週刊誌に載るから、今のうちにホテルかどっかに移動した方がいいと思う。あたしが手配しようか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう」
「ショーンは九段下のクラシカルパレスに隠したわ」
窓から日本武道館が見えるこじんまりとしたホテルだ。たしか、事務所の社長の古い友人がオーナーなのだと聞いた覚えがある。何かと融通が利き、マスコミに特定されにくいらしい。
由莉も、奏との熱愛報道で騒がれた時は、しばらく身を隠すのに滞在したことがある。もう遠い昔のことのようだ。
「教えてもらっても、会いに行くわけにはいかないでしょ」
由莉はあっさりと軽く言い放った。
「カオルさん、何か私に言うことない?」
「……あるわよ」
「でしょうね。私も言いたいこと、いっぱいあるけど、後にしてくれる?」
「後?」
「夫と話し合うのが先だから」
電話の向こうで、カオルが息を飲んだ気配がする。
「どうするつもり?」
「たぶん離婚すると思う」
由莉はきっぱり言って電話を切った。
午後七時、由莉が電話をかけると奏はすぐに出た。
「今、マネージャーの車で東京に向かってるとこ」
いつもと変わりない口調である。
カオルからの知らせを受けてすぐ連絡を取ったのだが、奏はもう知っていたかのように落ち着いていて、対応については自分に任せて欲しいと言った。今日は実家を含め誰ともコンタクトを取らないで、夜また電話してと指示された。
タイミングが良いのか悪いのか、今日はロケの最終日だった。最終日まで残っていた関係者みんなで打ち上げをやることになっていたはずだが、奏は妻の不倫報道でそれどころではなくなり、帰京することにしたのだろう。
「どこにいる? 家?」
「うん、どこにも行ってない」
由莉もいつもと同じ調子で返した。
「あと一時間ちょっとで着くと思う」
「待ってるね」
「晩メシ作っておいて。軽くでいいから」
奏の言い方はさりげなかったが、それは今までされたことがない要求だった。
肉体維持にストイックな奏は、日没後に固形物は食べない。どんなに遅くまで仕事して帰って来ても食事することはなかった。だから、由莉が夫のために調理するのはほぼ朝食のみで、食材や栄養バランスには気を使っているものの、手間ひまかけた料理など作る機会がほとんどなかった。
「わかった。用意しておくね」
由莉は理由をきかずに電話を切った。
キッチンへ向かうと、解凍した鶏むね肉にオレガノとタイムをすり込み、岩塩で下味をつけてスチームオーブンに入れる。
野菜を数種類と吊るしベーコンの塊を取り出し、粗めに刻んで炒めてから自家製のトマトソースとコンソメでスープに仕立てる。
ルッコラをちぎりモツァレラチーズとトマトを合わせてサラダにし、チキンの焼き上がりを見てマスタード風味のソースを作った。
「パンがないからパスタでも……あ、炭水化物はいらないかな」
由莉は独り言をつぶやく。一時間足らずで自分が出来る料理は限られている。
家事など何も出来なかった自分が、料理教室に通って基礎から習い、栄養学まで学んだのはすべて奏のためである。いつか作る機会があるかもしれないと、レパートリーも増やしてきた。それなのに、最後になるかもしれないこんな時まで、手早く作れる簡単な料理しか食べてもらえない。
「私の手料理なんて、最初から求められてなかったのかもね」
由莉は力なく自嘲した。
ダイニングテーブルにモスグリーンのクロスをかけ、白いリネンを重ねる。キャンドルを用意して、リーデルのワイングラスと銀製のカトラリーを並べていく。食器はジノリにした。
それから由莉は寝室のクローゼットを開け、淡いシャンパン色のワンピースに着替えた。奏にプレゼントされた服だ。
念入りに
メイクして髪を整えたところで、玄関ベルが鳴った。
「きれいだね」
水色の小さな花束を手にした奏は、由莉を見ると目を細めて微笑んだ。
「ありがとう」
由莉が受け取ったその花はスイートピーだった。花言葉は詳しくないが、別れの花だと聞いたことはある。
「ちょうど、テーブルに飾る花がなくて寂しいなと思ってた」
由莉も目を細めて奏を見つめ、同じ微笑みを返した。
料理の並んだテーブルに、二人は向かい合って座った。奏がワインの栓を開けてグラスに注ぐ。
「乾杯しよう」
「そうね」
言葉少なだが、まるで結婚記念日か何かのような雰囲気で、ゆっくりワインを飲みながら食事した。
水色のスイートピーが微かに甘く香り、キャンドルの灯りが仄かに揺れる。静かで穏やかな時間だった。
「ごちそうさま」
奏は一つ残さず食べ終えた。
「美味かった。由莉は料理上手だったんだな」
その言葉を聞いたとたん、熱いものがこみ上げてくるのを感じ、由莉は泣かないようぎゅっと強く奥歯を噛みしめた。
銀のフォークを置いて顔を上げると、奏と視線がぶつかる。
「今日まで俺の妻でいてくれて、ありがとう」
奏はスマートフォンを出して、テーブルにことりと置く。急激に空気が冷えた気がして、由莉は目を伏せた。
「これを見たことあるだろ?」
由莉は黙ってうなずいた。
「なんで俺を責めなかった? 相手までわかっていながら」
「……怖かったから」
