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8 約束のない逢瀬
しおりを挟む女性は四十代くらいに見えた。真っ直ぐな黒髪は肩上で切り揃えられている。黒っぽいスーツ姿で手に白い袋を持っている。白い袋から長葱が半分出ている。
「母さん」
お客さんが女性に向かって言った。女性が早歩きでこちらへ近付いて来る。
「最近帰りが遅いと思ったら……」
お客さんに詰め寄った女性はぶつぶつ言いながら私の方をチラッと見た。再びお客さんに向かって言い聞かせている。
「あなたは一分一秒大切なんですからね。あなただけでもちゃんとしてくれないと母さん、おばさんたちにバカにされるのよ?」
お客さんは何かを諦めているような昏い眼差しを彼女へ向けた。
「……うん」
お客さんの静かな声が聞こえた。女性が彼の手首を掴んだ。怒っているような乱暴な足取りで彼を連れて行く。
「お待ちなさい!」
咄嗟に発した声が公園に響きました。音芽の想い人を連れ去ろうとしていた女性が足を止めました。振り向いた彼女に険しい目付きで睨まれました。それでも怯んだりしませんわ。
「子供は親の所有物みたいな物言いですのね」
僅かに微笑みました。そうだとしても彼は救われている部類なのだと悔しくて泣いてしまいそうです。
振り向いてこちらを見ていた彼へ伝えます。
「誰かの言いなりの人生なんて、あなたの人生と言えますの? 一分一秒の使い道を決めるのは、あなたですわ」
彼は目を見開いた後、思いを呑み込むように瞼を伏せました。
「何よこの子……。変な子。蒼行くわよ!」
女性が再び歩き出します。去り際、彼と目が合いました。
公園を後にする二人の後ろ姿を無言で見送りました。
次の朝、薄く雨が降り始めた。持っていた濃い青の傘を差す。
通学中に思い出していつもと違う道を選んだ。桜公園の方へ道路を下る。
昨日は暗くて気付かなかったけど、公園の花壇には淡い青紫色の紫陽花が咲いていて朝の光と雨粒で幻想めいた美しさだった。
背を屈めて紫陽花を見ていた。
「店員さん!」
声が聞こえ体が震えた。ゆっくり身を起こして公園の入り口を見た。傘も差さず息を切らした様子で、お客さんが立っていた。昨日から彼の事ばかり考えていた。会いたくて約束もしてないのにここに寄った。それなのに。
「家を出る時に見掛けて……」
彼は側へ来て息を整えている時分、理由を口にした。高校の制服らしい白いシャツと灰色のズボン姿で、鞄は持っていたけど傘を差していない。慌てて走って来てくれたのかもしれない。
幾ら雨が小降りといっても濡れてしまう。持っていた傘を彼へ差し掛けた。大きめな傘でよかった。
「俺、決めた。本に携わる仕事に就きたい。その為に勉強する」
私へそう教えてくれた。晴れやかな表情だと思った。
「ありがとう。はっきり決められたのは君に……君たちに出会えたからだ」
まるで憧れの人を見つめるような眼差しで言われた。
顔が近くなる。
「私」が好きなのは……。「彼」が好きなのは……?
思考への答えは出さず目を閉じた。
パサッと何かが落ちたような音に気付いて、そちらへ顔を向けた。公園の外……歩道側に濃い緑色の傘を差した人がいる。
見覚えのある金髪に視線を奪われた。
「わ、兄貴、ごめん」
言い残し走ってこの場を離れて行くその人を追いかけようとした。
「行かないで」
掴まれていた腕に力を込められた。引き留めてきた人物の顔を見上げる。それが懇願だったような瞳にどうする事もできない。
二度目の口付けを交わした。
心にずっとあった小さなノイズが一時、雨音で掻き消された。
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