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第二章

空良【第二章 完】

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 カルが異変に気付いたのは翌朝の事である。もう握ってはいなかったが、未だにカルの手に触れている浅葱の手が何故かぼんやりと光っているのだ。

「アサギ?」

 それは本当に小さな光で、珠稀を警戒して点けていた明かり若しくは昇り始めた朝日の所為、と言われたらそれで納得してしまいそうな物。だからアーセルム達はカルの声がするまでその事実に気がつかなかった。警戒心が“珠稀”という外へ向かっていた事が大きいが、異変と呼ぶにはその光はどこか柔らかく悪しき物とは思えない。
 だが、それは確実に異変をもたらしていた。

「アサギ?おい、アサギ!!」

 声をかけてもつついても揺さぶってもその琥珀は開かれず、僅かに開いた唇から漏れる呼気は穏やかで、寝入った頃は険しくなっていた表情も殴られ腫れてはいるけれど、今はどこかあどけない。
 眠っているだけ、と言えばそうなのだろう。ただこれだけ揺さぶっても起きない、というのはおかしい。

「……どういうこった?」

 訝しげなレプリカンに答えられる者はここにはいなかった。

 ◇◇

 ――空良、新しいお母さんと仲良くするのよ

 それは幼い空良にとって実の母から残された最後の言いつけであり、言葉の鎖。小学校に上がる直前の3月の事である。バス停で空良の手を離した彼女は一度も空良を顧みる事なくバスに乗り、家を去ったのだ。
 翌日やって来たのは空良の母より更に若く派手な女性で、その彼女が空良の新しい“母”となった。

「今日から宜しくね、空良君」

 濃い化粧に露出が多い服は実の母とは真逆で、幼い空良は大いに戸惑ったものだが「新しいお母さんと仲良く」と言いつけられている。本音を言えば実の母の方が良い、というのは当然だがそれでも新しい母に気に入られようとその日から幼いながらに空良は努力したのだ。

「お義母さん」

 見て見て、と小さな手に握り締めてきたタンポポを差し出す。

「……あら、綺麗ねー」

 一瞬あった間に気付くにはまだ幼すぎる空良は、義母の言葉に嬉しそうに笑った。

「あのね、今日学校で……」

「ごめんなさい、空良君。お義母さん今からご飯の支度するからお部屋で遊んでてくれる?」

 まただ、と思う。
 義母が来てから数ヶ月、最初の頃は目線を合わせて話をしてくれていたのに今ではほとんど合わせてくれない。話をしようとしてもこうして追い出されてしまう。それでも摘んできた花は枯れるまで食卓に飾られていたから、話を聞いてもらえない寂しさは小さな胸に押し込んでテーブルの上に花を置き部屋に戻った。

「どうしてお話聞いてくれないのかな……」

 部屋の小物は実母がいなくなってから変わっていない。少し前はおねだりして買ってもらっていたオモチャも、あの日から増えていない。我儘を言って新しい母を困らせたくなかったからだ。けれど、本当はクラスの友達のように人気アニメのキャラが描かれたペンケースやノートが欲しかったし、靴だって新しくて格好いい物が欲しかった。父親はたまにしか帰ってこなくて、帰ってきてもそれは空良が寝たあとで、空良が起きる前には出ていってしまう。

