ア・ラ・カルト（短編集）

泥だらけの真珠 ２

「あ、あのっ」
「黙ってろ」
　腕にアトゥーリャを乗せたまま、スィラージュはどんどん道を引き返した。
　墓石のような城壁を後ろに庭まで戻る。遮られていた月が顔を出して夜の庭を照らし出した。
　広大な庭のそこかしこに沸いている泉の畔に腰を下ろし、スィラージュは泣きじゃくるアトゥーリャを膝に座らせて、汚れた顔や手を丁寧に洗っていった。
　洗い終えると、自分の上着を脱いで肌に滴る冷たい水滴を拭う。ついでに鼻水も、指で摘んでちんとかんでやった。
「……ったく、なんでこの夜中に泥遊びを思いついたんだ？　馬鹿女」
　乱れた長い髪を指で整えながら、深いため息とともにスィラージュは尋ねた。
「うう……ひっく……スィ……殿下だって……は～葉っぱだらけじゃありま……ぐすん……せんか」
「うるさいわ！　誰のせいだと思っている！」
　したいようにされながらも口答えをするアトゥーリャに、スィラージュの雷が落ちた。
「ぎゃん！」
「さぁ、言え！　アトゥ！　あんなところで何をしていた？　どうするつもりだった？」
「ふぐぅ……ぐすぐす……壁がた、高すぎて登れそうになかったから……下からならだっ……大丈夫だって思った……のぉ！　うわぁん！」
　アトゥーリャは再び盛大に泣き始める。
「泣くな！　しかも答えになってない！　意味不明！」
「ひっ……わぁああん！」
「うわ！　こんなにちっこいのに、なんてでかい声だ。ええい、もう泣くな！　泣くなって！　くそ！　ああもう……怒らんから……なぁ、泣くな、な？」
　膝の上でわんわん言っているアトゥーリャを扱いかねて、スィラージュは今度は宥めはじめた。
「あ～あ、無茶をするから爪がボロボロじゃないか……何でこんな真似をした？」
「ふっく……そ、外に出ようと……思って……」
「は？　外？」
「こっ後宮は人の出入りには厳しいから……出るなら壁を超えるしかないと……ぐすっ……なので下から掘っていたのです」
「掘って……」
　成程、確かにこんな小さな娘が素手で掘ったにしては、結構な大きさの穴であった。
「だから、何で出るんだ？」
「……だって、昼間スィが失せろ……って……」
「馬鹿！」
　又しても怒鳴られて、ひっとアトゥーリャの肩が竦む。
「あんな八つ当たりを本気にしてどうする！」
「やつ……？　だって、だって……」
「確かに大人気はなかったが……そもそもお前が俺を無視するから！」
「むし」
「無視だ！　せっかく真珠をやろうとしたのに無視したじゃないか！　お前の為に選んだのに！」
　そう言って指先の一つ一つにキスを落としてゆく。
　スィラージュに、最早威厳溢るる皇太子の面影はどこにもない。
「真珠？　ああ……転がってきた……？」
「そうだ！　特別に持ってこさせたんだ！　それを無碍むげにしやがって、俺がどんだけ腹が立ったか……無視の上に無碍だぞ！　肝も煮えるわ！」
「……だ、だって……今の私じゃ、スィに話しかける事すらできないじゃない」
「あほか！　だからあの時素直に俺のもんになってりゃよかったんだ！　大体なんだ！　腹立ち紛れに言い捨てた言葉には素直に反応するくせに、俺が必死で懇願したことには真正面から逆らいおって！」
「だって、家が罪に問われて一族郎党追放の憂き目にあったのに、私だけ皇太子の側妃になんてなれないじゃない……」
「そりゃ確かに、お前の父や叔父が馬鹿な事をしたのには間違いはないが、騙されて阿呆だっただけで、別に悪人という訳じゃない。五年も辺境で辛抱すりゃ、ちゃんと戻してやるつもりだったんだ、親父も俺もな！」
「……」
「けどお前だけは遠くにやりたくなくて、俺は必死に親父を説得したのに、お前に素気無く断られて俺は……」
　スィラージュはふつふつとこみ上げる情動を抑えるために言葉を切った。
