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第二幕 道化王子の三文芝居

怒れる王

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部屋には、父王しかいなかった。

込み入った話をするときに使われる奥の一室。
雪と森しか見えない大きな窓がひとつ、長椅子とテーブル、燃える暖炉の上には暗い色使いの絵が飾られている。明かりは少なく、暖炉の光が届かない隅に凝った闇は、誰かが隠れていても分からないほど深かった。

クロッドを呼びに来た侍従は、無言で扉を閉めた。廊下を遠ざかっていく足音が聞こえる。

一人掛けの安楽椅子に座している王は、こちらに背を向けたままだ。息苦しい沈黙に耐えられず、クロッドはその背中に近付き、小さく声をかけた。

「陛下……あの、礼拝は」

まだ終わっていないはずでは、と続く言葉は途切れた。ガルス王がゆらりと椅子から立ち上がり、暖炉の傍にあった真鍮の火掻き棒を握り締めるのが見えた。

「やってくれたな、この死に損ないが……」

地の底から響くような声だった。

後退るより先にガルスの手が伸びた。クロッドの胸倉に節くれた五指が食い込み、シャツのボタンがいくつか弾け飛ぶ。背丈はこちらの方が高いが、子どもの頃耳が聞こえなくなるまで殴られた記憶が蘇り、恐ろしくて身が竦んだ。

「誰の入れ知恵だッ!!」

唾が飛ぶほど近くで相対したガルスは、憤怒の形相だった。
顔は紅潮し、眼は血走り、どす黒く膨らんだ血管が顔中に走っている。手負いの獣のように息を荒げ、怯えるクロッドの首元を締め上げた。

「婚約破棄だとッ!?あの娘との婚約を解消したいだとか抜かしておったが、まさかこんな馬鹿な真似をしてくれるとはな!なにが愛する相手だ!狩りのひとつもまともに出来んくせに女狩りに入れ揚げよって!どこの女だ!?猟犬どもの餌にしてやる!言え!どこのアバズレに唆された!?それともセルペンスの仕業か!そうなんだろう!」

乱暴に揺さぶられながら必死で首を振る。

「ち、違う!違います!叔父上は関係ありません!私が勝手に言い出したことです!すべて私の独断で……!」

王は食い縛った歯の隙間から長く息を吐き出し、クロッドを床に突き飛ばす。

「勝手なことをして申し訳ありません!どんな処罰でも受け入れる所存です!だから、あの、ドロフォノス侯爵令嬢との婚約はなかったことに……!」

銀髪が鷲掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。黒く焼けた火掻き棒がすぐ目の前にあって、クロッドは震え上がった。目線を上げれば、暖炉の逆光のなか異様にぎらつくシェリー酒色の眼とぶつかった。

「……ドロシー・ドロフォノスは、お前の婚約者だ。それは変わらん」

恐怖で張り付いた喉から、思わず一言零れる。

「……な、なぜ」

――一体、どうして。

「それは、何故なんですか。陛下は……ルナールを立太子されるおつもりでしょう。であれば、ドロフォノスの後ろ盾は異母弟にこそ、ひ、必要ではないでしょうか」

ずっと昔から、父王はルナールを王太子に――次代の王にすると決めていた。

ただ、それを公の場ではっきり口にしたことはなかった。信頼のおけるわずかな側近や愛する家族、どうでもいいクロッドの前でしかその話はしない。

クロッドの王位継承権をそのままにしたのは、ブロウクスの国教でもあるカルムテルラ教の頂点、神聖クラウィス大公国の動向を警戒してのことだった。正妃が空座なのもクラウィスとの関係悪化を恐れているせい。無理を言って娶った聖女は病死させてしまい、その息子も王太子にならないとなれば、クラウィスとの間は一層冷え込み、同盟国内での立場は悪くなる。

加えて、王家の対立派閥にルナールが暗殺などされないよう、クロッドの立太子を表向き印象付けていただけだ。つまり、ルナールを守るための囮みたいなものだった。だから道化王子を放っておいた。囮が悪い方向に目立つのは、王にとって都合がよかったから。それによってクロッドが暗殺されれば、時機さえ間違えなければ、なお都合がよかったから。きっと、ただそれだけ。

「ルナールは来年成人です。いつでも叙任可能になります。私がいなくてもドロフォノスの支持があれば、他家が害をなすことは難しくなるでしょう。クラウィスも私の振る舞いを知れば、王の器ではないとすぐに分かって――」

「黙れッ!!知ったような口を利くな!」

「……ッ!」

火掻き棒が肉を打つ鈍い音が響き、クロッドは悲鳴も上げられず身を縮めた。衝撃を追いかけて、背中に焼け付くような痛みが広がっていく。

「それをお前が言うのか!お前がいるからこうなっているんだろうが!クソッ!クラウィスの目がなければ!大教会の庇護がなければ!セルペンスの横槍がなければ!すぐに始末してやったものをッ!」

硬い靴で容赦なく身体中蹴られ、クロッドはなすすべもなく両手で頭を庇う。嵐が過ぎ去るのを待つ、哀れな殉教者のように。

「黙って言う通りにしておればいいんだッ!ドロフォノスの娘と別れることは許さん!最後くらい役に立て!そういう契約だ!」

そう叫んだ父王は、うずくまったクロッドの真横に火掻き棒を叩き付ける。灰と埃まみれになったクロッドの背中がビクッと跳ねた。

「全く……お前さえいなければな……!」

頭上から憎悪の籠った声が突き刺さる。

王は毒づきながら、大きな音を立てて部屋から出て行った。もうこちらを振り返りもしなかった。

クロッドはそろそろと身体を伸ばし、起き上がった。髪から細かな灰が落ちてくる。涙で滲んだ視界のなか、開け放した扉の向こうには暗い廊下が続き、かすかに礼拝の音楽が聞こえてくる。

ぶるぶる震える手で、口元を拭うと赤い血が付いていた。蹴られたときに頬にあたったから唇が切れたのだろう。意識すると途端に口の中に鉄臭い味が広がった。

聖餐のことで伝えたいことがあったのに、とても報告できる空気ではなかった。

――お前さえいなければ。

「…………ごめんなさい」

私もそう思います、とクロッドは小さく呟いた。
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