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金魚
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空を真っ白な線が割って進んでいくのを、ずっと見ていました。
すっと伸びた線は空を二つにするけれど、
後ろから境界が薄れてまたひとつになります。
あの飛行機のように神様が引いたあらゆる境界線が、
いつか薄れていきますように。
いつの日か、言葉も距離も空気も超えて、ひとつになれますように。
私たちの世界は町ごとに空気が違います。
隣町へ行くにも、
私たちは金魚鉢のような形をした携帯型呼吸補助装置が必要です。
金魚鉢、の通称で呼ばれるそれは、
余所の町に於いて私たちの命を保護するものです。
余所の町といえど同じくヒトが住む場所ですから、
自分の町とそれほど違いがあるわけではありません。
ですから、たまに勘違いや余所の町に生活するストレスから金魚鉢をはずしてしまうヒトがいるそうです。
そのヒトたちは、余所の町の空気を大きく吸い込むと、ほんのすこし幸せそうな表情を浮かべそのまま死んでしまうそうです。
お互いの町同士の交流は多いです。
私はこれから余所の町に行きます。
いままで私の町から誰も訪れたことのない町です。
私は一匹の金魚を連れて行きます。
「金魚鉢を被ってる君が金魚を飼ってるなんて、おもしろいね」
そんなふうに誰かと話が弾んだら素敵だと思いました。
長い長い、いくつもの町を越える汽車に乗って私は故郷を離れました。
汽車の中は金魚鉢をかぶったヒトがいっぱいいます。
車掌さんも金魚鉢です。
余所の町で暮らすということ。
拠り所がないということ。
私の仕事は、この町に私たちの町の最初の拠り所をつくることです。
私と一匹の金魚は、ささやかな歓迎会のあとこの町に暮らし始めました。
ヘミン・ファンフィンヨ。
最初に仲良くなったのは、余所の町から来ている金魚鉢の仲間でした。
彼女の町は、私の町とは正反対の遠いところにあります。
初めて聞く町の名前でした。
境遇も仕事も似ていた私たちは、すぐ仲良くなりました。
残念なことに、彼女の任期は終了間近でした。
「壁はあるものだと思った方が、気が楽だから。
仲良くなれないことを嘆くより、
仲良くなれたことを感謝するようにね」
帰る前に彼女は私の金魚鉢に手を当てて言いました。
私も彼女の金魚鉢に手を当てました。
私たちは、一生お互いの顔に手を触れあうことは出来ません。
いつの日かの再会を約束して、彼女は帰りました。
慣れない暮らしの忙しさに息つく間もなかった時期が過ぎ、
ゆっくり考える時間がもてるようになると、
違う生活習慣、風習、価値観にあらためて向き合うようになります。
「ここは余所の町なんだ」
知らず、ため息の出ることが多くなりました。
金魚だけが、私の仲間です。
キュセ・メイリオールト。
好きになったヒトがいました。
この町のヒトで、とてもやさしいヒトでした。
ひとりで暮らす不安や、寂しさを受け止めてくれたヒトでした。
でも、私が余所の町のヒトだからでしょうか。
「君のことは嫌いじゃないけれど、
きっとずっとは付き合っていけない」
部屋で一晩中泣いて過ごす私の横で、
金魚はいつものように泳ぎ続けていました。
金魚鉢から見る世界は、いつでもガラス一枚隔てられています。
部屋の中から見る世界は、いつでもガラス一枚隔てられています。
あるかないかのその壁は、たしかに私たちの間に存在するのでした。
ささやかなホームパーティを開いたこともありました。
紅茶の匂いが香る部屋での安息。
みなさん金魚鉢をかぶって私の部屋でお話をします。
私だけが金魚鉢をかぶっていません。
ここは私の町の空気。
金魚が水面から顔を出して口をぱくぱくとしました。
カールエ・ファス。
彼には、帰るべき町がありませんでした。
自分の町は戦火に焼かれ汚染区域に指定さてしまい帰ることも出来ず、金魚鉢をかぶり続けて余所の町を生きていました。
「死ぬのはいつでも出来る。
いま死ぬ必然性があるかといえばそうでもない。
じゃ、生きるさ」
否定に充ちた肯定。
彼の明るい性格は、闇の深さの裏返しなのでしょうか。
彼は友達の多いヒトでした。
