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19 悲憤の魔女 1
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水路の街、ウォーターロウに夜が来る。
ざわざわざわ
風が不吉な音で啼いた。ここ数日、比較的大人しくしていたギマたちが蠢きはじめる。
「きこえるか?」
「ああ」
「今夜か?」
「今夜だ」
「しかし、どうやって濠を渡ると……以前のように、自分たちの体で堰き止めようというのか?」
「それにしてはこの濠は豊かで流れもある。いくらギマとて流されたら終わりだろう」
川から直接取り込んだ水は、街をほぼ一周して元の川に流れ込むから、干上がることがない。
「それはそうだ。だが……妙だ」
「え?」
「見ろ! 流れが変わっていく!」
セイジの言う通り、目の前に流れる水は逆流し、元の河へと戻っていく。と同時に下流の水門では激しい勢いで排水が始まる。新しい流れが戻ってくることはない。
つまり、濠の中はどんどん空になっていくのだ。
「これは一体どういうことだ!? 水……水がなくなっていくぞ!」
「上流の水門は開いたままだぞ! な、なぜだ!」
「魔女だ! 魔女の仕業だ!」
「えええ!?」
「うああああ!」
「あれを見ろ!」
そして、彼らは見た。曇った夜空よりもさらに黒く、大きな気配が、彼らの頭の上を通り過ぎていくのを。
あはははははは!
ざぁざぁと引いていく水の音に交じって、見張りの兵士たちの耳に、遥か高みから甲高い笑い声が降ってくる。憎悪と邪悪さを含んだ不吉な声が。
そして、やがて粘っこくて細かい雨が降った。
「ああっ! ギマが、ギマが濠を乗り越えてくる!」
誰かが叫んだ。
その通り、ギマたちは次々と空になった濠の底へと身を躍らせ、何体かはそのまま泥にまみれて動けなくなった。しかし、その上を踏みしめながらギマ達は、街のほうへと渡ってくる。
濠を囲む城壁は、ジェルマの街ほど高くはない。跳ね橋は上げてあるとはいえ、突破されるのは時間の問題だろう。
とにかくギマの強みは数なのだ。
魔女たちにとっては、今まで滅ぼした国や街に打ち捨てられている死体に、ほんの少しの血を垂らすだけで生み出せるのだから。
そして、その内の何体かに<血の種>を埋め込めば、立派な軍団となる。
戦えば戦うほど死体は増え、人間には不利な状況となってしまう。それが魔女との絶望的な戦いの真実だった。
「松明を灯せ! ギマの上陸をゆるすな!」
「ああっ! 向こうで這い上がろうとする奴がいる!」
「止めろ! 突き崩せ!」
ウォーターロウは水の街だ。濠から街中に小さな水路が張り巡らされ、人々の生活を支えている。
その水路が仇となった。
水量が減った濠から、ギマ達が次々に街中の水路へと入り込んでいく。
流域面積が多過ぎて、とても守り切れるものではない。紅油で焼き払おうにも、粘っこい水気で湿ったギマにはなかなか効果が上がらない。
「斬れ! とにかく、這い上ってくるギマの頭を切り飛ばせ!」
戦士達は口々に叫んで、勇敢にギマに向かっていった。
民家の屋根からは、火薬をつめたトウシングサから作った火矢を放って、ギマを内側から破裂させていく。
それらはある程度効果が上がり、民間人を街の公会堂に避難させる時間を稼ぐことはできた。
しかし、とても防ぎ切れるものではない。何人かは既に犠牲になっている。
「クロウ! クロウはどこだ! カーネリア!」
「それが……また」
「あいつ! <指令者>を探しにいったのか?」
「ええ。多分数体はいるからって……それさえ倒せば、あとはこっちでどうにかなるだろうって」
「それはそうかも……ただのギマなら濠をよじ登ってくる奴も少ないだろうし。夜明けまで持ち堪えられたら」
「でもそれだけじゃないの! クロウは……」
「なんだ?」
「いつもの剣とは別に、背中に大きな剣を背負って行ったのよ! 半月前にジャルマの街から届いたやつ」
「奴は本気なんだ……なら、多分本物の魔女が近くにいる。さっき笑い声が聞こえたろ?」
