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第十四話 異変
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「改めて自己紹介を。ぼくはアラム。生前は医者だった」
「掃除婦のミオです」
再び差し出された彼――アラムさんの右手を握り返して、私も簡単に名乗る。
「話は聞いたよ。薬品を掃除に使いたいって? 今までそんなこと考えたこともなかったよ」
「で、ですよねー……すみません、大事な薬を」
薬品を掃除に使うなんて、医者からしたら不謹慎なことかもしれない。
冷や汗をかきながら相槌を打つが、幸いアラムさんはそう気分を害した風ではなかった。
「いや、ぼくは研究者でもあるからね。興味深いよ。幽霊は物には触れないけど、幸いぼくは液体なら自由に動かせる。実験してみて、掃除に役に立ちそうなものをチョイスしたよ」
にこにこと置かれた薬の瓶に視線を投げるアラムさんを、私は神でも見つめるような目で見上げた。いやまさに神だ。神が降臨した。気のせいだろうけど後光が差しているように見える。
「あ、あ、ありがとうございます……!」
「もしかして薬品同士を掛け合わせたら、もっと強い効果が得られるのかもしれないけれど。もし有毒なものでも発生しちゃったら、ぼくはいいけど坊や君が死んでしまうかもね、ハハハ」
爽やかに笑いながら、アラムさんが物騒なことを言う。
混ぜるな危険だ。私も、この世界の薬品についてよくわからない以上、扱いには気を付けなくては。
「とにかく、本当にありがとうございます。あの、さっそく掃除に使ってみたいので、失礼しますね!」
「ああ。ぼくももう少し研究してみるよ」
「ありがたいですけど、安全第一でお願いしますね」
そのうち薬品調合でも始めそうな彼に、私は冗談半分に答えた。また、「ハハ」とアラムさんが笑う。
「大丈夫。有毒かどうかは、君で実験すればいいわけだから」
「……え?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
何か、すごく危険なことを言われた気がするんだけど、今までの穏やかで友好的なアラムさんとそのセリフがすぐに結びつかなくて。
呆ける私の目の前で、アラムさんがニヤァ、と笑う。
今までの笑顔とは全く質の違う、背筋がゾワリと粟立つような、残忍な笑み。そんな笑みを浮かべて、アラムさんが手を掲げる。しばらく何も起こらず、緊張だけが場に満ちていく。逃げた方がいいのかと足を動かしたとき、彼の背後から液体の塊が押し寄せて、私に向かって降り注いでくる。
「ミオ!!」
立ち尽くすしかない私の名を呼ぶ高い声。
突然、近くの部屋の扉が外れて、私の前に飛んできた。
「ミオ、大丈夫!?」
飛び出してきたライサが、私を庇うように目の前に立ち塞がる。
きっと、ライサがポルターガイスト能力で扉を外してくれたのだろう。
引きつった顔でうなずくと、ライサはほっとしたような顔をした。
「良かった……、あたしの能力そんなにコントロールが利かないから、とにかく大きなものを動かそうと思って……」
ガタン、と扉が床に落ちる。多分、大きなものを動かし続けるのも難しいんだろう。液体を受け止めた扉はブスブスと焼け焦げていて、刺激臭が当たりに立ち込める。……もし、これが私に掛かっていたら。
ゾッと、冷たいものが体の中を駆け抜ける。でも、助かったと喜ぶには早い。
落ちた扉の向こうから、アラムさんがゆっくりとこちらに近づいてくる。
「来ないで! 何てことするのよ!」
ライサが叫ぶが、アラムさんに聞こえている様子はない。
何事かブツブツと呟きながら、穏やかに細まっていた両目は見開かれて血走っている。明らかに正気じゃない。ライサもそれに気が付いたのだろう。
「助けて――、ミハイル!!」
叫び声が響き渡った瞬間に、フッとミハイルさんが姿を現す。まるで幽霊か、魔法のように。
「何があったライサ。お前が俺を『呼ぶ』なんて――」
「あれ、なんとかして! アラムがおかしくなっちゃったの!」
