幽霊屋敷の掃除婦

羽鳥紘

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第八話 草花の騎士

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 かくして、単なる切り傷を大げさなくらい手当されながら、私は戦利品である果実をためつすがめつしていた。
 形や色は異なるけれど、皮の手触りや見た目はレモンによく似ている。匂いを嗅ぐとほのかに酸っぱい。これは試してみる価値ありだ。
 それに、今連れて来られているこの部屋。薬品の瓶が散乱していてツンとした匂いが鼻をつく。
 これはもしかしたら掃除に使えるのでは……?

「はい、できましたよ」

 リエーフさんがハサミでテープを切って、私の頬にガーゼを貼る。
 
「ありがとうございます。……ねえリエーフさん、ここにあるお薬の成分ってわかりますか?」
「成分……ですか。わたくしにはわかりかねますが、詳しい幽霊はおりますよ」
「あ、会いたいです! 会わせてもらえませんか!?」

 思わず身を乗り出して叫ぶと、リエーフさんは一瞬複雑そうな顔をした。

「……ミオさんは医者がお好みですか? でも人と幽霊の恋愛は障害が多いかと存じます。寿命もありませんし生殖能力もありません。そこへ行くとミハイル様は紛れもない生身の人間でございますが」
「黙れクソ執事」

 私が突っ込む前に、同行していたミハイルさんがリエーフさんの頭をノータイムでグーで殴った。

「痛いではありませんか。暴力は感心致しませんね」
「痛覚などないくせに白々しい。妙なことを言ってないでさっさとアラムでも探してこい」
「全く坊ちゃんは幽霊使いの荒い……」
「坊ちゃんはやめろ。一体いつまで子供扱いする気だ」
「そうは言いましても、悠久を生きるこの身にとって数年前などさっきも同じ……まぁ、それは今は置いておきましょうか」

 リエーフさんの言はわからなくもなかったけれど、ミハイルさんにギロリと睨まれ彼は咳払いと共に口を噤んだ。

「仰せのままに、ご主人様。しかしその前に会って欲しい者がおります。――エドアルト」

 いつになく厳しい顔をして、リエーフさんが知らない名前を呼びつける。するとスゥッと扉をすり抜けて、一人の青年が現れた。
 金髪碧眼、カチッとした軍服を纏っているけど、儚げな美貌は気弱そうで、軍服がまるで似合っていない。
 ミハイルさんは嫌そうに顔を背けたが、リエーフさんにじっと見られてふうっと溜息をついた。それから、キッと青年を睨みつける。

「エドアルト、客人に怪我をさせたことを詫びろ」

 ミハイルさんがそう言うと、彼――エドアルトさんは、負けじとミハイルさんを睨み返した。

「僕に命令するな!」
「当主に向かってその口の利き方はなんだ?」
「当主だと……?」

 怪訝そうにエドアルトさんが呻く。見かねたのか、リエーフさんが口を挟んだ。

「エドアルト、先代はもうお亡くなりになりました。今はミハイル様がこの屋敷のご当主ですよ」
「何だって……? ではローベルト様は?」
「それは先々代のご当主です」

 ふう、とリエーフさんが目を閉じて息を吐き出す。それから目を開けるとミハイルさんの方に向き直った。

「さっきも申し上げましたが、人間と幽霊では時間の感覚が異なるのです。貴方が当主であることをしっかりと示さねば、このようにすぐに忘れてしまう者ばかりなのですよ」
「…………」

 ミハイルさんが腕を組んで黙り込む。だがすぐに彼は顔を上げた。

「……どのみち、俺が当主であろうがなかろうが、客人に怪我をさせたのは事実だ。お前は自らの非も詫びれんのか? 騎士の称号は飾りか?」
「好きでなったわけじゃない! 僕はずっとあの庭に居たかったんだ!」
「ならばその恰好はなんだ。実体がないのだから見た目など自分の意志でどうにでもなるだろう」