「……寂しいな……」

 赤ちゃんの頃から大事にしているくまのぬいぐるみがここ最近の空良の話し相手。もちろん返事などなくて寂しさは募る。
 その状況が酷くなったのは数年後、空良は小学4年になっていた。
 弟が出来たのは2年前。その頃には摘んできた花は即ゴミ箱に捨てられていた。汚いものを拾ってこないで、と言われた時初めて義母がずっとそれを“汚い”と思っていた事を知った。
 見た目だけは整えようとしていたのか成長に合わせて空良の趣味ではない服は買い与えてくれたけれど、友達が持っているようなキャラ物の文具はやはり買ってもらえなかった。カードゲームに使うカードも買ってもらえなくて、その遊びが始まると蚊帳の外になってしまうのが嫌だったからいつも外で遊んでいた。雨の日でも、雪が降っても外にいた。
 そして小学4年の秋、妹が生まれた時にはもう義母の中で空良の存在は邪魔でしかなかったのだ。
 その年のクリスマスの日、弟はクリスマスプレゼントを貰って喜んでいた。リビングを覗いた空良の目の前で体裁的には空良の、と銘打って用意してあったプレゼントを弟が開けていて予測はしていたけれど溜め息をつく。
 空良の、と用意してあった筈のそれは空良が使うには幼すぎる小さな子供用のオモチャだったのである。

「あらもう、この子ったらお兄ちゃんのまで開けちゃって。ごめんなさいね、空良君」

「……いいよ。欲しいならあげる」

 わざとらしく謝る義母に溢れそうになる涙を堪えて笑顔を向けたけれど、部屋に戻ってドアを閉めた瞬間に耐えていた涙は一気に溢れてしまった。

(どうして?どうして?僕だって欲しいもの書いたのに。僕のお願い事は聞いてくれないの?酷いよ)

 声を殺して泣くようになったのはいつからだろう。言いたい事を我慢するようになったのはいつからだろう。全て義母が来てからだ。嫌われないように、迷惑をかけないように、一生懸命素直で良い子を演じてきたのに。
 夕食はご馳走だったけれど空良の心は真っ暗なまま。
 翌日終業式に登校すると案の定クラスメイト達は何をもらったか自慢し合っていてまた泣きそうになったその耳にふ、と言葉が飛び込んだ。

「プレゼント?ないよ」

 あっけらかんと言い放ったのは4年で初めて同じクラスになった浅葱である。
 さらさらの髪は色素が薄く、蛍光灯の下だと琥珀に見える。瞳の色も同じ琥珀色で、同年代にしては背も小さく顔立ちが幼い所為かクラスの女子より可愛い、というのは一部で囁かれている。
 その浅葱は、周りのクラスメイトからの「ないってマジかよー」という野次など物ともせずにこくり、と力強く頷いた。

「別になくても平気」

 他と違う事が悪い、と思いがちな子供の中で浅葱は違う事を恥とは思っていない様で相変わらず続く周りの野次を相手にしないまま席に座った。

(かっこいい……)

 周りが貰った物の話で盛り上がる中、浅葱は強がっている様子もなく彼らを気にもせず栞が挟まれた読みかけの本を開いている。

「……ねぇ、何読んでるの?」

 それまでクラスメイトの一人としてしか認識されていなかった“浅葱”という存在を意識し始めたのはその時からだ。
 
 あの日から――主に空良が付きまとう形で――仲良くなった二人の関係は中学3年生になった現在でも続いている。
 そしてあの日以来、空良と義母との間には確かな溝が出来ていた。それでも空良は我慢していたし、表向きは“成績優秀”で“弟妹思いの優しいお兄ちゃん”だった。浅葱程心を許した間柄ではなかったが、友達は多かったし教師からの評価も近所の評判もいい“優等生”だ。
 それを演じきっていた。――本人さえ“演じている”と気付かない程、完璧に。
 毎日が“楽しい”。弟妹が“可愛い”。義母に心は許していなくとも“家族”なのだと言い聞かせて。
 それを崩したのは、前妻の面影が残る空良を疎ましく思っている義母である。
 空良の実の母親は義母の学生時代の先輩に当たるのだと言うのは、ふとした拍子に聞いていた。父が家に誰かを呼んだ時であったか、義母が誰かと電話をしていた時であったのかは覚えていないけれど。
 学生時代の先輩であった実母から父を奪い取った義母は空良という存在が邪魔で仕方なかった。何故親権を向こうに渡さなかったのかを問い詰める姿は中学に上がった頃から何度も見るようになった。父親は古風な考え方を持っていたから「自分の血を引く男子が跡取りとして欲しかった」と取り付く島もなかったのだが、義母はそれさえも気に入らなかったのだろう。
 父の血を引く男子ならば自分が生んだ、便宜上は次男に当たる息子がいるではないか。父と義母の子としてならばその子が長男なのに何故未だに空良を立てるのか。本当はまだ前妻に未練があるのではないか。だから前妻に似た空良を手元に置いているのでは。
 積もりに積もった不安や疑心、嫉妬心がその夜形となって目の前に突き付けられたのである。
 珍しく早く帰ってきていた父に問われた言葉を理解するのに少なくとも10秒以上はかかっただろう。

