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7 誤解なんです! 少尉さん
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それは初めてレイルダーに会った日のこと。
どきどきしながら彼を母の部屋まで案内したのはアンだ。レイルダーと初めて会った瞬間の胸の高鳴りがまだ続いていた。
夢見心地で二人並んで廊下を進んだ。執事に呼ばれた父もすぐに来るはずだった。
「ここがお母さまの部屋です」
母の部屋の扉を開ける。
大きな安楽椅子にもたれた母は、白いレースのガウンを着ている。
頭よりずっと高いところで息を呑む音がした。
人が恋に落ちるところなど、アンは見たことがなかった。
けれど、今日初めて会った青年士官が、一瞬で母に魅せられたことだけは理解できた。それはついさっき自分が陥ったばかりの感情だから。
アンは自分が恋した次の瞬間に、失恋してしまったのだ。
でも、お母さまなら仕方がない……。
アンの母カーマインは、十年前のラジム公爵の反乱では、戦地に物資を送る補給部隊を率い、内戦終結を陰で支えた女傑だった。
燃えるような髪と瞳を持つ彼女は「赤い天使」と呼ばれ、彼女が来ると知ると、前線の兵士の指揮は一気に上がったという。
しかし、最後の戦闘でカーマインは思いがけず負傷し、助けにきた父と出会った。
フリューゲルはその時、四十過ぎのやもめだったが、一目で恋に落ちたと、今でもアンに惚気る。
アンが二歳の時に彼らは結婚した。
だからアンは、ずっとカーマインを母として慕っている。
「お見舞いに来てくれて、ありがとう。すっかり退屈していたのよ」
真紅に波打つ髪を緩やかに下ろし、父にもたれかかる母は、いつ見てもうっとりするほど美しい。
このたおやかな女性が、補給部隊とはいえ、五百人もの軍隊を率いていたなどと、アンは今も信じられない。軍服姿の写真も残っているが、今と変わらぬ美しさだった。
「お母様、お茶を淹れましたよ。それから今日学校で焼いたお菓子もあります」
アンはレイルダーを意識しながら、鞄の中から包みを取り出し、中身を皿の上に並べた。
いろいろな味のクッキーがあるが、今回は焦げたものは一つもない。貴族の学校だが実学を重んじ、選択制で簡単な料理の授業もある。
「まぁ! 美味しそうね。お茶も良い香りだわ。アンはなんでもどんどん上手になるわね。私は不器用だから羨ましいわ」
カーマインは小さなクッキーを一つ摘んだ。
「あなた、とても美味しいわ。皆さんもどうぞ?」
「喜んでいただきます」
ケインは嬉しそうに菓子をつまみ、茶を飲んだ。
特別病室は広く、フリューゲル夫妻とケインは和やかに話をしている。
アンは話を聞きながらレイルダーを意識していた。彼は一番端の椅子に座ってカップを持ったまま、黙って母を見ている。
あの日──。
彼は明るいその瞳を、いっぱいに見開いて母を見つめていた。鮮やかなる翠と紅の対比。
しかし、レイルダーは父に紹介され「初めまして」と腰を折っただけだった。
「あなた……そうなのね?」
母は謎のような言葉を吐いた。
「いえ、あなたも、あの戦場にいたのね?」
なんでも見通してしまう母にそう問われ、レイルダーはわずかに瞼を伏せて同意を示した。
「お身内は?」
「すべて死にました」
「そう……そうなの」
カーマインはアンが初めて見せる奇妙な表情をしていた。レイルダーはじっとその様子を見つめている。
フュルーゲルもなにも言わなかった。
その時のことをアンは鮮明に覚えている。
彼に恋をしてしまったから、彼が恋したこともわかってしまったのだ。
そして、それから四年近く経った今。
あれからずっと、私は少尉さんを見ている。
私だって彼が好き──大好きだから。
しかし、レイルダーはあの日も今も、想っているであろう母に対して、その感情を示すことはなかった。
湖の浅瀬色の瞳は、気だるげにも見え、普段は感情の振れ幅が少ない。いつも伏せ目がちで言葉も少なく、それでいて全身で彼女を意識している。
アンはレイルダーがたくさんの女性と付き合っていることも知っていた。学園にも憧れている女生徒が多いので、否応なく噂が耳に入ってくるのだ。
それによると、一度に複数の女性と付き合うことはないが、隣に立つ女性がいなくなることもないそうだ。要するに受け入れはするが、去る者にも興味がないのだろう。
近衛隊の中でも特に目立つその容貌と、明らかではない過去のお陰で、彼の神秘性が増幅され、淑女たちの注目の的になるのだろう。
でも、アンは何も言わない。
彼を見つめているだけで胸がいっぱいだから。
少尉さんが誰を好きでも、私が少尉さんを好きなんだからそれでいい。
それはアンが何回も繰り返した言葉だ。
彼が自分を上官の娘としか見ていないことなど、嫌というほど知っている。
でも関係ない!
