瑠壱は智を呼ぶ

蒼風

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chapter.2

9.恋情

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 一晩寝れば忘れる。

 悩みは時が解決してくれる。

 これらはどちらも、瑠壱るいが金輪際信じないと今しがた心に誓った言葉である。

 時は早朝。

 場所は瑠壱の自室。

 一度しっかりと眠りにつき、途中目が覚めてしまうこともなくぐっすりと夢の世界へと旅立ち、先ほど漸く帰還し、スムーズに再起動をした瑠壱の脳内には、真っ先に昨日のことが浮かんできた。

一晩寝たら綺麗さっぱり忘れているのも薄情だとは思うが、ここまで感情の尾っぽを引きずらなくてもいいとは思う。

 我ながらなんとも面倒な性格だと思うが、こればっかりは仕方がない。聞いてしまった情報はそう簡単に忘れることは出来ないし、抱いてしまった感情はそう簡単に消し去ることは出来ない。

 人によってはそんなことには早々引きずられないだろうし、そういう人間こそが青春と言う輝かしい表舞台を歩けるのだということはよくわかっている。

 そして、それらの人間が歩む道を日向であるとするのであれば、瑠壱の歩んでいる、また歩もうとしている道筋は明らかに日陰であることすらも、重々承知の上である。

 だが。

 それでも。

 ため息。

 時間は……まだ六時台だ。

 瑠壱の家は藤ヶ崎学園から徒歩圏内にあるため、こんな時間に起きる必要性はまったくないし、目覚ましと、律儀で優しい妹に全てを任せて二度寝の世界へと逃げ込んでもいいのだが、どうにもそんな気にはなれない。

 それ以前に、今から目を瞑り、布団を深々と被ったとしても、睡魔が降りてきそうな気配がないのだ。それくらい瑠壱の目は冴えわたっていた。

 皮肉なものだ。心の空模様と、睡眠の質というのは余り一致しないものらしい。

 頭は、思ったよりもすっきりしている。

 もちろん、動揺があったのも事実である。

 しかし、それと同じくらいの歓喜があったのもまた事実なのだ。

 瑠偉は、枕元で充電状態にあった音楽プレイヤーを手に取り、そこに刺さっていたイヤホンを耳につけ、一つの曲を再生する。

 white memories

 時間と空間が、接続した。


              ◇


山科やましな……お前、もしかして……」

 曲が終わり、照明が一段階明るいものになったところで、瑠壱は沙智さちに疑問をぶつけようとする。しかし、沙智は首をぶんぶんと横に振って、

「ち、違うんです!あの、これは、違うんです!」

 なにが違うのだろう。

 一体彼女が何を否定したいのかがさっぱりだった。

 可能性などいくらでも思いつく。

 知っている曲が流れてきたから、思わず歌ってしまったけど、やっぱり恥ずかしくなって全否定しようとしている、とか。思わず歌ってしまったけど、自らの歌声を過小評価していて、やはり恥ずかしくなって全否定している、とか。

