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第2章

ブラケルナエ宮殿の朝食

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 聖ステファノ教会の食堂では、毎朝ヨウルトに濃厚なハチミツをかけて食べるのがすっかり習慣になっていた。始めは苦手だったフィリベルトも、今では結構気に入っている。ただし、彼はまだレオナルドたちのように「チャイ」と呼ばれる濃くて甘みのあるミルクティーだけは好きになれないようだった。
「あ、私は西欧風の紅茶を頼む」
「砂糖は入ってませんが……、デッラ・ローヴェレ公爵」
 もう一度確認したエルネストに、フィリベルトはそれでも首を横に振って断った。
 さすがに普通に砂糖を入れて作ったギリシャ風のチャイはレオナルドにも甘過ぎたので、最初に淹れたときに「牛乳本来の甘みで充分だから、砂糖は抜くように」と頼んである。
「『郷に入っては、郷に従え』ということわざがあるな……」
「つまりは『ローマでは、ローマ人のする事をしろ』(When in Rome, do as the Romans do.)ということだ」
 フィリベルトに向けて、枢機卿と王太子が冷めた視線を投げかける。
 エルネストまでが、耐えきれず笑いをかみ殺している。何しろ彼らが今いるこの場所は、住民たちに「東のローマ」と呼ばれている街なのだ。
「お前ら、結託して人を笑い者にするな!」
 叫んでしまった後でフィリベルトは、誰に向かって何を言ったのかに気づいて固まった。そういえばこいつは、昔からいつも鋭い頭脳とは無縁の兄だった。
「今のは、聞かなかったことにしておこう」
「ユ、ユージェニオさま」
 目の前にいるのは双子の弟でも、その隣にいるのは、将来自分の君主になる人だったことを思い出したらしい。
「貴様、何度言えば……」
「……あー、はいはい、わかりました。猊下」
 小声でぶつぶつ付け加える。
「……ったく、レオナルドの奴がいつも殿下をお前呼ばわりしてるから、つられて『お前ら』とか言っちゃったよ……」
 今日はこの後、皇宮で朝食を兼ねた早めの昼食の席が設けられており、コンスタンティヌス十一世に昨日の交渉結果を報告することになっていた。だから朝食は食べなくてもよいのだが、会合が雰囲気の重いものになるのは目に見えている。食事を控えながら皇帝の前で困難な話し合いをしろというのは、若い三人には過酷なことだった。そのための腹ごしらえとして、エルネストがたっぷりな朝食を用意してくれた。

 一方ブラケルナエ宮殿の食堂(ダイニングルーム)は、西欧の宮殿の絢爛さに比べて簡素だ。
 それはたぶん、部屋の装飾のせいだろう。西欧では壁に繻子の豪華な布を貼り、できる限りきらびやかな内装にするのが好まれる。しかしここでは、素朴な造りだった。実は祖国よりこのほうが落ち着くのだが、装飾に凝るのが権力の象徴でもある場所では、やはりその慣例に従わなくては社交というものが成り立たない。
 午前中の光の差し込む部屋で、コンスタンティヌスを相手に三人は同席した朝食兼昼食は、予想通りやるせないものになった。昨日のメフメトの厳しい返答を、彼らはなんとか違う雰囲気の言葉で表現しようと苦労していた。それに耳を傾けながら皇帝が口にしたのは、果実をしぼった飲み物だけである。
「……それならば、メフメトに払う貨幣をもっと増やそう。十万は、すぐには用意できぬが」
 こともなげに提案したように聞こえるが、本当はそれすらも、どうやってやりくりすればよいのか分からないような経済状態の国だった。
「恐れながら……スルタンは、それでは納得しかねるかと存じます。たとえ言われた通りの金額を用意できなくとも、街を明け渡すのは向こうの必須条件。それさえ向こうの意地を通すことができれば、貢納金の減額については考慮してくれるかもしれませんが」
 ため息を飲み込んで、レオナルドは続ける。
「……陛下、何度も繰り返してお厭わしいでしょうが、どうか民のために、今回は譲っていただけませんでしょうか。たとえ道理にかなわぬことであっても……向こうはこの街さえ譲れば、人びとに手は出さぬと申しております。我々は命さえあれば、いつか再び力をつけてここを奪回することもかなうやもしれません」
 壮年の皇帝は若い枢機卿には説得されまいと抵抗するかに、合わせていた視線を外した。まるで瞳に吸い込まれそうになるのを避けようとするみたいに……。
 だがコンスタンティヌス十一世は、遠い目をして窓の向こうの雲を見やった。
「……聞いたことがあるだろうか? 聖ソフィア大聖堂に大事(だいじ)が起きた時には、天使ミカエルがこの世に降りてきて、人びとを救うという言い伝えがあるのを……」
 彼は、あたかもそこに炎の剣を持った大天使ミカエルが援軍を率いている姿を認めたかのごとく、宙をさまよっている。
 それは太古からの言い伝えだった。異教徒の国と隣接しているこの都市では、もし攻められ敵が聖ソフィア大聖堂まで迫ってきても、ミカエルが天から降りてきて追い払うという伝説があるのだ。「ヨハネの黙示録」の中でも悪魔の化身である竜を退治するミカエル……。その勇姿は、ソフィア大聖堂の二階に美しいモザイク画として描かれていた。左手に宝珠を抱え、右手には長い槍を持つ。金色のウエーブを帯びた髪を細いリボンで軽く束ね、窓から差し込む光を浴びると白い衣のドレープが浮き出す……。二階のバルコニーの一番端まで来てこの神秘的なミカエルを見上げると、誰もが大天使の力を信じてしまいそうになる。
 そんな純真過ぎる信心は、大人げないとさえ感じなくもない。皇帝だって自分でそう思ったことがあるはずなのに、こんな風に潔癖さを宗教に求めるのはなぜなんだ。
 戦うことは、常に緊張を要する。だから何か信じられる精神の支えがなくてはならない。とはいえ皇帝の信仰は、現実から目を背けるための手段になってしまっているわけでもない。穏やかで欲のない、けれど勇気のあるコンスタンティヌス十一世がこのような境地に至るまでには、他人に言えない苦しみがあったのに違いないのだが。
 しかし……だ。統治する立場の者には、自らの希望に沿わない答えを選ぶ潔さも必要なのではないだろうか。あえて望みとは違う選択肢をとる……。民を束ねるということは、決定権のない者たちの望みを考えることでもある。彼らには君主に従う以外の道はないのだから。なのに……、なのにこれほどまで崇高な皇帝が、最善の解決策を見出す叡智をどこかに置き忘れているのはどうしてなんだ! それは、皇帝には子供や妻が、守るべきものが目の前にいないからなのだとしたら? 肉親を持たないために、民の心が読めなくなってしまった可能性は「無い」と、果たして言えるのだろうか。
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