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10 愛しき日々 冬 3

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「レーゼ! そこにいるな!? 動くなよ!」
 近くの森からすらりとした少年が現れる。
 森の入り口には広葉樹が多いが、木々の葉は既にほとんど落ちてしまっている。
 初冬。
 二人が出会ってから半月が過ぎていた。

「今そっちに行く」
 彼は背中に若い雌鹿おじかを抱えていた。その声に、藪の中で草の実をんでいた少女が駆け寄る。
「鹿を捕らえた」
 矢が急所を射抜いているので、それほど苦しまずにすんだろう。肉はうまいはずだ。
「わぁ! これでこの冬は当分お肉に不自由しないわね! 重いでしょ、手伝う」
 鹿は脚が長く、少年が担ぐにはいささか大きい。しかし、彼は苦もなく自分の体より大きな鹿を背負っていた。
 九十六号──ナギは、毎日外に出て体を鍛えている。
 この塔はすぐ後ろが山になっていて森も深く、ナギには格好の鍛錬の場となった。
 命を落とす心配がなくなっても、鍛錬が身に染み付いてしまっているので、毎日彼は体を鍛える。
 そのついでに、食肉となる動物を狩るなど、ナギにとってはなんでもないことだった。
「こんなもの、造作もない。血抜きはすませたし」
「また今日も、お肉が食べられるのね。私お肉大好き!」
「足りなくなったらまた捕まえてきてやる、レーゼ。鹿でも、うさぎでも」
 最初は距離を置いて接していた少年も、自分の身を守るすべがないレーゼに警戒心を解くのは早かった。
 今では彼女は守るべき人間だと思いはじめている。
 レーゼは、シグルだった九十六号を、人間のナギにしてくれたのだ。
「実をんでいたのか?」
 レーゼの籠は、小さな赤い果実でいっぱいだった。
「うん。いい香りでしょう? この時期にしかならないし、少ないけど、とっても美味しいのよ」
 レーゼは細い指先で積んだ実を、一つ口に放り込んだ。
 寒くなってやっと実る、柔らかい草の実。
 青白い顔色の中で、そこだけ赤い唇と白い歯にぐしゃりと潰され、飲み込まれる。噛んだ拍子に汁がナギの頬に飛んだ。彼はそれを指で拭って舐めとる。甘くてほんの少し苦い。初めてだが好きな味だ。
「どうぞ」
 レーゼはもう一つ果実を摘んで少年に差し出した。
 自分が先に食べたのは、安全だということを伝える意味があったのだろう。その指先は摘んでいた実の色に染まっている。
「……」
 他人から直接食べ物を口に入れられるなど、ナギは今まで考えたこともない。その戸惑いをレーゼは勘違いしたようだった。
「熟しすぎたのは今食べる方がいいの。あとは、日持ちがしないからルビアにジャムにしてもらう」
「ああ」
 ジャムが何か知らないナギは、レーゼに押し付けられた果実を噛み潰した。それは柔らかくてすぐに潰れる。果汁がどっと溢れて口腔こうくうを満たした。
「ふふふ……美味しいって顔してるね」
 レーゼの言葉はいつも不可解だ。
 ほとんど見えないはずのに、大抵のことはわかってしまう。しかしレーゼ自身にそれが説明できないことを、ナギは彼女に出会って数日で理解していた。
「ねぇ、ナギ」
「うん?」
「いつかここを出たら海を見に行こう。真っ青で光り輝く凪の海を」
「そうだな。俺が連れて行ってやる」
「ほんとう?」
 レーゼは笑った。
 それはナギが初めて見る、レーゼのおおらかな微笑みだった。
 目が覆われている分、唇だけがいやに目立つ。それは指先と同じように赤く彩られていた。
 どう言うわけか、それは少年を慌てさせ、少女から目をらさせた。
 生まれも親も知らず、物心ついた時にはシグルの下級構成員として育った彼は、過酷な鍛錬で、同世代の子どもが次々に淘汰とうたされていくのを無感動に見ていた。
 生き残るためには感情を殺し、他人を出し抜き、大人に認められなければならないと思い知らされてきた。幸い彼には、ずば抜けた身体能力があった。
 険しい山を駆け、狭隘きょうあいな谷を降り、氷の張る湖を泳いだ。
 飢えにも、毒にもある程度の耐性がついた。
 なのにあの日、暖かさと柔らかさを感じて目覚め、目の前にある存在を見た時、彼の狭い世界はくつがえったのだ。
 ナギは空を見上げた。
 冬の空色は薄く、おそらく海の青さとは程遠い。それでも、ナギはその青さを目に焼き付けた。
 赤と青。
 色彩がこんなにも美しいことをナギは初めて知る。