でも、特定の友達と一緒にいるところはあまり見ませんでした。
ファムスタン・ゼビリオン。
彼は、隣町のお父さんと、この町のお母さんを持つヒトです。
子供のうちはどちらの町でも、
金魚鉢を必要とせずに生きることが出来ます。
ただ大人になると、
より多くを吸ったどちらかの空気の中でしか生きられなくなります。
彼はまだ十代でした。
「それでも、いつの日か、
もっと、もっとたくさんの混血が進んで、
空気の壁なんか関係なくなってみんなが普通に暮らせるといいね」
彼は結局どちらの町を選ぶのでしょうか。
大人になってからも、彼は混血であることを望み続けるのでしょうか。
ワシルーミン・ケイタリオスリングン。
この町のヒトですが、一風変わったヒトでした。
「世の中は平等じゃないからね。
全てを手にするヒトは手にし続け、
全てを失うヒトは失い続けるんだよ。
だから他人を問題にしても意味なんか無いんだ。
ただ、自分にだけ問いかけるといい」
豊かな趣味を持っていて、いろいろなことをしていました。
逆にいえば、何をしているか分からないヒトでした。
余所の町の私とも分け隔て無く付き合ってくれました。
ただ、この町のヒトからは変わり者として扱われているようでした。
いつしか時は過ぎ、私の滞在も終わりに近づいてきました。
それなりにしなければならないことはあっても、
私の行動には多くの自由がありました。
ただ私は自分の意志でこの道を選んだけど、
その先まできちんと選んではいませんでした。
帰る日が近づくにつれ、
不安とも後悔ともつかぬ気持ちが大きくなっていきました。
漠然とした気持ちで町を歩き、
硬質な道を踏みしめる度に鳴るこつこつとした音に気をとられたり、木々が風になびくのをただただ眺めていたりしました。
立ち止まって考える時間。
私は何をしてきただろう。
私は何が出来たんだろう。
最後のレセプション。
長い滞在の中で知り合ったヒトたちと挨拶を交わします。
でも、同じ町の友人達より優先されることはないと気づいてしまい、
金魚鉢のガラス越しに取り払うことの出来ない壁を感じます。
仲良くなったといっても、それは知らないヒトに比べれば。
以前からの、同じ町の知人以上に親しくなることは、
とても、とてもとても難しいことです。
嬉しさより悲しさのほうが大きくなってしまいました。
いつものようにひとりになって金魚を眺めました。
心なしか最近色つやが無くなってきた気がします。
「ねえ、君はどう思っているの」
いつも水に取り囲まれ、ガラスを隔てて私と向き合っている君。
私が友達だと信じた金魚は、私のことをどう思っていたのでしょう。
ふと大きな後悔が私を包みました。
「なんで私は彼女をつがいで連れてきてあげなかったんだろう」
金魚も空気が違うので、
こちらの金魚と同じ水槽には入れることが出来ません。
金魚は我知らずいつものようにぱくぱくと泳いでいました。
帰る日の前日、金魚は死んでしまいました。
「明日には帰れたのにね。
友達も、恋人も一緒にいれて上げることが出来たのにね。
ずっと孤独だったよね。
ごめんね。
ごめんね……」
金魚鉢を抱きかかえたまま、私は何度も呟きました。
私より、きっと彼女の方が孤独だった。
ごめんね。
気づかなくて、ごめんね。
彼女の遺骸を私はそっとハンカチに包みました。
せめてその身は、私たちの土地と空気の中に。
私も、私たちの土地と空気の中に。
私は帰りの汽車に向かいました。
長い間滞在した町。
見慣れた景色。
きっと私と本当に触れあうことは無かった町。
余所の、町。
でもよく見ると、ヒトがいる以上、私の町と似通ったところもあります。
ヒトはヒトで町は町。
金魚鉢が私を隔てている以外、そこには何も違うことなんてありません。
気持ちが壁を作っているんでしょうか。
金魚鉢を被っていることの違和感だけが、
ずっと取り払われることなくあります。
なにも変わらない世界。
金魚鉢を取り払っても、なにごともなく生活出来そうな感覚。
ふとひとつの考えが頭をもたげました。
もし私がここでこの金魚鉢をはずしたら、
この町の空気を吸い込んで、
それから、やっぱり私は死んでしまうのでしょうか。
このまま帰ってしまって、私には何があるでしょう。
このいつも私を世界と隔てていたガラスを取り払って、
この町の空気を胸一杯に吸い込んで、