 ぐっとエドアルトさんが言葉に詰まる。二人の間に火花が散って、そのピリピリした空気に耐えきれず私は口を開いた。

「あの、怪我というほど大した傷じゃないので、私は別に……」
「しー」

 身を乗り出しかけた私を、リエーフさんがやんわりと制する。

「こちらの事情で申し訳ありませんが、少し待ってあげて下さいませんか? ミハイル様が当主として振る舞おうとなさっているのです。貴方のために」

 いや、私のせいではなく、どちらかというと当主としての沽券に関わるから、だと思うけど……。
 万一私のためだとしたら余計に気が重くなるし。
 それに本音を言うなら、早くこの果実を使って掃除をしたい。
 とはいえ、お屋敷の事情に一使用人である私が首を突っ込むわけにもいかないか……。

「あのエドアルトという青年は、今も名を遺す有名な騎士なのですよ。歴史上最強と謳われています」
「ええ!?」

 正直、ここの幽霊にはそんなに興味のなかった私だけど。
 口元に手を添えながら小声で教えてくれたリエーフさんに、私は思わず大声を上げかけて口を押さえた。
 確かに軍服こそ着ているけれど、気が小さそうだし、おどおどしているし、喋り方にも覇気がない。剣を持って戦ってるところなんて、とてもじゃないが想像できない。

「彼のお父上も高名な騎士で、エドアルトは幼い頃から厳しい剣の修行をさせられました。才能は申し分なかったのですが、彼自身は争いごとより草花の方が好きな気の優しい人物でして。しかし時代が戦わないことを許さなかった。今はもうすっかり平和になりましたけれどね」
「そう……だったんですね」

 きっとエドアルトさんは大好きな庭が荒らされると思ってあんなことをしたんだ。
 だったら、やっぱりその誤解を解いた方がいいと思うんだけど。
 改めて彼らの方を向くと、しかし口論はもう終わっていた。
 エドアルトさんはまだ納得のいかない顔はしていたものの、私の方に向き直って伏し目がちに口を開いた。

「さっきは……ごめんなさい。怪我をさせるつもりじゃなかった」
「いえ、私もすみません。私も、庭を荒らすつもりじゃなかったんです」

 ふっと、エドアルトが顔を上げる。

「私はこの屋敷の掃除をするために雇われたんです。果物の皮には、ピカピカに磨く効果を持つものがあって、それを探していただけです」
「……本当に? 僕はこの庭にずっといるし、この庭にある草花のことならなんだって知ってる。でもそんな話は聞いたことがない」

 エドアルトさんの表情にはありありと疑念が見える。そこで、私は賭けに出ることにした。

「なら、実際にやってみます」

 エドアルトさんだけでなく、ミハイルさんもリエーフさんも、私を注視する。一同の視線を感じながら、ちょっと先走ってしまったかと私は少しだけ後悔した。でも、こうなったら後には引けない。
 大丈夫。私の掃除へのカンは外れない。この果物は行ける。自分の経験を信じて、私は一同を見渡した。

「リエーフさん、雑巾を貸してくれませんか。できれば濡らしたものと、乾いたものが欲しいです」
「あ……はい、わかりました」

 言うなりリエーフさんが部屋を出ていく。私はその間に、さっきミハイルさんに取ってもらった果実の皮をむいた。
 レモンに良く似た、酸っぱい匂いが鼻をつく。その皮をむき終える頃に、リエーフさんが雑巾を手にして戻ってくる。ミハイルさんとエドアルトさんは今のところ黙って成り行きを見守っている。
 私はリエーフさんから受け取った二枚の雑巾と果物の皮を手にして、窓の傍に歩み寄った。

「じゃあまず……、この雑巾で窓を拭いてみますから見ていて下さいね」

 長年拭かれた形跡などない窓は、泥や埃にまみれて向こう側などほとんど見えない。
 まず濡れ雑巾で手早く窓ガラスを拭く。今はこの皮の効果を試したいだけだから、拭く範囲はちょっとでいい。
 それでも雑巾はすぐにドロドロになった。次に、乾いた雑巾でその場所を拭き上げる。

「これだけでも充分綺麗になったように見えますが。それにミオさん、とても手際が良い」

 ええ、邪魔さえされなければこれくらいは朝飯前ですよ。
 でも勝負はここからなのだ。
 そりゃ周りから比べれば綺麗になったように見えるけど、まだまだ汚れは残っているし曇っている。
 そこに、私は果実の皮を押し当ててごしごしと擦り付けた。その後で、再び乾いた雑巾で拭き上げる。

「どうですか?」

 私の作業が終わると、三人は一様に今まで私が磨いていた場所をまじまじと覗き込んだ。

「これはすごい!」
「この果物にこんな効果があったなんて……」

 リエーフさんが感嘆の声を上げ、エドアルトさんが唸る。ミハイルさんは声こそ上げなかったが、その表情から驚きは隠せていない。
 それぞれの反応に、私は満足して胸を張った。

 これこれ、この反応。
 綺麗になったものを見るのは誰だって気持ちがいい。
 それはどんな世界でも同じだったのだ!

