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氷王 4
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あれは幻……?
金色の光の中に溶けてしまいそうな白い影は、子どもの頃から彼が唯一愛した娘。
「マリュー……」
やや俯いていた女は声に応じて夢のようにゆっくりと顔を上げた。
珠を刻んだような面差しは今は窶れ、視線がゆらゆらと彷徨っていたが、やがて覚束ない様子でレイツェルトの方に据えられる。
「レ……様?」
澄んだ声は今は酷く掠れ、ほとんど聞き取れぬほどに弱々しかった。
マリュリーサは枯れ葉を踏む音のする方を見た。誰かが足早に近づいてくる気配。しかし、その姿は朧で、影のように滲む。しかし、聞こえてきたのは確かに自分の名前だった。
懐かしい声に心臓が跳ねる。
嬉しさに心が震える。
応えなければ。口を突いて出たのは、昔から知っているただ一つの呼び名。しかし喉がひり付いて声にならない。
体力も気力も限界だった。何かに突き動かされてやっとここまでたどり着いたが、もう立っていられない。がくりと膝が崩れる。
マリュリーサの体が大きく前に傾いだ。
「マリュー!」
又してもその微笑みは途切れてしまうのか。
すっかり細くなった体が風に流れるように倒れてゆく。光に透けてか、美しい金色の髪は殆ど色を無くして見えた。膝が折れる寸前で抱き止める。
レイツェルトの腕の中でマリュリーサはぐったりと目を閉じていた。
だが――
静かに呼吸をしている。生きているのだ。
「マリュー……」
蝶の翅のように儚い体をレイツェルトは抱きしめた。頬を擦りつけると暖かさが伝わる。
ありがたい。もう冷たくはない。それだけでもう何も要らなかった。壊さぬようにそっと抱きあげる。もう決してこれを失ってはならないのだ。
体が持ち上がる感覚で意識が揺り動かされたのか、腕の中の娘の顎が上がる。
「……さま?」
「喋るな。目覚めたばかりで体力が戻っていないはずなのに……まったく、無茶をする。肝が凍りついたぞ……マリュー」
その言葉にマリュリーサは困ったように眉を寄せた。この表情は昔から知っている。謝っているのだ。レイツェルトの心が激しく捩れた。許しを乞うのは己の方だと言うのに。
「懺悔も後悔も山のようにある。だがもう、隠すまいよ。全てお前に#晒__さら__そう。だが今は体を……」
不安そうな額に唇を押し付ける。乳のような肌はしっとりと甘い。
「癒してくれ……」
レイツェルトは漸く取り戻したただ一つの重みを大切そうに抱えて歩き出した。
癒しの力の源、神樹リューノス。
その力を具現化するのは神樹が選んだ無垢なる乙女のみだと、神殿に奥深く眠る古文書は伝える。
選ばれた乙女は巫女姫となり、その力を失うまで神樹より受けた力を人々に癒術として施す役割を担う。巫女姫の力が弱まる時、次代の巫女姫が定められるのだ。
リューノスの聖都はそれ故に、一千年の不可侵を守り続けているのだ。
今日は新しい巫女姫の誕生を平原諸国にしろしめす日。
リューノス神国を国境を接する大国ザフェルの皇都も又、祝賀の意を示す旗があちこちに掲げられ、人々は着飾って広場に集まり、祭りへの期待に胸を膨らませている。だが、ここ王宮最深部は静かだった。
「失礼する」
「これは!」
昼の最中にレイツェルトが居室のある宮に戻る事は殆どない。
出迎えたエクィは慌てて彼の目指す者のいる室へと続く扉を開ける。彼女の態度は相変わらずそっけないが、主が生死の境をさまよっていた頃に比べるとずいぶんと柔らかくなった。
「急な御成りでございますな」
「先触れも出さずに済まなんだな。急に体が空いたのだ」
言いながらレイツェルトはどんどん奥に進んでゆく。奥の間は婦人用の美しい部屋だった。だが、昼間だと言うのにそこには薄い帳が引かれ、陽光を遮っている。だが、窓は細く開けられており、秋の風が部屋に入り込んでいた。背の高い窓から少し話して置かれたゆったりした椅子は大きくて、そこに座る人をこちらに見せない。
「……具合は?」
普段なら王が入ってきた途端、部屋に居るものは立ち上がって深礼をしなければならない。しかし、レイツェルト当然のようにぐるりと椅子を回って、柔かな背当てに沈んだその人を覗きこんだ。
「窓を開けて……寒くはないのか?」
大丈夫だと言うようにマリュリーサは頷き、エクィに微笑みかける。忠実な侍女はそっと頷いて部屋を辞した。去る前に丁寧に肩かけを直し、蜜を加えた水を置いて。
瀕死の皇女の救うために死力を突くした彼女の体は、どんなに手を尽くしても完全には元には戻らなかった。
蜂蜜色の瞳は真昼の光の下では開けていられないほど過敏になり、澄んだ声は損なわれ、もう鈴のような笑い声を立てる事は叶わない。また、左足には軽い麻痺が残ったのでもう一生走れないし、美しかった金髪は今では白髪と見まごう程、色を落としてしまった。体力はかなり回復してきたものの、少し無理をすると忽ち熱を出し、レイツェルトを身悶えさせた事はこの半年余りで七度もあったのだ。
だがそれでも少しずつ良くなってきている。封じられた幼いころの記憶を完全に取り戻してからは、レイツェルトの触れるだけの口づけを受け入れてくれる。それ以上何を求めると言うのか?
