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一章

4 要求

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 岸谷君の目が大きく見開かれるのを眺めていた。

 これ以上無理。どうしてもつらくて下を向く。毅然と見返してやりたかったのに。

「晴菜ちゃんと岸谷君がキスしてるとこ見ちゃった。ごめんね。その場にいるって言い出せなくて。――二人がそういう関係なの知らなかったからショックで」

 目を見れない。彼がどんな表情をしているのか知る余裕もない。自分の気持ちを伝えるのに精一杯だった。多分今、私の顔まっ赤になっていると思う。

「教えてくれればよかったのに」

 やっと顔を上げて言いたかった事を言えた。ちゃんと笑えているだろうか。

「坂上、ちがっ……」

「明ちゃんごめんね!」

 晴菜ちゃんが私の眼前へ移動し言い放った。何か伝えようとした岸谷君を背後に隠すかのような動きだった。
 女の子らしい華奢な掌で私の両手を包み説明してくる。

「私……言えなくて。岸谷君とは付き合ってるとかそういうのじゃないから! 明ちゃんにこんな事知られたら私……嫌われると思って言えなかった」

 綺麗な瞳が目の前で悲しそうに潤み伏せられた。

「私は聡ちゃんが好き」

 静かに、だけど力強い言葉で晴菜ちゃんが宣告する。
 その口の動きをどこか虚ろに見つめていた。背中に微かに痛みが走る。過去、緊張した時にも感じたそれが冷たい汗を呼ぶ。

「ずっと好きだった」

 長い睫毛が持ち上がり隠れていた双眸がこちらを向く。黄みがかった茶色。瞳の色も大好きなものの一つだったのに。
 悲しいのを堪えているから眉間に皺が寄っていたと思う。そんな顔で彼女の目を見返した。
 晴菜ちゃんは私へ言い聞かせるように口にした。

「どんな事をしても守りたいものってあるよね。私はその為に友達も利用するし他人の幸せも踏みにじれる。本当の自分も偽れる」

 私は傷付いていた。たった一人の友人が吐露した胸中が酷く歪んでいるように思えた。
 しかも更に厄介だと感じたのが彼女の目だ。内容の暗さに反してとても澄んでいる。まるでそれが正しいと信じ切っている様子に見えて背筋がゾクッとした。

 友人の目が笑みの形を作り私から距離を取った。その際小さな囁きが聞こえた。

「えへへ。明ちゃんは甘いなぁ」

 一歩後ろへ離れた彼女はにこやかに切り出した。

「ねえねえ! すっごく気になってるんだけど二人って本当に付き合ってるの? 何か信じられないなぁ」

 先程までの雰囲気と印象の変わった明るい声で……今、一番追及されたくない話題を衝かれた。

「えっ?」

 思わず出た声も裏返って高く変な感じになってしまい、めちゃくちゃ怪しい私の反応。つい右隣に立つ沢西君の顔をチラ見する。

「ウッフッフ」

 晴菜ちゃんの含み笑いに再び目を戻す。彼女は自らの口元を押さえてニマァと笑った。

「本当に付き合ってるなら証明して見せてよ」

「しょ、証明……?」

「好き合ってるならキスくらいできるよね?」

「おいっ!」

 晴菜ちゃんの要求がとんでもなさ過ぎて目が点になりそうだよ。岸谷君が声を荒げて彼女の暴挙を止めようとしてくれてる。

 こんな時に……私はぼうっとしていた。何か、私には関係のない次元の話が展開されている気がして。
 これまで片想いはあっても両想いとか誰かと付き合ったりといった経験もないし、もちろんキスなどという高レベルな接触に挑戦した事もない。
 しかし今、直面しようとしていた。この要求を回避できなければ私も沢西君も……恋人でもない、好きな人でもない人とキスしてしまう事になるのだ。私だけならまだしも、沢西君に申し訳なさ過ぎる。

 何とか打開策をと必死に考えを巡らせている時、事もなげに言われた。

「できます」

「っ?」

 私は勢いよく右へ振り向く。

 沢西君もこっちを見ていた。

 えっ? えっ? 展開が目まぐるしくて付いて行けない。
 待って。私たちは「フリ」だから。本当にするのは凄くまずいんだって。沢西君には好きな人がいるでしょ? それって好きな人への裏切りじゃん!

 それに……。私の意識は密かに岸谷君の反応を探っていた。
 私、別の人とキスしてるところを岸谷君に見られるの嫌だと思ってる。

 しっかり未練を抱えている自分に気付いてがっかりした。

 そうこうしている内に沢西君が眼鏡を外した。近くにある机の上にそれを置いた後、私と向かい合った。眼鏡を掛けていない沢西君ははっきり言って格好よさが増している。紛うことなき美男子だ。直視できずに目を下に逸らした。

 ハードルが鬼のように高いのだと、この時やっと悟った。震えがくる。

「すみません。やっぱり今日はやめておきます。彼女とは今日付き合い出したばかりでオレの方から半ば一方的に交際を迫った経緯があるので人前でするっていうのもちょっと恥ずかしいですよね? 無理させて嫌われたくないですし。もっと仲が深まるまで待ってもらえませんか?」

 沢西君の言葉にハッと己の目が開く。

「……そうねぇ」

 晴菜ちゃんが沢西君の申し入れに考える素振りで呟く。

 私は心底自分が嫌だった。足を引っ張っている。自分の事なのに沢西君任せで。嫌悪感に太腿の横で握ったこぶしを震わせていた。

「大丈夫! できるよ」

 口から飛び出た声は放課後の教室によく響いた。言ってしまってから我に返る。

 しまったぁ! 黙っていればやり過ごせた場面だったのに?

 正面にいる沢西君の顔を見るのが怖い。きっと凄く呆れているよね。「ごめん!」と心の中で詫び斜め下を向く。

「じゃあ見せてもらおうっと。二人がどれだけ仲よしさんなのか」

 晴菜ちゃんは楽しげだ。こんなに無情な子だったなんて。

「坂上先輩、こっち向いて」

 言われて、緊張でカチコチに動きが重い体を声の方へ向ける。顔は下に逸らしたまま。

「こっち見て」

 要求に何とか視線を上げるけど沢西君の目を見る頃には動悸が激しくて、きっと泣きそうな困り顔になっていたと思う。恥ずかしさで頬が熱い。

 もうこの流れは回避できないのかな? 眼前の味方を必死に見つめた。アイコンタクトで伝わらないだろうか。

 そんな私をきょとんとした目で眺めていた相手は微笑んだ。

 おお! 何かいい策があるのかな? 沢西君の顔が近付いてくる。


「目、閉じて」

 何か策があるに違いない。
 囁かれた言葉を信じ、ぎゅっと目を瞑った。
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