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第四幕 六 「あの温室は、僕と母の宝物なんです」

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     六

 軽やかな足取りの二人が、食堂から続く長い廊下を進んでいく。
「リン、美味しかったですか?」
 響く鈴の音は肯定だ。
 食事を終えた二人は、食後の散歩に繰り出すように廊下を進んでいた。
 夕食はその後も会話を切り出すことなく、淡々と進み、食事の最中も秘書の水島が傍らを離れることはなかった。仕事の指示を細かく出しながら、ついでのように食事を手早く終えて、孝造は食卓を去っていった。反対に、巧は食が細くて遅いらしく、いつまでも食堂に残って食べ続けていた。
 リンが満足したのを見計らって、二人は食事を終えたので、孝造よりは遅かったが巧よりは早く食堂から退室した。会話が弾んでいたわけでもなかったので、巧は二人を引き止めるようなことはなかった。
 二人は特に目的地もなく廊下を道なりに進んでいたが、廊下の先にあるホールに差し掛かったときに、ふと足を止めた。
「大きな絵だね。」
 壁に掛けられた絵は、三十代の細面の婦人の肖像画だった。二メートル四方程のキャンパスの中で微笑む女性は、どこか儚げな印象で、視線も虚ろだったが、そこに幽鬼的で何ともいえない美しさがあった。
 頭上に掲げられている絵を見上げながら、リンはため息を混じらせて呟く。
 ヒョウは、絵の中の女に向かい合うようにして微笑を浮かべていた。
「この女性が、きっと亡き奥方なのでしょう。どことなく巧サンの面影があるように思いませんか?」
 見上げたままのリンの首の鈴から肯定の音色が響く。
 二人がしばらく絵の前で佇んでいると、背後から足早に近づく足音が響き始める。
「お二人とも、こちらにいらしたんですか?」
 父親の孝造がいないせいで、幾分表情が和らいでいる巧が、二人に声を掛けた。ようやく食事を終えた後、二人を急いで追ってきたのだろう。
「先程は、父が失礼なことを言ったようで、すみませんでした。」
 到着早々、申し訳なさそうな顔で頭を下げる巧。
 ヒョウは巧へと振り返ると、首を横に振った。
「いえ、気にしていませんよ。」
 遠慮しての言葉というよりは本心だろう。常に冷然と佇むヒョウに、気にすることなどあるのだろうか?
「ホントすみません。父さんは、いつもああなんです。」
 気にしていないという言葉などでは謝り足りないらしく、巧は独り言のように続ける。父親の態度を一番気にしているのは巧なのだろう。
「あの人は、頑固で他人に厳しくて、いつも誰かを疑っていて。自分の強さをひけらかしたくてしょうがないんです。この世界に強者が存在する分、弱者が存在しているのに、強者として弱者を思いやることは出来ない人なんです。」
 口惜しそうに、俯き加減で、巧は吐き捨てる。顔には父親への嫌悪感が浮かんでいた。
 そんな巧の様子を取り合うことなく横目で見つめてたヒョウは、父親の話題を切り上げるようにして話題を移した。
「貴方に似ておられるようですが、この女性は母君ですか?」
「あっ、はい。」
 肖像画の話題に映った途端、巧は顔を上げると憧憬と郷愁と愛情のこもった瞳で肖像画の女性を見つめた。
「僕の母です。とても優しく穏やかでキレイな人でした。」
「まるで貴方の温室の雰囲気そのままですね?」
 夕刻にヒョウと巧が出会った温室は、巧の言葉そのままの穏やかで優しい空気に包まれていた。
 温室と母の話題になり、巧の表情は一層安らぐ。
「はい、あの温室は元々母の物でした。母の死後、僕が管理するようになったんです。新しい苗も集めましたが、母が管理していた頃と雰囲気は変えないように、いつも気をつけているんです。」
「思い出の場所というわけですね?」
 共感するわけでも同情するわけでもなく、ヒョウは相槌のように確認のように尋ねた。
 しかし、思い出の温もりの中にたゆたう巧は、肖像画を見上げたまま嬉しそうに頷いた。
「はい、そうです。あの温室は、僕と母の宝物なんです。」
「そうですか。」
 ヒョウの口調は冷め切っていたが、巧を現実に引き戻すことは出来なかった。肖像画を慕うように見上げたまま、どこか地に足が着いていないような巧の横顔は、肖像画の女性の儚さと虚ろな視線を鏡に映したようだった。
「それでは、そろそろ失礼します。」
 巧に構うことなく、ヒョウは歩き始める。
 そこで、ようやく現実に引き戻された巧は、慌てて二人の背中を追った。
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