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第五話 執事の秘密
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曰く、こういうことだった。
この屋敷は実際に幽霊屋敷なのだと。
「で、わたくしも実は幽霊なのです」
はい?
と、思わず聞き返す私。
だって、リエーフさんはどこからどう見ても普通の人間だった。足もあるし。と言うと、ふふ、と彼は笑う。
「わたくしは千年以上生きていま……生きてはいませんでした。死んでますけど、随分長いこと現世にいますからね、大概のことはなんとかできるものです」
大概のこと……ね。そういえば、ミハイルさんも最初に、リエーフさんは普通じゃないって言ってたような。だからって幽霊だとは思わなかったけれど。
「この屋敷には、わたくし以外にも多数の幽霊がいます。そして代々のご当主は、その幽霊達を従えて暮らしておりました。しかし、昨日も申し上げた通り先代が早世され、若くしてミハイル様がその後を継ぐことになってしまったのです。しかし、ミハイル様が跡を継ぐに当たり、若さ以外にも一つ、大きな問題があったのです……」
そこでリエーフさんは柳眉を顰め、神妙な顔をした。とても、とても重大な秘密を打ち明けるような雰囲気に、ごくりと私が喉を鳴らす。
「ミハイル様は、お化けがお嫌いなのです」
「はぁ?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「ミハイル様のご幼少のみぎりは、それはそれは可愛らしゅうございました。泣き虫で、ちょっと突くとわんわんお泣きになるので、幽霊たちも面白がって悪ふざけがすぎたのでしょうね。すっかりトラウマにおなりになって」
ポケットからハンカチを取り出すと、リエーフさんはそれで目頭を押さえた。
幽霊なのに涙が出るのか、演技なのか、この人どうもよくわからなくなってきた。
「そのトラウマから立ち直らないまま、年若くして屋敷を継ぐことになったミハイル坊ちゃん。性格は捻くれ、不愛想には拍車が掛かり、幽霊嫌いの為に彼らを統率することもできず、やがて使用人も去り、婚約者には逃げられ」
「最後の聞かなかったことにします」
「え、そこが一番悲惨で、情が移ったりするかなって」
「そんな打算でプライベートを暴露されたミハイルさんにある意味同情はしますが」
つい突っ込んでしまったが、リエーフさんは気を悪くした風でもなく、けろっとした顔でハンカチを仕舞った。そして代わりに小さな指輪を逆のポケットから取り出す。
「ミオさんにお願いがあるんですが」
私の右手を取りながら、リエーフさんが薄く微笑み、そう口にする。
「もうおわかりと思いますが、ミオさんの掃除の妨害をしているのはこの屋敷にいる幽霊たちです。この指輪を身に着ければ、彼らの姿を見、声を聴くことができるようになるでしょう。どうか、ミハイル様がこの屋敷の当主として彼らを統率できるよう、お手伝いをしてはくれませんか?」
私の手の平に指輪を乗せて、リエーフさん。
「そんなことを……言われましても……」
指輪を見つめながら、私は当然ながら困惑していた。
「私はここに掃除をしに来ただけで……」
「でしたら、それでも構いません。ですが姿も見えない者に妨害されるより、相手を知ったほうが掃除も捗るのでは?」
にこ、とリエーフさんが微笑む。
うっ。この人、私を上手く動かす手管を身に着けつつある……。
そうわかってはいるものの、わかっているだけに結局私はぎゅっと指輪を握り締めた。
「……わかりました。これはお借りしておきます」
「ありがとうございます!」
ぱぁぁっと笑うリエーフさんの笑顔が。
そろそろ、うさん臭く見え始めてきた……。
※
そんな夜が明けて。
寝不足の目を擦りながらも、私は朝日と共に目覚めた。身支度を終えた所で、狙いすましたかのようにノックの音。
「おはようございます、ミオさん。朝食をお持ちしました」
「……リエーフさんっていつも、私の準備が終わるのを狙いすましたかのように入ってきますよね」
「歳の功でございます」
ウインクをしながら、リエーフさんがテーブルにクロスを掛けて手際よく食事を並べる。うーん、掃除婦というより良家のお嬢様の気分である。
「いただきます」
椅子に座って手を合わせる。その私の指先をじっと見ているリエーフさんに気が付いて、私は怪訝な表情で彼を仰いだ。
「なんですか?」
「あ、いえ。……指輪はお付けにならないのですか? あれは指に嵌めることで初めて効力を発揮するものなんですが」
ためらいがちにそう言うリエーフさんから視線を外すと、私はフォークを置いてチャック付きのポケットを押さえた。ポケットの上から指輪の感触を感じながら、再び彼へと目を戻す。
「昨夜もお話しましたが、私がここに来たのは掃除をするためです。そのためならどんなことでもしますが、幽霊をどうこうするという話はお受けしかねます」
「しかし今、ミオさんは『掃除のためならどんなことでもする』と仰いましたよね。幽霊達をなんとかしなければ掃除はできないのでは?」
くっ……! 言い返せない!
