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第一章
霧の中の幽霊船~サバイバルホラー~
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「暗い、怖い、帰りたい、怖い」
「カル、煩い~。ちょっとシー」
一歩踏み出すごとに何か言うカルを初めは面白がって放置していたが流石にそろそろ煩くなってきた。と、言うかカルの声で他の物音を聞き逃す可能性もあるから少し静かにしてほしい。
「やだ、怖い」
左手はアーセルムの右手を、右手はアーセルムの右腕をしっかり掴んで離さないし恐らく目も開けておらず、さっきからフラフラ危なっかしい事この上ない。
しかしまさかこんなにも怖がると思ってなかったから悪いことをした、という思いはある。
「……あんま騒ぐと逆に何か寄って来ちゃうかもなぁ……」
声はピタリと止まった。
ギシ、と軋む床を踏み鳴らしながら先を行くケイの背を見つめる。
それからリツが縋りついていた腕を見て、やはりモヤモヤする何かを持て余しふと目を向けた先に1つだけ開いた扉が映った。他の扉も何個か通過し、特に用事もないから素通りしてきたけれど開いているとなれば話は別だ。
興味を引かれ、ヒョイとそこを覗いた事を僅かに後悔。
『――――ク、レ……、体、オマエの……体、ヨコセ……死にたくないシニタクナイ死にタクナイ』
体から離れて尚消えることのなかった魂の成れの果て。生前の姿を僅かに残しつつも既に正気は失いただの化け物に成り果てたもの。
「……成る程、これが幽霊か」
ケイの掲げる灯りが恐いのかその魂は光の届かない場所をうろついている。
『カラダ……体があれば――――カラダ、クレ、体があれば、ア、レバ……体カラダカラダカラダカラダカラダ……』
「体があってもそれはあんたの器じゃないよ」
体、体、と言い続ける魂にそう告げるけれど、答えはなくただ体をくれ、と訴える。
『カラダ、体が、アレバ、逃げ……られ……死にたくないシニタクナイカラダ、オマエのカラダクレ』
うろうろと闇をうろつく魂の言葉に、ふと違和感を感じた。
確かに生に執着する霊の言葉にも聞こえるが何かが違う気がして闇の中の相手に問う。
「体があれば逃げられる?」
『連れてカレル、イヤだイヤダイヤダカラダクレ、カラダクレ』
「どういう事……」
言いかけた瞬間ケイに口を塞がれ影に連れ込まれて、灯りを最小限まで落とすその行動に何かいるのを悟り聴覚に意識を集中すると、外から聞こえるのはゴトン、ゴトン、と重たい何かを引き摺るような音。
『アイツだ、アイツ、カラダ、オマエノカラダクレ……!!』
怯えた魂が必死に訴えてくるけれどそれよりも外にいる“何か”の方が問題だ。
二人は息を詰めて開いた扉を見つめた。
『グォオォオォォォォ……ッ!!』
ビリビリと大気を震わせる鳴き声の後、ドスドスと重たい足音が響き扉の前で止まる。
最初にヌゥ、と現れたのは巨大な鎌。次いでそれを握る、人の頭部ほどはありそうな拳によくそれで床を踏み抜かないものだと思う筋骨逞しい足。狭い扉を無理矢理潜って
『あぁぁぁぁ!来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな!!』
怯える魂へと鎌を振り上げるその巨体。
(何だこれ……!)
ケイの手がアサギを離しソロリと腰の剣にかかるけれど、その得体の知れない“何か”は気付いてないようでこちらには見向きもしない。
『あぁぁぁぁ、ぅあぁぁぁぁ』
二人の目の前で何度も何度も降り下ろされる鎌は何故か恐怖におののき叫ぶ魂へは届かず、一向に彼――もしくは彼女――が恐れる“死”は訪れない。
『グォオォオォォォォ!!』
苛立ちの咆哮を上げ、両手で鎌を掴み勢いよく降り下ろすがやはり寸での所で何かに弾かれ止まった。
一体何が、とよく見れば魂の胸元でぼんやり光る何か。
(あ……!)
貝殻を繋げただけの簡素なお守りはアサギの胸にあるのと同じ、カワスの故郷に伝わるお守りだ。
やがてその巨体の化け物は諦めたのか他に何かあるのか、ゴトン、と鎌を床に下ろし引き摺りながら部屋を出て行った。
『あぁぁぁぁ、ぁぁぁぁ、あぁぁぁぁ……』
残された魂は恐怖に啜り泣いている。
ゴトン、ゴトン、という音が充分遠ざかってから二人は立ち上がった。
「何だったんだ、今の……」
「魂を刈り取る者……って感じか?」
ケイの言葉には妙に説得力があり頷いた。見つかれば自分達も襲われる可能性もある。カルの手前言えなかったが、階毎に未練を残した地縛霊の数人はいそうなこの状況で全く出会わない事を不思議には思っていたのだ。
つまり他の魂はあの化け物に連れていかれたのだろう。そして恐らくその先は安らかな場所などではない。
「……あ」
視線を感じて振り返ると、廊下には少女が静かに佇んでいた。
『こっち……』
おいで、とまた手招いてスーッと滑るように歩いていく。
『あぁぁぁぁぁぁぁ、あぁぁぁぁ』
ついていこうとして足を止めたアサギはほろほろ泣き続ける壊れた魂の側へと寄った。
「……ここに、あんたを縛るものはないよ」
言葉を理解しない魂はただ嘆き、泣き続けておりアサギは少し考えてその魂を抱き締めるかのように腕に抱え込んだ。ケイは何か言いかけて、ぐっと耐える。恐らく今は邪魔をしてはいけない、そんな空気が漂う。
「何度もあいつが来たんだろ?でもあんたは刈られなかった」
腕の中の魂は何の質感もなくただ空気を抱いているかのようだけれど、そこには確かに人の意思がある。
「よく見て。これは誰に貰った?」
胸元のお守りを示すと、初めて魂は嘆く以外の動きを見せた。手らしき物を胸元に、そこで揺れるお守りを握る。
『あ、ぅあ……』