私たちを隔てるものを何もかも無くしたい。
たとえひとときの幻だとしても、
ガラスを超えて、空気を超えて、ひとつになりたい。
眩しさに私は顔を上げました。
木々の間から漏れる光が金魚鉢に当たって虹色に輝いていました。
「今の私にしか見えないモノも確かにあるんだ」
私たちは生まれた町でしか生きることが出来ません。
環境に縛られ続けなければなりません。
それでも私たちは外の世界にでることが出来ます。
制約は常にあるけど、きっと出来ることの方が多いんです。
他の町から来たヒトたち。
この町のヒトたち。
いくつもの出会いから、私はいくつもの孤独を知りました。
でもおかげで、友人といることの喜びも知りました。
孤独がヒトを愛し。
愛するからこそ孤独もまた身近にあるのです。
たとえ同じ町の同じ空気を吸っているヒト同士でも、
きっと分かり合えないことはあります。
たとえ金魚鉢が私たちを隔て、同じ空気を吸えなくとも、
きっと分かり合えることもあります。
金魚のように私たちは水槽の中にひとりで生きているのかもしれません。
でもそれは、きっと悲観すべきことじゃない気がします。
孤独だからこそ大切に出来ることがあります。
触れ合えないからこそ慈しめることもあります。
揺らめく水面から太陽が滲むのを見上げた金魚は、孤独の中で、
何を夢見たのでしょう。
流れる空気の底から遙かなる空を見上げる私は、余所の町で、
何を夢見るでしょう。
帰りの電車に乗ろうとした私は、
深く帽子をかぶった知人に気づきました。
ワシルーミン・ケイタリオスリングンは、
少し緊張した面持ちで微笑むと、私に花をプレゼントしてくれました。
「この花は、町の境を超えても、決して枯れない。
この花はどの町の空気でも育つ。
どんな場所でも関係ない。
当たり前に必要なことを、
当たり前に与えてあげれば、この花は必ず育つ」
両手一杯の花を抱えた私は、泣いて良いやら笑って良いやら。
「ヒトだって変わらないと、僕は信じてる」
私の金魚鉢に手を当てた後、彼は優雅に一礼しました。
「またいつか」
彼はにっこりと笑いました。
「またいつか」
私の言葉は希望であり意志であり夢なのです。
私は花束に埋めた顔に笑顔を浮かべました。
すっと伸びた線は空を二つにするけれど、
後ろから境界が薄れてまたひとつになります。
あの飛行機のように神様が引いたあらゆる境界線が、
いつか薄れていきますように。
いつの日か、言葉も距離も空気も超えて、ひとつになれますように。
私たちの世界は町ごとに空気が違います。
隣町へ行くにも、
私たちは金魚鉢のような形をした携帯型呼吸補助装置が必要です。
金魚鉢、の通称で呼ばれるそれは、
余所の町に於いて私たちの命を保護するものです。
余所の町といえど同じくヒトが住む場所ですから、
自分の町とそれほど違いがあるわけではありません。
ですから、たまに勘違いや余所の町に生活するストレスから金魚鉢をはずしてしまうヒトがいるそうです。
そのヒトたちは、余所の町の空気を大きく吸い込むと、ほんのすこし幸せそうな表情を浮かべそのまま死んでしまうそうです。
お互いの町同士の交流は多いです。
私はこれから余所の町に行きます。
いままで私の町から誰も訪れたことのない町です。
私は一匹の金魚を連れて行きます。
「金魚鉢を被ってる君が金魚を飼ってるなんて、おもしろいね」
そんなふうに誰かと話が弾んだら素敵だと思いました。
長い長い、いくつもの町を越える汽車に乗って私は故郷を離れました。
汽車の中は金魚鉢をかぶったヒトがいっぱいいます。
車掌さんも金魚鉢です。
余所の町で暮らすということ。
拠り所がないということ。
私の仕事は、この町に私たちの町の最初の拠り所をつくることです。
私と一匹の金魚は、ささやかな歓迎会のあとこの町に暮らし始めました。
ヘミン・ファンフィンヨ。
最初に仲良くなったのは、余所の町から来ている金魚鉢の仲間でした。
彼女の町は、私の町とは正反対の遠いところにあります。
初めて聞く町の名前でした。
境遇も仕事も似ていた私たちは、すぐ仲良くなりました。
残念なことに、彼女の任期は終了間近でした。
「壁はあるものだと思った方が、気が楽だから。
仲良くなれないことを嘆くより、
仲良くなれたことを感謝するようにね」