やはりこの人は侮れない。ペースに飲まれないようにしないと。
「ですからこうしてお預かりしていますが、使うかどうかの判断はこれからします」
「成程よくわかりました。もう口は挟みませんが、どうか失くさないで下さいね。それを失くしますと……」
スッとリエーフさんの顔から笑みが消える。
もうその演出には慣れっこだと言いたい所ではあるのだけど、幽霊が関わっている指輪だけに、やはりゾッとしない。やっぱ呪われたり……するのだろうか?
「ミハイル様がご結婚できなくなってしまいます」
「はぁ」
また私は間の抜けた声を上げる。もうこの人のこの手の発言には構えないようにしようと心に決めつつ、よくわからないので聞いてみる。
「なんでそうなるんですか?」
「その指輪は、代々当家の花嫁に受け継がれるものだからです」
なるほどね、この屋敷に嫁いだ人が幽霊とコミュニケーション取れなかったら不便だものね……ってちょっと待って!!
「返します!」
「どうして?」
「そんな大事なもの、預かれません!」
「構いませんよ、今ミハイル様には許嫁も恋人もいらっしゃらないのですから」
「聞かなかったことにします!」
「是非、左手の薬指につけてあげて下さいね!」
「いや、だから――」
咄嗟に反論しようとして、迂闊にも私は赤面してしまった。途端、リエーフさんがニヤァっと笑い――
私はそんなリエーフさんの背中を押して、部屋から押し出したのだった。
※
昨日掃除した部屋を開いて、私はげんなりした。
椅子が机の上に積み重なってピラミッドを作っている。
屋内なのに床には一面に枯れ葉が敷かれている。
棚に並べてあったカップは全部テーブルの上。
切れそうな堪忍袋の緒を、私はどうにか結びなおした。
これが幽霊達の妨害なら、私が怒ったり悲しんだりすれば、余計に面白がらせるに違いない。
ポーカーフェイスは結構得意だ。なんでもないような顔をして、まずはカップを棚に戻す。冷静に見れば、棚は別に汚されてないし、これならカップを並べなおして、床を履いて、椅子を戻せば終了だ。椅子がどけてあるだけありがたいくらいだ。
さっさとカップを並べ直して、ほうきを取りに行く。すると突然、ガタガタと窓ガラスが鳴り出した。いや、窓だけじゃなく、壁も天井もガタガタピシピシ。これはいわゆる……ラップ音というやつだろうか。
気味は悪いが、幽霊がいるのはわかっていることだ。ならばラップ音くらい、桶が逃げるのに比べればどうということはない。音には構わず、掃除用具を抱えて次の部屋の扉を開く。
……ここは、応接間かな。
大きなテーブルに、ソファに、シャンデリア。埃まみれのボロボロではあるけど、それでも造りを見るだけで高価そうなのがわかる。
今までと同じ手順で、脚立に足をかけてまずは天井の蜘蛛の巣を払う。
作業にもだいぶ慣れてきて、手際もよくなってきた。
しかし、問題はこの大きなシャンデリアだ。当然、埃と蜘蛛の巣にまみれている。この世界に電気はないようで、村では魔法の光が照明だった。魔法の使えないこの屋敷ではロウソクを使うしかなくて、このシャンデリアもロウソクをつけて使うものだろう。鎖がついていて高さを調節できるようになっている。
鎖を緩めてシャンデリアを下ろす。
一番下まで下ろしても、シャンデリアの埃を払うには私の身長ではまだ辛い。
天井ならモップでバサバサやれるけど、飾りの多いシャンデリアはそういうわけにもいかないので、脚立に足を掛け――ようとしたら、また部屋がガタガタ鳴り出した。しかもさっきよりも激しくて、床が震えている。これでは足場が安定しない。
「ちょっと、部屋を揺らすのやめてくれますか? 足場が安定しなくて困ります」
気にするまいとは思っていたのだけど、つい声に出してしまった。
すると、嘘のように揺れが収まる。どうやら、こちらが姿を見たり会話ができなくても、向こうには私が見えているし、声も聞こえているようだ。
なんだ、だったら最初から声に出してお願いすれば良かった――
などと思ったのは早計だった。
