上 下
20 / 57

19 悲憤の魔女 1

しおりを挟む
 水路の街、ウォーターロウに夜が来る。

 ざわざわざわ

 風が不吉な音でいた。ここ数日、比較的大人しくしていたギマたちがうごめきはじめる。
「きこえるか?」
「ああ」
「今夜か?」
「今夜だ」
「しかし、どうやってほりを渡ると……以前のように、自分たちの体でき止めようというのか?」
「それにしてはこの濠は豊かで流れもある。いくらギマとて流されたら終わりだろう」
 川から直接取り込んだ水は、街をほぼ一周して元の川に流れ込むから、干上がることがない。
「それはそうだ。だが……妙だ」
「え?」
「見ろ! 流れが変わっていく!」
 セイジの言う通り、目の前に流れる水は逆流し、元の河へと戻っていく。と同時に下流の水門では激しい勢いで排水が始まる。新しい流れが戻ってくることはない。
 つまり、濠の中はどんどん空になっていくのだ。
「これは一体どういうことだ!? 水……水がなくなっていくぞ!」
「上流の水門は開いたままだぞ! な、なぜだ!」
「魔女だ! 魔女の仕業だ!」
「えええ!?」
「うああああ!」
「あれを見ろ!」
 そして、彼らは見た。曇った夜空よりもさらに黒く、大きな気配が、彼らの頭の上を通り過ぎていくのを。

 あはははははは!

 ざぁざぁと引いていく水の音に交じって、見張りの兵士たちの耳に、遥か高みから甲高い笑い声が降ってくる。憎悪と邪悪さを含んだ不吉な声が。
 そして、やがて粘っこくて細かい雨が降った。
「ああっ! ギマが、ギマが濠を乗り越えてくる!」
 誰かが叫んだ。
 その通り、ギマたちは次々と空になった濠の底へと身を躍らせ、何体かはそのまま泥にまみれて動けなくなった。しかし、その上を踏みしめながらギマ達は、街のほうへと渡ってくる。
 濠を囲む城壁は、ジェルマの街ほど高くはない。跳ね橋は上げてあるとはいえ、突破されるのは時間の問題だろう。
 とにかくギマの強みは数なのだ。
 魔女たちにとっては、今まで滅ぼした国や街に打ち捨てられている死体に、ほんの少しの血を垂らすだけで生み出せるのだから。
 そして、その内の何体かに<血の種>を埋め込めば、立派な軍団となる。
 戦えば戦うほど死体は増え、人間には不利な状況となってしまう。それが魔女との絶望的な戦いの真実だった。
「松明を灯せ! ギマの上陸をゆるすな!」
「ああっ! 向こうで這い上がろうとする奴がいる!」
「止めろ! 突き崩せ!」
 ウォーターロウは水の街だ。濠から街中に小さな水路が張り巡らされ、人々の生活を支えている。
 その水路があだとなった。
 水量が減った濠から、ギマ達が次々に街中の水路へと入り込んでいく。
 流域面積が多過ぎて、とても守り切れるものではない。紅油で焼き払おうにも、粘っこい水気で湿ったギマにはなかなか効果が上がらない。
「斬れ! とにかく、這い上ってくるギマの頭を切り飛ばせ!」
 戦士達は口々に叫んで、勇敢にギマに向かっていった。
 民家の屋根からは、火薬をつめたトウシングサから作った火矢を放って、ギマを内側から破裂させていく。
 それらはある程度効果が上がり、民間人を街の公会堂に避難させる時間を稼ぐことはできた。
 しかし、とても防ぎ切れるものではない。何人かは既に犠牲になっている。
「クロウ! クロウはどこだ! カーネリア!」
「それが……また」
「あいつ! <指令者>を探しにいったのか?」
「ええ。多分数体はいるからって……それさえ倒せば、あとはこっちでどうにかなるだろうって」
「それはそうかも……ただのギマなら濠をよじ登ってくる奴も少ないだろうし。夜明けまで持ち堪えられたら」
「でもそれだけじゃないの! クロウは……」
「なんだ?」
「いつもの剣とは別に、背中に大きな剣を背負って行ったのよ! 半月前にジャルマの街から届いたやつ」
「奴は本気なんだ……なら、多分本物の魔女が近くにいる。さっき笑い声が聞こえたろ?」
「しかしこのギマの数だぞ! 奴に魔女の場所がわかるのか? このままでは乱戦になる」
「クロウは『*****は、近いところにいて、動かない。こっちからいくしかない』って!」
「近い? それは……もしかして?」
 大胆なオーサーでさえ怖気を振るう、悲憤の魔女の名前。
「ええ。クロウはその名前を叫んだのよ。大声で何度も」
「な……名前を!?」
 それは挑発を意味する。面白半分にその名を呼んで惨殺された者を知っているだけに、皆は真っ青になった。
「クロウ……死ぬな」
 ブルーは湿気に満ちた夜空を見上げた。
 星も月もない、押しつぶされそうな闇を。