 その冬は穏やかな冬だった。
 もともとこの地は塔の背後の山脈、つまりナギが修行をしていた山が風よけとなり、雪は降っても吹雪くことが少ない。積もりはしても、ルビアとナギの力だけで退けることができた。
 ナギは罠や弓を巧みに使い、鹿や、雪の中でも冬眠をしないウサギなどを捕らえてきたので、レーゼが記憶していた今までの冬よりも、ずっと豊かに過ごせるようになった。
 ルビアは食べきれない肉を森でいぶして燻製にする。冬場で肉は高く売れるので、ルビアは時々人里に持って行っては、塩や他の必需品と交換するのだ。近くの森からはいつも香ばしい煙が立ち上るようになった。
 その日も二人は留守番をしている。
 ルビアはナギに、レーゼには絶対にをさせてはいけないと言い渡し、ナギはそれを守ると約束した。
 昼間の多くの時間を二人で過ごす。
 ただ、レーゼもナギも、世間で普通子どもがするようなことは、ほとんど何も知らない。遊びも歌も。
 だから二人の会話は、今まで過ごしてきた中の話せる過去と、今の生活のことだけだった。
「レーゼ」
「なぁに?」
「俺……レーゼの目……というか、顔が見たい」
 ナギは見えないものまで感じられるという、この目の前の小さな少女がどんな顔をしているか、とても知りたくなった。

 いや、それだけじゃない。
 俺はただレーゼの顔が見たいんだ。

「……もちろん嫌ならいいけど」
「……」
 レーゼは少し考え込んでいるようだった。
「見てもナギは私を嫌いにならない?」
「なんで嫌いになるんだ」
「私は醜いから」
「俺だって醜い。肌は浅黒くて黄色っぽくて、髪も目も暗い色だ。ルビアは東の大陸の血だって言うけど」
「私が感じるナギは綺麗だけどなぁ……」
「俺が綺麗?」
 初めて綺麗だと形容された少年は面食らうが、レーゼは見たままを言っているのではない。感じたことを伝えるだけだ。何か勘違いをしてるのだろう。
「いいよ。顔だけ見せてあげる。でも、頭は嫌よ。だって禿げ頭なんだもの」
「それでいい。眩しいだろうから、暖炉の前にものを置こう」
 ナギは椅子に布をかぶせ、即席のつい立てを作った。レーゼはその間に、顔の上半分を覆っている包帯を取り去る。
「もういいよ」
 レーゼの声を背中に聞いて、ナギはゆっくり振り返った。
「……」
「ね、濁って気持ちが悪いでしょう?」
 以前ほんの少し見た通り、瞳は白っぽく濁っている。確かにこれでは、ものは見えないだろう。しかし、瞳自体はとても大きく、びっしりと白く長いまつ毛に囲まれていて形がいい。眉や鼻梁びりょうも整っていて、大理石でできた彫刻のようだった。
 ただ──
 額から左のこめかみにかけて、薄い紫のあざがある。まるで、どこかにぶつけたようなものだが、多分そうではない。
「どう? やっぱり汚い?」
「綺麗だ」
 ナギは感じたままを言った。
 そしてナギはレーゼの額の痣に触れた。指先がわずかにぴりりと痛む。
「ここ、痛くないか?」
「ああ、この痣のこと? 痛くはないよ。でも触らない方がいい。それも魔女の呪いだから。綺麗だなんて無理しなくていいよ」
「俺は綺麗だと思ったから言っただけだ。白くてとても整っている」
「でも、お爺さまやお父さまは醜いとおっしゃって、直系なのに縁起が悪いからって、城の外で暮らせって……」
「城? やっぱりレーゼは王族なのか? ゴールディフロウの?」
「え? う、うん、ずっと小さい頃だけど」
「レーゼ様」
 現れたのは怖い顔をしたルビアだった。手には矢の材料となる細い竹を何本も持っている。外仕事のついでに取ってきたのだろう。
「今はそこまでにしておきなさい。早く目を覆って。あとで辛くなりますよ。どうしてお取りになったのです」
「俺が見たいと言ったんだ。レーゼのこと知りたくて」
「私もいいって言ったのよ。そんなに悪いことじゃないわ」
 レーゼは悪びれずに言った。
「ナギはまだここに来たばかりです」
「でも、一緒に閉じ込められているわ。きっと役割があるのよ。ねぇ、ルビア。ルビア一人なら出られる結界なのに、どうしてナギは出ることができないのかしら?」
「さぁ。私にはなんとも。大昔に張られた結界ですからねぇ。あなたのご先祖は、結界にも意志のようなものを持たせたのかもしれませんよ? 村の者も猟師もこの塔のことは知らないですし。入れない」
「意志……じゃあナギは、きっと私が呼んだんだと思う」
 レーゼは考え込みながら言った。
「どういうことですか?」
「私はね、ずっと誰かに会いたかったの。私と共にいてくれる誰かをずっと待ってた。きっとそれがナギなのよ」
「俺を待っていた?」
「ええ、きっとそう。私はこの頃、結界が破れるより先に死んじゃうかもしれないって思って悲しくなってた。けどナギが来てから可能性ができた。だからいつか、ナギがここから出られたら、私を助けられるかもしれない」
「レーゼ様。そう言うことは……」
「いいのよ。どうせもう、何を言ったって私をとがめる人はいない。みんな死んでしまったもの」
「秘密なら俺は死んだって守る」
「そう。でももう秘密ではないのよ」
 レーゼはナギに向き合った。
「ナギ、聞いて」
 白く濁った見えないはずの瞳が、真っ直ぐに少年をとらえる。
「私はレーゼ。レーゼルーシェ・ビャクラン・ゴールディフロウ。ゴールディフロウの忘れられた王女にして、最後の王族です」


   ***


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