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最終章

ひるがえるオスマン国旗

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 ――いよいよ、我が時は来たれり――
 イザク・パシャの「門が開いている」という叫び声を聞いて、スルタンの天才的予感は、ついにオスマンの最精鋭部隊イェニチェリを投入する機会が訪れたのを知る。ケルコ・ポルタは非常用の小さな門とはいえ、先ほど兵を侵入させた穴なんかより幅が広い上に、瓦礫を乗り越える必要もない。
「全隊、門を抜けて突撃! あの塔を押さえよ」
 メフメトは、突入して、門続きに建てられている塔を占領するよう命じた。
 選び抜かれた一万ものイェニチェリ軍が、内城壁の中になだれ込んだ。
「右、四時方向! 将軍!」
「ぁう……っ!!」
 ユスティニアーニ将軍の右腕に激痛が走り抜けた。
 ジロラモの発した警告のおかげでなんとか首は避けた。だが鎧の隙間から腕に刺さった矢を見て、今まで東ローマ帝国軍の中で一番勇敢に戦っていた武将の緊張が、一気に消え去り青ざめる。
 ――立っていることができない苦痛――彼は、崩れるように膝をつく。
「矢が……」
「そなたの傷は、深くない」
 馬上からコンスタンティヌス十一世の声がした。皇帝はユスティニアーニが衝撃を受けないように元気づけるつもりで「そなたの身は、きっと大丈夫だ」という意味で話しかけたのだが、あまりの痛みのせいで、雇われの身である将軍には、それがまるで皇帝から「たいした怪我ではない」と他人事のように言われたかに聞こえた。謙遜を強いられた気がしてむらむらと怒りが込み上げた将軍は、持ち場を離れ港の方へ向かう。
「ユスティニアーニ殿!」
 皇帝の悲痛な叫びが後ろから響く。今彼に持ち場を離れられては、まとまっていた帝国軍がバラバラになってしまう。
 名を呼ばれた将軍は、歩みを止めて皇帝を振り向いた。その時彼が戻るべきか否か迷っていたのかどうかは、誰にもわからない。おそらく将軍自身も、自分の気持ちがわからなかったのではないだろうか。なぜなら考える間もなく、一人のギリシャ兵が上げた次の声にかき消されてしまったのだから……。
「敵旗が上がった……、街が取られた!」
 ケルコ・ポルタに隣接するコンスタンティノポリスの内城壁の塔に、オスマンの国旗が掲げられ、赤地に刺繍された月と星が明け方の空にはためいていた。
 「街が取られた」という言葉で、戦い続けてきた人びとの張り詰めた心の糸はぷつりと切れてしまう。
「引け、引けぃ! 全軍退却」
 命令を叫んだユスティニアーニ将軍は、金角湾の方へと向かい始める。たとえ傭兵でなくとも、国に奉仕する兵士にとっても、こんなに大勢の敵に囲まれたらひとまず退却するしかない。ここで斬り合って無駄死にするな、出直して新たな攻撃をかけたほうがいい――という指令は、敵にまみれて声が聞こえなくなり始めた部下たちにも瞬く間に伝わっていった。誰もが後を追うように港へ向かって逃げ出す。死ぬまで戦い続けると決意した立場の人間を除いて……。
 この機会を、敵の心の動揺を、オスマン兵が利用しないはずはなかった。
「アラー・アッラー・イル・アッラー」
 イェニチェリ兵たちの鬨(とき)の声は、コンスタンティノポリスの崩れ落ちる速度を倍にする。オスマン兵が内側から門という門の閂を開けて回ったため、何万という敵兵が城壁の中になだれ込んでくる。
「街はもはや、我われの物だ!」
 メフメトの力強い布告で、その力はますます増大して行くのだった。


「おおぉ……」
 テオドシウスの壁の塔に翻(ひるがえ)るオスマンの旗を見て、皇帝コンスタンティヌスは、東ローマ帝国がもはや絶体絶命だと悟った。彼は護衛する兵士たちの多くはすでに命を落とした。共に戦うギリシャ兵は彼の側近と親衛隊だけだ。コンスタンティヌス十一世が馬を降り、真紅のマントを脱いで空中に放り投げる。そして皇帝は、勇ましく剣を抜いた。
「神よ! 帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、我死なん。逃れんとする者を助け給え。死なんとする者は、我と共に戦い続けよ!」
 一気に叫ぶと、双頭の鷲の徽章を胸から引きちぎる。……東と西のローマ帝国を意味する二つの頭を持つ白金の鷲の紋章を、羽ばたかせるかのごとく宙に放ち、オスマン軍の渦巻く中へ斬り込んで行った。
「陛下!」
 十人余りの側近たちがその後に続く。この偉大なる最後の皇帝と、殉死する覚悟はとっくにできていた。敵と味方が斬り合って叫ぶ中、まるで音が無くなったように彼らには何も聞こえなくなり、途切れ途切れに見える敵軍と皇帝の姿を目で追いかけながら、彼ら自身もまた激流にのまれて行く。
 ――刹那、近衛兵は見た。どこからともなく皇帝の前に現れ、敵に立ちふさがった影を……。
 外套の中に隠していたカレトヴルッフという名のブロード・ソード、ひらりと抜いて身構えたその姿。彼は、まごう事なき真紅(カーディナル)の法衣をまとっていた。
 敵のイェニチェリは、威嚇する掛け声と共に片足で空(くう)を蹴り上げながら、人とは思えぬほどに高く跳んで勢いをつけ踏み込んでくる。
「ふっ、私がその手に乗るとでも?」
 攻撃を払い、枢機卿は敵の足下を突く。男がよけてバランスを崩した瞬間、剣を大きくかざし、力を込めてイェニチェリに振り下ろした。――研ぎ澄まされた風に呼応する、ブロードソードとシャムシール……。
「神よ、彼らの罪を許したまえ……」
 あの世へ旅立たんとする死者への祈りを唱えながら、枢機卿は後ろの男も振り向きざまに突き刺す。オスマン兵がまた弾みを付けて空中高く飛び上がり、体全体で一撃を投じてきた。素早く横に飛びのいてかわすと、立て続けに返した刃を男の胴に斬りつける枢機卿……。
 ――すべては瞬時のできごとだった。
 間髪を入れず、敵は同時に複数で襲いかかってくる。皇帝コンスタンティヌスも激しい剣戟を交え、大男に太刀を振り上げる。鋭利な刃の風を切る音が往き交い、激しい打ち合いの火花が舞う。
「陛下!!」
 皇帝の後ろに、右手で鋭く剣を突き出して、体全体でしばらく静止しているオスマン兵の姿があった。とどめの狙いを付ける姿勢だ。
 もう一人の敵は両手で構えた大太刀で切り込んでくる。が、勢いをつけた枢機卿の刃に押し戻され、その男は後ろに飛んで行った。横から切り掛かった男を必死で避けた時、カレトヴルッフが、シャムシールをはじいた。青みを帯びた剣身は、流れるような光の筋を宙に放つ。皇帝を狙う敵に、終止符を打つために……。
「彼らの罪を赦し、牧者となりて、いのちの水の泉に導きたまえ……」 
 肉の切れる鈍い音が崩れ落ちた。
「……陛下! 猊下!」
 側近らの呼びかけに答える声はない。この時以降、コンスタンティヌス十一世とレオナルド・ディ・サヴォイア枢機卿の姿は、敵にのまれて見えなくなった。
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