「お前の部屋から母さんの下着が出てきたそうじゃないか」

 今そう言っただろうか?
 やはり中学に上がった頃から空良の洗濯物は汚いとばかりに扱われるようになった為、自分で洗って干しているのを父は知っているのだろうか。そこに義母の物など混ざりようもないというのに。まして下着など、何故そんなものが紛れ込むというのか。

「どういう事?」

 隣で義母は俯いている。空良から見ればその姿は都合が悪いから目を合わせないさかしい姿だったのだけれど、父から見た彼女は違うのだろう。彼女は年頃の義子に恐怖を抱いている、か弱い女――それを演じているのだ。

「お前も年頃だ。女性に興味はあるだろうが」

 血が繋がらないとは言え、彼女はお前の母親だぞ、と言われてぷつり、と何かが切れる音が1つ。

「俺が盗ったって思ってるの?」

 確かに自分はそういう年頃で、学校ではこそこそと猥談をする友人もいる。大抵が上に兄がいてその兄からくすねてきた本だとかDVDだとかを皆で見てはぎゃあぎゃあと騒いでいるが、空良はそこに別の姿を投影していた。

 ――あいつの前でエロい話すんの、やめとこうぜ。

 同級生達からそう言われているのは浅葱だ。
 中学になっても浅葱の幼い顔つきと華奢さは変わらなくて、やはりどこか可憐な少女を思い起こさせる彼の前では何故かみんな猥談をする事に気後れしてしまうのである。浅葱とて同年代の健康な男子なのだから“そういう事”に全く興味がない筈ないとは思いつつも、どうにも彼を前にするといけない事をしているような気になるのだ。それは時折浅葱の前で誰かが口を滑らせて下ネタを発してしまった時、彼がきょとん、としてしまうから尚の事。
 そんな無垢な幼馴染みを想像の中で何度汚しただろう。あの小さな体を捩じ伏せて、誰も受け入れたことなどない小さな孔に自分の欲望を捩じ込んで、嫌だ、嫌だ、と泣いていた彼が甘く鳴いてもっと、とおねだりするまで抱き潰す――そんな想像を何度も何度も。

「有り得ないけど」

 ふ、と唇が歪んだ。
 空良の欲望を突き動かすのは浅葱だけだ。いつだって純粋で真っ直ぐで、愚かなくらい無垢なあの幼馴染みだけだ。それなのに義母は父に縋って言う。

「空良君を責めないであげて。年頃だもの。仕方がないわ」

 ぷつり、とまた1つ。
 仕方がない?なら何故“下着を盗られた”だなんて報告する必要がある?

「何か間違いがあってからでは困るだろう」

 ぷつり、ぷつり、と今まで耐えていた筈の何かが切れていく。
 何か間違いが起きるとしたら、それは義母相手では有り得ない。空良から見た彼女は何1つ魅力を感じない相手なのだ。

「俺が義母さんを襲うかもって事?」

 くすくすと笑いが込み上げた。

「あんた、そんなに俺が邪魔なんだ。父さんに嘘ついてまで俺を追い出したいって?」

 親にその口の聞き方は何だ、と怒鳴る父親を空良は相変わらず笑ったまま見遣る。
 可哀想な男だ、と思った。こんな女に騙されて、優しい母親を追い出して、懸命に稼いだ金が彼女のブランドバッグに消えているとも知らずに。