静寂は一瞬のこと。ほどなくして、さっきよりも激しいラップ音が起こり、次いで調度品がガタガタと倒れ、シャンデリアはブランブラン揺れ、桶はひっくり返って、モップが宙に浮いて踊り出す。
これは……どうやら、怒らせてしまったみたい……。
軽率に声をかけたことを後悔しながらも、怒りや恐怖を通り越して、私はしばらくこの惨状をポカンと見つめていた。だがあちこち踊りまわるほうきやモップが足元を掠めていったときに、プツンと頭の中で何かが切れた。
無言でポケットのファスナーを開けて、例の指輪を取り出す。……いや元々薬指に嵌めるつもりはなかったけど、どのみち小さすぎて嵌まりそうにないじゃないの。
というショックも今はどうでもいい。ただただ、どんな人――いやどんな幽霊がこの子供じみた悪戯で私の仕事を妨害しているのか、そっちの方が今の私には重要なわけで。
すみません、ちょっとお借りします!
と、左の小指に指輪を嵌める。……とくに、何か変わったような感覚はない。
本当にこれで見えるようになるのだろうか? 半信半疑だったけど……いた。辺りを見回すと、部屋の隅にさっきまでは居なかった女の子の姿が見えた。
大体十歳くらいだろうか。波打つ長い金髪と、おおきな空色の瞳に、贅沢にフリルがついた水色のドレス。右手にはぬいぐるみを大事そうに抱えている。まるでお人形のような可愛い子。
なんだ、子ども染みたイタズラだと思ってたけど、本当に子どもだったのか。
「あの、すみません」
悪ガキ……ごほん、お子様といえど、雇用主のお宅のお嬢さんである。粗相のないよう気を付けながら声をかけると、彼女はギョッとしたように肩を跳ねさせた。
「まさか、あたしが見えてるの?」
呟く声もハッキリと聞こえる。私がうなずく前に、彼女はブンブンと首を振って自分で自分の言葉を否定した。
「そんなハズないわよね。偶然、偶然。無視しちゃお!」
いえ、聞こえてます。
一瞬停止していたモップがまた踊り出すのを見て、私は溜息をつくと、つかつかと真っすぐに彼女に歩み寄った。
彼女はいよいよ驚愕に目を見開いて、無茶苦茶に左手を振り回す。その手がパシッと私の伸ばした手をはたく。
「落ち着いて下さい。私はただ、掃除をさせて欲しいだけで……」
「うそ!? どうしてあたしにさわれるの!?」
単刀直入な私のお願いは、残念ながらこの少女の耳に届かなかったらしい。ぶつかった指を擦って悲鳴のような声を上げる。どうやって落ち着かせようかと考えていると、ふと彼女は私の手に――いや正確には小指に視線を落とした。
「指輪……っ! ミハイルったらいつの間に結婚したの!? この屋敷に近づく女はみんなあたしが追い払ったはずなのに!」
「ご、誤解です!」
妙な勘違いをされている気がして咄嗟に叫ぶ。そこで初めて彼女は私の目を真っすぐに見返してきた。
「それならどうして指輪をしてるのよ」
「これは、リエーフさんからお借りしただけで」
「あんの腹黒執事……何を企んでるの……?」
親指の爪を噛むような仕草をして、ギッと彼女は虚空を睨む。
やっぱりリエーフさんって腹黒なんだ……いや、そんな話をするために指輪をつけたのではない。
「それより、あなたがこんなことするのは、もしかしてミハイルさんを結婚させないため?」
さっきそんなことを口にしていたのを思い出して率直に聞いてみる。すると、「はぁ?」というすげない返事が返ってきた。
「やめてよね。その言い方だと、まるであたしがミハイルを好きみたいじゃない」
可愛らしい顔を精一杯歪ませて、ギロリと私のことを睨んでくる。
「違うんですか?」
「当たり前よ! あー、気持ち悪い。あんな貧弱泣き虫坊やに興味ないわ!」
こんな幼い女の子がミハイルさんを「坊や」呼ばわりするのには違和感があるが、幽霊なら見た目と歳は関係ないのかな。でも言動も抱えたぬいぐるみにしても、どうにも大人には思えない。
そんな彼女は今ぬいぐるみが落ちないように脇に抱え直して腕をさすっている。……幽霊なのに鳥肌でも立ったのだろうか?