「今日は三十七代目のリューノスの巫女が立つ日だそうだ」
にっこりと笑ったマリュリーサの顔に驚きはない。
既に誰かから聞いて知っているのだろう。もっとも一年前、その巫女の出現を予言したのは他でもない、マリュリーサなのであるが。歴代の巫女の能力には差があるが、能力をなくす前に次代の巫女の存在を必ず予言する。指名を受けた少女は、それまでの環境から引き離され、記憶まで封じられて巫女となる定めなのだ。
だが、理不尽な方法であれ、マリュリーサを手に入れてしまったレイツェルトに、元々嫌っていたリューノス神殿最大の儀式に興味はなかった。
実は今日、執務を抜けて来たのも、市中の祝賀行事に出たくなくて以前から計画していた事だ。彼がいなくとも皇位についたアストリアが儀式の最上位に座すだろうし、彼の片腕である宰相サージャもいる。
「だが、お前は何も心配する事はない」
レイツェルトはマリュリーサの背と膝に腕を差し入れると、軽く浮かせて自分が椅子に座り、膝の上にそっとマリュリーサを下ろした。少し冷えている、温めなければならないと心の中で言い訳をして。
ずり落ちた肩かけをしっかり巻き直してやり、自分の腕でも包み込む。抱いた感じでは体重は余り増えていないようだ。
「きちんと食べているか?」
レイツェルトの問いにこくんと頷く事で返事をする。あまり喉を使わぬように普段から厳しく言われている。筆談用の紙と筆記具も常備されているが、マリュリーサは不満だった。
「おきき、したいことが」
囁くような声には元の透明感は無い。だが、どうしたって口を利かなくては伝わらない事もある。
「何だ。喋って大丈夫なのか? 喉は痛くないか? ああ、水を……」
「……だいじょぶ、です。だいじな、おはなし、だから、ちゃんときいて」
腰を浮かしかけたレイツェルトの袖を引いてマリュリーサは抗議した。その可憐な仕草は微笑を誘うが、彼は顔をぐいと近づけて喉の負担にならぬようにした。
「分かった! 聞く。聞くさ。だから無理に大きな声を出すな」
大きな声と言ってもこれほど近づいてやっと聞き取れるくらいなのだが。宥めるようにそう言うとレイツェルトは真面目くさった口元に軽く口づける。マリュリーサの頬がさっと染まったが、直ぐに真剣なまなざしで問うた。
「レイ……さま、は、おくがたさま、おむかえに?」
「は? 奥方? 奥だと? 一体何の話だ?」
喋らせすぎないように気をつけながらゆっくり話をさせてみると、マリュリーサは昨日、庭の片隅で休んでいたところ、彼女が眠っていると思った侍女たちが背後で噂話をしていたと言う。
それによると、侍女の一人がレイツェルトの妃候補について、かなり絞られたと側近が言ったのを耳に挟んだと言ったらしい。
レイツェルトも二十五才。普通ならば子どもが数人いてもおかしくない年齢だが、皇女アストリアの幼い愛には応じられぬのは無論であるとしても、今のレイツェルトに女気は無い。ただ一人マリュリーサを除いて。
「ああ、そう言えばそんな話を聞いた気もするが、興味がないので忘れていた。俺は妃など欲しくない」
「でも、こおうこくの、ちすじは……」
古王国と言うのは、かつてザフェル皇国に併合されてしまった古い国、かつてのミッセルスウェルズの事で、レィツエルトはその王家の血を引く最後の一人なのだ。
「俺はもうそんなものはどうでもいいんだ。血筋なんて、いつかは絶えるものさ。『石の薔薇』から成りあがるためだけに血統を利用しただけだ。ミッセルスウェルズ王を名乗るのは俺が最後でいい」
心底どうでもいいような口ぶりだった。
「ですが……!」