それに気付いて、小さく声を上げながら少しずつ、少しずつ、嘆くだけの魂の成れの果てが人の形へと戻っていく。ゆっくり、ゆっくりと。
アサギの声が柔らかく励ますように続ける。本音を言えば例の声が響くときのように背中がじわりと痛み始めているけれど、それでもその魂へ語りかけて少しずつ注ぎ込む。元に戻れる力を。
「これがあんたを助けてくれた。あんたは死んだけど、魂は刈られてない。ここに縛られる必要もない。在るべき場所へ帰れるんだ」
形を取り戻した、そばかすだらけの少年はアサギと同じ年頃。くるくるとカールを描く柔らかそうな髪、少しだけ上を向いた特徴的な鼻。瞳は未だ不安げに揺れている。
『……母、ちゃん……』
「そうだよ、ちゃんと思い出して思い描いて、故郷に還れ」
言われてかつての記憶を掘り起こすようにぽつぽつ呟く。
『海の近く……、家のそばに、おっきなヤシの木があって……』
「うん」
『……小さな家だけど、あったかい……』
家を思い出したか涙を溢すばかりだった瞳に光が満ちて、
「ほら、もう逝けるだろ」
小さな声でうん、と頷いて長い間死の恐怖に縛られ続けた嘆きの魂が消えていく。
一番帰りたい、愛する家族の元へと。
『気を付けて…………、アレに、連れていかれないように……』
最後にありがとうと呟きが聞こえアサギは誰もいなくなった腕の中、古びた貝殻のお守りを握りしめた。
「……何だぁ?今の声ー……」
「うー……うー……」
突如響き渡った咆哮と地響きのような足音にカルはすっかり怯えきってピタリと動きを止めてしまい、アーセルムに抱きついたままひたすら呻いている。
「カール~?カルくぅん?」
「ひ、……っぅ、ぅぇぇ……っ」
(あららー、泣いちゃったー)
どうしよう、と頭を掻くアーセルムの胸にぐりぐり額を押し付けてくるカルがしゃくり上げながら呟いた。
「アム兄の所為だぁ……っもう嫌だぁぁ……帰る!」
「あー、うん、ごめぇん。でも歩かないと帰れないよぉ」
「やだぁ、もう歩けない、怖い……っ」
女子か!とここにきてついに突っ込みかけたけれど、そもそも嫌がるカルを連れて来たのは自分だ。いや、ケイも面白そうとか言っていたしアサギも止めなかったが。
怖い、怖い、とえぐえぐ泣き出したカルにどうしたもんかと頭上を仰ぐ。とっくに役目を果たさなくなった吊り下げ式のランプがゆらゆら揺れているだけの低い天井に答えはもちろん書かれていない。
(気が紛れたらいいのかぁ?)
そういえば子供の頃、同じように肝試しをして――無論、こんな本物の幽霊船なんかではなく、大人が仕掛人の子供騙しだ――、途中怖くて歩けなくなった女の子がいた。
しかしお調子者のガキ大将がそこから何を思ったか下ネタを連発して彼女が怒り出し、その彼に文句を言いながら無事にゴールへ辿り着いた事がある。
その後女子達から信じられない!とブーイングを食らった彼は今、例の彼女と目出度く結婚し2児の父だ。
(……下ネタくらいじゃ気は紛れそうにねぇなぁ……)
なんせカルとて海賊の一員。下品で生々しい下ネタなど親父組から嫌という程聞かされているし、何よりもケイとアサギの声はほとんど毎晩のように響いてくるのだから免疫はあるだろう。
(怪談は逆効果だしぃ、恋バナ?誰のだよぉ……)
うーん、と思い唇に指を当てて……ピコン、と思い付く。
「カル~」
ぐす、と鼻を鳴らして恐る恐る顔を上げたカルの唇をブチュ、と塞いだ。
下へ降りる階段を見つけて降りている途中、
「何すんだ!!」
カルの怒鳴り声が聞こえた。
「……何やってんだ?」
「……さぁ?」
声の質から得体の知れない物に出会ったわけではなく、アーセルムに向けて怒鳴ったのだろう。後に続いたアーセルムらしき声は小さくよく聞き取れない。まだ階段まで到達していないようだ。アサギは手すりから身を乗り出して階下を覗くが予想通り二人の姿はない。
「こら、危ねぇ」
手すりが崩れたらどうする、と腕を掴んで引き寄せる。
「……近い」
というより既に密着状態だ。歩きにくい、と腕を突っ張ると簡単に体は離れた……が、手を繋がれた。
「……何これ」
「怖いから手繋いでて~」
「嘘つくな」
振り払う前に指が絡んでキュ、と力強く握られる。所謂恋人繋ぎのそれに、反対の手でケイの指をこじ開けようとするが握力が半端ない。軽く痛い。
「幽霊は怖くねぇけど、怖ぇのはホントだぞ?」
「何言ってんのかわかんない」
そう、感じたのは恐怖。
嘆くばかりの魂を昇華させた時の彼が纏っていた、儚げな気配。言葉は強く優しかったのに彼の気配はとても薄く揺らいだ。この子はここへ引き止めておかないとどこか遠くへ行ってしまう、そんな恐怖を感じるほどに。
「まぁいいからいいから」
ケイが何かを言い出したら抵抗するだけ無駄な事をこの数ヵ月で早くも悟って仕方なくそのままついていく。
その彼と繋がるのはリツが縋っていた側で、やはり思い出すとどことなくモヤッとなるから無理矢理記憶から締め出した。
「~ったぁ。お前ねぇ、先輩殴るとかありえなくねー?」
「知らないっすよ!そもそもアム兄が変なことするからだろ!」
プンプン怒りながら側を離れないけれど、どうやら足は動くようになったらしい。無意味に足踏みしているそれにくすり、と笑い歩き出すと慌ててしがみついてくる。その足が止まることはない。
(うーん、案外効果的~)
俺天才、と自画自賛。足を痛めてなければ抱えてでも連れて帰ってやれたのだが、と足に意識を集中した所為でツキン、と痛みが駆け抜ける。
(……こっちも気が紛れたら何とかなるよなぁ)
別に知られて困るわけではないが何となく今のカルに知られるのはマズイ。パニックになってまた泣き出しでもしたら非常に困る。欠片でもその泣き顔が可愛い、と思ってしまったから尚の事。
(これが吊り橋効果ってやつー?)
