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第3章

最後の交渉、そして……

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 ここ三週間というもの、オスマンからはテオドシウスの城壁に向けてのウルバン砲撃を連日受け続けている。
 五月二日、この日に限って砲撃がやんだかと思うと、メフメト二世はオスマン側の和平交渉大使を、東ローマ帝国に送って来た。
 イスラム教徒に改宗したギリシャ人、イズマイル・ベグとメフメトの側近ナディームだ。会見はビザンティンの兵士や市民には極秘のうちに行われたため、二人はマルモラ海に面した目立たない漁港から、ひっそりと小舟で上陸した。こちらの出席者は皇帝コンスタンティヌスとノタラス宰相、それにフランゼス大臣の三人だけだ。
「それで、スルタンの条件とは?」
「コンスタンティヌス陛下に、この街を譲っていただくことです」
 ナディームのよく通る声は、東ローマ皇帝の耳にはいかにも容易い要求だといわんばかりに冷たく響いた。ナディームが書簡に目を落とす。
「ああ、それに加えて、十五万ビザンティン金貨の支払いも……」
 貢納金の額を告げ、皇帝メフメトの署名入りの文書を、コンスタンティヌス十一世に向けてこの上なく丁重に進上した。
「……金額が、前回の交渉の時より一・五倍に増えている!」
 しかし、こちらが都を譲らないで固執していたのだから、向こうにしてみればその分罰金を追徴して課すのは当然なのだ。同時にそれには、今回の交渉に応じないのなら、いずれさらに多くの罰が加えられることになるというスルタンの脅しも含まれている。
 コンスタンティヌス十一世は、返事をする前に深く息をついた。
「恐れながら……、金貨の支払いはともかく、我われはここを去ることはあり得ぬと陛下に伝えられよ」
 今さらローマ皇帝の考えが変わると、誰も思っていたわけではない。
「それでは、メフメト陛下に何か他に申し伝えることがございましたら、何なりとご遠慮なく……」
 二人はコンスタンティヌスの言葉を聞くまで、丁寧に頭を下げて待つ。けれど皇帝は最後の挨拶を述べ、ブラケルナエの護衛に彼らを責任持って見送るように命じるのだった。
 外にいた枢機卿と王太子を目にし、ナディームの漆黒の瞳がきらりと光る。
「では、またご用がおありの時はいつでもお申し付けください」
 メフメトの側近は、天幕に帰ると皇帝に結果を告げる。
「ローマ皇帝のご意思は、相変わらず強固です。それから……、あの西欧の和平大使たちは健在でした」

 実際のところギリシャ人だけでなく、ヴェネツィア人やジェノヴァ人もコンスタンティヌス十一世を崇拝しており、仮にこの会談の結論が公開されたとしても文句を言う国民はいなかったかもしれない。皇帝はいつも戦いを恐れず、前線で指揮を取り、兵士を励ましてきたのだ。重臣の中では最も反戦争派である宰相ノタラスといえども、会見の席では異議を唱えなかった。

 その翌日……、大砲の轟音が再開された。
 篭城が始まって既に一か月が過ぎ、人びとの食糧が底をつき始めている。市民は聖ソフィア大聖堂の広場にある大帝と呼ばれたコンスタンティヌス一世の像の前に集まって、戦争の不安とひもじさに愚痴をこぼすようになった。最近では人が集まると、必ず良からぬ噂話に花が咲く。
 ここに立つ像は、西暦三〇六年の在位以来分裂していたローマ帝国を統一した、ガイウス・フラヴィウス・コンスタンティヌスで、「大帝」の名を冠した上に聖人にも選ばれた皇帝だ。
「お前……知ってるか? この大帝の像は、アジアの方角を指差してるだろ? それはコンスタンティノポリスを滅ぼす悪魔が、アジアから来ることを意味してるんだぜ」
 冗談では済まされない言動に背筋を震わせたもう一人の市民は、仕返しとばかりにもっと恐ろしい俗言で切り返す。
「へへい、『東ローマ帝国は、街と同じ名の皇帝コンスタンティヌスが玉座にある間に滅びる』って噂なら聞いたことがあるな」
「そんな……、そりゃぁいくらなんでも陛下に無礼すぎるぞ! どうすんだよ、もし兵士の耳にでも入ったら?」
「罰せられたりしねぇよ。市民も戦の駒にさせられるんだから」
「罰がどうとかじゃなくて、お前そんな心構えでよく戦う気になれるな?」
「別に……、陛下が嫌いなわけじゃないからな……。この先どうなるかわかんねぇのがもう嫌なんだっ!」
 人びとが口論を始めると、果ては「ヨハネの黙示録の蒼ざめた馬が現れて、疫病や飢餓をふりまき地上の人間を死に至らしめる」という類いのものまで飛び出す。
 皇宮では食糧の価格高騰で飢えている市民を救うため、皇帝がフランゼス大臣に言いつけて小麦を買い、貧しい人びとに配給した。

 五月三日夜半、ターバンを巻きオスマン人に成り済ました十二人のヴェネツィアの船乗りが、夜の闇に紛れて金角湾から小舟で南下した。そしてそのままマルモラ海へと船は出て行った。応援の艦隊が近くに来ていないか、捜しに行くためである。
 コンスタンティヌス十一世の依頼を受けて、ヴェネツィアの大使ミノットが本国に応援要請の使者を送ったのは、一月の始めだ。予定通り全て順調に運ばれたなら、二月末には艦隊がコンスタンティノポリスに着いていてもよいはずだった。
「援軍は、いったいどこで、どうして止まっておる!?」
 苛立ちはつのる。
 しかしこの帝国は、まだヴェネツィアに見放されたわけではなかった。到着は遅れているようだが、確かに「ヴェネツィア本国では兵士を募り艦隊を編制している」という知らせは聞いているのだ。その艦隊がいったい近くに来ているのかどうか……、皇帝の希望を託した十二人を乗せた小型帆船は、北風に見送られギリシャへ向けて滑り出した。



 五月初め、ブラケルナエ宮殿で皇帝の傍に控えていたのは、ノタラス宰相だ。
「陛下、先日のオスマンからの使いは、おそらく最後通牒だと……。この様子では敵の総攻撃も間近……。いったんこの町を離れ、モレアかアルバニアにしばらく潜んで、首都奪還のための軍を募ってはいかがでしょう」
 コンスタンティヌス十一世は、長い間目を伏せて何も答えず考え込んでいた。
 宰相の提案は、すなわち市民と兵士を残して、皇帝だけがこっそり避難することを意味している。ここまで戦に突入しているのだから、市民と兵士までも救おうと思ったら、全面降伏以外に道はないのだ。
 そして沈黙の後、顔を上げた皇帝はこう言った。
「この街の何ひとつでも、どうして余に見捨てることができようか? 教会も人びとも……それらの友を見捨てるくらいなら、余はむしろ一緒に死ぬほうを選ぶ」
 メフメトの総攻撃はそれから間もなくやって来た。
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