帰る前に彼女は私の金魚鉢に手を当てて言いました。
私も彼女の金魚鉢に手を当てました。
私たちは、一生お互いの顔に手を触れあうことは出来ません。
いつの日かの再会を約束して、彼女は帰りました。
慣れない暮らしの忙しさに息つく間もなかった時期が過ぎ、
ゆっくり考える時間がもてるようになると、
違う生活習慣、風習、価値観にあらためて向き合うようになります。
「ここは余所の町なんだ」
知らず、ため息の出ることが多くなりました。
金魚だけが、私の仲間です。
キュセ・メイリオールト。
好きになったヒトがいました。
この町のヒトで、とてもやさしいヒトでした。
ひとりで暮らす不安や、寂しさを受け止めてくれたヒトでした。
でも、私が余所の町のヒトだからでしょうか。
「君のことは嫌いじゃないけれど、
きっとずっとは付き合っていけない」
部屋で一晩中泣いて過ごす私の横で、
金魚はいつものように泳ぎ続けていました。
金魚鉢から見る世界は、いつでもガラス一枚隔てられています。
部屋の中から見る世界は、いつでもガラス一枚隔てられています。
あるかないかのその壁は、たしかに私たちの間に存在するのでした。
ささやかなホームパーティを開いたこともありました。
紅茶の匂いが香る部屋での安息。
みなさん金魚鉢をかぶって私の部屋でお話をします。
私だけが金魚鉢をかぶっていません。
ここは私の町の空気。
金魚が水面から顔を出して口をぱくぱくとしました。
カールエ・ファス。
彼には、帰るべき町がありませんでした。
自分の町は戦火に焼かれ汚染区域に指定さてしまい帰ることも出来ず、金魚鉢をかぶり続けて余所の町を生きていました。
「死ぬのはいつでも出来る。
いま死ぬ必然性があるかといえばそうでもない。
じゃ、生きるさ」
否定に充ちた肯定。
彼の明るい性格は、闇の深さの裏返しなのでしょうか。
彼は友達の多いヒトでした。
でも、特定の友達と一緒にいるところはあまり見ませんでした。
ファムスタン・ゼビリオン。
彼は、隣町のお父さんと、この町のお母さんを持つヒトです。
子供のうちはどちらの町でも、
金魚鉢を必要とせずに生きることが出来ます。
ただ大人になると、
より多くを吸ったどちらかの空気の中でしか生きられなくなります。
彼はまだ十代でした。
「それでも、いつの日か、
もっと、もっとたくさんの混血が進んで、
空気の壁なんか関係なくなってみんなが普通に暮らせるといいね」
彼は結局どちらの町を選ぶのでしょうか。
大人になってからも、彼は混血であることを望み続けるのでしょうか。
ワシルーミン・ケイタリオスリングン。
この町のヒトですが、一風変わったヒトでした。
「世の中は平等じゃないからね。
全てを手にするヒトは手にし続け、
全てを失うヒトは失い続けるんだよ。
だから他人を問題にしても意味なんか無いんだ。
ただ、自分にだけ問いかけるといい」
豊かな趣味を持っていて、いろいろなことをしていました。
逆にいえば、何をしているか分からないヒトでした。
余所の町の私とも分け隔て無く付き合ってくれました。
ただ、この町のヒトからは変わり者として扱われているようでした。
いつしか時は過ぎ、私の滞在も終わりに近づいてきました。
それなりにしなければならないことはあっても、
私の行動には多くの自由がありました。
ただ私は自分の意志でこの道を選んだけど、
その先まできちんと選んではいませんでした。
帰る日が近づくにつれ、
不安とも後悔ともつかぬ気持ちが大きくなっていきました。
漠然とした気持ちで町を歩き、
硬質な道を踏みしめる度に鳴るこつこつとした音に気をとられたり、木々が風になびくのをただただ眺めていたりしました。
立ち止まって考える時間。
私は何をしてきただろう。
私は何が出来たんだろう。
最後のレセプション。
長い滞在の中で知り合ったヒトたちと挨拶を交わします。
でも、同じ町の友人達より優先されることはないと気づいてしまい、
金魚鉢のガラス越しに取り払うことの出来ない壁を感じます。
仲良くなったといっても、それは知らないヒトに比べれば。
以前からの、同じ町の知人以上に親しくなることは、
とても、とてもとても難しいことです。
嬉しさより悲しさのほうが大きくなってしまいました。
いつものようにひとりになって金魚を眺めました。