いや、別に自分は怖くも何ともないからどうなのだろう。
何となく無理矢理触れた唇に指を当てた、時。
『グォオォオォォォォ!!』
「ひっ!?」
かなり近い位置で先程の咆哮が聞こえ思わず息を飲み、ひきつった声を洩らしたカルの腕を掴みながらサッと視線を走らせすぐ側の部屋へと滑り込む。
カルを背に腰の刀剣に手をかけ物陰に隠れ様子を窺っていると、ドスドスと重たい足音が聞こえてきた。
「ア、アム兄……」
「しぃ」
ゴトンゴトンと別の何かの音をさせながら咆哮の主は部屋の前を通り過ぎて行って、二人は詰めていた息をホッ、と吐いた。
◇◇
「……副長、さっきから変な声が聞こえる気ぃするんですが」
いつ何があってもいいように他の乗員は持ち場についている。しかし操舵手ジルタとリツは甲板にいた。操舵席には代わりにレンドルーが座っている。
「気の所為じゃないでしょう。確実に何かいます」
「増援送らんのですか?」
一瞬ジルタへと視線を向け、考える間を開けて首を横に振る。
「中の状況がわかりません。船長達と行き違いになっても困る。様子を見ます」
アーセルムは船内一の魔術師、剣の腕も立つ。ケイは言うまでもないし、カルとて一流の戦士だ。こちらが早まって増援を出し、事態を悪い方へ進めてしまう羽目になっても困る。
「リミットは明日明朝。それまで各自警戒を怠らないように」
ジルタが指示を伝えるために去り、リツは一人霧に包まれた謎の船体を見つめた。
一人、とは言え甲板では他の乗員が作業している。そうでなければとうに操舵室で引きこもっていただろう。
(何かあったら本気で逃げますからね!バカ船長!)
◇◇
「ぇっくしょぃ!」
丁度その頃階下に落ちた二人と合流し謎の少女を追っていたケイは盛大にくしゃみをしていた。
「……おっさんみたいなくしゃみだな」
「え?何だって?今日こそ潮吹いてみたい?よしわかった」
「何も言ってない!」
本気でされかねないとブンブン首を横に振るアサギに笑って、遠くから聞こえた咆哮に揃って態勢を低くする。ドスドスゴトンゴトン、とちょっと慣れてきた物音が近くで止まり息を殺す。
『ォォ……オォォ……』
まるで強い風が吹き抜けるような音だが、その音は彼らが隠れている場所の目の前をゴトン、ゴトン、と通り過ぎていく化け物の口から洩れている。
しばらく近くを彷徨っていた化け物はやがて離れていった。
「何かもうサバイバルホラーになってきてねぇか」
「ですよねぇ。てゆーかぁ、あいつは何で追っかけてくるんすかー?」
「本人に聞いてみろ」
「やぁですよー。怖いもん。船長聞いてきてくださいよー」
「やぁだ。俺も怖いもん」
『グォオォオォォォォ!!』
彼らが隠れている場所とは反対側の通路に行ったらしい化け物の咆哮が聞こえ、それを耳にしながら通路の先でじっと待っている少女を見る。
あの少女は魂ではないらしい。アサギは誰かの強い思念と言い、化け物も彼女は狙わない。あれはあれで何なんだ、と首を傾げながら化け物に見つからないよう動き出した彼らに合わせてスーっと移動して行く彼女についていく。
向かう先は、さらに下。
「……最下層についた途端沈没、とかなんねぇだろうな……」
「えー、やめてくださいよぉ。俺の相棒炎属性で水苦手なんすからー」
ぺろ、と捲った手首に蜥蜴の紋様。炎族サラマンダーのラネルは一瞬姿を現し、べっ、と舌を出して引っ込んだ。
「……気安く呼ぶな侍従が!って言ってるけど……」
「やー、聞き分けのない子で困ってるんだよねぇ。てゆーか何言ってるかわかんのー?」
「……」
目を逸らして無言になったアサギを一瞬見下ろして
「そういやカルがさっきから一言も喋らない気がするのは気の所為か?」
話題を変える。
言われたカルはアーセルムの服の裾を握ってチラリとケイを見たもののやはり無言。代わりに答えたのはアーセルムだ。
「口開いたら力が抜けるそうですよー」
「何だ、まだ怖いのか?」
幽霊などという実体のない得体の知れない相手ではなく、得体は知れないけれど実体がある相手だというのに。
(サンリがいるから大丈夫なんだけどな……)
カルを守る水棲族、蛇に名前をつけるように言ったのはアサギだ。
名が契約になりよりいっそう二人の絆が強くなり、逆を言えばその名が相手を縛る鎖にもなり得る。そこは互いの信頼関係により良くも悪くもなる。
サンリ、と名前をつけられたとき件の蛇はアサギにしかわからない喜びのオーラを放出していたのだから、本当にカルが大切で彼を選んだのだろう。まだラネルや他の使い魔達ほど気軽には表に出られないが、名がついたことでサンリの力も少しだけ強くなった。
彼――だか、彼女だか――はカルを守るためなら死力を尽くすはず。幽霊程度なら遅れをとるはずもないし、あの化け物ならカルが立て直すか、カルを守る仲間が来るまでは守りきれる。
ただ、それ以上になるとまだサンリの力では及ばないのがやや不安の芽ではあるのだが。
「……沈没しないように祈っとけ」
ケイは肩を竦めて言いながら、さらに濃さを増した闇へと足を踏み入れた。
前を歩く少女のぼんやり光る体と化け物避けに最小限まで小さくしたランプの灯りしか光源のない暗闇。はぐれないよう小声でとりとめのない会話を続けて歩き、やがて少女が足を止めたのは一枚の扉の前だった。他の扉とは明らかに違う、古びた魔封じが多量に貼られた両開きの頑丈な扉だ。
しかしその魔封じはことごとく破れ、ただの紙切れと化して役目を果たさなくなっている。
「……見るからにヤバイ物件だな」
「船長ー、俺ちょっと入りたくないっすわぁ……」
「安心しろ、俺もだ」
唯一アサギだけ何も言わず一歩扉へ近付いた。少女はそんな彼を見上げる。
「……封じられてたのがあの化け物だったら、逆にここには何もいないんじゃない?」
「違ったらどうすんだ」
「どっちにしろ封じは破られてる」
『助けて……みんな、助けて……』
アサギの服を掴んでそう訴え、少女はスーッと消えた。その途端
『グォオォオォォォォ!!』
と一階分上から咆哮が聞こえこちらへ向けて駆けてくる足音。
「ヤバイ、見つかった」
「あーもう!入ればいいんだろぉ!?」
