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五話 脈々糸
しおりを挟む弧裂は思考を巡らせた。答えはでてこなかったが、しなくてはならないことはわかっている。ここで迷っているわけにはいかない。
幸い、すぐ傍に階段があった。二人とも、忍び歩きには慣れているので、音をたてずに地面に下りることができた。番所の扉は、目の前だ。扉からはみだしているのは、やはり、人間の腕だった。
肬幽灯の、香ばしい匂いがする。ありったけの意志を動員させて、弧裂は倒れている人間の顔が見える位置に移動した。
倒れていた男に、弧裂は見覚えがあった。昔、食堂で、膨脳様への心棒を声高に主張していた男だ。秀でた額、苦悶が浮かんだ皺だらけの顔。喉が、すっぱりと切られていた。衝動的な痕跡ではなかった。殺そうとして、殺したのだ。
息を潜めて、聞き耳をたてる。生き物の気配はなかった。死体が一つ、それだけだ。
稼頭が、弧裂を見た。肬幽灯の匂いと、濃い血の臭いが混ざりあって、複雑な臭気が番所内に充満している。
血を踏むのもかまわずに、弧裂は死体を乗り越えて中に押し入った。血が天井から滴っているのに気付いて、妙に嫌な気分になった。
「これは?」
「番所の番人だ」
「どうするんだ? どうして死んでる?」
「わからない。でも、私たちの目的は変わらないよ。このまま止めてしまおう。ここで何があったかはわからないけれど、誰もいないのは好都合だ」
そもそも、生きていたところで、殺してしまう予定であったのだ。
二歩も歩けば壁についてしまうような部屋の奥に、地下へと進む階段があった。湿った石の臭いにも、肬幽灯の香気と血の臭いが混ざっている。階下は薄暗い。奥に、赤い光が見える。
やることを決めれば、行動は早かった。二人は、素早く階段を駆け下りた。
奇怪な空間が広がっていた。地面を掘りぬかれたままの、壁も床もない生々しい凹凸。赤い光が反射して、部屋中が明滅している。稼頭が身を強張らせたのは、それが心臓の鼓動そのままの動きだったからだろう。
壁面に、血管そのものの、赤く輝く光の筋が浮いていた。壁そのものが生きているようでもあるし、壁の内側に何かが流れていて、薄い石が皮膚のようにそれを覆っているようにも見える。音はしないが、空気がどくんどくんと脈打っていた。
弧裂は、口の中がからからに乾いていることに気がついた。
己が、今から何をしようとしているのか、知っていた。
もう何百回と考えたことだ。きっと死ぬだろう。大勢が死ぬだろう。弧裂自身も死ぬかもしれない。
それでもかまわない、とはいまだに思えなかった。思うのは、耐えられない、ということだけだった。情動を殺すことに慣れ、地下空間のように暗く荒れて朽ちるばかりの弧裂の内側で、それだけが確かだった。
弧裂は、稼頭を見た。
「後戻りは聞かない」
「わかってる。やってくれ。あんたのことはおれが守るよ」
耐えられなかったから、と弧裂が理由を話した時、稼頭は珍しく口をつぐんだ。長い時間をかけて、「おれもだ」と答えた。その時から、二人は盟友になった。
一際太い、弧裂の胴体ほどもある太さの脈に、円形の窓ガラスのようなものが取り付けられていた。強いて己を落ち着かせながら、弧裂はバルブを回して、その窓ガラスを開けた。
血の臭いが濃くなったように感じた。だが実際には、それはガラスの内側から漏れ出す、微かに熱いだけの空気だった。
赤色が脈打っている。
どくん。どくん。
弧裂は息を吸い込んだ。この息を吐くときは、自分が今とは違う生き物になっているような気がした。
真っ赤に脈打つ光の中に、手袋を外した手を差し込む。
叫びそうになった。
名伏し難い感触だった。
身体中の皮膚という皮膚に嫌悪の針が突き刺さり、そこから腐汁のようなものが流れこんできていた。視界が明滅し、聴覚が割れて、額の内側から先が丸い釘をガンガンと打ち込まれている。膝下までの生ぬるい水。鳩尾を這う、何か脚がひどく多くて長くて固いもの。
指先に力をこめて、精式を一つ動かした。
ふつんと何かが途切れたような感覚があって、熱がしだいにぬるく、身体にまとわりつく力が弱くなる。
弧裂は脳まで痺れていた。後ろから、強い力で引かれる。為す術もなく、地面にへばりついた。
「弧裂!」
稼頭が強い力で呼んだ。
頬を打たれる。
弧裂は首を振って、稼頭の腕を振りほどいた。同時に、地面にぼたぼたと胃液を吐いた。その横に、涙と鼻水と、ぼたりと重い汗が落ちた。
「だいじょうぶ」
弧裂は呻きながら、稼頭をうながした。
「そうは見えない」
「移動するんだ。逃げないと」
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