「お蔭でうるさい州牧共に下らん女を六人も押し付けられる始末だ……まぁ、二、三据え膳は喰ったが……いやそれも、お前が触らせてもくれなかったからだ！」
「……喰ったんだ……」
　アトゥーリャはいつの間にか泣き止んでいる。
「に、二三回だけだ！　しかも義理だ！　俺の身になってもみろ！　最後の手段で端女に貶しまでしてお前を王宮に縛り付けたのに、今度は視線も合わせてもらえないんだぞ！　やけくそにもなるわ！　……確かに悪かったが……」
「だって罪人の端女と皇太子じゃあ、身分差以上に、何もあり得ないっていうか……あ、別に端女の仕事が嫌いって訳じゃないんだけど。割と面白いし」
「言い訳する所が違う！　ええいくそ！　もう我慢ならん！」
　そう言うと、スィラージュはぐいと顔を寄せる。この後の事を経験則で知り尽くしているアトゥーリャは、反射で首を背け、腕を伸ばしてその接近を拒んだ。無論無意味である。
　易々と細腕を封じたスィラージュは嫌がる顎を掴む。それでも頑固な娘が横を向こうとするのを強引に引き戻し、唇を重ねた。
　熱を持ったそれがねっとりと重なり、横柄な舌が割り入ろうと攻撃を開始した。
「ん！　ん～！」
「往生際が悪い！　さっさと開けんか！」
　皇太子に命じられてもこの端女は頑固に唇を閉ざし、彼を迎え入れようとはしない。
　業を煮やしたスィラージュはすっと腕を滑らせ、柔らかな隆起を掴む。堪らずあっと声を上げた刹那、それはふてぶてしく侵入した。
「む……」
　アトゥーリャは慌てた。
　せっかく今までうまくやって来れたものを、この男は台無しにしてしまったのだ。
　父も叔父も人が貴族にしては人がいいばかりで役人などに向かないのだ。墜ちて当然の家の娘が皇子にふさわしい筈もなく。
　ああ、それなのに。
　こんなに容易く捉えられたばかりか、簡単に唇まで奪われ、あまつさえ尻の下でむくむくと勃ちあがるものまである。ふくよかな胸は弄られるままに形を変えて。
「ああ……月光に濡れて……これこそが真珠だな」
　スィラージュは悪そうな笑みを浮かべた。
「だがここでは拙いな。風邪をひかせてしまう。どら！」
　腕にアトゥーリャを抱えたまま、ぐんと立ち上がった。
「え……？　な、何？」
「要するに孕ませちまえばいいんだ。そしたらお前だってあきらめて俺の妃になるだろう？　どうせ最初からそのつもりだったんだし、親父だって文句は言わないさ。後宮は解散だ！」
「そんな無茶苦茶な……私は罪人で……」
「うるさいうるさいうるさい！　お前なんか黙って俺を見てりゃいいんだ」
　スィラージュはどんどん月明かりの庭を進む。
「スィ……」
「そうだ、そう呼んでいいのはお前だけだ。アトゥ……」
「……」
「好きだ」
　低く唸るような声。自分が押し付けられている厚い胸板。
　アトゥーリャは観念した。
　やっと分かった。
　この男の本気を。
「スィ」
「なんだ。拒絶なら聞かんぞ」
「真珠……せっかくくれたのにごめんね？」
　小さな指先が削げた頬をなぞった。
「そっ……そんなものいくらでもくれてやる！　くっそぉ可愛い……」
　痛んだ指先を咥える。
「……まだ土の味がする」
「うん。でも掘っても掘っても壁が埋まっていて……」
「当り前だ、お前は土台と言うものを知らんのか？　この城壁はお前なんかが一年掘ったって越えられんわ」
「そうなの？」
「そうだ。この世間知らずめ！」
「ごめんなさい」
「ふん！　悪いと思うんなら一生俺に捕らわれていろ……俺だけの真珠……アトゥ」
　突き上げる想いに耐え兼ね、スィラージュは腕に力を込めた。

　夜に咲く花の間を進む。
　大きな夜空の真珠がそれを包み込んだ。




　＊＊＊＊＊




どのお話かが、お好みに合えば嬉しいです。
よければ一言だけでもいただけると励みになります。