心なしか最近色つやが無くなってきた気がします。
「ねえ、君はどう思っているの」
いつも水に取り囲まれ、ガラスを隔てて私と向き合っている君。
私が友達だと信じた金魚は、私のことをどう思っていたのでしょう。
ふと大きな後悔が私を包みました。
「なんで私は彼女をつがいで連れてきてあげなかったんだろう」
金魚も空気が違うので、
こちらの金魚と同じ水槽には入れることが出来ません。
金魚は我知らずいつものようにぱくぱくと泳いでいました。
帰る日の前日、金魚は死んでしまいました。
「明日には帰れたのにね。
友達も、恋人も一緒にいれて上げることが出来たのにね。
ずっと孤独だったよね。
ごめんね。
ごめんね……」
金魚鉢を抱きかかえたまま、私は何度も呟きました。
私より、きっと彼女の方が孤独だった。
ごめんね。
気づかなくて、ごめんね。
彼女の遺骸を私はそっとハンカチに包みました。
せめてその身は、私たちの土地と空気の中に。
私も、私たちの土地と空気の中に。
私は帰りの汽車に向かいました。
長い間滞在した町。
見慣れた景色。
きっと私と本当に触れあうことは無かった町。
余所の、町。
でもよく見ると、ヒトがいる以上、私の町と似通ったところもあります。
ヒトはヒトで町は町。
金魚鉢が私を隔てている以外、そこには何も違うことなんてありません。
気持ちが壁を作っているんでしょうか。
金魚鉢を被っていることの違和感だけが、
ずっと取り払われることなくあります。
なにも変わらない世界。
金魚鉢を取り払っても、なにごともなく生活出来そうな感覚。
ふとひとつの考えが頭をもたげました。
もし私がここでこの金魚鉢をはずしたら、
この町の空気を吸い込んで、
それから、やっぱり私は死んでしまうのでしょうか。
このまま帰ってしまって、私には何があるでしょう。
このいつも私を世界と隔てていたガラスを取り払って、
この町の空気を胸一杯に吸い込んで、
私たちを隔てるものを何もかも無くしたい。
たとえひとときの幻だとしても、
ガラスを超えて、空気を超えて、ひとつになりたい。
眩しさに私は顔を上げました。
木々の間から漏れる光が金魚鉢に当たって虹色に輝いていました。
「今の私にしか見えないモノも確かにあるんだ」
私たちは生まれた町でしか生きることが出来ません。
環境に縛られ続けなければなりません。
それでも私たちは外の世界にでることが出来ます。
制約は常にあるけど、きっと出来ることの方が多いんです。
他の町から来たヒトたち。
この町のヒトたち。
いくつもの出会いから、私はいくつもの孤独を知りました。
でもおかげで、友人といることの喜びも知りました。
孤独がヒトを愛し。
愛するからこそ孤独もまた身近にあるのです。
たとえ同じ町の同じ空気を吸っているヒト同士でも、
きっと分かり合えないことはあります。
たとえ金魚鉢が私たちを隔て、同じ空気を吸えなくとも、
きっと分かり合えることもあります。
金魚のように私たちは水槽の中にひとりで生きているのかもしれません。
でもそれは、きっと悲観すべきことじゃない気がします。
孤独だからこそ大切に出来ることがあります。
触れ合えないからこそ慈しめることもあります。
揺らめく水面から太陽が滲むのを見上げた金魚は、孤独の中で、
何を夢見たのでしょう。
流れる空気の底から遙かなる空を見上げる私は、余所の町で、
何を夢見るでしょう。
帰りの電車に乗ろうとした私は、
深く帽子をかぶった知人に気づきました。
ワシルーミン・ケイタリオスリングンは、
少し緊張した面持ちで微笑むと、私に花をプレゼントしてくれました。
「この花は、町の境を超えても、決して枯れない。
この花はどの町の空気でも育つ。
どんな場所でも関係ない。
当たり前に必要なことを、
当たり前に与えてあげれば、この花は必ず育つ」
両手一杯の花を抱えた私は、泣いて良いやら笑って良いやら。
「ヒトだって変わらないと、僕は信じてる」
私の金魚鉢に手を当てた後、彼は優雅に一礼しました。
「またいつか」
彼はにっこりと笑いました。
「またいつか」
私の言葉は希望であり意志であり夢なのです。
私は花束に埋めた顔に笑顔を浮かべました。
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