カルが嫌がって強く服を引いたけれど彼を引き摺るように開けた扉の向こうへ入り、中に意識をやる間もなく乱暴に扉を閉めると、ケイが拾った鉄の棒をノブに差し込んで扉から離れる。
緊張した面持ちで扉を見つめるケイの腕にドン、とぶつかったのはアサギの背だ。
「アサギ?」
「……っ」
肩に置いた手がその尋常ではない体の震えに気付く。
「おい、アサギ。どうした」
「……、大丈夫、これは“俺の”じゃない、大丈夫……、大丈夫……」
まるで自分に言い聞かせるかのように小さく呟いてギュッと体を抱き締めている彼を何となく後ろから抱き締めてやり、辺りを見回した。
いつからそうやって燃え続けているのか、青緑の炎を灯す燭台。
気付かなかったが足下には黒ずんだ円。それに合わせて丸く設置されている燭台の炎に照らされる円は恐らく血文字の魔方陣。
そしてアサギはケイの腕の中、震えながら“ソレ”を見つけた。
「宝珠……?」
円の中心に台座が1つ。その上には丸い何か。
「嘘、何で……これがここに……」
フラ、と歩き出しかけたその瞬間
『グォオォオォォォォ!!』
化け物の体当たりを受け、扉が大きく歪んだ。
全員ハッと扉を振り返る。二度目の体当たりで鉄の棒は弾け飛び、ヌゥと現れたのは巨体の化け物。
まるで何かに潰されたかのような顔面、眼球だけがギョロギョロ動き金具で固定されていたらしい口は無理矢理抉じ開けた所為で裂けている。そして手には大きな鎌。
「ちょっとここまできたら倒すしかなくねぇか?」
恐らく魂を求めて追ってくるようになったその化け物を倒そうと考えなかったわけではないが、それを倒した途端船が沈没したら困る、と今まではただ逃げ続けていたのだがこの室内で完全に対面してしまった今逃げる事の方が難しい。
ケイはアサギを背にかばい武器を構えた。同時にアーセルムとカルもそれぞれ武器を構える。
その化け物は
『ガァァアアァァァ!!』
と一声吠えると真っ直ぐ台座へと向かっていき、彼らはそれぞれ左右に飛び退いて避けた。
「台座を守ってる、のか?」
ケイの呟きに答えられる者はいない。化け物がその巨大な鎌をブン、と振り回し始めたからである。当たれば即死は免れないだろう。
「てゆーかぁ、こいつどうやって倒すんですかー?」
「大砲持ってこい、大砲」
「謎の美女がいないんで無理っすねぇ」
二人はこの緊迫した状態でもどこか気の抜けた弛い会話をしていて、正直カルは関心していいのやら呆れたらいいのやら複雑な心境だ。でもやはり彼らがこうだからこそ頼り甲斐があるとも思う。
(うん、……二人共かっこいい)
憧れの二人は絶妙なコンビネーションを見せている。アーセルムの炎で相手が怯んだ隙にケイが斬り込み、相手がケイへ向かおうとするとまた炎を放つ。カルの役目は、と言えば先程から台座を気にしているアサギを守ること。とは言え、年長二人の攻撃に化け物はその場から動けずにいるからあまり役だってはいないが。
(……宝珠、じゃ……ない)
アサギは戦いを目の端に捉えつつもそう判断した。似た物に見えるけれど、全くの別物。もっと禍々しい陰鬱な気配を感じて眉をひそめる。そして気付いた。
魂を刈る化け物。陰鬱な珠、みんな助けて、と言う少女の言葉。
「……っ!人の、魂……!?」
化け物が肯定するかのように大きく吼えた。
吼えながら横凪ぎに振られるその大鎌を避けたアーセルムが右足をもつれさせバランスを崩す。
「アム!」
「アム兄!!」
ケイとカルの声が重なり、カルがアーセルムの前に飛び出すのに合わせて鎌が降り下ろされるのがアサギの目にはまるでスローモーションの様に映った。
剣を構えてはいるけれど、あの鎌はあんなものでは受け止めきれない。サンリが水の膜を張るが紙一重で間に合うか間に合わないか、という程に相手のスピードは早い。それでもサンリはカルを守るだろう。
わかっている、わかっているのだけれど。
(もし間に合わなかったら――?)
気付いた時には手の平を向けていた。
背中が焼けるように熱くなる。ここに自分が従えられる要素は何もない、が、例え世界が別れていても空は1つ。
運ばれてくる空気、雲。想像して集めて、
「神風……っ!!」
放つ。
その瞬間、彼は暗闇の中うっそり笑った。
「――やっと、やっと見つけた……」
その瞬間、彼は自室で唇を噛んだ。
「――バカな真似を……」
無理矢理開放したその反動に膝から力が抜け床に崩れ落ちる。視界はチカチカ明滅して冷や汗が滴り、背中は耐え難い程に熱い。
それでも何とか顔を上げた先ではケイの刀が化け物の首をはね飛ばした所だった。ゴトン、と落ちて転がる首が台座に当たって止まる。
残された巨体が鎌を振り上げ…、そのまま後ろへ轟音と共に倒れた。
『――サヨナラ、×××』
――嫌なの、もう嫌なの。
――どれくらい苦しいかわかる?どれだけ辛いかあなたにわかる?
――仕方ないってナニ?
――ダッタラ、代わってよ、あなたがしてよ、代わって、 カ ワッ テ、 カワ ッテ カ ワ ッ テ、 ア ナ タ ガ
化け物の体から立ち上ぼり辺りを漂うモヤが吐き出し続けるその毒をなんとか立ち上がり側へ近付いたアサギの手の平が受け止める。
もう一度熱を帯びた背中に痛みと恐怖を感じながら握り締めた指の間から溢れるモヤ。そこから零れて落ちるのは最後の思念。
――ワタシ ハ タ ダ、 モウ、イチド
あの人に会いたかった。
暫くの間、誰も喋らなかった。
その沈黙を破ったのはいつの間にか姿を現した謎の少女だ。
『助けて……』
彼女は宝珠を指し、助けてと訴え続ける。
「うん……」
他の3人が見守る中、アサギの手が宝珠にかかりただ一度トン、と押しただけでそれはいとも簡単に、何故今まで船の揺れで落ちなかったのかというほどに呆気なく転がり床へと落ち、砕け散ったそこからは沢山の魂が飛び出して次々と天へ昇っていく。
「これは……」
今にも倒れそうなアサギの体を支えたケイが呟いた。
「この部屋の主に集められた魂……」
その呟きに答えながらアサギは思う。彼女は解放されたい想いを募らせ、そしてやがてその想いは他人へ牙を剥いたのだろう。人の姿を捨て、ただ魂を刈り取る為の化け物に成り果てた。
(でも、何で……?)