「俺は妃も娶らん、子も為さん。王家だってどうでもいい。ザッフェルはアストリア皇王陛下の元で盤石だ。色んな事があったが人材も多いし、国はそれなりに立ち行くさ。俺は……」
「お前がいればそれでいい。お前さえ守れればもういいんだ。俺がこの王宮にいる理由はただそれだけだ」
レイツェルトはそっとその儚い体を抱きしめる。
できる事なら全てを捨て、二人だけで暮らせる遠い土地で静かに暮らしたい。だが、少しの事で体調を崩し、例え襲われたとしても、助けを呼ぶ事も逃げる事も出来ないマリュリーサを守るためには、王城の奥深くに匿い、悪い風に当てぬように気をつけてやらねばならない。
彼女をそんな風にした自分の、せめてもの償いとして。
だが、マリュリーサは違う風に解釈したようだった。自分がこんな体になったのは、元々巫女としての能力が弱かったせいだ。アストリアを助けたのも、いつも健気に皇女としての務めを果たしていた幼い彼女を助けたいと心から思ったからで、決してレイツェルトが思い込んでいるような無理やり命じられたからではない。
なのに彼はこの半年ずっと自分を責め続け、皇女の求愛も皇国の実質の支配者となる事も固辞し続けた。
「……わたしが、おもに、になってい……」
「違う!」
心配そうに聞くマリュリーサの問いをレイツェルトは鋭く否定した。
彼のこんなに厳しい声は久しぶりだった。目覚めて以来ずっと労わられてきたマリュリーサの肩がびくりと竦む。だが、直ぐに安心させるように優しく抱き直された。
怯えた瞳を覗きこんでレイツェルトは髪を撫でてやる。この目はどこまで見えているのか? そして自分は彼女の眼にどのように映っているのだろうか?
「おうへいか?」
「陛下ではない。俺はただの男だ。気が弱くて平凡な……な?」
「……?」
「お前を愛している」
良く見えない目を見開いて体を強張らせたマリュリーサに、レイツェルトはああそうかと思い至った。
「そう言えば、伝えた事がなかったか?」
「しらない……」
「そうか? つい漏らしてしまったが気にするな。俺にお前を愛する資格なぞない事くらい、十分わかっている」
「アストリアさまは……?」
「成りあがる為に、あの少女の愛を利用した事は認める。まさに俺は外道の氷王だった。だがそうまでしてもマリューが欲しかった。力を手にすれば全てが手に入ると思い込んでいた。その挙句ににお前をこんな風にしてしまった俺の罪は救い難いが」
ふるふると首を振るマリュリーサの頭を抱え、レイッエルトは囁いた。
「そんなにしては目が回る……そうだ。本当なら触れる事など許されぬ俺だ。なのにお前は俺をゆる……」
「すき、だから。わたしも、むかしから」
遥かな『石の薔薇』。
それは海に浮かんだ貴人の為の牢獄の孤島。荒れたあの島で過ごした数年間は、二人にとって忘れる事ができない一時期だったのだ。
「ああ、昔は確かにそうだったな。ずっと俺の後をついてきた。物好きな奴だった」
「すき」
「そんな顔をするな」
可愛がりたくてしようがなくなる。
レイツェルトは苦笑し、不満そうなマリュリーサを元通り椅子に座らせようと身を起こした。指先は暖かさを取り戻している。
……が、できなかった。細い指がレイツェルトの胸を掴んで突っぱねていたから。
「マリュー?」
指を痛めてしまう、とレイツェルトが解いてやろうとした時、ふわりと柔かいものが彼の唇に触れた。
「では、わたしが、うみます?」
「うむ? 何?」
マリュリーサからの初めての口づけは、氷の王と呼ばれた男を柄になく動揺させた。
「レイさまの、おこ」
「おこ? 子の事か?」
こくりと頭が下がる。
