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 その日は、目が覚めるとまだ夜明け前だった。

 …え?
 こんな時間に目が覚めるの、初めてじゃない?

 アイリスはベッドから起き出して、窓辺へと裸足で歩く。
 カーペットがフカフカしてて裸足でも充分気持ち良いわよね。
 こんなフカフカなカーペット、母さまと暮らしてる頃には知らなかったな。
 窓を開けると夏の夜の風が部屋に入って来た。
「明け方はやっぱり少し風も冷たいな…」
 東の空が少し白み始めている。
 綺麗だな。
 最期に綺麗な物が見られて、今回の「今日」はラッキーだわ。

「お…はようございます」
 無表情の侍女が洗顔用具を持って部屋に入って来て、窓辺に立っているアイリスを見て驚いた表情を浮かべた。
「おはよう。何だか目が覚めちゃって、夜が明けて行くのをずっと眺めてしまったわ」
「そうですか」
 アイリスは窓辺からベッドの方へと行くと、室内履きへ足を入れ、洗面台のあるお風呂の方へと歩き出す。
「また裸足で…」
「ごめんなさい。つい、ね」
 侍女が眉を顰めたので、アイリスは苦笑いを浮かべた。

「アイリス様、本日はヴィクトリア様と共に王宮へお伺いする日となっております」
「わかりました」
 侍女が無表情で言うので、アイリスもいつも通り事務的に答える。
 たまにと違う事をして、この侍女が表情を変えるの見るの、結構好きかも。

「アイリス、おはよう」
 馬車が停まる玄関前に出ると、ジェイドが声を掛けて来た。
「ちょっとジェイド『様』はどこに行ったのよ?」
「おっと。アイリス様、おはようございます。…どうもアイリスが『お嬢様』だと言う事に慣れなくてさ。顔はヴィクトリア様にそっくりなのに他が違うからなあ」
 恭しく頭を下げて、頭を上げるとまたアイリスを呼び捨てにして悪戯っぽく笑うジェイド。
「私は……」
 アイリスはいつものように次の台詞を言い掛けて、敢えて言葉を止める。
「?」
「…ジェイド」
 不思議そうにアイリスを見るジェイドにいつもと違う言葉を言おうとする…と、物凄く抵抗を感じた。
 唇が動かしにくいし、声も出にくい。
 そう言えば前にも決まった台詞とは違う事を言おうとしてみたけど、結局唇がまったく動かなかったんだったわ。
 でもその時よりは動く、気がする。
「ば…しゃ…」
 必死に声を出すアイリスを首を傾げてジェイドが見ている。

「……」
 口をパクパクさせるアイリスにジェイドの首がますます傾いた。
 …駄目だ。唇は動いても声が出ない。
 たった一言「馬車に乗らないで」って言いたいだけなのに。

「…わ、私、お姉様みたいに生粋のお嬢様じゃないもん。でも私が母さ……市井に住まっていたの、七歳の時までよ?明日、十六歳になるんだから、もうガードナー伯爵家に来てからの方が長いわ」
 諦めていつもの台詞を言うと、滑らかに声が出る。
「もうそんなに経つのか…」
 ジェイドが感慨深げに言った。

 ヴィクトリアが出て来て、いつもの会話をして、馬車に乗る。走り出した馬車の中でも会話はやはりいつもの遣り取りだ。

 何のどんな力が働いて、何のために「今日」を繰り返してるのかな。
 神様の悪戯なのか。私のこの世への未練なのか。繰り返したからと言って何が変わる訳でもないのに。
 これまでにも何度も同じ事を考えて…でも何もわからない。
 こんな不毛な繰り返しなら、いっそもう目が覚めなければ良いのに。
 いつもの会話をしながら、頭の片隅でそう考える。

 …そろそろだわ。
 アイリスはギュッと目を瞑る。

 ドゥンッ!
 と馬車に衝撃。

 ガシャガシャンッ!
 凄まじい音と、身体があちこちにぶつかり、そして宙に浮く感覚。
 バシャーンッ!!
 水の音。

 ……苦しい。
 ならもう意識がないのに、今自分が水の中にいるのがわかる。

 ふと、アイリスの脳裏に母親の姿が浮かんだ。
 市井の暮らし。何気ない日常。
 そして倒れた母親。
 葬儀の場面。
 泣き崩れるお父様。
 それから、ガードナー伯爵家に来た日。
 お姉様の笑顔と、お義母様の眉間の皺。
 ジェイドが手を繋いでくれていた。
 そして、初めてウォルター殿下に会った時。
 
 …ああ、これ、走馬灯だわ。
 何度も「この時」を繰り返したけど、走馬灯を見たのは初めて。
 もしかして、今度こそ「今日」の繰り返しが終わるのかも知れない。



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