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第2章

ヴェネツィア商船と教皇特使のジェノヴァ船 1

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 一四五二年も終わりに近づいた頃、東ローマ帝国へ向けて黒海からボスポラス海峡を南下してきた、西欧の小型帆船が、ルメリ・ヒサールからの砲撃を浴び撃沈された。乗船していた三十人は岸に泳ぎ着いたのだが、アジア側にたどり着いた者もヨーロッパ側に上陸した者も、直ちにメフメトに捕らえられ、全員胴体をまっぷたつに斬殺される刑に処せられた。その惨事は、瞬く間にコンスタンティノポリスまで伝わった。
「くっ、これが返事か! あの会見の……」
 せめてルメリ・ヒサールからの砲撃だけでも止めて欲しいと頭を下げたのに。
 怒りのあまりレオナルドは、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
「そなたたちの役目には感謝しておるが、いよいよ教皇の元にお返しする時がまいったようじゃ」
「ですが陛下、交渉はまだ始まったばかりです!」
「いや、これ以上の引き延ばしはできぬ」
 コンスタンティヌス十一世は、ローマへ帰れと言う。まるで宣告のように。
「使命を果たそうと懸命なのは身にしみるほどありがたいが、若者たちの将来を東ローマ帝国の運命に委ねるわけにはいかぬ」
 冷たく言い放ったのは、三人に帰国しやすい状況を作るためなのか。ローマ教皇の肉親の未来を、自分の責任下で終結させることはできない……と悲しい目をする。
 それでもレオナルドたちは悪あがきをやめず、できる限りのことをやり遂げたくて、最後の数日を費やす。西欧諸国に援軍を求める依頼を送ったのはもちろんのこと、東欧のギリシャ正教徒の国々にも、これ以上メフメトからの徴兵要求に応じないでくれと書簡をしたためる。オスマン帝国と隣り合わせの東欧の国々は、キリスト教徒であってもオスマンを無視することはできない。貢物や王女を差し出すことで、攻撃を受けないよう均衡を保っていた。国境を共有する弱小国は、スルタンから兵を要求されれば逆らえないからだ。とはいえこの街を守る兵士と対戦するのは、キリスト教徒同士で争うことになってしまう。それだけは避けるべきだと、文書で必死に呼びかけた。


 数週間後の一四五三年一月、枢機卿と王太子らを乗せたジェノヴァの帆船は、ついにコンスタンティノポリスの港を出発することになった。
「まるで住民を見捨てて逃げ出すようだ」
 そんな風に自らを戒めてみても、言い訳に聞こえてしまう。確かに「決して戦争に巻き込まれてはならぬ」とは教皇からの勅命だった。だから兵士も連れて来ていないのに戦えるはずもないのだが、この街を去るところを誰にも見送られたくない。
「逃げ出すと思われてもやむを得ません、猊下。何と言われようと教皇の勅命を優先せねばならないのです」
 冷徹な言葉を発したのは、意外にもユージェニオだった。
 どうせいつも自分自身の評判より祖国の民のことを考える王太子には、こっちの気持ちなど……。いや、彼らしいと言えば確かに彼らしい。今回はユリウス・シルウェステルから命を受けたことが、彼の意志を非情なまでに強固にしている理由だ。勅(みことのり)は往々にして肉親であるレオナルドより、教皇の崇拝者であるユージェニオにとっての方が重い。そんなことはわかっている。上からの命令とは、当然そうあるべきものだから。
 コンスタンティノポリスの運命以外に、もうひとつレオナルドの心に引っかかっていたことがある。短い付き合いだったが予想以上に深い絆で結ばれた、エルネストの身の上だ。ヴァティカン枢機卿の誘いを断って、彼は一緒の船に乗らないという決意を示したのだ。
「ローマ教皇勅使をお見送りし、無事を見届けるのも私の役目ですから」
「この船が最後ではない。他の船がある。確かヴェネツィア行きも近々出港するはず……」
「お約束いたします。必ずそれに乗って帰ることを……、そしていつかきっとヴァティカンにも参ります! 猊下」
 なぜだろう、レオナルドには言葉と裏腹に、彼が最後までここに残る覚悟をしているように思えてならなかった。
 いっそこのまま、別れの挨拶の手を離さず、一緒に渡し板を超えて船に乗せてしまえたら……。
 どうして誘いでなく、命令にしなかったのか!
 いや、それは彼を母親から引き離すのは忍びないと思ったからだが……。それなら家族も同行させることは、サヴォイアの名を出せば可能だった。けれどそれでは父親だけを残すことになってしまう。緊急時でもあるまいに、今はまだ平静を保つことを忘れてはいけない。せめてもの償いとして、乗船前に自分の聖書をエルネストに手渡した。


 時刻は数時間ほど遡る。この日黒海北岸にあるロシアの交易都市ターナから、毛皮やチーズ、キャビアなどを積んだヴェネツィアの船が、通常の航海時期も終わったというのに、コンスタンティノポリスを目指して南下してきていた。よりにもよってローマ教皇の使者が帰る日と重なったなどと、この時まだ誰も知らない。オスマン軍がルメリ・ヒサールから立ち去ったという噂が届いた。それがヴェネツィア商船に出航を決定させた理由だ。先日の商船が撃沈され三十人が惨殺された事件は聞いていたから、季節外れの真冬になるまで待っていたのだ。もう商業取引の期間は春までやってこないのだし、無駄に砦でボスポラス海峡を見張る行為をスルタンがやめたという話も、充分に納得できる。
 こっそり東ローマ帝国に物資を援助しようとしたその船が、金角湾まであと十キロに近づいた頃、海峡の大きな岩を曲がったところでいきなりルメリ・ヒサールが目に入る。乗組員はごくりと息を飲んだ。それはまさしく岩の間から突然現れたと言うにふさわしい黒いサタンの要塞……。高くそびえ立つ塔は、低い塔へと通路で繋げられている。ハリル、サガノス、サルカとそれぞれ大臣(パシャ)たちの名前を付けられた三つの塔を持つ広大な砦である。
 敵はいない。そうわかっていても、おどろおどろしい逆三角形……。
「ほんとに、いないよな?」
 ……のはずだったのだ、耳をつんざく轟音が響くまでは。
「いた! まだいたぞぉっ!」
「左だ。左に舵を切れ!」
 びくりと肩を震わせた船は一瞬にして防御態勢に入る。
 炸裂する音が、水しぶきをあげた。
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