「……ミハイルが困っているのが楽しいだけよ」
そうして、ポツリと彼女は呟いた。その思考回路、どう考えても子供。
幽霊って体も脳も成長しないのかな?
しないか、生きてないんだもの。ということは、ずっと死んだ時のままってことなのかな。
いや……つまり。
この子はこんな幼い歳で亡くなったの?
それに気づいて、少しやるせない気分になった。
「その……、名前を聞いてもいいですか?」
「なれなれしくしないで。……なぜ邪魔をするかって? ミハイルを困らせたいのもあるけど、それ以上に外の人間が嫌いだからよ」
スッと彼女が目を細める。愛らしいお人形のような顔から表情が消えると、ゾッとするほど冷たくなる。
背筋が寒くなって言葉を失くした。
だが彼女がそんな顔をしたのは一瞬のことで、すぐにフーッと長く息を吐き出し、面倒くさそうに宙に視線を投げた。
「でも名前なんて、どうせリエーフに聞けばわかっちゃうわよね。ライサよ。アンタは?」
「あ、名乗らないでごめんなさい。掃除婦として雇われました、ミオと言います」
「どうしてそんなに掃除なんかがしたいの?」
「それは……掃除婦として雇われたからです。それに、綺麗になったら気持ちいいでしょう?」
ふーん、と彼女……ライサは生返事をしながら私の方に目を戻した。
「だったらあたしは、それを徹底的に邪魔してやるわ」
この屋敷は実際に幽霊屋敷なのだと。
「で、わたくしも実は幽霊なのです」
はい?
と、思わず聞き返す私。
だって、リエーフさんはどこからどう見ても普通の人間だった。足もあるし。と言うと、ふふ、と彼は笑う。
「わたくしは千年以上生きていま……生きてはいませんでした。死んでますけど、随分長いこと現世にいますからね、大概のことはなんとかできるものです」
大概のこと……ね。そういえば、ミハイルさんも最初に、リエーフさんは普通じゃないって言ってたような。だからって幽霊だとは思わなかったけれど。
「この屋敷には、わたくし以外にも多数の幽霊がいます。そして代々のご当主は、その幽霊達を従えて暮らしておりました。しかし、昨日も申し上げた通り先代が早世され、若くしてミハイル様がその後を継ぐことになってしまったのです。しかし、ミハイル様が跡を継ぐに当たり、若さ以外にも一つ、大きな問題があったのです……」
そこでリエーフさんは柳眉を顰め、神妙な顔をした。とても、とても重大な秘密を打ち明けるような雰囲気に、ごくりと私が喉を鳴らす。
「ミハイル様は、お化けがお嫌いなのです」
「はぁ?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「ミハイル様のご幼少のみぎりは、それはそれは可愛らしゅうございました。泣き虫で、ちょっと突くとわんわんお泣きになるので、幽霊たちも面白がって悪ふざけがすぎたのでしょうね。すっかりトラウマにおなりになって」
ポケットからハンカチを取り出すと、リエーフさんはそれで目頭を押さえた。
幽霊なのに涙が出るのか、演技なのか、この人どうもよくわからなくなってきた。
「そのトラウマから立ち直らないまま、年若くして屋敷を継ぐことになったミハイル坊ちゃん。性格は捻くれ、不愛想には拍車が掛かり、幽霊嫌いの為に彼らを統率することもできず、やがて使用人も去り、婚約者には逃げられ」
「最後の聞かなかったことにします」
「え、そこが一番悲惨で、情が移ったりするかなって」
「そんな打算でプライベートを暴露されたミハイルさんにある意味同情はしますが」