「お前……何を言って……」
「いまは、むり……でも、かならず、げんきに、なります」
マリュリーサは必死で、抱かれていても尚上背のあるレイツェルトのシャツを掴んで驚く彼を見上げた。
「だから、およめさん」
「馬鹿。マリュー、お前をこんな体にしたのは俺なんだぞ! ずっと苦しめる事でお前に俺を刻みつけようと罪を重ね続けた男だ。ダメだ。俺はお前にふさわしくない」
「そ……ですか。いや、なら、しかたない、です……」
さっと顔を陰らせて俯く横顔。
レイツェルトは苦しい程の愛しさを堪えて腕の中の娘を更に抱きこんだ。
ああ、どうしてお前は昔から、そう素直なんだ。少しは刃向かって欲しいのに。
「おまけに嫉妬深く、執着心も酷いもんだ。一度俺のものになってしまえば、二度と離しはせん。それでも?」
こくりと頭が下がる。
「本当に……こんな愚かな俺でいいのか?」
再び頭が下がった。色は損なわれても髪の艶は失われることなく、さらりとながれる。
「マリュー……」
「レイさまと、いきたい。ゆるされるのなら、ずっと、ずっと……う」
コホコホとマリュリーサは咳き込んだ。喋りすぎて喉が痛いのだろう。
「うわ……く、薬を! エクィ! エクィ!」
だがエクィは現れなかった。いつもそばに控えているはずなのに。
「エクィ、きません」
暫く息を整えたマリュリーサはしれっとして言った。
「この、はなしが、おわるまで」
「……マリュリーサ」
「いままで、いろいろ、かなしかったこと、くるしんだこと、ぜんぶ、きょうのため。ザフェルに、くんしゅさま、おたちになって、リューノスのみこも、あたらしくおなりに。だから……」
マリュリーサはそこで一息入れた。長く喋ると又直ぐに喉が痛くなる。しかし、吸い飲みに手を伸ばしたレイツェルトを瞳で封じ、良く見えぬ目を王の青い目に凝らす。
「レイさまが、わたし、すきなら、わたし、もうがまん、しない。わたしを……」
それ以上は言葉にできなかった。
氷王と言われた男の、熱い口づけに飲みこまれてしまったから――。
*****
この作品は長編「氷王の最愛」として長編に起こしました。
よかったら読んでみてください!
金色の光の中に溶けてしまいそうな白い影は、子どもの頃から彼が唯一愛した娘。
「マリュー……」
やや俯いていた女は声に応じて夢のようにゆっくりと顔を上げた。
珠を刻んだような面差しは今は窶れ、視線がゆらゆらと彷徨っていたが、やがて覚束ない様子でレイツェルトの方に据えられる。
「レ……様?」
澄んだ声は今は酷く掠れ、ほとんど聞き取れぬほどに弱々しかった。
マリュリーサは枯れ葉を踏む音のする方を見た。誰かが足早に近づいてくる気配。しかし、その姿は朧で、影のように滲む。しかし、聞こえてきたのは確かに自分の名前だった。
懐かしい声に心臓が跳ねる。
嬉しさに心が震える。
応えなければ。口を突いて出たのは、昔から知っているただ一つの呼び名。しかし喉がひり付いて声にならない。
体力も気力も限界だった。何かに突き動かされてやっとここまでたどり着いたが、もう立っていられない。がくりと膝が崩れる。
マリュリーサの体が大きく前に傾いだ。
「マリュー!」
又してもその微笑みは途切れてしまうのか。
すっかり細くなった体が風に流れるように倒れてゆく。光に透けてか、美しい金色の髪は殆ど色を無くして見えた。膝が折れる寸前で抱き止める。
レイツェルトの腕の中でマリュリーサはぐったりと目を閉じていた。
だが――
静かに呼吸をしている。生きているのだ。
「マリュー……」
蝶の翅のように儚い体をレイツェルトは抱きしめた。頬を擦りつけると暖かさが伝わる。
