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第三幕 子猫はもっと遊びたい
頭割りの親分
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「大番頭。中町の親分さんがお見えです」
雷蔵が帳場で台帳の付け合わせをしていると店の前からそんな声が掛かった。
「おや、もうお見えになられましたか」
まだ店の大戸を外したばかりで客を迎え入れる準備も整わない時間に岡っ引きが出てくるなど、昼間に幽霊が出てくるくらいに珍しい事だ。
雷蔵は手代の一人に親分を離れの客間に通すように指示すると、自らも細筆を置いて帳場を立った。
「おう、雷蔵。俺を狐屋に来させるとは珍しいな」
雷蔵が客間に入ると、額を上下に割るような水平の刀傷のあるヤクザ紛いの中年男が、浅黒い顔から白い歯を出して笑った。
「珍しいとは親分さんのほうでしょう。どうしたんですかい、まだ昼前なのに起きているなんて」
「金になる話が飛び回っているときに寝虚仮ているほど無欲にはなれねぇだけよ。他の同僚たちは金にならない仕事だと思って不貞腐れているようだがよ」
「流石ですね」
雷蔵は親分の前に座って静かに微笑んだ。
「んじゃ、お互いに時間も無ぇことだし早速仕事の話だ。おめぇはいくら出す?」
「言い値で」
打てば響く短い言葉の応酬で中町の親分が「ぐぅっ」と喉を詰まらせたような音を出した。
「えらく強気じゃねぇか。え? 雷蔵」
「それだけの価値があるということですよ。なにしろこの世に二つとない商品ですからね」
親分は鍾馗のようにぎょろりと目玉をひん剥くと、雷蔵の心の内を見透かそうとしているかのように雷蔵の目の奥を覗き込んだ。……しかし、
「てめぇ、また格が上がったな。とうとう読めなくなっちまった」
親分は忌々しそうに舌打ちをして顔をしかめた。
「『頭割り』の親分さんにそう評価されるのは光栄の至りですね。あっしもようやく商人として認められたような気がします」
雷蔵は自分の目の前で苦々しそうに目を眇めている岡っ引きの通り名をあえて口にした。
頭割りの親分という通り名の由来は彼の額を割るように刻まれた水平な傷跡のせいばかりではない。
彼には人の心を読み解く力があって、そいつが何を考えているのかを易々と言い当てることができた。それはまるで『頭を割って中を覗き込まれているようだ』と罪人たちからも同僚たちからも怖れられ、それがいつしか『頭割り』という通り名になって広まった。
ただし、この異能は本当に腹黒い相手に対しては通用しない。
例えば先代の狐屋主人のような大人物が相手になると何を考えているのかなんて欠片も分からなかった。
そして今日。とうとう雷蔵もその域に達してしまっていた。
暫く顔を合せなかった間に雷蔵がそれだけ成長したということだが、裏社会の仕事を依頼してくれる依頼主の成長が頭割りの親分にとって面白いはずが無かった。
「こないだまではケンカが強いだけの小悪党だったくせに、商人としての貫禄までつけやがって。腹に黒いものを呑んでなお、底の知れねぇ作り笑顔を出来る奴なんぞこの界隈ですら中々いねぇよ。……ったく、あいつもこんな厄介な相手を敵視しなくてもよかろうに」
親分が吐いた愚痴の最後の言葉に雷蔵がピクリと眉を上げて食いついた。
「あっしを敵視ですか? ……さて誰でしょうね。思い当たる相手がおりやせんが」
「そりゃそうだろう。思い当たりそうな奴はみぃんな三途の川の向こう側にいるんだからよ」
雷蔵は何も答えずににこりと微笑む。
「で、どなたの事ですかい?」
「……」
親分が言葉を忘れたかのように急に口を閉ざしたので、雷蔵は銀の粒の入った封筒を畳の上で滑らせて親分の座っている座布団に差す。その途端、親分の口はぺろっと軽くなった。
「風花だ」
「へぇ? あの女はまだ生きてるんで?」
