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第二章

第6話 旅立ちの前夜に その2

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 愛する娘との別れを前に揺らいでいた心を、無理矢理抑えつけて、伯爵はアイシャの入室を許可した。

(そう、聖女の父となってしまった以上、私にも甘えは許されない。アイシャの肩には大陸中の人々の命がかかっているのだ)

「失礼致します」

 控えめにそう言ってアイシャは父であるジェイク・フィアローディ伯爵の自室に入った。

「どうした、用件ならば、後ほど応接室にて聞くが?」

 伯爵は、アイシャに背を向けたままでそう言った。

 愛する娘へ注ぐべき愛情を全てひた隠して、彼女への罪悪感と後悔を、救世主の父親であるという使命感で塗りつぶして、何とかここまでやって来たのだ。最後まで、アイシャの前では徹頭徹尾、厳格な父親を演じ切らねばならない。

 結局、伯爵の出した結論はこうだった。
 しかし、今ここでアイシャの顔を正面から見られる自信が伯爵には無かった。

「父上、今日の議題は、私の王都への旅立ちについて、でございましょう?」
「……やはり気づいていたか」

 いつの時代も聖女は、魔法使いを集め、魔王フェリエラを打ち倒す旅に出なくてはならない。リハリス子爵領を奪還し、サンマリア男爵領を魔物の手から取り戻した今こそが、正にその時なのだと、そう推察するのは容易い話だった。

「ああ、お前は近々、王都に旅立ち、その後に大陸各地を回り、魔王フェリエラを打ち倒す旅に出なくてはならない。それがどうかしたのか? まさか、旅に出るのを拒むつもりではないだろうな。お前にそれは許されない」

 そんな理由でアイシャがここに来たはずがない。
 それは伯爵が誰よりも分かっていた。誰よりも人を助けることを進んで望み、甘えや弱音などこぼしたことの無い、聖女の役割を誰よりも一番分かっているアイシャが、今更そんな事で躊躇するはずも無かった。
 しかし、伯爵はただ虚勢を張って、娘に背を向けてそう言い放つことしか出来なかった。

「はい、魔王を討つための旅に出る。それに依存はございません」
「そうか、では一体……」
「しかし、今のまま旅に出る訳には参りません。その前にわたくしは、聖女として、やり残したことを為すためにここに参りました」

 伯爵の言葉を遮って、アイシャはそう口にした。
 徐々に大きくなっていくアイシャのその言葉。
 背後の足音と気配。
 伯爵は、アイシャが自分の方に近づきながら言葉を発しているのだと分かった。そして、その言葉を言い終わった時、すでに彼女は自分の真後ろに立っていることを認識した。
 しかし、それでも、伯爵はアイシャの方に振り向くことは出来なかった。

「や、やり残したこと?」
「はい、お父様」

 伯爵は、普段は自分の事を「父上」と呼ぶ、聖女となる前にアイシャに呼ばれていた、その懐かしい響きを耳元で聞いた。
 そして、一瞬、昔の幼いアイシャの面影が、そしてそんな彼女の頭を優しく撫でる自分の姿が脳裏に浮かんだ。

「!!」

 その瞬間、アイシャの白くて細い腕が、優しく伯爵の身体に回された。そして伯爵は、自分の背中に、トンッと押し当てられた娘の額の感触を感じた。

「こ、これから旅に出る身だというのに、私に甘えようとでも言うのか?」

 今すぐ、娘を真正面から抱きしめてあげたい。
 伯爵はそう思っていた。

 しかし、それは許されない。それでは何のために、この五年間、心を鬼にして厳しく接してきたのか分からない。娘がこのフィアローディの地に後ろ髪をひかれる思いなど、間違っても持たせてはならないのだ。

 伯爵は意を決して、娘を引き離そうと、自分の腹部に回された娘の腕をゆっくりと掴んだ。
 しかし、その腕を、伯爵は引きはがすことが出来なかった。

(……なんだ、この白くて細い腕は。この子は、こんな腕で、甲冑を纏い、剣を握り、リハリス子爵領とサンマリア男爵領に巣くう魔物どもを一掃したのか? いくら聖女とはいえ、幼い子供に運命を押し付けて、自分の使命感に押しつぶされて、娘への愛を押し殺して、私は一体何をやっていたのだ)

「お父様、聖女の役目とは、何も魔物を倒すことだけではありません」

 アイシャのその言葉は、こわばった伯爵の身体を優しく包み込んだ。

「私は、このまま旅に出る訳には参りません。このまま旅に出れば、お父様はご自身に課したその心に、その後悔に押しつぶされてしまいます。私は聖女として、お父様をむしばむ、その原因になる訳には参りません」
「ア、アイシャ……お前……」
「幼き頃から、私やリーシャにそっぽを向かれるだけで悲しい顔をしてしまうお父様。私が庭の小石につまづいて転んでしまっただけで、庭中の小石を夜通し拾って下さったお父様。厳しいお姿などこれっぽっちも性に合わないのに、ずっと辛いお役目を押し付けてしまってごめんなさい」