ありがたい。もう冷たくはない。それだけでもう何も要らなかった。壊さぬようにそっと抱きあげる。もう決してこれを失ってはならないのだ。
体が持ち上がる感覚で意識が揺り動かされたのか、腕の中の娘の顎が上がる。
「……さま?」
「喋るな。目覚めたばかりで体力が戻っていないはずなのに……まったく、無茶をする。肝が凍りついたぞ……マリュー」
その言葉にマリュリーサは困ったように眉を寄せた。この表情は昔から知っている。謝っているのだ。レイツェルトの心が激しく捩れた。許しを乞うのは己の方だと言うのに。
「懺悔も後悔も山のようにある。だがもう、隠すまいよ。全てお前に#晒__さら__そう。だが今は体を……」
不安そうな額に唇を押し付ける。乳のような肌はしっとりと甘い。
「癒してくれ……」
レイツェルトは漸く取り戻したただ一つの重みを大切そうに抱えて歩き出した。
癒しの力の源、神樹リューノス。
その力を具現化するのは神樹が選んだ無垢なる乙女のみだと、神殿に奥深く眠る古文書は伝える。
選ばれた乙女は巫女姫となり、その力を失うまで神樹より受けた力を人々に癒術として施す役割を担う。巫女姫の力が弱まる時、次代の巫女姫が定められるのだ。
リューノスの聖都はそれ故に、一千年の不可侵を守り続けているのだ。
今日は新しい巫女姫の誕生を平原諸国にしろしめす日。
リューノス神国を国境を接する大国ザフェルの皇都も又、祝賀の意を示す旗があちこちに掲げられ、人々は着飾って広場に集まり、祭りへの期待に胸を膨らませている。だが、ここ王宮最深部は静かだった。
「失礼する」
「これは!」
昼の最中にレイツェルトが居室のある宮に戻る事は殆どない。
出迎えたエクィは慌てて彼の目指す者のいる室へと続く扉を開ける。彼女の態度は相変わらずそっけないが、主が生死の境をさまよっていた頃に比べるとずいぶんと柔らかくなった。
「急な御成りでございますな」
「先触れも出さずに済まなんだな。急に体が空いたのだ」
言いながらレイツェルトはどんどん奥に進んでゆく。奥の間は婦人用の美しい部屋だった。だが、昼間だと言うのにそこには薄い帳が引かれ、陽光を遮っている。だが、窓は細く開けられており、秋の風が部屋に入り込んでいた。背の高い窓から少し話して置かれたゆったりした椅子は大きくて、そこに座る人をこちらに見せない。
「……具合は?」
普段なら王が入ってきた途端、部屋に居るものは立ち上がって深礼をしなければならない。しかし、レイツェルト当然のようにぐるりと椅子を回って、柔かな背当てに沈んだその人を覗きこんだ。
「窓を開けて……寒くはないのか?」
大丈夫だと言うようにマリュリーサは頷き、エクィに微笑みかける。忠実な侍女はそっと頷いて部屋を辞した。去る前に丁寧に肩かけを直し、蜜を加えた水を置いて。
瀕死の皇女の救うために死力を突くした彼女の体は、どんなに手を尽くしても完全には元には戻らなかった。
蜂蜜色の瞳は真昼の光の下では開けていられないほど過敏になり、澄んだ声は損なわれ、もう鈴のような笑い声を立てる事は叶わない。また、左足には軽い麻痺が残ったのでもう一生走れないし、美しかった金髪は今では白髪と見まごう程、色を落としてしまった。体力はかなり回復してきたものの、少し無理をすると忽ち熱を出し、レイツェルトを身悶えさせた事はこの半年余りで七度もあったのだ。
だがそれでも少しずつ良くなってきている。封じられた幼いころの記憶を完全に取り戻してからは、レイツェルトの触れるだけの口づけを受け入れてくれる。それ以上何を求めると言うのか?