「おめぇさんの惨たらしい死に様を見るまでは意地でも先に死ねないとよ。がははは」
「あっしぁそこまで風花に怨まれる覚えなんて無いんですがねぇ」
「風花にとっちゃおめぇさんの存在自体が目障りなんだろうよ。『雷神』の雷蔵と『風神』の風花。通り名が対になっているせいで何かあるたんびに比べられるもんだから、あいつも心穏やかってわけにはいかんだろうよ」
「それこそあっしの知ったことじゃないんですが。どうにもはた迷惑な話ですね」
「そういや今回の件は風花も仲間を集めて取り掛かっている。おめぇが使っていた『のっぺら佐吉』はあっちについたぜ。小判の匂いで釣り上げられたようだ」
「のっぺらが向こうに? あの野郎……」
蝋人形のような微笑みを続けていた雷蔵の眉間にぎゅっと皺が刻まれるのを見た親分は少し嬉しそうに顔を綻ばせて身を乗り出してきた。
「やっと顔に感情が出てきたな。のっぺらの事もそうだが今回の仕事はおめぇさんたちの度量勝負という一面がある。『雷神』と『風神』の二人がそれぞれに仕事を受けた。狙う的は一つだけ。つまり勝つのは一人だけ。どっちが今回の仕事を成し遂げるかで力の差がはっきりする。今回の仕事はそういった意味でも裏の世界で注目されているんだよ」
「面倒なことですね。そんな意地の張り合いなんて勝っても負けても利がないというのに」
「俺としちゃあ心情的におめぇさんに勝ってもらいたいところだがな」
「おや、どっちが勝つか賭けの対象にでもなってるんですかい?」
「二人が請け負った仕事の内容がちぃとばかり違うからよ。『雷神』は愛姫を捕まえる。『風神』は愛姫を殺す。死体が出ると俺の仕事が無駄に増えるからな。俺は楽な方がいい」
「風花め、まだ殺しなんて仕事を……」
「おめぇさんが表の世界の仮面をかぶって腹黒く悪党の段位を上げたのとは逆で、風花はどっぷり闇に身を沈めることで悪党の段位を上げたのさ。おめぇさんたちは選んだ路が違うのよ。わしから見ればどっちも悪党なのに変わりはねぇがな」
親分はそう言って鼻で笑うと、座布団に挟まった銀の小袋を掴んで腰を上げた。
雷蔵が帳場で台帳の付け合わせをしていると店の前からそんな声が掛かった。
「おや、もうお見えになられましたか」
まだ店の大戸を外したばかりで客を迎え入れる準備も整わない時間に岡っ引きが出てくるなど、昼間に幽霊が出てくるくらいに珍しい事だ。
雷蔵は手代の一人に親分を離れの客間に通すように指示すると、自らも細筆を置いて帳場を立った。
「おう、雷蔵。俺を狐屋に来させるとは珍しいな」
雷蔵が客間に入ると、額を上下に割るような水平の刀傷のあるヤクザ紛いの中年男が、浅黒い顔から白い歯を出して笑った。
「珍しいとは親分さんのほうでしょう。どうしたんですかい、まだ昼前なのに起きているなんて」
「金になる話が飛び回っているときに寝虚仮ているほど無欲にはなれねぇだけよ。他の同僚たちは金にならない仕事だと思って不貞腐れているようだがよ」
「流石ですね」
雷蔵は親分の前に座って静かに微笑んだ。
「んじゃ、お互いに時間も無ぇことだし早速仕事の話だ。おめぇはいくら出す?」
「言い値で」
打てば響く短い言葉の応酬で中町の親分が「ぐぅっ」と喉を詰まらせたような音を出した。
「えらく強気じゃねぇか。え? 雷蔵」
「それだけの価値があるということですよ。なにしろこの世に二つとない商品ですからね」
親分は鍾馗のようにぎょろりと目玉をひん剥くと、雷蔵の心の内を見透かそうとしているかのように雷蔵の目の奥を覗き込んだ。……しかし、
「てめぇ、また格が上がったな。とうとう読めなくなっちまった」
親分は忌々しそうに舌打ちをして顔をしかめた。
「『頭割り』の親分さんにそう評価されるのは光栄の至りですね。あっしもようやく商人として認められたような気がします」
雷蔵は自分の目の前で苦々しそうに目を眇めている岡っ引きの通り名をあえて口にした。