砕けた宝珠に似た珠を見つめる。
誰が彼女にその道具を与え道を踏み外させたのだろう。ただの硝子に戻ったその珠は答えない。
やがて最後の一つが珠から出てきてゆらりと人の形をとった。髭をたくわえた壮年の男は醸し出す雰囲気から船長なのだとわかる。
『……アリガトウ……』
強面に安堵の微笑みを浮かべ、涙ぐんだ彼はそのまま消えて後には謎の少女がぽつりと残されるが、彼女もまたぺこりと一礼するとスーッと消えていった。
「カル、煩い~。ちょっとシー」
一歩踏み出すごとに何か言うカルを初めは面白がって放置していたが流石にそろそろ煩くなってきた。と、言うかカルの声で他の物音を聞き逃す可能性もあるから少し静かにしてほしい。
「やだ、怖い」
左手はアーセルムの右手を、右手はアーセルムの右腕をしっかり掴んで離さないし恐らく目も開けておらず、さっきからフラフラ危なっかしい事この上ない。
しかしまさかこんなにも怖がると思ってなかったから悪いことをした、という思いはある。
「……あんま騒ぐと逆に何か寄って来ちゃうかもなぁ……」
声はピタリと止まった。
ギシ、と軋む床を踏み鳴らしながら先を行くケイの背を見つめる。
それからリツが縋りついていた腕を見て、やはりモヤモヤする何かを持て余しふと目を向けた先に1つだけ開いた扉が映った。他の扉も何個か通過し、特に用事もないから素通りしてきたけれど開いているとなれば話は別だ。
興味を引かれ、ヒョイとそこを覗いた事を僅かに後悔。
『――――ク、レ……、体、オマエの……体、ヨコセ……死にたくないシニタクナイ死にタクナイ』
体から離れて尚消えることのなかった魂の成れの果て。生前の姿を僅かに残しつつも既に正気は失いただの化け物に成り果てたもの。
「……成る程、これが幽霊か」
ケイの掲げる灯りが恐いのかその魂は光の届かない場所をうろついている。
『カラダ……体があれば――――カラダ、クレ、体があれば、ア、レバ……体カラダカラダカラダカラダカラダ……』
「体があってもそれはあんたの器じゃないよ」
体、体、と言い続ける魂にそう告げるけれど、答えはなくただ体をくれ、と訴える。
『カラダ、体が、アレバ、逃げ……られ……死にたくないシニタクナイカラダ、オマエのカラダクレ』
うろうろと闇をうろつく魂の言葉に、ふと違和感を感じた。
確かに生に執着する霊の言葉にも聞こえるが何かが違う気がして闇の中の相手に問う。
「体があれば逃げられる?」
『連れてカレル、イヤだイヤダイヤダカラダクレ、カラダクレ』
「どういう事……」
言いかけた瞬間ケイに口を塞がれ影に連れ込まれて、灯りを最小限まで落とすその行動に何かいるのを悟り聴覚に意識を集中すると、外から聞こえるのはゴトン、ゴトン、と重たい何かを引き摺るような音。
『アイツだ、アイツ、カラダ、オマエノカラダクレ……!!』
怯えた魂が必死に訴えてくるけれどそれよりも外にいる“何か”の方が問題だ。
二人は息を詰めて開いた扉を見つめた。
『グォオォオォォォォ……ッ!!』
ビリビリと大気を震わせる鳴き声の後、ドスドスと重たい足音が響き扉の前で止まる。
最初にヌゥ、と現れたのは巨大な鎌。次いでそれを握る、人の頭部ほどはありそうな拳によくそれで床を踏み抜かないものだと思う筋骨逞しい足。狭い扉を無理矢理潜って
『あぁぁぁぁ!来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな!!』
怯える魂へと鎌を振り上げるその巨体。
(何だこれ……!)
ケイの手がアサギを離しソロリと腰の剣にかかるけれど、その得体の知れない“何か”は気付いてないようでこちらには見向きもしない。
『あぁぁぁぁ、ぅあぁぁぁぁ』
二人の目の前で何度も何度も降り下ろされる鎌は何故か恐怖におののき叫ぶ魂へは届かず、一向に彼――もしくは彼女――が恐れる“死”は訪れない。
『グォオォオォォォォ!!』
苛立ちの咆哮を上げ、両手で鎌を掴み勢いよく降り下ろすがやはり寸での所で何かに弾かれ止まった。
一体何が、とよく見れば魂の胸元でぼんやり光る何か。
(あ……!)
貝殻を繋げただけの簡素なお守りはアサギの胸にあるのと同じ、カワスの故郷に伝わるお守りだ。
やがてその巨体の化け物は諦めたのか他に何かあるのか、ゴトン、と鎌を床に下ろし引き摺りながら部屋を出て行った。
『あぁぁぁぁ、ぁぁぁぁ、あぁぁぁぁ……』
残された魂は恐怖に啜り泣いている。
ゴトン、ゴトン、という音が充分遠ざかってから二人は立ち上がった。
「何だったんだ、今の……」
「魂を刈り取る者……って感じか?」
ケイの言葉には妙に説得力があり頷いた。見つかれば自分達も襲われる可能性もある。カルの手前言えなかったが、階毎に未練を残した地縛霊の数人はいそうなこの状況で全く出会わない事を不思議には思っていたのだ。
つまり他の魂はあの化け物に連れていかれたのだろう。そして恐らくその先は安らかな場所などではない。
「……あ」
視線を感じて振り返ると、廊下には少女が静かに佇んでいた。
『こっち……』
おいで、とまた手招いてスーッと滑るように歩いていく。
『あぁぁぁぁぁぁぁ、あぁぁぁぁ』
ついていこうとして足を止めたアサギはほろほろ泣き続ける壊れた魂の側へと寄った。
「……ここに、あんたを縛るものはないよ」
言葉を理解しない魂はただ嘆き、泣き続けておりアサギは少し考えてその魂を抱き締めるかのように腕に抱え込んだ。ケイは何か言いかけて、ぐっと耐える。恐らく今は邪魔をしてはいけない、そんな空気が漂う。
「何度もあいつが来たんだろ?でもあんたは刈られなかった」
腕の中の魂は何の質感もなくただ空気を抱いているかのようだけれど、そこには確かに人の意思がある。
「よく見て。これは誰に貰った?」
胸元のお守りを示すと、初めて魂は嘆く以外の動きを見せた。手らしき物を胸元に、そこで揺れるお守りを握る。
