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一章 本編

36 誘い

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 辛い辛い辛い、悲しい。

 愛する人が私の知らない女の人と付き合ってる。私が知らない時に。



 辛い辛い辛い、悲しい……私は独りだ。









 目が覚めるとそこはもう見慣れた狭い和室で、私は顔をしかめたまま胸を押さえた。
 泣いていたのは悲しい夢を見ていたから。……でももう内容を思い出せない。


 少し早く起きてしまったみたいだ。時計はまだ五時。父のいびきがやかましいので二度寝は無理そうだ。


 起こさないように慎重に父を跨いで隣の部屋へ移動する。


 小学校入学時に買ってもらったシンプルな学習机。その奥にある窓を開ける。

 網戸の向こうに見える、まだ紺色の空と薄く浮かぶ白い月が綺麗だ。明け方の涼しい風と草の匂い、微かに聴こえる虫の音も心地いい。

 椅子に座って外を眺めている。机に頬杖をついて。



 さっき見た夢はもう散り散りに消えてしまったけど、強く胸に残った面影。



 私はまた同じ過ちを繰り返すのだろうか?

 私が愛しているのは――……。













 学校への登校中、歩道橋の上で声をかけられた。

「由利花ちゃんおはよう」

 後ろから小走りでやって来たのは龍君だ。

「おはよう龍君。……どうしたの?」

 何だか今日の龍君はいつもと違いそわそわしている気がした。視線が合わない。


「あのさ。次の日曜日、うちの父さんと由利花ちゃんのお父さんが釣りに行くの知ってる?」

「釣り?」


 何か言ってたかなぁと思い起こしてみる。


「あー……。そういえば昨日の夜、お父さん鼻歌歌いながら釣り道具の手入れしてたなぁ。何も聞いてないけど、そっか。龍君のお父さんと釣りに行くからあんなにルンルンだったんだ」


 父も母も釣りが趣味だ。私も小さい頃から連れられて行ってた。私たちが住んでいる所からは車を使って二時間くらいで海へ行ける。


「もしよかったらさ、僕たちも一緒に行かない? 父さんが連れてってやるって言ってくれたんだ」


 龍君と釣り……!

 正直……父や母のように釣りが大好きという訳でもなく、今まで何となく付いて行ってただけだった。時々釣りをして、時々持って行った道具で絵を描いたり、時々歌って、時々潮だまりで小エビをつついて遊んだりしているだけだった。……結構満喫してる? とにかくいつものんびりする休日だったのだけど……。

 龍君と釣りに行った事なかったなぁ。

 何だろう。すごくワクワクする。



「……行きたい」

 そう呟いた。龍君の表情がどことなくぱあっと明るくなったように見えた。けれど私は失言をしたみたいに手で口を押さえる。

 待って……。いいのかな? いくら親がいるとは言っても龍君と釣りに行ってもいいのだろうか? 志崎君と付き合ってるから一応志崎君に確認した方がいいのかな……。

 そこで私は妙案を思いついた。

「あっ! そうだ。咲月ちゃんたちも誘っていいかな? 皆も誘われたら喜ぶと思う!」

 笑顔で提案したのだが、何故か龍君の顔は曇った。

「あ……、うん」

 そう言ったきり、彼はだんまりしてしまった。


 あ、あれ? 私また何か失言したかな?









「ごめんパス!」

 咲月ちゃんを誘ってみたけどキッパリハッキリ即決で断られた。

「私、昔一度釣りに連れて行かれた事があって。そこで見た虫が気持ち悪くて二度と行かないって決めてるの」

 咲月ちゃんは何かを思い浮かべた様子で身震いしている。

「そ、そうなんだー。分かった」

 諦めるしかない。


「何の話してるの?」

 登校してきた沢野君が話に加わった。

「あ、おはよう。今度の日曜日、鈴谷君のお父さんと私のお父さんが釣りに行くんだけど一緒に行こうって咲月ちゃんを誘ってたの」

 私が説明すると、沢野君が目を輝かせた。

「僕も行きたい!」

 沢野君がそう言った瞬間、咲月ちゃんの目が見開かれたのを私は知覚した。

「私、何だか釣りに行けるような気がしてきた。虫ももう大丈夫かもしれない。私もやっぱり――」

「あ、でもごめん。僕その日ピアノの発表会があって行けないや。……また誘ってもらえると嬉しいな」

「ごめん、私もやっぱり虫ダメそうだから行けない。本当ごめん……」

 咲月ちゃんが急に掌を返すような発言をしかけたけど、沢野君が思い出したように用事で行けない事を口にするとあっさりその発言を引っ込めた。


 私は自分の口を手で隠しプルプルしながら笑いを堪えた。けれど目元のニヤニヤは隠せていなかったと思う。咲月ちゃんに恨みの籠ったような目で睨まれた。


 案外、咲月ちゃんって分かり易いよね。
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