動揺するミハイルさんに、ライサが震える声でアラムさんを指差す。
そちらを見て異常を察したミハイルさんは、やや青ざめながら身構えた。
「下がれ、ミオ。邪魔だ」
言葉はきついけど、きっと私を逃がそうとしてくれているんだと思う。
でも、それがわかっても、私はその場を動けなかった。それは足が竦んでいるというわけではなく。私の前に、ライサが立ち塞がっていたからだ。それも――アラムさんと同じように、血走った目をし、憎悪を湛えて顔を歪ませたライサが。
その後ろには、燭台や調度品が浮かんでいて、今にも私目掛けて飛んで来そうだった。
私が右足を一歩後ろに下げた瞬間、足元に燭台が突き刺さる。ニタリとライサの唇が弧を描く。
「正気に戻れ!」
周囲を牽制しながらミハイルさんが叫ぶ。だけど、二人に聞こえている様子はない。へたりと足から力が抜ける。
「ミオ!?」
「大丈夫です、怪我をしたわけじゃ……でも、腰が抜けてしまって……」
駄目だ、このままじゃ迷惑をかける。だけど膝が冗談みたいに震えて。
指輪を外してしまえば見えなくなるけど、姿が見えなくても、ライサのポルターガイストや、アラムさんの液体を避けられるわけじゃない。
「……っ、止むを得んか……!」
絶体絶命。そのピンチに、ミハイルさんはそう吐き捨てると、私の足元から燭台を拾い上げた。それで戦おうとでもいうのだろうか。でも、ミハイルさんなら幽霊に触ることはできても、傷を負わせることはできないだろう。
一体どうするつもりかと訝りながらも、ただ見ているしかできない私の前で――あろうことか、彼は自らの手首に燭台の針の部分を突き立てた。
『捉えよ!』
ミハイルさんが手袋を外し、右手を翳す。その甲に刻まれた赤い印がギラリと光り、声に応じて流れる血が空中に複雑な印を結ぶ。そこから伸びた赤い鎖がライサとアラムさんの体を瞬く間に縛り上げる。二人の顔がみるみる苦悶に歪んで、ライサから悲鳴が零れる。――耳を塞ぎたくなるような、苦しそうな悲鳴が。
止むを得んと、そう言ったミハイルさんの声が頭に蘇る。
「――だめ!!」
足の震えが止まる。気が付いたら、苦しむライザに取り縋っていた。
だめ。ライサを――殺さないで。
「掃除婦のミオです」
再び差し出された彼――アラムさんの右手を握り返して、私も簡単に名乗る。
「話は聞いたよ。薬品を掃除に使いたいって? 今までそんなこと考えたこともなかったよ」
「で、ですよねー……すみません、大事な薬を」
薬品を掃除に使うなんて、医者からしたら不謹慎なことかもしれない。
冷や汗をかきながら相槌を打つが、幸いアラムさんはそう気分を害した風ではなかった。
「いや、ぼくは研究者でもあるからね。興味深いよ。幽霊は物には触れないけど、幸いぼくは液体なら自由に動かせる。実験してみて、掃除に役に立ちそうなものをチョイスしたよ」
にこにこと置かれた薬の瓶に視線を投げるアラムさんを、私は神でも見つめるような目で見上げた。いやまさに神だ。神が降臨した。気のせいだろうけど後光が差しているように見える。
「あ、あ、ありがとうございます……!」
「もしかして薬品同士を掛け合わせたら、もっと強い効果が得られるのかもしれないけれど。もし有毒なものでも発生しちゃったら、ぼくはいいけど坊や君が死んでしまうかもね、ハハハ」
爽やかに笑いながら、アラムさんが物騒なことを言う。
混ぜるな危険だ。私も、この世界の薬品についてよくわからない以上、扱いには気を付けなくては。
「とにかく、本当にありがとうございます。あの、さっそく掃除に使ってみたいので、失礼しますね!」
「ああ。ぼくももう少し研究してみるよ」
「ありがたいですけど、安全第一でお願いしますね」
そのうち薬品調合でも始めそうな彼に、私は冗談半分に答えた。また、「ハハ」とアラムさんが笑う。
「大丈夫。有毒かどうかは、君で実験すればいいわけだから」
「……え?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
何か、すごく危険なことを言われた気がするんだけど、今までの穏やかで友好的なアラムさんとそのセリフがすぐに結びつかなくて。