「あんたみたいなババアに誰が欲情するかっての。いい加減自分の体が武器になると思うのやめたら?そろそろ痛いよ」

 彼女の頬が赤くなったのは羞恥や傷つけられた悲しみではない。プライドの高い彼女は自分がバカにされた事に対して怒りを露にしたのだ。それなのに父親はそれを悲しんでいると勘違いしたらしい。

「お前は……!!」

 ぱんっ、と頬が音を立て一瞬火花が散った。父親に叩かれたのだと知った瞬間にぷつり、と一番太い何かが切れ落ちた。

「そんなに俺が邪魔なら望み通り出てってやるよ」

 父の後ろで憎々しげに睨み付けてくる義母に言い捨てる。
 空良は知っていた。義母が弟達に何を言っていたのかを。

 ――ねぇ、お兄ちゃんいつ出てくの?お兄ちゃんが出てったらあのお部屋僕にくれるってお母さんが言ってたんだ。

 


「ちょっとぉ、そーちゃんいい加減起きなよ~。今日もガッコでしょぉ?」

「いま……なんじ……てゆーか、今日休みだって言ったじゃん……」

「そだっけぇ?」

「言ったもん。……ねー、アユミさんお腹すいたー」

「えー、自分で作れよぉ」

 ベッドに転がる彼女と出会ったのはあの日の夜だ。父親は思春期特有の反抗だと思って頭を冷やせとだけ言って出て行った。義母は何も言わなかったけれど空良へ向けた目は冷ややかだった。
 出て行ってやると言いはしたものの宛はなく、込み上げた不安を押し込んで使い古したスポーツバッグに物を詰め込んでいく。金だけは中学に上がった頃から渡されるようになった父親からの小遣いを使うことなく貯めており、それなりにあるからしばらくは食い繋げそうだ。
 そんなことを思いながら家を出て、それから無性に浅葱に会いたくなって自然と足は彼の家へと向いていた。
 浅葱の笑顔が見たい。浅葱の声が聞きたい。浅葱の側に行ったら泣けるだろうか。抱き締めてほしい、と言ったら彼は戸惑いながらも言う通りにしてくれるかも知れない。
 しかし辿り着いた浅葱の家では中から

「母さーん!姉ちゃんが俺のからあげ食べたー!!」

「早いもん勝ちよ!」

「ちょっともうあんた達ご飯の時くらい静かにしなさいよ!」

 そんな声が聞こえてくる。しばらく姉弟喧嘩のような言い合いが聞こえていたかと思えば次聞こえたのは朗らかな笑い声。
 浅葱の家は父親がおらず、母親の稼ぎが全てだと言っていた。だからクリスマスプレゼントなんて買ってもらう余裕はないし、我が儘なんて言えない、と。浅葱の持ち物は姉達のお下がりが多かったし、新しい服なんて見かけた事はなかった。貧乏だから、と心ない事を言う相手もいたけれど浅葱はそれで卑屈になる事はなかったし、むしろ彼の家族はみんな明るくて。だから浅葱があんなに真っ直ぐなのだと思う。
 それに引き換え自分はどうなのだろう。金だけは与えられていた。趣味じゃないとは言え新しいものは渡された。我が儘は言えなかったけれど、こんな風に委ねきった声音で家族と話した事なんてない。
 ここに自分の居場所があるわけない、とドアの前から離れる。どうしていいのかわからないまま夜の町を歩いて、歩き疲れて蹲った路地裏で彼女と出会ったのだ。