「しかしミオさん、窓ガラス全部をこの小さな皮で磨くのは大変ではないですか?」
「綺麗になるなら、私はやりますけど。でも、この皮をそのまま使うのではなく……たとえば、煮だして成分を溶け出させて、それに雑巾を浸して使えば、もう少し効率が上がると思います」
「ミオさん、天才ですね!!」

 感じ入ったように、リエーフさんが両手を組み合わせて声を上げる。
 いや、これは掃除の知識というよりおばあちゃんの知恵みたいなものだし、そんな大げさなものじゃない……。
 お仕事で使っている洗剤があればもっと綺麗になるしもっとはかどるんだけどな。
 とはいえ、水しかない現状ではこれだけでも武器になるはず。

「エドアルトさん。そういう事情なので、お掃除のためにもう少しこの果物が必要なんです」
「…………」

 それでもエドアルトさんは返事を迷っているようだった。眉間に皺を寄せて私をじっと見下ろしている。
 でも嫌だとは言わなかった。
 あと一押しだ。

「それに、あの庭だって手を入れればもっと綺麗になるはずですよ。雑草も目立ちますし、枯れているものもありました。昔はもっと綺麗だったんじゃないですか?」
「綺麗……だった。代々ご当主の奥方が手を入れて下さって、僕はそれを見るのがとても好きだったんだ」
「だったら、その頃みたいにしましょうよ」
「でも僕は……ライサみたいに物を動かす能力がないし、現世のものに触れられない。僕ができるのは、せいぜい風を起こすことくらいで……」

 あ、あのポルターガイストみたいな現象、幽霊なら誰でもできるってわけじゃないんだ。そして、幽霊達にはそれぞれ個別の能力があるのか……ふむ。でも、今それは別に関係ない。

「私がやります。庭掃除も仕事のうちです。でも植物のことにはあまり詳しくないのでエドアルトさんが教えて下さい。花のお世話は指示に従ってやりますから」

 やはりエドアルトさんは無言だったが、辛抱強く返事を待っていると、やがて蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。

「……名は?」

 それだけの短い短い言葉。一瞬何を聞かれているのかわからなかったけど、すぐに理解して私は答えた。

「ミオです!」
「……ミオ。やはり、すぐには外の人間を信じることはできない。庭の実を持って行くのはいいが、お前が信用に足る人物かどうか……しばらく見させてもらう」

 そう言うなり、彼の姿はスッと掻き消えた。
 え? それって監視されるってこと? それはちょっと、どうだろうか。

「大丈夫ですよ、ミオさん。彼はあれでも誇り高き騎士ですから、レディのプライベートを覗くような真似はしません。ねぇミハイル様?」
「俺の屋敷でそんな真似をされて堪るか」

 私が渋面になった意味を、二人は的確に理解してくれたらしかった。
 ミハイルさんは私の為というより自分の為っぽいけど、逆に、だからこそ信用できそうだ。
 いくら私に色気がなくとも、相手が幽霊といえども、一応私も嫁入り前の女性なので、着替えとか見られるのはちょっと御免被りたい。予定はなくとも……。

「それよりわたくしは不思議で仕方ありません。どうして果物の皮で磨くと綺麗になるのでしょうか」

 言葉通り、不思議そうにリエーフさんが窓へと目を戻す。

「それはですね、果物の皮に含まれる精油の成分が、皮脂などの汚れを分解して……」

 などとリエーフさんに私が知り得る知識を披露したり、実際に果物を煮出して簡易の洗剤を作ったりしてるうちに日が暮れてしまって、その日は薬品の成分について詳しい幽霊に会うことはできなかったのだった
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