「しかしこのギマの数だぞ! 奴に魔女の場所がわかるのか? このままでは乱戦になる」
「クロウは『*****は、近いところにいて、動かない。こっちからいくしかない』って!」
「近い? それは……もしかして?」
大胆なオーサーでさえ怖気を振るう、悲憤の魔女の名前。
「ええ。クロウはその名前を叫んだのよ。大声で何度も」
「な……名前を!?」
それは挑発を意味する。面白半分にその名を呼んで惨殺された者を知っているだけに、皆は真っ青になった。
「クロウ……死ぬな」
ブルーは湿気に満ちた夜空を見上げた。
星も月もない、押しつぶされそうな闇を。
「ゾルーディア! 出てこい!」
クロウは空になった濠の下から、どす黒く澱んだ空に向かって叫んだ。その背後にぬっとギマが現れる。<指令者>だ。
「お前じゃない!」
ほとんど見もせずに、クロウは脇の下から背後に剣を突き出した。顎の下から脳天を貫かれて<指令者>は倒れる。
抜いた剣先に<血の種>が突き刺さっていた。今までのものよりも透明度が高い。ほとんど真紅だ。
次々と湧き出るギマだが、その大半はクロウの敵ではない。彼は老若男女、身分職業さまざまな姿形の、かつて人間だったものの間を掻い潜り、<血の種>を有する<指令者>だけを的確に倒していった。
その度に「種」を抜き取りながら。
二十体程度を倒した頃から戦いは容易になり、頃は良しとクロウは濠を飛び出して街の外に出る。
街の外は広大な麦畑だった。
麦が育つ北限のこの地域では、病気に強い良質の麦が穫れる穀倉地帯なのだ。今は夏で、青々とした麦の穂が出始めている頃合いだろう。
平和な午後なら、さぞ美しい風景が見られたに違いない。
しかし今、粘っこい雨に打たれた麦畑はまるで夜の海のようだった。
ナギは風に煽られて倒れかかる丈の高い麦の間を進んだ。地面はぬかるみ、何度も足を取られる。通常の何十にも難儀な道行だ。
くそっ!
こんなところで、もたついてたまるか!
その間も襲い掛かるギマを次々に薙ぎ払いながら、クロウは麦畑をひたすら走った。
北へ北へと。
やがて畑が切れていき、目の前に夜よりも黒い壁が立ちはだかった。
イトスギの森である。墓場に生えると言われている、背の高い針葉樹の壁。
「ゾルーディア!」
ナギは森の奥に向かって叫んだ。
「縮こまっていないで出てこい! 俺と相対しろ!」
瞬間、雨と風が途切れる。
「ゾルーディアアアアアア!」
雨の音をかき消すほどの叫び。それに雨の音の間を縫うような細い声が応じた。
『……聞こえておる、若者よ』
「いるのか! さぁ、返してやる! これはお前のものだろう?」
クロウは胸の中に手を入れ、今まで集めた<血の種>を森に向かってばら撒いた。
「来い! 俺に来い! 悲憤の魔女ゾルーディア!」
森は深い。しかも、澱んだ闇の空気の中である。なのに声だけは木霊のように響いてくる。
『若者。残念ながらその血は、妾のものではない』
「なんだと!?」
魔女は平気で嘘をつく。ナギはこの玉が放つ気をたどって、ここまできたのだから間違うはずがない。
「俺を欺こうとしても無駄だ!」
『欺かぬよ。妾が放ったものもあったが、今ではすっかり少なくなったと言うたのじゃ。そなたにはわからぬであろうが』
「よく喋る魔女だ」
『ふふふ、許せ。久しぶりに人と話すでな。しかも、このような良い若者とな。じゃが、さらに残念なことにな、妾はそちらに出向いて行けぬ』
「逃げるのか! 魔女ゾルーディア!」
『今更逃げぬ。だから、そなたからやってくるがよい。そなたには妾の場所がわかるであろうよ。我が血を分けた者よ』
「血? 血だと!? 俺はお前から何も受け取っていないぞ!」
『ならば、その常人離れした力を持つ身体は、誰からもらったのだえ?』
誰かが闇の中で嗤う。姿も気配も見えないのに、笑っていることだけが伝わるのだ。
「なに!?」
『かつてそなたが属していた、愚かな組織での下積みがあったとはいえ、それだけの戦いには魔が混じっておるとは、今まで思わなんだか?』
「……」
『それ、その下に』