「今日は三十七代目のリューノスの巫女が立つ日だそうだ」
にっこりと笑ったマリュリーサの顔に驚きはない。
既に誰かから聞いて知っているのだろう。もっとも一年前、その巫女の出現を予言したのは他でもない、マリュリーサなのであるが。歴代の巫女の能力には差があるが、能力をなくす前に次代の巫女の存在を必ず予言する。指名を受けた少女は、それまでの環境から引き離され、記憶まで封じられて巫女となる定めなのだ。
だが、理不尽な方法であれ、マリュリーサを手に入れてしまったレイツェルトに、元々嫌っていたリューノス神殿最大の儀式に興味はなかった。
実は今日、執務を抜けて来たのも、市中の祝賀行事に出たくなくて以前から計画していた事だ。彼がいなくとも皇位についたアストリアが儀式の最上位に座すだろうし、彼の片腕である宰相サージャもいる。
「だが、お前は何も心配する事はない」
レイツェルトはマリュリーサの背と膝に腕を差し入れると、軽く浮かせて自分が椅子に座り、膝の上にそっとマリュリーサを下ろした。少し冷えている、温めなければならないと心の中で言い訳をして。
ずり落ちた肩かけをしっかり巻き直してやり、自分の腕でも包み込む。抱いた感じでは体重は余り増えていないようだ。
「きちんと食べているか?」
レイツェルトの問いにこくんと頷く事で返事をする。あまり喉を使わぬように普段から厳しく言われている。筆談用の紙と筆記具も常備されているが、マリュリーサは不満だった。
「おきき、したいことが」
囁くような声には元の透明感は無い。だが、どうしたって口を利かなくては伝わらない事もある。
「何だ。喋って大丈夫なのか? 喉は痛くないか? ああ、水を……」
「……だいじょぶ、です。だいじな、おはなし、だから、ちゃんときいて」
腰を浮かしかけたレイツェルトの袖を引いてマリュリーサは抗議した。その可憐な仕草は微笑を誘うが、彼は顔をぐいと近づけて喉の負担にならぬようにした。
「分かった! 聞く。聞くさ。だから無理に大きな声を出すな」
大きな声と言ってもこれほど近づいてやっと聞き取れるくらいなのだが。宥めるようにそう言うとレイツェルトは真面目くさった口元に軽く口づける。マリュリーサの頬がさっと染まったが、直ぐに真剣なまなざしで問うた。
「レイ……さま、は、おくがたさま、おむかえに?」
「は? 奥方? 奥だと? 一体何の話だ?」
喋らせすぎないように気をつけながらゆっくり話をさせてみると、マリュリーサは昨日、庭の片隅で休んでいたところ、彼女が眠っていると思った侍女たちが背後で噂話をしていたと言う。
それによると、侍女の一人がレイツェルトの妃候補について、かなり絞られたと側近が言ったのを耳に挟んだと言ったらしい。
レイツェルトも二十五才。普通ならば子どもが数人いてもおかしくない年齢だが、皇女アストリアの幼い愛には応じられぬのは無論であるとしても、今のレイツェルトに女気は無い。ただ一人マリュリーサを除いて。
「ああ、そう言えばそんな話を聞いた気もするが、興味がないので忘れていた。俺は妃など欲しくない」
「でも、こおうこくの、ちすじは……」
古王国と言うのは、かつてザフェル皇国に併合されてしまった古い国、かつてのミッセルスウェルズの事で、レィツエルトはその王家の血を引く最後の一人なのだ。
「俺はもうそんなものはどうでもいいんだ。血筋なんて、いつかは絶えるものさ。『石の薔薇』から成りあがるためだけに血統を利用しただけだ。ミッセルスウェルズ王を名乗るのは俺が最後でいい」
心底どうでもいいような口ぶりだった。
「ですが……!」
「俺は妃も娶らん、子も為さん。王家だってどうでもいい。ザッフェルはアストリア皇王陛下の元で盤石だ。色んな事があったが人材も多いし、国はそれなりに立ち行くさ。俺は……」
「お前がいればそれでいい。お前さえ守れればもういいんだ。俺がこの王宮にいる理由はただそれだけだ」
レイツェルトはそっとその儚い体を抱きしめる。
できる事なら全てを捨て、二人だけで暮らせる遠い土地で静かに暮らしたい。だが、少しの事で体調を崩し、例え襲われたとしても、助けを呼ぶ事も逃げる事も出来ないマリュリーサを守るためには、王城の奥深くに匿い、悪い風に当てぬように気をつけてやらねばならない。
彼女をそんな風にした自分の、せめてもの償いとして。
だが、マリュリーサは違う風に解釈したようだった。自分がこんな体になったのは、元々巫女としての能力が弱かったせいだ。アストリアを助けたのも、いつも健気に皇女としての務めを果たしていた幼い彼女を助けたいと心から思ったからで、決してレイツェルトが思い込んでいるような無理やり命じられたからではない。
なのに彼はこの半年ずっと自分を責め続け、皇女の求愛も皇国の実質の支配者となる事も固辞し続けた。
「……わたしが、おもに、になってい……」
「違う!」
心配そうに聞くマリュリーサの問いをレイツェルトは鋭く否定した。
彼のこんなに厳しい声は久しぶりだった。目覚めて以来ずっと労わられてきたマリュリーサの肩がびくりと竦む。だが、直ぐに安心させるように優しく抱き直された。
怯えた瞳を覗きこんでレイツェルトは髪を撫でてやる。この目はどこまで見えているのか? そして自分は彼女の眼にどのように映っているのだろうか?