「ゾルーディア! 出てこい!」
 クロウはからになった濠の下から、どす黒くよどんだ空に向かって叫んだ。その背後にぬっとギマが現れる。<指令者>だ。
「お前じゃない!」
 ほとんど見もせずに、クロウは脇の下から背後に剣を突き出した。顎の下から脳天を貫かれて<指令者>は倒れる。
 抜いた剣先に<血の種>が突き刺さっていた。今までのものよりも透明度が高い。ほとんど真紅だ。
 次々と湧き出るギマだが、その大半はクロウの敵ではない。彼は老若男女、身分職業さまざまな姿形の、かつて人間だったものの間を掻い潜り、<血の種>を有する<指令者>だけを的確に倒していった。
 その度に「種」を抜き取りながら。
 二十体程度を倒した頃から戦いは容易になり、頃は良しとクロウは濠を飛び出して街の外に出る。
 街の外は広大な麦畑だった。
 麦が育つ北限のこの地域では、病気に強い良質の麦が穫れる穀倉地帯なのだ。今は夏で、青々とした麦の穂が出始めている頃合いだろう。
 平和な午後なら、さぞ美しい風景が見られたに違いない。
 しかし今、粘っこい雨に打たれた麦畑はまるで夜の海のようだった。
 ナギは風に煽られて倒れかかる丈の高い麦の間を進んだ。地面はぬかるみ、何度も足を取られる。通常の何十にも難儀な道行みちゆきだ。

 くそっ!
 こんなところで、もたついてたまるか!

 その間も襲い掛かるギマを次々にぎ払いながら、クロウは麦畑をひたすら走った。
 北へ北へと。
 やがて畑が切れていき、目の前に夜よりも黒い壁が立ちはだかった。
 イトスギの森である。墓場に生えると言われている、背の高い針葉樹の壁。
「ゾルーディア!」
 ナギは森の奥に向かって叫んだ。
「縮こまっていないで出てこい! 俺と相対しろ!」
 瞬間、雨と風が途切れる。
「ゾルーディアアアアアア!」
 雨の音をかき消すほどの叫び。それに雨の音の間を縫うような細い声が応じた。
『……聞こえておる、若者よ』
「いるのか! さぁ、返してやる! これはお前のものだろう?」
 クロウは胸の中に手を入れ、今まで集めた<血の種>を森に向かってばらいた。
「来い! 俺に来い! 悲憤の魔女ゾルーディア!」
 森は深い。しかも、よどんだ闇の空気の中である。なのに声だけは木霊のように響いてくる。
『若者。残念ながらその血は、わらわのものではない』
「なんだと!?」
 魔女は平気で嘘をつく。ナギはこの玉が放つ気をたどって、ここまできたのだから間違うはずがない。
「俺をあざむこうとしても無駄だ!」
『欺かぬよ。妾が放ったものもあったが、今ではすっかり少なくなったと言うたのじゃ。そなたにはわからぬであろうが』
「よく喋る魔女だ」
『ふふふ、許せ。久しぶりに人と話すでな。しかも、このような良い若者とな。じゃが、さらに残念なことにな、妾はそちらに出向いて行けぬ』
「逃げるのか! 魔女ゾルーディア!」
『今更逃げぬ。だから、そなたからやってくるがよい。そなたには妾の場所がわかるであろうよ。我が血を分けた者よ』
「血? 血だと!? 俺はお前から何も受け取っていないぞ!」
『ならば、その常人離れした力を持つ身体からだは、誰からもらったのだえ?』
 誰かが闇の中でわらう。姿も気配も見えないのに、笑っていることだけが伝わるのだ。
「なに!?」
『かつてそなたが属していた、愚かな組織での下積みがあったとはいえ、それだけの戦いには魔が混じっておるとは、今まで思わなんだか?』
「……」
『それ、その下に』
 濃い闇の中から、魔力の先端がひねり出る。
 それはクロウ──ナギの額を確かに指さした。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛されない皇妃~最強の母になります!~

椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』 やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。 夫も子どもも――そして、皇妃の地位。 最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。 けれど、そこからが問題だ。 皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。 そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど…… 皇帝一家を倒した大魔女。 大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!? ※表紙は作成者様からお借りしてます。 ※他サイト様に掲載しております。

妹を見捨てた私 ~魅了の力を持っていた可愛い妹は愛されていたのでしょうか?~

紗綺
ファンタジー
何故妹ばかり愛されるの? その答えは私の10歳の誕生日に判明した。 誕生日パーティで私の婚約者候補の一人が妹に魅了されてしまったことでわかった妹の能力。 『魅了の力』 無自覚のその力で周囲の人間を魅了していた。 お父様お母様が妹を溺愛していたのも魅了の力に一因があったと。 魅了の力を制御できない妹は魔法省の管理下に置かれることが決まり、私は祖母の実家に引き取られることになった。 新しい家族はとても優しく、私は妹と比べられることのない穏やかな日々を得ていた。 ―――妹のことを忘れて。 私が嫁いだ頃、妹の噂が流れてきた。 魅了の力を制御できるようになり、制限つきだが自由を得た。 しかし実家は没落し、頼る者もなく娼婦になったと。 なぜこれまであの子へ連絡ひとつしなかったのかと、後悔と罪悪感が私を襲う。 それでもこの安寧を捨てられない私はただ祈るしかできない。 どうかあの子が救われますようにと。

側室は…私に子ができない場合のみだったのでは?

ヘロディア
恋愛
王子の妻である主人公。夫を誰よりも深く愛していた。子供もできて円満な家庭だったが、ある日王子は側室を持ちたいと言い出し…

子育て失敗の尻拭いは婚約者の務めではございません。

章槻雅希
ファンタジー
学院の卒業パーティで王太子は婚約者を断罪し、婚約破棄した。 真実の愛に目覚めた王太子が愛しい平民の少女を守るために断行した愚行。 破棄された令嬢は何も反論せずに退場する。彼女は疲れ切っていた。 そして一週間後、令嬢は国王に呼び出される。 けれど、その時すでにこの王国には終焉が訪れていた。 タグに「ざまぁ」を入れてはいますが、これざまぁというには重いかな……。 小説家になろう様にも投稿。

私の家族はハイスペックです! 落ちこぼれ転生末姫ですが溺愛されつつ世界救っちゃいます!

りーさん
ファンタジー
 ある日、突然生まれ変わっていた。理由はわからないけど、私は末っ子のお姫さまになったらしい。 でも、このお姫さま、なんか放置気味!?と思っていたら、お兄さんやお姉さん、お父さんやお母さんのスペックが高すぎるのが原因みたい。 こうなったら、こうなったでがんばる!放置されてるんなら、なにしてもいいよね! のんびりマイペースをモットーに、私は好きに生きようと思ったんだけど、実は私は、重要な使命で転生していて、それを遂行するために神器までもらってしまいました!でも、私は私で楽しく暮らしたいと思います!

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

【完結】お父様に愛されなかった私を叔父様が連れ出してくれました。~お母様からお父様への最後のラブレター~

山葵
恋愛
「エリミヤ。私の所に来るかい?」 母の弟であるバンス子爵の言葉に私は泣きながら頷いた。 愛人宅に住み屋敷に帰らない父。 生前母は、そんな父と結婚出来て幸せだったと言った。 私には母の言葉が理解出来なかった。

転生王女は異世界でも美味しい生活がしたい!~モブですがヒロインを排除します~

ちゃんこ
ファンタジー
乙女ゲームの世界に転生した⁉ 攻略対象である3人の王子は私の兄さまたちだ。 私は……名前も出てこないモブ王女だけど、兄さまたちを誑かすヒロインが嫌いなので色々回避したいと思います。 美味しいものをモグモグしながら(重要)兄さまたちも、お国の平和も、きっちりお守り致します。守ってみせます、守りたい、守れたらいいな。え~と……ひとりじゃ何もできない! 助けてMyファミリー、私の知識を形にして~! 【1章】飯テロ/スイーツテロ・局地戦争・飢饉回避 【2章】王国発展・vs.ヒロイン 【予定】全面戦争回避、婚約破棄、陰謀?、養い子の子育て、恋愛、ざまぁ、などなど。 ※〈私〉=〈わたし〉と読んで頂きたいと存じます。 ※恋愛相手とはまだ出会っていません(年の差) ブログ https://tenseioujo.blogspot.com/ Pinterest https://www.pinterest.jp/chankoroom/ ※作中のイラストは画像生成AIで作成したものです。

処理中です...