濃い闇の中から、魔力の先端が捻り出る。
それはクロウ──ナギの額を確かに指さした。
ざわざわざわ
風が不吉な音で啼いた。ここ数日、比較的大人しくしていたギマたちが蠢きはじめる。
「きこえるか?」
「ああ」
「今夜か?」
「今夜だ」
「しかし、どうやって濠を渡ると……以前のように、自分たちの体で堰き止めようというのか?」
「それにしてはこの濠は豊かで流れもある。いくらギマとて流されたら終わりだろう」
川から直接取り込んだ水は、街をほぼ一周して元の川に流れ込むから、干上がることがない。
「それはそうだ。だが……妙だ」
「え?」
「見ろ! 流れが変わっていく!」
セイジの言う通り、目の前に流れる水は逆流し、元の河へと戻っていく。と同時に下流の水門では激しい勢いで排水が始まる。新しい流れが戻ってくることはない。
つまり、濠の中はどんどん空になっていくのだ。
「これは一体どういうことだ!? 水……水がなくなっていくぞ!」
「上流の水門は開いたままだぞ! な、なぜだ!」
「魔女だ! 魔女の仕業だ!」
「えええ!?」
「うああああ!」
「あれを見ろ!」
そして、彼らは見た。曇った夜空よりもさらに黒く、大きな気配が、彼らの頭の上を通り過ぎていくのを。
あはははははは!
ざぁざぁと引いていく水の音に交じって、見張りの兵士たちの耳に、遥か高みから甲高い笑い声が降ってくる。憎悪と邪悪さを含んだ不吉な声が。
そして、やがて粘っこくて細かい雨が降った。
「ああっ! ギマが、ギマが濠を乗り越えてくる!」
誰かが叫んだ。
その通り、ギマたちは次々と空になった濠の底へと身を躍らせ、何体かはそのまま泥にまみれて動けなくなった。しかし、その上を踏みしめながらギマ達は、街のほうへと渡ってくる。
濠を囲む城壁は、ジェルマの街ほど高くはない。跳ね橋は上げてあるとはいえ、突破されるのは時間の問題だろう。
とにかくギマの強みは数なのだ。
魔女たちにとっては、今まで滅ぼした国や街に打ち捨てられている死体に、ほんの少しの血を垂らすだけで生み出せるのだから。
そして、その内の何体かに<血の種>を埋め込めば、立派な軍団となる。
戦えば戦うほど死体は増え、人間には不利な状況となってしまう。それが魔女との絶望的な戦いの真実だった。
「松明を灯せ! ギマの上陸をゆるすな!」
「ああっ! 向こうで這い上がろうとする奴がいる!」
「止めろ! 突き崩せ!」
ウォーターロウは水の街だ。濠から街中に小さな水路が張り巡らされ、人々の生活を支えている。
その水路が仇となった。
水量が減った濠から、ギマ達が次々に街中の水路へと入り込んでいく。
流域面積が多過ぎて、とても守り切れるものではない。紅油で焼き払おうにも、粘っこい水気で湿ったギマにはなかなか効果が上がらない。
「斬れ! とにかく、這い上ってくるギマの頭を切り飛ばせ!」
戦士達は口々に叫んで、勇敢にギマに向かっていった。
民家の屋根からは、火薬をつめたトウシングサから作った火矢を放って、ギマを内側から破裂させていく。
それらはある程度効果が上がり、民間人を街の公会堂に避難させる時間を稼ぐことはできた。
しかし、とても防ぎ切れるものではない。何人かは既に犠牲になっている。
「クロウ! クロウはどこだ! カーネリア!」
「それが……また」
「あいつ! <指令者>を探しにいったのか?」
「ええ。多分数体はいるからって……それさえ倒せば、あとはこっちでどうにかなるだろうって」
「それはそうかも……ただのギマなら濠をよじ登ってくる奴も少ないだろうし。夜明けまで持ち堪えられたら」
「でもそれだけじゃないの! クロウは……」
「なんだ?」
「いつもの剣とは別に、背中に大きな剣を背負って行ったのよ! 半月前にジャルマの街から届いたやつ」
「奴は本気なんだ……なら、多分本物の魔女が近くにいる。さっき笑い声が聞こえたろ?」
「しかしこのギマの数だぞ! 奴に魔女の場所がわかるのか? このままでは乱戦になる」
「クロウは『*****は、近いところにいて、動かない。こっちからいくしかない』って!」