頭割りの親分という通り名の由来は彼の額を割るように刻まれた水平な傷跡のせいばかりではない。
彼には人の心を読み解く力があって、そいつが何を考えているのかを易々と言い当てることができた。それはまるで『頭を割って中を覗き込まれているようだ』と罪人たちからも同僚たちからも怖れられ、それがいつしか『頭割り』という通り名になって広まった。
ただし、この異能は本当に腹黒い相手に対しては通用しない。
例えば先代の狐屋主人のような大人物が相手になると何を考えているのかなんて欠片も分からなかった。
そして今日。とうとう雷蔵もその域に達してしまっていた。
暫く顔を合せなかった間に雷蔵がそれだけ成長したということだが、裏社会の仕事を依頼してくれる依頼主の成長が頭割りの親分にとって面白いはずが無かった。
「こないだまではケンカが強いだけの小悪党だったくせに、商人としての貫禄までつけやがって。腹に黒いものを呑んでなお、底の知れねぇ作り笑顔を出来る奴なんぞこの界隈ですら中々いねぇよ。……ったく、あいつもこんな厄介な相手を敵視しなくてもよかろうに」
親分が吐いた愚痴の最後の言葉に雷蔵がピクリと眉を上げて食いついた。
「あっしを敵視ですか? ……さて誰でしょうね。思い当たる相手がおりやせんが」
「そりゃそうだろう。思い当たりそうな奴はみぃんな三途の川の向こう側にいるんだからよ」
雷蔵は何も答えずににこりと微笑む。
「で、どなたの事ですかい?」
「……」
親分が言葉を忘れたかのように急に口を閉ざしたので、雷蔵は銀の粒の入った封筒を畳の上で滑らせて親分の座っている座布団に差す。その途端、親分の口はぺろっと軽くなった。
「風花だ」
「へぇ? あの女はまだ生きてるんで?」
「おめぇさんの惨たらしい死に様を見るまでは意地でも先に死ねないとよ。がははは」
「あっしぁそこまで風花に怨まれる覚えなんて無いんですがねぇ」
「風花にとっちゃおめぇさんの存在自体が目障りなんだろうよ。『雷神』の雷蔵と『風神』の風花。通り名が対になっているせいで何かあるたんびに比べられるもんだから、あいつも心穏やかってわけにはいかんだろうよ」
「それこそあっしの知ったことじゃないんですが。どうにもはた迷惑な話ですね」
「そういや今回の件は風花も仲間を集めて取り掛かっている。おめぇが使っていた『のっぺら佐吉』はあっちについたぜ。小判の匂いで釣り上げられたようだ」
「のっぺらが向こうに? あの野郎……」
蝋人形のような微笑みを続けていた雷蔵の眉間にぎゅっと皺が刻まれるのを見た親分は少し嬉しそうに顔を綻ばせて身を乗り出してきた。
「やっと顔に感情が出てきたな。のっぺらの事もそうだが今回の仕事はおめぇさんたちの度量勝負という一面がある。『雷神』と『風神』の二人がそれぞれに仕事を受けた。狙う的は一つだけ。つまり勝つのは一人だけ。どっちが今回の仕事を成し遂げるかで力の差がはっきりする。今回の仕事はそういった意味でも裏の世界で注目されているんだよ」
「面倒なことですね。そんな意地の張り合いなんて勝っても負けても利がないというのに」
「俺としちゃあ心情的におめぇさんに勝ってもらいたいところだがな」
「おや、どっちが勝つか賭けの対象にでもなってるんですかい?」
「二人が請け負った仕事の内容がちぃとばかり違うからよ。『雷神』は愛姫を捕まえる。『風神』は愛姫を殺す。死体が出ると俺の仕事が無駄に増えるからな。俺は楽な方がいい」
「風花め、まだ殺しなんて仕事を……」
「おめぇさんが表の世界の仮面をかぶって腹黒く悪党の段位を上げたのとは逆で、風花はどっぷり闇に身を沈めることで悪党の段位を上げたのさ。おめぇさんたちは選んだ路が違うのよ。わしから見ればどっちも悪党なのに変わりはねぇがな」
親分はそう言って鼻で笑うと、座布団に挟まった銀の小袋を掴んで腰を上げた。
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