飛んで火に入る夏の君

柚木よう

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第4話

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 普通の人間の顔というのは、近づいていけば多少の欠点が見つかるものだろう。だがこの男は、溜息が出るほど完璧に美しい。恋は盲目というし、俺が惚れきっているからそう見えるだけなのだろうか。少なくとも、今の俺にそれを確かめる術は無い。だって、この男の沼から抜け出せる気が微塵もしないのだ。
 「嫌なんて、言えるわけないだろ」
 篠崎の唇の端が、上出来だとでも言うかのように、ニッと持ち上がった。
 もうほとんど距離の無い篠崎の顔から、目が離せない。そこに意思は無く、まるで磁力で引き寄せられているかのようだった。目を逸らすことは決して許されない。それが俺の世界の理であり、摂理だ。
 唇が触れ合う。篠崎は熟れているようだったが、俺にとっては人生で初めての感触だった。柔らかいとか、恥ずかしいとか、様々な感想や感情が湧き上がって、混ざりあって、その全てが篠崎を愛おしく想う気持ちに溶けていった。嬉しかったのだ。どうしようもなく、嬉しかった。俺が本当に犬かなにかでなくて良かった。そしたら今頃、情けないくらいに尻尾を振り回していただろうから。
 「初めて、もらっちゃったね」
 篠崎がそう言って笑った。心がときめくのが分かる。俺はこの男の恋人でもなんでもない。それなのに、どうしてそんな顔をするんだ。勘違いしてはいけないのに、釣り合うはずもないのに。もっとこの男から、離れられなくなる。
 「でも、今日はこの辺にしておこっか。ピュアな純君には、段階踏んであげなきゃ可哀想だし」
 「......余計なお世話だ」
 そうは言いながらも、内心ほっとしていた。これ以上進んでしまったら、自分が自分でいられなくなるような気がして怖かった。
 
 玄関で靴を履いていた篠崎が、ふと動きを止めて言った。
 「あ、純君の家の鍵貰うね」
 「は......?」
 「飼い主はペットの小屋の鍵持つもんでしょ」
 それもそうか......。ってそういう問題では無い。
 「スペアとかあるでしょ?言っておくけど拒否権無いからね。ストーカー行為の証拠、ちゃんと取ってあるから」
 篠崎の射抜くような冷たい視線に当てられ、最早文句の1つも言うことは出来なかった。スペアの鍵を渡すと、篠崎は満足気に自分の部屋へ帰って行った。「またくるね」という言葉を残して。

 静かな部屋で、使い慣れたベッドに寝転んだ。天井を見つめながら、大きく1つ息を吐く。なんとも濃い1日だった。悪事がバレて肝を冷やし、恥をかいて、心をときめかせて。初めての土下座と口づけをした。間違いなく黒歴史だが、俺はこの先いくつ歳をとっても、この日を思い出すことだろう。
 何だか気持ちが昂って眠れなくて、鍵付きの引き出しから1枚の写真を取りだした。実を言うと、俺のした悪事は盗聴だけではない。俺は1度だけ、彼を盗撮してしまったことがある。以前、バイト先で篠崎を見かけた時に、他に誰もいないタイミングを見計らって、ついスマホを向けてしまった。とはいえ、ろくに準備もしていなかったものだから、ほとんどまともに撮れておらず、綺麗に映っていたのはこの1枚だけだった。
 「......実物はもっと綺麗だった」
 篠崎にはあんなことを言わされたが、俺は元々性欲というものが薄い方で、先輩バイトのおじさん達のそういった話にもついていけなかった。何年も部屋に閉じこもって、勉強ばかりしていたせいかもしれない。そういった経験もコミュニケーション能力も、全部培わずにここまできてしまった。俺と同類のつまらない人間として見下していた彼らが俺を見る、つまらない奴だな、という視線が痛かったのを思い出す。しかし、それも別にどうでも良かった。変に何かに煩わされて心を乱されるより、つまらない人生の方がずっと良い。疲れないし、傷つかない。そう思っていたのに。今やどうだ。篠崎に出会ってから、煩わされて乱されて惑って。24年分の塞き止められていた煩悩や欲が、雪崩のように俺に襲いかかってきている。勘弁してくれ、本当に。
 「ああ......好き、だ」
 口にして、どっと恥ずかしくなった。男子中学生か、俺は。勢いで頭まで布団に潜りこむ。もう寝てしまおう、と思うのに、腹の底がズクズクと疼く。鼓動が早くなり、あの男のことで、頭が埋め尽くされていく。自分を慰めたところで、芯から満たされないのはよく知っていた。それでも、きっとこのままでは眠れない。明日は朝からシフトが入っている。眠るためだ。眠るため。汚したくないから、写真は引き出しの中に閉まった。ベッドの上で、スマホに彼の姿を映し出す。今日の出来事を思い返しながら、自然と画面上の彼に口づけていた。

 事を終えて、肩で息をしながら、再び天井を見つめていた。心地よい眠気が押し寄せてくる中で、どうしようもない切なさと罪悪感が胸を締め付けるのを感じていた。篠崎と話して、触れ合ったことで、彼は現実にいる人間なのだと実感してしまった。俺のこんな浅ましい欲求に利用していい訳が無い。もう、しない。そう心に決めて、俺は意識を手放した。
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