「おうへいか?」
「陛下ではない。俺はただの男だ。気が弱くて平凡な……な?」
「……?」
「お前を愛している」
良く見えない目を見開いて体を強張らせたマリュリーサに、レイツェルトはああそうかと思い至った。
「そう言えば、伝えた事がなかったか?」
「しらない……」
「そうか? つい漏らしてしまったが気にするな。俺にお前を愛する資格なぞない事くらい、十分わかっている」
「アストリアさまは……?」
「成りあがる為に、あの少女の愛を利用した事は認める。まさに俺は外道の氷王だった。だがそうまでしてもマリューが欲しかった。力を手にすれば全てが手に入ると思い込んでいた。その挙句ににお前をこんな風にしてしまった俺の罪は救い難いが」
ふるふると首を振るマリュリーサの頭を抱え、レイッエルトは囁いた。
「そんなにしては目が回る……そうだ。本当なら触れる事など許されぬ俺だ。なのにお前は俺をゆる……」
「すき、だから。わたしも、むかしから」
遥かな『石の薔薇』。
それは海に浮かんだ貴人の為の牢獄の孤島。荒れたあの島で過ごした数年間は、二人にとって忘れる事ができない一時期だったのだ。
「ああ、昔は確かにそうだったな。ずっと俺の後をついてきた。物好きな奴だった」
「すき」
「そんな顔をするな」
可愛がりたくてしようがなくなる。
レイツェルトは苦笑し、不満そうなマリュリーサを元通り椅子に座らせようと身を起こした。指先は暖かさを取り戻している。
……が、できなかった。細い指がレイツェルトの胸を掴んで突っぱねていたから。
「マリュー?」
指を痛めてしまう、とレイツェルトが解いてやろうとした時、ふわりと柔かいものが彼の唇に触れた。
「では、わたしが、うみます?」
「うむ? 何?」
マリュリーサからの初めての口づけは、氷の王と呼ばれた男を柄になく動揺させた。
「レイさまの、おこ」
「おこ? 子の事か?」
こくりと頭が下がる。
「お前……何を言って……」
「いまは、むり……でも、かならず、げんきに、なります」
マリュリーサは必死で、抱かれていても尚上背のあるレイツェルトのシャツを掴んで驚く彼を見上げた。
「だから、およめさん」
「馬鹿。マリュー、お前をこんな体にしたのは俺なんだぞ! ずっと苦しめる事でお前に俺を刻みつけようと罪を重ね続けた男だ。ダメだ。俺はお前にふさわしくない」
「そ……ですか。いや、なら、しかたない、です……」
さっと顔を陰らせて俯く横顔。
レイツェルトは苦しい程の愛しさを堪えて腕の中の娘を更に抱きこんだ。
ああ、どうしてお前は昔から、そう素直なんだ。少しは刃向かって欲しいのに。
「おまけに嫉妬深く、執着心も酷いもんだ。一度俺のものになってしまえば、二度と離しはせん。それでも?」
こくりと頭が下がる。
「本当に……こんな愚かな俺でいいのか?」
再び頭が下がった。色は損なわれても髪の艶は失われることなく、さらりとながれる。
「マリュー……」
「レイさまと、いきたい。ゆるされるのなら、ずっと、ずっと……う」
コホコホとマリュリーサは咳き込んだ。喋りすぎて喉が痛いのだろう。
「うわ……く、薬を! エクィ! エクィ!」
だがエクィは現れなかった。いつもそばに控えているはずなのに。
「エクィ、きません」
暫く息を整えたマリュリーサはしれっとして言った。
「この、はなしが、おわるまで」
「……マリュリーサ」
「いままで、いろいろ、かなしかったこと、くるしんだこと、ぜんぶ、きょうのため。ザフェルに、くんしゅさま、おたちになって、リューノスのみこも、あたらしくおなりに。だから……」
マリュリーサはそこで一息入れた。長く喋ると又直ぐに喉が痛くなる。しかし、吸い飲みに手を伸ばしたレイツェルトを瞳で封じ、良く見えぬ目を王の青い目に凝らす。
「レイさまが、わたし、すきなら、わたし、もうがまん、しない。わたしを……」
それ以上は言葉にできなかった。