「近い? それは……もしかして?」
大胆なオーサーでさえ怖気を振るう、悲憤の魔女の名前。
「ええ。クロウはその名前を叫んだのよ。大声で何度も」
「な……名前を!?」
それは挑発を意味する。面白半分にその名を呼んで惨殺された者を知っているだけに、皆は真っ青になった。
「クロウ……死ぬな」
ブルーは湿気に満ちた夜空を見上げた。
星も月もない、押しつぶされそうな闇を。
「ゾルーディア! 出てこい!」
クロウは空になった濠の下から、どす黒く澱んだ空に向かって叫んだ。その背後にぬっとギマが現れる。<指令者>だ。
「お前じゃない!」
ほとんど見もせずに、クロウは脇の下から背後に剣を突き出した。顎の下から脳天を貫かれて<指令者>は倒れる。
抜いた剣先に<血の種>が突き刺さっていた。今までのものよりも透明度が高い。ほとんど真紅だ。
次々と湧き出るギマだが、その大半はクロウの敵ではない。彼は老若男女、身分職業さまざまな姿形の、かつて人間だったものの間を掻い潜り、<血の種>を有する<指令者>だけを的確に倒していった。
その度に「種」を抜き取りながら。
二十体程度を倒した頃から戦いは容易になり、頃は良しとクロウは濠を飛び出して街の外に出る。
街の外は広大な麦畑だった。
麦が育つ北限のこの地域では、病気に強い良質の麦が穫れる穀倉地帯なのだ。今は夏で、青々とした麦の穂が出始めている頃合いだろう。
平和な午後なら、さぞ美しい風景が見られたに違いない。
しかし今、粘っこい雨に打たれた麦畑はまるで夜の海のようだった。
ナギは風に煽られて倒れかかる丈の高い麦の間を進んだ。地面はぬかるみ、何度も足を取られる。通常の何十にも難儀な道行だ。
くそっ!
こんなところで、もたついてたまるか!
その間も襲い掛かるギマを次々に薙ぎ払いながら、クロウは麦畑をひたすら走った。
北へ北へと。
やがて畑が切れていき、目の前に夜よりも黒い壁が立ちはだかった。
イトスギの森である。墓場に生えると言われている、背の高い針葉樹の壁。
「ゾルーディア!」
ナギは森の奥に向かって叫んだ。
「縮こまっていないで出てこい! 俺と相対しろ!」
瞬間、雨と風が途切れる。
「ゾルーディアアアアアア!」
雨の音をかき消すほどの叫び。それに雨の音の間を縫うような細い声が応じた。
『……聞こえておる、若者よ』
「いるのか! さぁ、返してやる! これはお前のものだろう?」
クロウは胸の中に手を入れ、今まで集めた<血の種>を森に向かってばら撒いた。
「来い! 俺に来い! 悲憤の魔女ゾルーディア!」
森は深い。しかも、澱んだ闇の空気の中である。なのに声だけは木霊のように響いてくる。
『若者。残念ながらその血は、妾のものではない』
「なんだと!?」
魔女は平気で嘘をつく。ナギはこの玉が放つ気をたどって、ここまできたのだから間違うはずがない。
「俺を欺こうとしても無駄だ!」
『欺かぬよ。妾が放ったものもあったが、今ではすっかり少なくなったと言うたのじゃ。そなたにはわからぬであろうが』
「よく喋る魔女だ」
『ふふふ、許せ。久しぶりに人と話すでな。しかも、このような良い若者とな。じゃが、さらに残念なことにな、妾はそちらに出向いて行けぬ』
「逃げるのか! 魔女ゾルーディア!」
『今更逃げぬ。だから、そなたからやってくるがよい。そなたには妾の場所がわかるであろうよ。我が血を分けた者よ』
「血? 血だと!? 俺はお前から何も受け取っていないぞ!」
『ならば、その常人離れした力を持つ身体は、誰からもらったのだえ?』
誰かが闇の中で嗤う。姿も気配も見えないのに、笑っていることだけが伝わるのだ。
「なに!?」
『かつてそなたが属していた、愚かな組織での下積みがあったとはいえ、それだけの戦いには魔が混じっておるとは、今まで思わなんだか?』
「……」
『それ、その下に』
濃い闇の中から、魔力の先端が捻り出る。
それはクロウ──ナギの額を確かに指さした。
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