この想いは誰にも止められやしないわ。
「少尉さん、お茶のお代わりはいかがですか?」
「いや、いい」
「そう言えば思い出した、アン?」
突然変わった母の口調に、アンは茶器を置いて振り向いた。カーマインは、赤い瞳を煌めかせて娘を見ている。
「はい、お母様」
「あなた、来月は学園で秋のパーティがあるんでしょう? 四年生から出られるって聞いたわよ。新しいドレスはもう作ったの?」
「え? いいえ。今持っているので間に合うかなって。それにパーティは苦手ですので、出席するかどうかも決めていません」
「そんなのダメよ! 初めての学園のパーティなんだから!」
「でも……」
「エスコートしてくれる男の子は決まった? 学校は男子が多いから、あなたなら引く手数多でしょう?」
「え? そんなことないです。私目だたないし……」
レイルダーの前で、この話をして欲しくなかったアンは、母から目を逸らした。
実は、一人いたのである。
エスコート役を申し出た男子が。
ただ、彼──ヨアキムが言ったのは。
『男子でクジを作ったんだよ。で、俺はお前を引いちまった。男子はあぶれる奴もいるから、俺もお前で我慢するしかない。ま、せいぜい上手くやろうぜ』
ヨアキムは、二年生の時に乗馬でしてやられてから、アンに嫌な態度を取り続けていた。
勉強も運動もアンよりできて、おまけに何人も貴族院議員を輩出している由緒正しい伯爵家の出身なのだから、アンになど構わなければいいのに、教師にわからないよう姑息に嫌味を言ってくるのだ。
ヨアキムなんかにエスコートされるくらいなら、パーテイなんか欠席した方がよっぽどマシだわ。
「あら、やっぱりいるのね? どんな子? 優しい? 連れていらっしゃいよ」
カーマインは娘の沈黙を誤解したようだ。
「いっ、いません! ヨアキムは、私をからかうために誘っただけです!」
「まぁ、ヨアキムっていうの? わかりやすい子ねぇ。アン、それはきっと、あなたに好意を持っているからよ。スマートにお相手してあげなさいな」
「お母さま!」
普段温厚なアンが珍しく声を上げる。その途端レイルダーと目が合い、アンはひどく動揺してしまった。
彼の澄んだ瞳は今、アンの望み通り彼女を見ている。珍しく眉を上げて、笑うように。
「ち……違います! そんなことないわ! 私……私、やっぱりパーティには行かないわ! 絶対に行きませんから!」
そう宣言してアンは部屋を飛び出した。
どきどきしながら彼を母の部屋まで案内したのはアンだ。レイルダーと初めて会った瞬間の胸の高鳴りがまだ続いていた。
夢見心地で二人並んで廊下を進んだ。執事に呼ばれた父もすぐに来るはずだった。
「ここがお母さまの部屋です」
母の部屋の扉を開ける。
大きな安楽椅子にもたれた母は、白いレースのガウンを着ている。
頭よりずっと高いところで息を呑む音がした。
人が恋に落ちるところなど、アンは見たことがなかった。
けれど、今日初めて会った青年士官が、一瞬で母に魅せられたことだけは理解できた。それはついさっき自分が陥ったばかりの感情だから。
アンは自分が恋した次の瞬間に、失恋してしまったのだ。
でも、お母さまなら仕方がない……。
アンの母カーマインは、十年前のラジム公爵の反乱では、戦地に物資を送る補給部隊を率い、内戦終結を陰で支えた女傑だった。
燃えるような髪と瞳を持つ彼女は「赤い天使」と呼ばれ、彼女が来ると知ると、前線の兵士の指揮は一気に上がったという。
しかし、最後の戦闘でカーマインは思いがけず負傷し、助けにきた父と出会った。
フリューゲルはその時、四十過ぎのやもめだったが、一目で恋に落ちたと、今でもアンに惚気る。
アンが二歳の時に彼らは結婚した。
だからアンは、ずっとカーマインを母として慕っている。
「お見舞いに来てくれて、ありがとう。すっかり退屈していたのよ」
真紅に波打つ髪を緩やかに下ろし、父にもたれかかる母は、いつ見てもうっとりするほど美しい。
このたおやかな女性が、補給部隊とはいえ、五百人もの軍隊を率いていたなどと、アンは今も信じられない。軍服姿の写真も残っているが、今と変わらぬ美しさだった。
「お母様、お茶を淹れましたよ。それから今日学校で焼いたお菓子もあります」
アンはレイルダーを意識しながら、鞄の中から包みを取り出し、中身を皿の上に並べた。
いろいろな味のクッキーがあるが、今回は焦げたものは一つもない。貴族の学校だが実学を重んじ、選択制で簡単な料理の授業もある。
「まぁ! 美味しそうね。お茶も良い香りだわ。アンはなんでもどんどん上手になるわね。私は不器用だから羨ましいわ」
カーマインは小さなクッキーを一つ摘んだ。
「あなた、とても美味しいわ。皆さんもどうぞ?」
「喜んでいただきます」