 伯爵は、自分の両目にこみ上げて来た涙の気配から、もうそれを抑えることが出来ない事を感じていた。

「もう良いのです、お父様。私は、厳しいお父様ではなく、私の為に厳しくあらねばと耐え続けるお父様を見て、立派に育ちました。ですから、もう良いのですよ。
 必ず使命を果たし、ここに戻って来ます。お父様の使命は、それまで、元気でいて下さる事です。そして帰って来た私を、昔の様に、一番に抱きしめて下さる事です」

 アイシャの手の上に、次々と水滴が零れ落ちた。
 アイシャの言葉は、伯爵の肩に乗っかっていた荷を一つ一つ落していき、伯爵が自らに課していたその枷を一つ一つ外していった。
 その時の伯爵には、もはや何も堪えなければならない事など存在しなかった。

「あああ、アイシャ、アイシャ、アイシャ……」

 伯爵は、涙を流す顔を隠そうともせず振り向くと、アイシャを優しく抱きしめた。

「アイシャ、アイシャ……私の可愛い娘。私の愛する娘。どこにもやりたくなかった。旅になど出したくなかった。聖女なんてやらせたくなかった。ずっと私が、守って、お前を幸せに……ううう」
「私は、お父様のもとに産まれただけで、十分に幸せですよ」
「あああああああああ!!!」

 もはや、伯爵は五年分の溜まりに溜まった思いを抑えることなど出来なかった。アイシャは、そんな子供の様に泣きじゃくる父の頭を、いつまでも優しく撫で続けた。


 ――しばらく後


「アイシャ、その、すまない。ありがとう」

 すっかり情けない所を娘に見られてしまった伯爵は、少し恥ずかしそうに礼を言った。

「いいえ、父上。これも聖女の務めですから」
「務め……か」
「はい」

 その義務的な言葉に、伯爵は少し寂しそうな表情を浮かべた。それこそが、優しく、娘を溺愛していたかつての伯爵そのものであり、そんな伯爵を見てアイシャは嬉しそうに微笑んだ。

「愛するお父様の心を癒せないで、なにが聖女だ、と、昔の聖女様に怒られてしまいました」

 そう言って、花のように笑うアイシャを見て、伯爵は、まるで五年は若返ったかのようなすがすがしい表情で微笑むのであった。


 ******


「よし、全員揃ったな」

 フィアローディ家の応接室に全員が集まったのを確認して、ジェイク・フィアローディ伯爵はそう口にした。

 その場には伯爵のほかに、夫人のエイラ、長男のセリウス、次男のディアス、そして双子の姉妹のリーシャとアイシャ、そして宰相のドイルが揃っていた。
 ずっとどことなく苦しそうな表情をして来た伯爵であったが、憑き物のとれたようなその表情に、フィアローディ家の全員がなんとなくの事情を察した。父の心配をしていたのがアイシャだけでは無かっただけに、その場にはおのおのの安堵の表情が垣間見えた。

「アイシャが聖女の力に目覚めて以降、私は国王陛下と密に連絡を取り合っていた。そして、リハリス子爵領を奪還した際に、陛下から『サンマリア男爵領を取り戻し次第、聖女を王都に派遣せよ』との文を頂いた」

 伯爵のこの言葉を聞いて、次男ディアスとリーシャの表情が暗くなった。国王陛下の書簡は国家機密となる為、誰にも知らされていなかったからだ。エイラ夫人とセリウスだけは、その事実を心のどこかでなんとなく理解していた。

「アイシャは、準備が出来次第出立し王都に向かいなさい。セリウスはハーズワート公爵領までの護衛として、腕の立つ騎士を数名選び、アイシャに同行せよ」
「父上、王都まででは無いのですか?」
「うむ。理由はこれから話す」
「は、はい、了解致しました、父上」

 伯爵の命令に、セリウスは敬礼をして答える。自分も同行したいと願い出たディアスであったが、北の砦の守りを手薄にするわけにはいかなかったこともあり、あっさりと伯爵に論破された。