つい突っ込んでしまったが、リエーフさんは気を悪くした風でもなく、けろっとした顔でハンカチを仕舞った。そして代わりに小さな指輪を逆のポケットから取り出す。
「ミオさんにお願いがあるんですが」
私の右手を取りながら、リエーフさんが薄く微笑み、そう口にする。
「もうおわかりと思いますが、ミオさんの掃除の妨害をしているのはこの屋敷にいる幽霊たちです。この指輪を身に着ければ、彼らの姿を見、声を聴くことができるようになるでしょう。どうか、ミハイル様がこの屋敷の当主として彼らを統率できるよう、お手伝いをしてはくれませんか?」
私の手の平に指輪を乗せて、リエーフさん。
「そんなことを……言われましても……」
指輪を見つめながら、私は当然ながら困惑していた。
「私はここに掃除をしに来ただけで……」
「でしたら、それでも構いません。ですが姿も見えない者に妨害されるより、相手を知ったほうが掃除も捗るのでは?」
にこ、とリエーフさんが微笑む。
うっ。この人、私を上手く動かす手管を身に着けつつある……。
そうわかってはいるものの、わかっているだけに結局私はぎゅっと指輪を握り締めた。
「……わかりました。これはお借りしておきます」
「ありがとうございます!」
ぱぁぁっと笑うリエーフさんの笑顔が。
そろそろ、うさん臭く見え始めてきた……。
※
そんな夜が明けて。
寝不足の目を擦りながらも、私は朝日と共に目覚めた。身支度を終えた所で、狙いすましたかのようにノックの音。
「おはようございます、ミオさん。朝食をお持ちしました」
「……リエーフさんっていつも、私の準備が終わるのを狙いすましたかのように入ってきますよね」
「歳の功でございます」
ウインクをしながら、リエーフさんがテーブルにクロスを掛けて手際よく食事を並べる。うーん、掃除婦というより良家のお嬢様の気分である。
「いただきます」
椅子に座って手を合わせる。その私の指先をじっと見ているリエーフさんに気が付いて、私は怪訝な表情で彼を仰いだ。
「なんですか?」
「あ、いえ。……指輪はお付けにならないのですか? あれは指に嵌めることで初めて効力を発揮するものなんですが」
ためらいがちにそう言うリエーフさんから視線を外すと、私はフォークを置いてチャック付きのポケットを押さえた。ポケットの上から指輪の感触を感じながら、再び彼へと目を戻す。
「昨夜もお話しましたが、私がここに来たのは掃除をするためです。そのためならどんなことでもしますが、幽霊をどうこうするという話はお受けしかねます」
「しかし今、ミオさんは『掃除のためならどんなことでもする』と仰いましたよね。幽霊達をなんとかしなければ掃除はできないのでは?」
くっ……! 言い返せない!
やはりこの人は侮れない。ペースに飲まれないようにしないと。
「ですからこうしてお預かりしていますが、使うかどうかの判断はこれからします」
「成程よくわかりました。もう口は挟みませんが、どうか失くさないで下さいね。それを失くしますと……」
スッとリエーフさんの顔から笑みが消える。
もうその演出には慣れっこだと言いたい所ではあるのだけど、幽霊が関わっている指輪だけに、やはりゾッとしない。やっぱ呪われたり……するのだろうか?
「ミハイル様がご結婚できなくなってしまいます」
「はぁ」
また私は間の抜けた声を上げる。もうこの人のこの手の発言には構えないようにしようと心に決めつつ、よくわからないので聞いてみる。
「なんでそうなるんですか?」
「その指輪は、代々当家の花嫁に受け継がれるものだからです」
なるほどね、この屋敷に嫁いだ人が幽霊とコミュニケーション取れなかったら不便だものね……ってちょっと待って!!