「おー?何か学生発見~」

「何々ぃ?君、家出ー?」

 義母に似た派手な服の女達だ。胸元が広く開いた服に腿の半分以上が露出しているようなミニスカート。真っ赤な唇は酷く気持ちが悪い。

「ちょっと無視すんなってー。ねぇ家出ならアユんち来なよ~」

「は?ちょっとあんたマジ?この子高校生じゃね?」

 中3になってから伸びた身長は今現在160を超えている。元よりどちらかと言えば大人びた雰囲気、と言われてきたから中学の学ランを着ていても高校生に見えたのだろうか。

「中3」

「え?」

「今、中3」

 何が楽しいのか、女達は中学生かよ、とゲラゲラ笑った。

「そんでぇ、僕ちゃんはこんなとこで何してんの?塾の帰りー?」

「てか、最近の中学生ってこんな大人っぽいの?うちのカレシより落ち着いてんだけど」

「それよか超イケメンじゃん!アイドルオーディションとか受けてみたらいんじゃね?」

 口々に言われる言葉は耳をつんざくほど煩くて場所を移動しようと思ったのだけれど。

「あんたさぁ、寂しいんでしょぉ?アユが慰めたげるってー」

 隣に座った彼女は問答無用で空良を腕に掻き抱いた。周りの女達が「気を付けなよ~、アユ童貞食いだからぁ」「あんた中学生はまずいっしょ~」とまたゲラゲラと笑っているけれど。

「……慰めてくれるの?」

 その腕の中が暖かかったのだ。本当は誰でもいいから抱き締めてほしくて、寂しくて寂しくて、愛してほしくて。親はもちろんの事、浅葱がそんな風に思ってくれないのはわかっているから余計に縋りたくなった。
 嘘でもいいから、愛してるって言って。抱き締めて。側にいて。
 流石に未成年には手を出せない、と笑ったアユミはただ一晩添い寝してくれて、そのあとで仕事をくれた。金をもらって、寂しい女と他愛もない話をするだけの仕事だ。アユミのバックには勿論それなりに大きなグループがあって、彼女は相手を斡旋する役目だった。勿論未成年の空良に回される仕事は話し相手だったり、家事の手伝いだったり、そんな簡単な物だったけれど。

 義母は空良が帰ってない事を父に言っていないのか、それとも父も空良の事などどうでもいいのか捜索願いは出されていないようだし、もちろん浅葱に会うためだけに休まず通っている学校にもそんな連絡はいっていないようだ。

「ねぇー、アユミさん抱っこして~」

 そしたらご飯つくるー、と布団の中から腕を伸ばしている空良を彼女はくすくすと笑う。

「あんたさぁ、ホント小悪魔だねぇ」

 こんなかっこよくて可愛い子に甘えられちゃ誰もが母性をくすぐられると思うわぁ、と空良につく客の多さに納得する。母性、と聞いて空良の瞳が酷く昏くなったのをアユミは見て見ぬふりだ。
 彼女もまた闇を抱えている分他人の闇には敏感で、だからこそ路地裏で蹲る空良に声をかけた。その時空良は自分が迷子の子供のような顔をしていた事など知らないだろう。
 そして恐らく空良が迷子になるほど探し求めている物とアユミが探している物は同じなのだ。

「ご飯の前にぎゅってして?」

「でかい赤ちゃん可愛い~」

 だからこうして抱き合って温もりを確かめて、手に入れたふりをする。
 そんな生活が半年も続いた秋。今まで適当な事を書いて出していた進路について流石に父親に話をしなくては、と一度嫌々家に帰った。相変わらず家族が空良を捜している形跡はなかったし、学校では優等生のままの空良を呼び出す教師もいなかったから裏の生活は誰にも知られていないようだ。
 半年ぶりの家はすっかり義母色に染まっていて長居は無用だと思う。空良の部屋は恐らく父親を騙す為だろう。半年前出て行ったままの状態で一応掃除もされているようだった。タンスを開けてみれば大部分を持って出たにも関わらず、不審に思われない程度に服が補充されている。どれもが空良の趣味ではない、きっと弟が着るようになるのだろうと想像がつくデザインの服だった。
 やはり義母は父が遅くに帰るのをいいことに、空良が帰っていない事実を告げていないらしいとは部屋の様子で予感していたけれど、空良の顔を見ても父が何も言わない事で確信した。
 この男は実の息子よりもずる賢い女の話しか聞かないのだ。半年もの間息子の不在に気付かない程、彼の中で空良の存在は小さかったのだ。――冷えきった心の中で、それでもどこかで怒られるかもと思っていた最後の暖かさは消えた。
 淡々と進路について話し、全寮制の学校に行くようにと告げられる。その方がお前にとってもいいだろう、と。