 あるいは、

 美春みはるの正体だけど、公的には秘密になっている。

 とか。

 沙智はゆっくりと、

「あの、違くて。私はその、多分、思ってる人ではないんです」

 瑠壱が単刀直入に、

「……美春じゃない、ってことか?」

 沙智が縦に一つ、無言で頷く。どうやら流石にそれはないらしい。

「えっと、ですね……」

 それから、沙智はひとつひとつ説明をしてくれた。

 聞けば、彼女は歌が下手なのだという。

 この事実に関しても瑠壱と沙智の間で「下手だ」「下手じゃない」という押し問答が暫く続いたのだが、結論としては下手「だった」というのが正解らしかった。

 どういうことか。

 答えは実に簡単だ。

 練習したのだ。

 これに関しては(本人にその情報は与えなかったものの)瑠壱も見かけたことがあるので納得がいった。

 沙智はずっと歌が苦手なのがアキレス腱であり、コンプレックスであったため、必死に練習したのだという。

 そして、彼女にとっての「苦手意識の原点」が今、瑠壱が何気なく入れた「white memories」なのだというのだった。

 そして、

「山科……沙智、月見里やまなし……朱灯あかり……」

「あの、内緒に、しておいてください」

 なんのことはない。

 蓋を開けてみれば実に簡単な事実が転がっているだけだった。

 山科沙智は、売り出し中の人気声優、月見里朱灯なのだ。

 そして、彼女は歌が苦手だった。

 だから「white memories」の歌い手は「仕方なく」他の人間を探すしかなかったのだというのだ。

 今、彼女の歌をほぼほぼ初めて聞いた瑠壱からすれば「これくらい歌えていれば問題ないじゃないか」と思うし、夏の日の記憶を掘り起こしてきても、別の歌手を起用するほどひどいものではなかったような気がする。

 だが、それはあくまで瑠壱の持っている断片的な情報に過ぎない。

 加えて、瑠壱は歌唱力を評価するという一点に置いては全くの素人である。

 どころか「一般的な素人の平均点」にすら至っていない可能性も有る。これが優姫ならばもう少しまともなジャッジが下せたのかもしれないが、瑠壱の力では「そういう判断を下されたんだったら、当時は下手だったんだろう」と思うしかないのだった。


               ◇


 曲を止める。

 時間と空間は元に戻る。

 今、瑠壱の視界に沙智はいない。

 その代わりに映るのは、代り映えもしなければ、華やかさの欠片もない、照明一つついていない薄暗い自室だ。

 その一角に、複数の本棚がある。学生らしい学習参考書は一つ目の本棚の一段目で終わっており、それ以外の部分には漫画やライトノベル、小説にアニメの円盤がずらりと並んでいる。

 優姫に見せると呆れられるが、これらは全て瑠壱にとっては大事なもので、一度たりとも捨てたり、売ったりしたことはない。

 そして、そんな本棚の一部を、ずらりと雑誌が占領しているゾーンがある。

 アニメ雑誌だ。

 規則性のへったくれもなかった。刊行月も歯抜けならば、種類も実に節操がない。同じ月の雑誌が数種類ずらりと並んでいたかと思えば、突然数か月間があいていたりする。

 これには理由がある。

 一度気が付いてしまえば実に簡単な話なのだが、その実ほとんどの人間はこれらの“共通性”に気が付かないに違いない。

 瑠壱は立ち上がり、寝巻のまま、本棚へと歩み寄る。

 そして、数ある雑誌の中から、迷わず一冊を取り出し、ページをめくる。付箋などは一切ないが、瑠壱の手に迷いはない。

 やがて、ページをめくる手が、ぴたりと止まる。そこにはほんの一ページのインタビュー記事が載っていた。一人の声優に対する何気ない、小さな特集記事。しかし、これこそが、瑠壱にとっての原点なのだ。

 一人、記事を読むわけでもなく、ただただページを開いたまま瑠壱は立ち尽くす。
そこに答えなどありはしないのだ。いくら感情の根っこを掘り起こしても、事実が変わることは無いのである。

 知ってしまった情報を忘れることなど出来はしないし、ましてやそれに付随する感情を切って捨てることなど出来はしないのだ。

 声優・月見里朱灯は、決してすれ違うことのない。憧れの存在だった。

 それが今、学友・山科沙智として、瑠壱の手の届くところにいるのだ。

 月見里朱灯──いや、山科沙智は、インタビューで恋愛についてこう答えている。


「高望みは全然してなくって。身近な人と、それこそ声優とかそんなこと関係ない人とがいいなとは思ってます」


 なのに。

 瑠壱は過去に接続されたまま帰ってこようとしない。一体いつまで現実から逃げ続けるつもりなのだろうか。

 どれだけの時間が経とうとも、幾度の夜を過ごそうとも、現実が都合のいい変貌を遂げることはないのだ。

 時が経ち、目覚まし時計が本来起床するはずだった時間を告げる。遠くで郵便受けから新聞を引き抜く音がする。締め切ったカーテンの隙間から、陽の光が漏れこんでくる。
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