『あ、ぅあ……』
それに気付いて、小さく声を上げながら少しずつ、少しずつ、嘆くだけの魂の成れの果てが人の形へと戻っていく。ゆっくり、ゆっくりと。
アサギの声が柔らかく励ますように続ける。本音を言えば例の声が響くときのように背中がじわりと痛み始めているけれど、それでもその魂へ語りかけて少しずつ注ぎ込む。元に戻れる力を。
「これがあんたを助けてくれた。あんたは死んだけど、魂は刈られてない。ここに縛られる必要もない。在るべき場所へ帰れるんだ」
形を取り戻した、そばかすだらけの少年はアサギと同じ年頃。くるくるとカールを描く柔らかそうな髪、少しだけ上を向いた特徴的な鼻。瞳は未だ不安げに揺れている。
『……母、ちゃん……』
「そうだよ、ちゃんと思い出して思い描いて、故郷に還れ」
言われてかつての記憶を掘り起こすようにぽつぽつ呟く。
『海の近く……、家のそばに、おっきなヤシの木があって……』
「うん」
『……小さな家だけど、あったかい……』
家を思い出したか涙を溢すばかりだった瞳に光が満ちて、
「ほら、もう逝けるだろ」
小さな声でうん、と頷いて長い間死の恐怖に縛られ続けた嘆きの魂が消えていく。
一番帰りたい、愛する家族の元へと。
『気を付けて…………、アレに、連れていかれないように……』
最後にありがとうと呟きが聞こえアサギは誰もいなくなった腕の中、古びた貝殻のお守りを握りしめた。
「……何だぁ?今の声ー……」
「うー……うー……」
突如響き渡った咆哮と地響きのような足音にカルはすっかり怯えきってピタリと動きを止めてしまい、アーセルムに抱きついたままひたすら呻いている。
「カール~?カルくぅん?」
「ひ、……っぅ、ぅぇぇ……っ」
(あららー、泣いちゃったー)
どうしよう、と頭を掻くアーセルムの胸にぐりぐり額を押し付けてくるカルがしゃくり上げながら呟いた。
「アム兄の所為だぁ……っもう嫌だぁぁ……帰る!」
「あー、うん、ごめぇん。でも歩かないと帰れないよぉ」
「やだぁ、もう歩けない、怖い……っ」
女子か!とここにきてついに突っ込みかけたけれど、そもそも嫌がるカルを連れて来たのは自分だ。いや、ケイも面白そうとか言っていたしアサギも止めなかったが。
怖い、怖い、とえぐえぐ泣き出したカルにどうしたもんかと頭上を仰ぐ。とっくに役目を果たさなくなった吊り下げ式のランプがゆらゆら揺れているだけの低い天井に答えはもちろん書かれていない。
(気が紛れたらいいのかぁ?)
そういえば子供の頃、同じように肝試しをして――無論、こんな本物の幽霊船なんかではなく、大人が仕掛人の子供騙しだ――、途中怖くて歩けなくなった女の子がいた。
しかしお調子者のガキ大将がそこから何を思ったか下ネタを連発して彼女が怒り出し、その彼に文句を言いながら無事にゴールへ辿り着いた事がある。
その後女子達から信じられない!とブーイングを食らった彼は今、例の彼女と目出度く結婚し2児の父だ。
(……下ネタくらいじゃ気は紛れそうにねぇなぁ……)
なんせカルとて海賊の一員。下品で生々しい下ネタなど親父組から嫌という程聞かされているし、何よりもケイとアサギの声はほとんど毎晩のように響いてくるのだから免疫はあるだろう。
(怪談は逆効果だしぃ、恋バナ?誰のだよぉ……)
うーん、と思い唇に指を当てて……ピコン、と思い付く。
「カル~」
ぐす、と鼻を鳴らして恐る恐る顔を上げたカルの唇をブチュ、と塞いだ。
下へ降りる階段を見つけて降りている途中、
「何すんだ!!」
カルの怒鳴り声が聞こえた。
「……何やってんだ?」
「……さぁ?」
声の質から得体の知れない物に出会ったわけではなく、アーセルムに向けて怒鳴ったのだろう。後に続いたアーセルムらしき声は小さくよく聞き取れない。まだ階段まで到達していないようだ。アサギは手すりから身を乗り出して階下を覗くが予想通り二人の姿はない。
「こら、危ねぇ」
手すりが崩れたらどうする、と腕を掴んで引き寄せる。
「……近い」
というより既に密着状態だ。歩きにくい、と腕を突っ張ると簡単に体は離れた……が、手を繋がれた。
「……何これ」
「怖いから手繋いでて~」
「嘘つくな」
振り払う前に指が絡んでキュ、と力強く握られる。所謂恋人繋ぎのそれに、反対の手でケイの指をこじ開けようとするが握力が半端ない。軽く痛い。
「幽霊は怖くねぇけど、怖ぇのはホントだぞ?」
「何言ってんのかわかんない」
そう、感じたのは恐怖。
嘆くばかりの魂を昇華させた時の彼が纏っていた、儚げな気配。言葉は強く優しかったのに彼の気配はとても薄く揺らいだ。この子はここへ引き止めておかないとどこか遠くへ行ってしまう、そんな恐怖を感じるほどに。
「まぁいいからいいから」
ケイが何かを言い出したら抵抗するだけ無駄な事をこの数ヵ月で早くも悟って仕方なくそのままついていく。
その彼と繋がるのはリツが縋っていた側で、やはり思い出すとどことなくモヤッとなるから無理矢理記憶から締め出した。
「~ったぁ。お前ねぇ、先輩殴るとかありえなくねー?」
「知らないっすよ!そもそもアム兄が変なことするからだろ!」
プンプン怒りながら側を離れないけれど、どうやら足は動くようになったらしい。無意味に足踏みしているそれにくすり、と笑い歩き出すと慌ててしがみついてくる。その足が止まることはない。
(うーん、案外効果的~)
俺天才、と自画自賛。足を痛めてなければ抱えてでも連れて帰ってやれたのだが、と足に意識を集中した所為でツキン、と痛みが駆け抜ける。
(……こっちも気が紛れたら何とかなるよなぁ)
別に知られて困るわけではないが何となく今のカルに知られるのはマズイ。パニックになってまた泣き出しでもしたら非常に困る。欠片でもその泣き顔が可愛い、と思ってしまったから尚の事。
(これが吊り橋効果ってやつー?)