(俺にとって?あの女にとって、だろ)

 今頃あの女は陰でほくそ笑んでいるに違いない。あともう少しで目障りな相手を完全に追い出せるのだ。今ここで空良が半年の間何をしていたのか暴露したらどうするつもりなのだろう。世間体を気にする父ならば空良を監視下におかなくては、と近場の高校を勧めてくるに違いないのに。それはそれで愉しそうだったけれど、空良にとってもここでの生活よりアユミの元で送る生活の方が何倍もいいから敢えて余計な事は言わない。高校に行くつもりのない空良にはこの進路希望は何の意味もないのだから。

 ただ1つ、気がかりなのは浅葱の存在だった。

「俺の進路?言わなかったっけ?」

 夏に比べれば少しだけ気温は下がったもののそれでも未だ暑さの続く日の帰り道。浅葱はただでさえ大きな目をぱちり、と開けて首を傾げる。

「聞いたけど、そのまんま?」

「うん。一番近いとこなら自転車で通えるし、バイトも大丈夫って聞いたし」

 学費の全てを自分で稼ぐ事はできないけれど、それでも少しでも母の負担を減らしたいと言う浅葱は高校に入ったらバイトをするのだと常々言っていた。
 母親の為に何かをしたい浅葱と、義母に疎まれ父親に関心を持ってもらえない空良とでは何もかもが違う。高校生になれば浅葱には他に仲の良い友達が出来、バイト先でもきっと可愛がられる。その内空良、という存在は過去のものになってしまって浅葱の中から消えてしまうのかも知れない。
 そう思ったら腹の中が酷く冷たくなった。
 浅葱が自分の前からいなくなってしまう。浅葱が他の相手と仲良くして、自分のいない所で他人にその笑顔を向ける。――そんなの、許せない。
 別れ道で「また明日ー」と手を振る浅葱に手を振り返しながら考える。
 空良が欲しかった物はみんな手からすり抜けていった。みんな弟や妹の物になった。実母の買ってくれた大切なぬいぐるみでさえ「汚いから」という理由で知らぬ間に義母に捨てられていた。隠しておかなければ、空良の大切な物は何でも取り上げられていったのだ。

(隠す……)

 そうだ。大切な物は隠してしまわなければ、誰かに取り上げられてしまう。
 その日の夜、空良はアユミに言った。

「ねぇ、いつでも良いんだけど、一日だけでいいからこの部屋開けてくれない?俺の好きな子、呼びたいんだ」

 ◇◇

 ハッ、と目が覚める。飛び起きようとしたのに起きられなかったのは異様に体が怠いからで、頭も鈍く痛むしひりつく喉はからからだ。歪む視界に何度も目を擦ってようやく天井の木目が見えた。ぎ、ぎ、と揺れている吊り下げ式のランプに灯りは点っておらず、窓からは外の光が射し込んでいる。頭を横に動かせばテーブルの上に海図らしき紙と、羅針盤。その向こうに誰かの背中が見えた。
 無造作にまとめあげた煤けたシルバーブロンドの髪。日に焼けた肌と鍛えられている事が背中からでもわかる体つき。何より彼から漂ってくる精霊の気配を知っている。

「……ア、セルム、さん……?」

「!」

 その肩が跳ね上がったのは急に声をかけた所為だろうか?しかし振り向いたアーセルムの強張った顔にそれだけでは済まない予感がした。


■■■■■
第二部終了。お付き合いくださりありがとうございました!
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