呆ける私の目の前で、アラムさんがニヤァ、と笑う。
今までの笑顔とは全く質の違う、背筋がゾワリと粟立つような、残忍な笑み。そんな笑みを浮かべて、アラムさんが手を掲げる。しばらく何も起こらず、緊張だけが場に満ちていく。逃げた方がいいのかと足を動かしたとき、彼の背後から液体の塊が押し寄せて、私に向かって降り注いでくる。
「ミオ!!」
立ち尽くすしかない私の名を呼ぶ高い声。
突然、近くの部屋の扉が外れて、私の前に飛んできた。
「ミオ、大丈夫!?」
飛び出してきたライサが、私を庇うように目の前に立ち塞がる。
きっと、ライサがポルターガイスト能力で扉を外してくれたのだろう。
引きつった顔でうなずくと、ライサはほっとしたような顔をした。
「良かった……、あたしの能力そんなにコントロールが利かないから、とにかく大きなものを動かそうと思って……」
ガタン、と扉が床に落ちる。多分、大きなものを動かし続けるのも難しいんだろう。液体を受け止めた扉はブスブスと焼け焦げていて、刺激臭が当たりに立ち込める。……もし、これが私に掛かっていたら。
ゾッと、冷たいものが体の中を駆け抜ける。でも、助かったと喜ぶには早い。
落ちた扉の向こうから、アラムさんがゆっくりとこちらに近づいてくる。
「来ないで! 何てことするのよ!」
ライサが叫ぶが、アラムさんに聞こえている様子はない。
何事かブツブツと呟きながら、穏やかに細まっていた両目は見開かれて血走っている。明らかに正気じゃない。ライサもそれに気が付いたのだろう。
「助けて――、ミハイル!!」
叫び声が響き渡った瞬間に、フッとミハイルさんが姿を現す。まるで幽霊か、魔法のように。
「何があったライサ。お前が俺を『呼ぶ』なんて――」
「あれ、なんとかして! アラムがおかしくなっちゃったの!」
動揺するミハイルさんに、ライサが震える声でアラムさんを指差す。
そちらを見て異常を察したミハイルさんは、やや青ざめながら身構えた。
「下がれ、ミオ。邪魔だ」
言葉はきついけど、きっと私を逃がそうとしてくれているんだと思う。
でも、それがわかっても、私はその場を動けなかった。それは足が竦んでいるというわけではなく。私の前に、ライサが立ち塞がっていたからだ。それも――アラムさんと同じように、血走った目をし、憎悪を湛えて顔を歪ませたライサが。
その後ろには、燭台や調度品が浮かんでいて、今にも私目掛けて飛んで来そうだった。
私が右足を一歩後ろに下げた瞬間、足元に燭台が突き刺さる。ニタリとライサの唇が弧を描く。
「正気に戻れ!」
周囲を牽制しながらミハイルさんが叫ぶ。だけど、二人に聞こえている様子はない。へたりと足から力が抜ける。
「ミオ!?」
「大丈夫です、怪我をしたわけじゃ……でも、腰が抜けてしまって……」
駄目だ、このままじゃ迷惑をかける。だけど膝が冗談みたいに震えて。
指輪を外してしまえば見えなくなるけど、姿が見えなくても、ライサのポルターガイストや、アラムさんの液体を避けられるわけじゃない。
「……っ、止むを得んか……!」
絶体絶命。そのピンチに、ミハイルさんはそう吐き捨てると、私の足元から燭台を拾い上げた。それで戦おうとでもいうのだろうか。でも、ミハイルさんなら幽霊に触ることはできても、傷を負わせることはできないだろう。
一体どうするつもりかと訝りながらも、ただ見ているしかできない私の前で――あろうことか、彼は自らの手首に燭台の針の部分を突き立てた。
『捉えよ!』
ミハイルさんが手袋を外し、右手を翳す。その甲に刻まれた赤い印がギラリと光り、声に応じて流れる血が空中に複雑な印を結ぶ。そこから伸びた赤い鎖がライサとアラムさんの体を瞬く間に縛り上げる。二人の顔がみるみる苦悶に歪んで、ライサから悲鳴が零れる。――耳を塞ぎたくなるような、苦しそうな悲鳴が。
止むを得んと、そう言ったミハイルさんの声が頭に蘇る。
「――だめ!!」
足の震えが止まる。気が付いたら、苦しむライザに取り縋っていた。
だめ。ライサを――殺さないで。
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