ケインは嬉しそうに菓子をつまみ、茶を飲んだ。
特別病室は広く、フリューゲル夫妻とケインは和やかに話をしている。
アンは話を聞きながらレイルダーを意識していた。彼は一番端の椅子に座ってカップを持ったまま、黙って母を見ている。
あの日──。
彼は明るいその瞳を、いっぱいに見開いて母を見つめていた。鮮やかなる翠と紅の対比。
しかし、レイルダーは父に紹介され「初めまして」と腰を折っただけだった。
「あなた……そうなのね?」
母は謎のような言葉を吐いた。
「いえ、あなたも、あの戦場にいたのね?」
なんでも見通してしまう母にそう問われ、レイルダーはわずかに瞼を伏せて同意を示した。
「お身内は?」
「すべて死にました」
「そう……そうなの」
カーマインはアンが初めて見せる奇妙な表情をしていた。レイルダーはじっとその様子を見つめている。
フュルーゲルもなにも言わなかった。
その時のことをアンは鮮明に覚えている。
彼に恋をしてしまったから、彼が恋したこともわかってしまったのだ。
そして、それから四年近く経った今。
あれからずっと、私は少尉さんを見ている。
私だって彼が好き──大好きだから。
しかし、レイルダーはあの日も今も、想っているであろう母に対して、その感情を示すことはなかった。
湖の浅瀬色の瞳は、気だるげにも見え、普段は感情の振れ幅が少ない。いつも伏せ目がちで言葉も少なく、それでいて全身で彼女を意識している。
アンはレイルダーがたくさんの女性と付き合っていることも知っていた。学園にも憧れている女生徒が多いので、否応なく噂が耳に入ってくるのだ。
それによると、一度に複数の女性と付き合うことはないが、隣に立つ女性がいなくなることもないそうだ。要するに受け入れはするが、去る者にも興味がないのだろう。
近衛隊の中でも特に目立つその容貌と、明らかではない過去のお陰で、彼の神秘性が増幅され、淑女たちの注目の的になるのだろう。
でも、アンは何も言わない。
彼を見つめているだけで胸がいっぱいだから。
少尉さんが誰を好きでも、私が少尉さんを好きなんだからそれでいい。
それはアンが何回も繰り返した言葉だ。
彼が自分を上官の娘としか見ていないことなど、嫌というほど知っている。
でも関係ない!
この想いは誰にも止められやしないわ。
「少尉さん、お茶のお代わりはいかがですか?」
「いや、いい」
「そう言えば思い出した、アン?」
突然変わった母の口調に、アンは茶器を置いて振り向いた。カーマインは、赤い瞳を煌めかせて娘を見ている。
「はい、お母様」
「あなた、来月は学園で秋のパーティがあるんでしょう? 四年生から出られるって聞いたわよ。新しいドレスはもう作ったの?」
「え? いいえ。今持っているので間に合うかなって。それにパーティは苦手ですので、出席するかどうかも決めていません」
「そんなのダメよ! 初めての学園のパーティなんだから!」
「でも……」
「エスコートしてくれる男の子は決まった? 学校は男子が多いから、あなたなら引く手数多でしょう?」
「え? そんなことないです。私目だたないし……」
レイルダーの前で、この話をして欲しくなかったアンは、母から目を逸らした。
実は、一人いたのである。
エスコート役を申し出た男子が。
ただ、彼──ヨアキムが言ったのは。
『男子でクジを作ったんだよ。で、俺はお前を引いちまった。男子はあぶれる奴もいるから、俺もお前で我慢するしかない。ま、せいぜい上手くやろうぜ』
ヨアキムは、二年生の時に乗馬でしてやられてから、アンに嫌な態度を取り続けていた。
勉強も運動もアンよりできて、おまけに何人も貴族院議員を輩出している由緒正しい伯爵家の出身なのだから、アンになど構わなければいいのに、教師にわからないよう姑息に嫌味を言ってくるのだ。
ヨアキムなんかにエスコートされるくらいなら、パーテイなんか欠席した方がよっぽどマシだわ。
「あら、やっぱりいるのね? どんな子? 優しい? 連れていらっしゃいよ」
カーマインは娘の沈黙を誤解したようだ。
「いっ、いません! ヨアキムは、私をからかうために誘っただけです!」
「まぁ、ヨアキムっていうの? わかりやすい子ねぇ。アン、それはきっと、あなたに好意を持っているからよ。スマートにお相手してあげなさいな」
「お母さま!」
普段温厚なアンが珍しく声を上げる。その途端レイルダーと目が合い、アンはひどく動揺してしまった。
彼の澄んだ瞳は今、アンの望み通り彼女を見ている。珍しく眉を上げて、笑うように。
「ち……違います! そんなことないわ! 私……私、やっぱりパーティには行かないわ! 絶対に行きませんから!」
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