氷王と言われた男の、熱い口づけに飲みこまれてしまったから――。
*****
この作品は長編「氷王の最愛」として長編に起こしました。
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いつも作品楽しませていただいてます。どの作品もとても好きですが、一番好きなのはシャドウガールです。そのつぎが茜色かな。マリエもノヴァゼムーリャも魔女も好きですが、ちょっとコメディっぽさが多めの方が明るい気持ちで読めるので好きです。心の強いヒロインとそれに惚れて溺愛するヒーローがどれも美味しくて惹き付けられます。この短編集では図書館の話が好きです。昔のいじめっこといじめられっ子というと茜色風ですが、ヒロインのために元首にまでなったのに、さいごすがり付いて懇願するヘタれっぷりがつぼにはいって笑っちゃいました。遠くから見てるだけでなく、チョコチョコちょっかいかけては嫌われて落ち込んだりしてた過去でもいいと思います笑。もしも機会がありましたら是非完成作品として読んでみたいです。ご一考していただけたら幸いです。
*izumiruさん、いらっしゃいませ。
こちらで感想をいただくのは久しぶりなのでとても嬉しいです。
しかも、かなり前の投稿作品を読んでいただき、感激です!
このもの物語の舞台はイタリアのベニスです。とても好きな街です。
そして、ベタ惚れな癖して上から目線のヒーローが、後でのたうち回させるのがとても好きです。
もしお好きなら「士官候補生と海軍提督」と言うお話も読んでみてください。
同じような場面があります。
アルファさんではないのですが、こちらも中編で読みやすいと思います。
先頭にhを入れてコピペしてくださいませ。
ttps://ncode.syosetu.com/n2571bk/
「月の娘」読ませていただきました。
たしか、別サイトでも読ませていただきました。
耽美ですねー。
高貴で俺様なヒーローが、自分の恋心を認められず、奪われた後に、
奪われてもなお愛しいヒロインに溺れてしまい、軛を断ち切ってしまうラブストーリー。
ヒロインが、月の光の中で踊る姿が、美しいです。
耽美なお話も、nekoは、大好物です。
ありがとうございました。
*nekoさん、またまたありがとうございます!
なろうにも編集しなおして載せましたが、こっちの方が古いのです。
たんびたんび〜。
この二人の恋の先には破滅しかないのでしょうか?
いっそ家を捨てて逃げちゃったらいいのにね。
おはようございます!nekoです。
「氷王」読ませていただきました。
「石の薔薇」って、貴人のための牢獄らしいけど、綺麗な名前ですね。
中身は「虎の穴」ってことは、・・・ないですね。
なぜ、レイさんが「氷王」と呼ばれているのか、
ヒロインが、命を賭してまで、皇女を救おうとしたのか、
ヒロインは、(自分では、「違う」と言っていますが、本当に巫女ではなかったのか、
古王国の血が、なぜレイさんだけしか残っていないのか、
命の火が残り少なそうに見えるヒロインが、レイさんの子どもを本当に産めるのか、
レイさんは、ヒロインをどうしたいのか、
などなど、いろいろ気になるお話でした。
タイトルが(いい意味で)気になるんです。「氷王」って、かっこいいです。
いつかもっと詳しく読みたいな、と思いました。
*nekoさん、いらっしゃいませ。
これもね!
いつか!いつかと思いつつ、まだ陽の目を見ていないんです。
最近ではこう言うシリアス設定はあまり読まれないみたいで、一度編集さんに見せたのですが、あえなくボツになってしまいました。
でもまぁ、別に本にならなくてもいいので、そのうちに〜と思っている作品です。
設定はまぁ、いい加減です。
きちんと書くならもっと作り込まなくてはなりません。
個人的にレイツェルトと言う名前は気に入ってます。