「返します!」
「どうして?」
「そんな大事なもの、預かれません!」
「構いませんよ、今ミハイル様には許嫁も恋人もいらっしゃらないのですから」
「聞かなかったことにします!」
「是非、左手の薬指につけてあげて下さいね!」
「いや、だから――」
咄嗟に反論しようとして、迂闊にも私は赤面してしまった。途端、リエーフさんがニヤァっと笑い――
私はそんなリエーフさんの背中を押して、部屋から押し出したのだった。
※
昨日掃除した部屋を開いて、私はげんなりした。
椅子が机の上に積み重なってピラミッドを作っている。
屋内なのに床には一面に枯れ葉が敷かれている。
棚に並べてあったカップは全部テーブルの上。
切れそうな堪忍袋の緒を、私はどうにか結びなおした。
これが幽霊達の妨害なら、私が怒ったり悲しんだりすれば、余計に面白がらせるに違いない。
ポーカーフェイスは結構得意だ。なんでもないような顔をして、まずはカップを棚に戻す。冷静に見れば、棚は別に汚されてないし、これならカップを並べなおして、床を履いて、椅子を戻せば終了だ。椅子がどけてあるだけありがたいくらいだ。
さっさとカップを並べ直して、ほうきを取りに行く。すると突然、ガタガタと窓ガラスが鳴り出した。いや、窓だけじゃなく、壁も天井もガタガタピシピシ。これはいわゆる……ラップ音というやつだろうか。
気味は悪いが、幽霊がいるのはわかっていることだ。ならばラップ音くらい、桶が逃げるのに比べればどうということはない。音には構わず、掃除用具を抱えて次の部屋の扉を開く。
……ここは、応接間かな。
大きなテーブルに、ソファに、シャンデリア。埃まみれのボロボロではあるけど、それでも造りを見るだけで高価そうなのがわかる。
今までと同じ手順で、脚立に足をかけてまずは天井の蜘蛛の巣を払う。
作業にもだいぶ慣れてきて、手際もよくなってきた。
しかし、問題はこの大きなシャンデリアだ。当然、埃と蜘蛛の巣にまみれている。この世界に電気はないようで、村では魔法の光が照明だった。魔法の使えないこの屋敷ではロウソクを使うしかなくて、このシャンデリアもロウソクをつけて使うものだろう。鎖がついていて高さを調節できるようになっている。
鎖を緩めてシャンデリアを下ろす。
一番下まで下ろしても、シャンデリアの埃を払うには私の身長ではまだ辛い。
天井ならモップでバサバサやれるけど、飾りの多いシャンデリアはそういうわけにもいかないので、脚立に足を掛け――ようとしたら、また部屋がガタガタ鳴り出した。しかもさっきよりも激しくて、床が震えている。これでは足場が安定しない。
「ちょっと、部屋を揺らすのやめてくれますか? 足場が安定しなくて困ります」
気にするまいとは思っていたのだけど、つい声に出してしまった。
すると、嘘のように揺れが収まる。どうやら、こちらが姿を見たり会話ができなくても、向こうには私が見えているし、声も聞こえているようだ。
なんだ、だったら最初から声に出してお願いすれば良かった――
などと思ったのは早計だった。
静寂は一瞬のこと。ほどなくして、さっきよりも激しいラップ音が起こり、次いで調度品がガタガタと倒れ、シャンデリアはブランブラン揺れ、桶はひっくり返って、モップが宙に浮いて踊り出す。
これは……どうやら、怒らせてしまったみたい……。
軽率に声をかけたことを後悔しながらも、怒りや恐怖を通り越して、私はしばらくこの惨状をポカンと見つめていた。だがあちこち踊りまわるほうきやモップが足元を掠めていったときに、プツンと頭の中で何かが切れた。
無言でポケットのファスナーを開けて、例の指輪を取り出す。……いや元々薬指に嵌めるつもりはなかったけど、どのみち小さすぎて嵌まりそうにないじゃないの。
というショックも今はどうでもいい。ただただ、どんな人――いやどんな幽霊がこの子供じみた悪戯で私の仕事を妨害しているのか、そっちの方が今の私には重要なわけで。
すみません、ちょっとお借りします!