「アイシャ、元気でね。気を付けて」
「リーシャ、うん。姉さまも、お元気で」

 アイシャとリーシャは見つめ合い、別れを惜しんでいた。そして母であるエイラはそんな二人を優しく抱きしめた。

「おいおい、リーシャよ、別れを惜しむ相手を間違っているぞ」
「え?」

 姉妹の別れに水を差した伯爵の言葉に、その場にいた全員が一斉に伯爵を見た。伯爵は少しバツが悪そうに苦笑すると、最近届いた国王からのもう一通の書簡を取り出した。

「聖女の報告と同様に、国王陛下の元に、魔法使いの力を発現したものの情報も集まっておる。機密上それが我がフィアローディ家に明かされることはあり得ないが、一人だけの情報を陛下は伝えて下さった」
「なんと!」
「ハーズワート公爵領は王都へ向かう途中にある。公爵家は三人兄弟だが、その三男のルレーフェ・ハーズワート殿が、どうやら魔法使いとしての能力を持っているらしい」
「何という偶然! 長男のヴェローニ殿はリーシャ様の婚約者であり、三男のルレーフェ殿は、アイシャ様と共に戦う運命であったとは! ハーズワート家とはつくづく縁があるようでございますな!」

 宰相のドイルが、初めて聞く機密情報に、興奮が抑えられないでいた。しかし、家族の面々の興味はそこでは無かった。

「成人まで少し早いが、リーシャは公爵領まで同行せよ。聖女アイシャとセリウスは、ハーズワート領までリーシャを護衛せよ。そしてアイシャはそこでルレーフェ殿と合流して王都に向かえ!
 セリウスはその後、公爵領から直ぐに引き返し、フィアローディの守りにあたれ」

 急な話ではあった。しかし、誰もそれに異を唱える者はいなかった。

 リーシャはいずれ公爵領に行かねばならない。少なくとも成人と同時に結婚するとなれば、それまでには移住しなければならない。
 様々な道具や贈り物を積み込んでの公爵家までの馬車移動の事を考えると、聖女と護衛が目的地を同じにする今回は、これ以上無い、そして二度と訪れる事の無い好機であった。

 しかし、リーシャだけは、心中穏やかでは無かった。
 ここ数年、父や兄は戦いに明け暮れ、リーシャは母と二人でただただ平和を待ち望むのみの生活だった。
 そして折角平和が訪れたと思った矢先に、家族は離れ離れになるのだ。これでは何のためにみんなは戦いに明け暮れ、私と母上は待っていたのだろう、と。

 固く目をつぶり、堪えるように下を向くリーシャを、一つの影が優しく包み込んだ。

「え?」

 リーシャには、即座にそれが誰なのかが分かった。分かったからこそ、思わず驚きの声を漏らしていた。

「リーシャ、私はお前を手放したくない。誰よりもお前を愛している。この五年、もっとお前にも、そしてアイシャにも優しくしてやればよかったと後悔している。すまなかった」
「ち、ちちう、え?」

 そこには、最近の厳しい父ではなく、かつての、娘たちを溺愛していた、少し頼りなくも優しい父の姿があった。
 伯爵はゆっくりとリーシャから離れると、手を広げて言った。

「さあ、胸を張るがいい、フィアローディの妖精たちよ。お前たちは、同じ日、同じ時に、別々の道へと旅立つのだ。どちらも、この国を動かす大きな一歩になるだろう。私は、この愛する娘たちを、そしてその旅立ちを、誰よりも誇りに思う!」

 きっとアイシャが、父上を元に戻してくれたんだ。
 リーシャにはなんとなくそれが分かった。
 ふと、アイシャの方を見ると、彼女はリーシャを見て、優しく微笑んだ。

(これじゃあ、どっちがお姉さんか分からないじゃない。立派になっちゃって)

 リーシャもつられて笑ってしまった。しかし、その目からは大粒の涙が頬を伝っていた。

「「はい!」」

 そして、二人は、最愛の父に、決意を表すかのように、最上級の敬礼を示すのであった。


 ――そして数日後。


「さあ、準備は良いか? リーシャ、アイシャ!」
「はい!」
「はい、兄上」

 馬車に乗り込んだリーシャと、馬で並走するアイシャから元気な返事が返って来た。

「それでは父上、行ってまいります」
「うむ、セリウスよ、お前に任せたぞ、気をつけてな」
「お任せあれ! よし、出発!」

 セリウスが出発の合図を出して、馬車が進み始める。
 すると、馬車の窓からリーシャが顔を出し、馬上ではアイシャが振り返った。

「父上、私の結婚式で会いましょう!」
「父上、魔王の首を土産に持って帰ります!」


 ジェイク・フィアローディ伯爵は、妻エイラの肩を抱きながら、その一行が、地平の彼方に消えるまで、見守っていた。



(第7話『公爵家へ』)


※過去の近況ノートに、第2章の地図があります。
 皆様の想像の手助けになりますよう。
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