いや、別に自分は怖くも何ともないからどうなのだろう。
何となく無理矢理触れた唇に指を当てた、時。
『グォオォオォォォォ!!』
「ひっ!?」
かなり近い位置で先程の咆哮が聞こえ思わず息を飲み、ひきつった声を洩らしたカルの腕を掴みながらサッと視線を走らせすぐ側の部屋へと滑り込む。
カルを背に腰の刀剣に手をかけ物陰に隠れ様子を窺っていると、ドスドスと重たい足音が聞こえてきた。
「ア、アム兄……」
「しぃ」
ゴトンゴトンと別の何かの音をさせながら咆哮の主は部屋の前を通り過ぎて行って、二人は詰めていた息をホッ、と吐いた。
◇◇
「……副長、さっきから変な声が聞こえる気ぃするんですが」
いつ何があってもいいように他の乗員は持ち場についている。しかし操舵手ジルタとリツは甲板にいた。操舵席には代わりにレンドルーが座っている。
「気の所為じゃないでしょう。確実に何かいます」
「増援送らんのですか?」
一瞬ジルタへと視線を向け、考える間を開けて首を横に振る。
「中の状況がわかりません。船長達と行き違いになっても困る。様子を見ます」
アーセルムは船内一の魔術師、剣の腕も立つ。ケイは言うまでもないし、カルとて一流の戦士だ。こちらが早まって増援を出し、事態を悪い方へ進めてしまう羽目になっても困る。
「リミットは明日明朝。それまで各自警戒を怠らないように」
ジルタが指示を伝えるために去り、リツは一人霧に包まれた謎の船体を見つめた。
一人、とは言え甲板では他の乗員が作業している。そうでなければとうに操舵室で引きこもっていただろう。
(何かあったら本気で逃げますからね!バカ船長!)
◇◇
「ぇっくしょぃ!」
丁度その頃階下に落ちた二人と合流し謎の少女を追っていたケイは盛大にくしゃみをしていた。
「……おっさんみたいなくしゃみだな」
「え?何だって?今日こそ潮吹いてみたい?よしわかった」
「何も言ってない!」
本気でされかねないとブンブン首を横に振るアサギに笑って、遠くから聞こえた咆哮に揃って態勢を低くする。ドスドスゴトンゴトン、とちょっと慣れてきた物音が近くで止まり息を殺す。
『ォォ……オォォ……』
まるで強い風が吹き抜けるような音だが、その音は彼らが隠れている場所の目の前をゴトン、ゴトン、と通り過ぎていく化け物の口から洩れている。
しばらく近くを彷徨っていた化け物はやがて離れていった。
「何かもうサバイバルホラーになってきてねぇか」
「ですよねぇ。てゆーかぁ、あいつは何で追っかけてくるんすかー?」
「本人に聞いてみろ」
「やぁですよー。怖いもん。船長聞いてきてくださいよー」
「やぁだ。俺も怖いもん」
『グォオォオォォォォ!!』
彼らが隠れている場所とは反対側の通路に行ったらしい化け物の咆哮が聞こえ、それを耳にしながら通路の先でじっと待っている少女を見る。
あの少女は魂ではないらしい。アサギは誰かの強い思念と言い、化け物も彼女は狙わない。あれはあれで何なんだ、と首を傾げながら化け物に見つからないよう動き出した彼らに合わせてスーっと移動して行く彼女についていく。
向かう先は、さらに下。
「……最下層についた途端沈没、とかなんねぇだろうな……」
「えー、やめてくださいよぉ。俺の相棒炎属性で水苦手なんすからー」
ぺろ、と捲った手首に蜥蜴の紋様。炎族サラマンダーのラネルは一瞬姿を現し、べっ、と舌を出して引っ込んだ。
「……気安く呼ぶな侍従が!って言ってるけど……」
「やー、聞き分けのない子で困ってるんだよねぇ。てゆーか何言ってるかわかんのー?」
「……」
目を逸らして無言になったアサギを一瞬見下ろして
「そういやカルがさっきから一言も喋らない気がするのは気の所為か?」
話題を変える。
言われたカルはアーセルムの服の裾を握ってチラリとケイを見たもののやはり無言。代わりに答えたのはアーセルムだ。
「口開いたら力が抜けるそうですよー」
「何だ、まだ怖いのか?」
幽霊などという実体のない得体の知れない相手ではなく、得体は知れないけれど実体がある相手だというのに。
(サンリがいるから大丈夫なんだけどな……)
カルを守る水棲族、蛇に名前をつけるように言ったのはアサギだ。
名が契約になりよりいっそう二人の絆が強くなり、逆を言えばその名が相手を縛る鎖にもなり得る。そこは互いの信頼関係により良くも悪くもなる。
サンリ、と名前をつけられたとき件の蛇はアサギにしかわからない喜びのオーラを放出していたのだから、本当にカルが大切で彼を選んだのだろう。まだラネルや他の使い魔達ほど気軽には表に出られないが、名がついたことでサンリの力も少しだけ強くなった。
彼――だか、彼女だか――はカルを守るためなら死力を尽くすはず。幽霊程度なら遅れをとるはずもないし、あの化け物ならカルが立て直すか、カルを守る仲間が来るまでは守りきれる。
ただ、それ以上になるとまだサンリの力では及ばないのがやや不安の芽ではあるのだが。
「……沈没しないように祈っとけ」
ケイは肩を竦めて言いながら、さらに濃さを増した闇へと足を踏み入れた。
前を歩く少女のぼんやり光る体と化け物避けに最小限まで小さくしたランプの灯りしか光源のない暗闇。はぐれないよう小声でとりとめのない会話を続けて歩き、やがて少女が足を止めたのは一枚の扉の前だった。他の扉とは明らかに違う、古びた魔封じが多量に貼られた両開きの頑丈な扉だ。
しかしその魔封じはことごとく破れ、ただの紙切れと化して役目を果たさなくなっている。
「……見るからにヤバイ物件だな」
「船長ー、俺ちょっと入りたくないっすわぁ……」
「安心しろ、俺もだ」
唯一アサギだけ何も言わず一歩扉へ近付いた。少女はそんな彼を見上げる。
「……封じられてたのがあの化け物だったら、逆にここには何もいないんじゃない?」
「違ったらどうすんだ」
「どっちにしろ封じは破られてる」
『助けて……みんな、助けて……』
アサギの服を掴んでそう訴え、少女はスーッと消えた。その途端
『グォオォオォォォォ!!』
と一階分上から咆哮が聞こえこちらへ向けて駆けてくる足音。
「ヤバイ、見つかった」
「あーもう!入ればいいんだろぉ!?」
カルが嫌がって強く服を引いたけれど彼を引き摺るように開けた扉の向こうへ入り、中に意識をやる間もなく乱暴に扉を閉めると、ケイが拾った鉄の棒をノブに差し込んで扉から離れる。
緊張した面持ちで扉を見つめるケイの腕にドン、とぶつかったのはアサギの背だ。
「アサギ?」
「……っ」