「何が?」
「浮気じゃなくて心変わりだと、言われそうな気がして」
「なるほどね」
奏はワインをグラスに注ぎ、あおるように飲み干した。それから大きく息を吐き、再び由莉に目を向ける。どこか冷たい感じのする薄ら笑いを浮かべていた。
「昔から由莉は受け身だったけど、裏切られたとわかった時ですら、自分から何もアクション起こさないんだなと思ってたよ。俺がつき合ってと言えば恋人に、結婚してと言えば妻に、引退してと言えば専業主婦に。抱く時も、いつだって俺が誘ってばかりで、おまえからは求めなかったもんな。悪いけど、愛されてるとは思えなかった」
身勝手な言い分に、由莉は悲しくなった。
「キャリアを捨てるのは簡単なことじゃなかった。あなたに望まれたから決断したのに」
「だから愛してると無理に思い込んで、俺から離れられなかったんだろ。すべてと引き換えにしたこの結婚を、失敗だと認めたくなかった。違うか?」
「失敗だなんて考えたこともない。私は本当に愛してたし、奏に愛されることだけを願ってたよ」
「じゃあ、なんで浮気を許容した? 嫉妬でおかしくなることもなく、俺の前でも普通にしてたじゃないか。不愉快でも嫌でも、目を閉じればやり過ごせる程度の感情だったんだろ?」
由莉は何も答えられなかった。奏の言い分が正しいとは思わないが、どうしてか否定することが出来ない。
「俺のどこを好きになった? 俺を見てると胸が熱くなったりするか? たまらなく抱かれたくて身を焦がしたことが?」
奏は薄笑いを浮かべたまま、言葉を失った由莉を眺めている。
「ないだろ? いいさ、わかってる。答えなくていい」
「……」
「由莉は俺にだまされたんだよ。事務所に大切に守られてて、言い寄る男に免疫なかったから。売名目的の俺みたいな男にだまされて、簡単に惚れさせられて、まんまと利用されたんだ」
由莉の目から一筋の涙がこぼれた。
「どうしてそんなこと言うの?」
「最後だから教えてやろうと思って。俺は芸能界でのし上がるために、人気モデルの白川由莉を利用した。好みのタイプだったし、自分でも恋愛に酔ったつもりで楽しめたよ」
「信じない」
「残念ながら真実だよ」
肩をすくめた奏は可笑しそうに続けた。
「昔、一人だけ、俺のたくらみを見抜いたやつがいた。でも、そいつは他人とうまく話せるスキルを持ってなかったから、事務所のやつに高宮は悪い男だと訴えても取り合ってもらえなかった。おまえ自身にもな」
奏は笑いながら表情を歪めている。どこか泣きそうにも見える顔だった。
「それなのに、今になってそいつにほだされて股開いて、俺を不倫スキャンダルに巻き込むとは驚いたよ。浮気の仕返し出来てけっこうなことだ」
「汚らわしいこと言わないで! ショーンとはそんな関係じゃないわ」
由莉が涙目でにらむと、奏は笑いを引っ込めて意外そうな表情を浮かべた。
「おまえ、まだ俺しか男知らないのか」
夫の口から飛び出した下卑た物言いに、由莉は耳を疑った。
「そんな、いやらしい言い方……」
「ああ、おまえはそういう女だよな。わかった、もういい」
奏は冷めた顔をして、ゆっくりと立ち上がった。
「俺はもともと、こういういやらしくて汚い男なんだよ。ちょっとぐらい汚れてる方が楽なんだ。そんなに清く正しくされると息が詰まる。うんざりだ」
「ずっと、そう思ってたの?」
打ちのめされた気持ちで問いかけると、何の感情もない、見知らぬ他人を見るような目が由莉に向けられた。
「気づいてなかったのか?」
そう言われると、いつも噛み合わなさを感じていた気もする。それについて深く考えることからも、由莉はずっと逃げ続けていたのかもしれない。
「男女のことに疎い奥さんに、もうひとつ教えてやるよ」
奏はふと思いついたようにテーブルをまわり込み、由莉の横に来た。
「俺が手を出さなかったら、由莉は清いまま大人になって、あいつと真っ直ぐ結ばれたと思う。あの時は、相手がまだガキだったから横取り出来たんだ。目的は十分果たしたし、本来の相手に返してやるよ。あいつのところに迷わないで行けよな」
テーブルに片手をついて身を屈め、奏は由莉の顔をのぞきこんだ。
「最後にキスぐらいしとくか?」
見つめ返したその顔は、たしかに見慣れた夫のものだが、まるで違った人間に見えた。だが、由莉にはそれが奏の本当の顔なのか、それとも演技しているのか、どうしてもわからなかった。
「……あなたははじめから、いつか離婚するつもりでいたのね?」
「やっとわかったのか。こんなスクープがあってもなくても、もう潮時だとは思ってた。これ以上、夫婦でいたってしょうがない。別れよう」
奏の声は、なぜか優しい響きを持っていた。
「私、あなたの子供を産みたかった。他の誰でもなく奏の子供を産んで、思いっきり愛して育てたかった。言いたいことはそれだけ……怒ったらいいのか、それとも謝ればいいのか、お礼を言うべきなのか全然わからない」
「おまえがしつこくねだったのは、確かに子供のことだけだったな」
つぶやくように言うと、奏は身を屈めて由莉の額に軽く口づけた。
「これでさよならだ」
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