と、左の小指に指輪を嵌める。……とくに、何か変わったような感覚はない。
本当にこれで見えるようになるのだろうか? 半信半疑だったけど……いた。辺りを見回すと、部屋の隅にさっきまでは居なかった女の子の姿が見えた。
大体十歳くらいだろうか。波打つ長い金髪と、おおきな空色の瞳に、贅沢にフリルがついた水色のドレス。右手にはぬいぐるみを大事そうに抱えている。まるでお人形のような可愛い子。
なんだ、子ども染みたイタズラだと思ってたけど、本当に子どもだったのか。
「あの、すみません」
悪ガキ……ごほん、お子様といえど、雇用主のお宅のお嬢さんである。粗相のないよう気を付けながら声をかけると、彼女はギョッとしたように肩を跳ねさせた。
「まさか、あたしが見えてるの?」
呟く声もハッキリと聞こえる。私がうなずく前に、彼女はブンブンと首を振って自分で自分の言葉を否定した。
「そんなハズないわよね。偶然、偶然。無視しちゃお!」
いえ、聞こえてます。
一瞬停止していたモップがまた踊り出すのを見て、私は溜息をつくと、つかつかと真っすぐに彼女に歩み寄った。
彼女はいよいよ驚愕に目を見開いて、無茶苦茶に左手を振り回す。その手がパシッと私の伸ばした手をはたく。
「落ち着いて下さい。私はただ、掃除をさせて欲しいだけで……」
「うそ!? どうしてあたしにさわれるの!?」
単刀直入な私のお願いは、残念ながらこの少女の耳に届かなかったらしい。ぶつかった指を擦って悲鳴のような声を上げる。どうやって落ち着かせようかと考えていると、ふと彼女は私の手に――いや正確には小指に視線を落とした。
「指輪……っ! ミハイルったらいつの間に結婚したの!? この屋敷に近づく女はみんなあたしが追い払ったはずなのに!」
「ご、誤解です!」
妙な勘違いをされている気がして咄嗟に叫ぶ。そこで初めて彼女は私の目を真っすぐに見返してきた。
「それならどうして指輪をしてるのよ」
「これは、リエーフさんからお借りしただけで」
「あんの腹黒執事……何を企んでるの……?」
親指の爪を噛むような仕草をして、ギッと彼女は虚空を睨む。
やっぱりリエーフさんって腹黒なんだ……いや、そんな話をするために指輪をつけたのではない。
「それより、あなたがこんなことするのは、もしかしてミハイルさんを結婚させないため?」
さっきそんなことを口にしていたのを思い出して率直に聞いてみる。すると、「はぁ?」というすげない返事が返ってきた。
「やめてよね。その言い方だと、まるであたしがミハイルを好きみたいじゃない」
可愛らしい顔を精一杯歪ませて、ギロリと私のことを睨んでくる。
「違うんですか?」
「当たり前よ! あー、気持ち悪い。あんな貧弱泣き虫坊やに興味ないわ!」
こんな幼い女の子がミハイルさんを「坊や」呼ばわりするのには違和感があるが、幽霊なら見た目と歳は関係ないのかな。でも言動も抱えたぬいぐるみにしても、どうにも大人には思えない。
そんな彼女は今ぬいぐるみが落ちないように脇に抱え直して腕をさすっている。……幽霊なのに鳥肌でも立ったのだろうか?
「……ミハイルが困っているのが楽しいだけよ」
そうして、ポツリと彼女は呟いた。その思考回路、どう考えても子供。
幽霊って体も脳も成長しないのかな?
しないか、生きてないんだもの。ということは、ずっと死んだ時のままってことなのかな。
いや……つまり。
この子はこんな幼い歳で亡くなったの?
それに気づいて、少しやるせない気分になった。
「その……、名前を聞いてもいいですか?」
「なれなれしくしないで。……なぜ邪魔をするかって? ミハイルを困らせたいのもあるけど、それ以上に外の人間が嫌いだからよ」
スッと彼女が目を細める。愛らしいお人形のような顔から表情が消えると、ゾッとするほど冷たくなる。
背筋が寒くなって言葉を失くした。
だが彼女がそんな顔をしたのは一瞬のことで、すぐにフーッと長く息を吐き出し、面倒くさそうに宙に視線を投げた。
「でも名前なんて、どうせリエーフに聞けばわかっちゃうわよね。ライサよ。アンタは?」
「あ、名乗らないでごめんなさい。掃除婦として雇われました、ミオと言います」
「どうしてそんなに掃除なんかがしたいの?」
「それは……掃除婦として雇われたからです。それに、綺麗になったら気持ちいいでしょう?」
ふーん、と彼女……ライサは生返事をしながら私の方に目を戻した。
「だったらあたしは、それを徹底的に邪魔してやるわ」
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