肩に置いた手がその尋常ではない体の震えに気付く。
「おい、アサギ。どうした」
「……、大丈夫、これは“俺の”じゃない、大丈夫……、大丈夫……」
まるで自分に言い聞かせるかのように小さく呟いてギュッと体を抱き締めている彼を何となく後ろから抱き締めてやり、辺りを見回した。
いつからそうやって燃え続けているのか、青緑の炎を灯す燭台。
気付かなかったが足下には黒ずんだ円。それに合わせて丸く設置されている燭台の炎に照らされる円は恐らく血文字の魔方陣。
そしてアサギはケイの腕の中、震えながら“ソレ”を見つけた。
「宝珠……?」
円の中心に台座が1つ。その上には丸い何か。
「嘘、何で……これがここに……」
フラ、と歩き出しかけたその瞬間
『グォオォオォォォォ!!』
化け物の体当たりを受け、扉が大きく歪んだ。
全員ハッと扉を振り返る。二度目の体当たりで鉄の棒は弾け飛び、ヌゥと現れたのは巨体の化け物。
まるで何かに潰されたかのような顔面、眼球だけがギョロギョロ動き金具で固定されていたらしい口は無理矢理抉じ開けた所為で裂けている。そして手には大きな鎌。
「ちょっとここまできたら倒すしかなくねぇか?」
恐らく魂を求めて追ってくるようになったその化け物を倒そうと考えなかったわけではないが、それを倒した途端船が沈没したら困る、と今まではただ逃げ続けていたのだがこの室内で完全に対面してしまった今逃げる事の方が難しい。
ケイはアサギを背にかばい武器を構えた。同時にアーセルムとカルもそれぞれ武器を構える。
その化け物は
『ガァァアアァァァ!!』
と一声吠えると真っ直ぐ台座へと向かっていき、彼らはそれぞれ左右に飛び退いて避けた。
「台座を守ってる、のか?」
ケイの呟きに答えられる者はいない。化け物がその巨大な鎌をブン、と振り回し始めたからである。当たれば即死は免れないだろう。
「てゆーかぁ、こいつどうやって倒すんですかー?」
「大砲持ってこい、大砲」
「謎の美女がいないんで無理っすねぇ」
二人はこの緊迫した状態でもどこか気の抜けた弛い会話をしていて、正直カルは関心していいのやら呆れたらいいのやら複雑な心境だ。でもやはり彼らがこうだからこそ頼り甲斐があるとも思う。
(うん、……二人共かっこいい)
憧れの二人は絶妙なコンビネーションを見せている。アーセルムの炎で相手が怯んだ隙にケイが斬り込み、相手がケイへ向かおうとするとまた炎を放つ。カルの役目は、と言えば先程から台座を気にしているアサギを守ること。とは言え、年長二人の攻撃に化け物はその場から動けずにいるからあまり役だってはいないが。
(……宝珠、じゃ……ない)
アサギは戦いを目の端に捉えつつもそう判断した。似た物に見えるけれど、全くの別物。もっと禍々しい陰鬱な気配を感じて眉をひそめる。そして気付いた。
魂を刈る化け物。陰鬱な珠、みんな助けて、と言う少女の言葉。
「……っ!人の、魂……!?」
化け物が肯定するかのように大きく吼えた。
吼えながら横凪ぎに振られるその大鎌を避けたアーセルムが右足をもつれさせバランスを崩す。
「アム!」
「アム兄!!」
ケイとカルの声が重なり、カルがアーセルムの前に飛び出すのに合わせて鎌が降り下ろされるのがアサギの目にはまるでスローモーションの様に映った。
剣を構えてはいるけれど、あの鎌はあんなものでは受け止めきれない。サンリが水の膜を張るが紙一重で間に合うか間に合わないか、という程に相手のスピードは早い。それでもサンリはカルを守るだろう。
わかっている、わかっているのだけれど。
(もし間に合わなかったら――?)
気付いた時には手の平を向けていた。
背中が焼けるように熱くなる。ここに自分が従えられる要素は何もない、が、例え世界が別れていても空は1つ。
運ばれてくる空気、雲。想像して集めて、
「神風……っ!!」
放つ。
その瞬間、彼は暗闇の中うっそり笑った。
「――やっと、やっと見つけた……」
その瞬間、彼は自室で唇を噛んだ。
「――バカな真似を……」
無理矢理開放したその反動に膝から力が抜け床に崩れ落ちる。視界はチカチカ明滅して冷や汗が滴り、背中は耐え難い程に熱い。
それでも何とか顔を上げた先ではケイの刀が化け物の首をはね飛ばした所だった。ゴトン、と落ちて転がる首が台座に当たって止まる。
残された巨体が鎌を振り上げ…、そのまま後ろへ轟音と共に倒れた。
『――サヨナラ、×××』
――嫌なの、もう嫌なの。
――どれくらい苦しいかわかる?どれだけ辛いかあなたにわかる?
――仕方ないってナニ?
――ダッタラ、代わってよ、あなたがしてよ、代わって、 カ ワッ テ、 カワ ッテ カ ワ ッ テ、 ア ナ タ ガ
化け物の体から立ち上ぼり辺りを漂うモヤが吐き出し続けるその毒をなんとか立ち上がり側へ近付いたアサギの手の平が受け止める。
もう一度熱を帯びた背中に痛みと恐怖を感じながら握り締めた指の間から溢れるモヤ。そこから零れて落ちるのは最後の思念。
――ワタシ ハ タ ダ、 モウ、イチド
あの人に会いたかった。
暫くの間、誰も喋らなかった。
その沈黙を破ったのはいつの間にか姿を現した謎の少女だ。
『助けて……』
彼女は宝珠を指し、助けてと訴え続ける。
「うん……」
他の3人が見守る中、アサギの手が宝珠にかかりただ一度トン、と押しただけでそれはいとも簡単に、何故今まで船の揺れで落ちなかったのかというほどに呆気なく転がり床へと落ち、砕け散ったそこからは沢山の魂が飛び出して次々と天へ昇っていく。
「これは……」
今にも倒れそうなアサギの体を支えたケイが呟いた。
「この部屋の主に集められた魂……」
その呟きに答えながらアサギは思う。彼女は解放されたい想いを募らせ、そしてやがてその想いは他人へ牙を剥いたのだろう。人の姿を捨て、ただ魂を刈り取る為の化け物に成り果てた。
(でも、何で……?)
砕けた宝珠に似た珠を見つめる。
誰が彼女にその道具を与え道を踏み外させたのだろう。ただの硝子に戻ったその珠は答えない。
やがて最後の一つが珠から出てきてゆらりと人の形をとった。髭をたくわえた壮年の男は醸し出す雰囲気から船長なのだとわかる。
『……アリガトウ……』
強面に安堵の微笑みを浮かべ、涙ぐんだ彼はそのまま消えて後には謎の少女がぽつりと残されるが、彼女もまたぺこりと一礼するとスーッと消えていった。
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