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#19 影遊び
しおりを挟む──光と影と壁と形と。
煙草の箱を手にした瞬間家を追い出され、ご丁寧に庭の隅に置かれた灰皿の前に立って居る。そうされる理由は理解しているし、俺にとっては数少ない娯楽だ。禁煙しろと言われないだけマシなんだろうな。それに悪い事ばかりでもない。時折ポーチに出て来る隣の若奥さん。見事な黒髪に、季節と時間の所為か線の細い体を薄手の部屋着で包んでいる。年相応にたるみ始めた我が妻とは比べるまでもない。比べる必要もないか。互いに家庭があって、俺もそこまでのバカじゃないし、妻との関係も良好だ。目の保養にしている時点でそんな事を言う資格もないか。会釈をされたので返した。お隣としての関係も悪くない。わざわざ壊す事もないだろう。
そう思っていた。
ある蒸し暑い夜。いつものように庭で煙草を吸っていた。いつものように奥さんが出て来て、会釈をしてくれた。俺も会釈を返して、気付いた。奥さんが一歩、二歩と、近付いて来る。様子がおかしい。用事がある風ではない。ゆっくりと進むその姿は、まるで動物が獲物を狙うように低い姿勢で足音が無い。そして、当然のように八重歯、違う、牙があった。光が当たると滴る血も見えた。俺は咄嗟に煙草を灰皿に投げ捨て家に戻った。怪訝そうな妻、インターホンが鳴る。
「出るな!」
思わず叫んでいた。
「どうしたの? お隣の奥さんよ? お土産があるんですって。」
妻が玄関のドアを開ける。お隣の奥さんは微笑みながら紙袋を妻に渡し、談笑していた。
後日旦那さんに確認すると、確かに旅行に出ていて、家に戻る前に土産を届けてくれたそうだ。
「少し遅い時間で悪かったですかね。」
「いえ、それは良いんですが。」
じゃあ、あの女は一体誰だったんだ?
蝋燭に火を灯した。両手で蝶を作る。苦笑した。影絵で遊ぶ年でもないだろう。不意に鋏の影が現れた。それは蝶の羽を形作る私の指を一本ずつ切り落として行った。
珍しく忙しい仕事に追われて煙草を吸う暇も無かった。当然帰る時間も遅くなった。ため息を吐きながら歩道を歩いていると、丁度良く街灯とベンチがあった。携帯灰皿は持っている。正直早く帰って横になりたいが、限界だ。ベンチも割合と綺麗だ。腰を下ろして煙草に火を点す。一日分の疲労感を込めて煙を吐き出す。大して変わる訳でもないが、多少は気力が戻って来た。吸い終えた煙草を携帯灰皿に収める。重い体に鞭を打って立ち上がる。帰ろう。帰れなかった。街灯の光と夜の闇の境界が見える。そこに無数の黒い手が蠢いていた。光の中へ入って来る気配はないが、さて、俺はいつまでここに居れば良いんだろうか。
部屋の前に郵便受けは無い。防犯とかの都合なんだろう。その代わりに各階にナンバーロック式の郵便受けがある。頑丈そうには見えないし、一々郵便物があるのか確認しに行くのも面倒だ。特に碌に郵便物の来ない俺の場合は。郵便受けには中身が有るか無いか判るように下部にスリットがある。どうせ空か、請求書の類だろうと思って覗いてみるとそこから幾つもの目玉が俺を見上げていた。
川辺の道。居る。両手を振り回し、這い上がろうとしている。白い服。乱れに乱れた長い黒髪。俺は平然と歩く。歩け。気付いていないフリを続けろ。
どこの壁際にも居る。形も大きさも様々だ。全身に藁を巻いたようなもの、頭部だけのもの、連なる小さな影、靄のような球体。無数の腕が生える事もある。何れ一分も経たないうちに霧のように消えて行く。
だから気分が悪い。壁伝いに付いて来るこの無数の眼球はいつになったら消えるんだ?
幻視だろう。そう思い込む事にした。寝室の隣、まだ家具も無い洋間、その中央に何かが居る。箱、に近い。真っ黒で、表面で何かが蠢いている。ゆっくりとこっちへ向かって来ているような気がする。布団を被る。忘れてしまえばそれまでだ。ずるり、布団が消えた。必死に閉じようとした目が開いてしまう。目の前には真っ黒な塊。大きく口を開けていた。不規則に並んだ大きな白い歯、その奥、どこまでも続くような闇が続いていた。
昔から猫が好きだった。野良猫を拾って帰って怒られた。餌をやって怒られた。だから今は少しだけ撫でて、少し遊ぶだけ。
「よぉ、いつもの姉ちゃん。」
手を振る。一匹だけ、背中に人の顔がある猫に向けて。
此処数日酷く機嫌が悪い。竹馬の友が死んだ。衰弱死だそうだ。莫迦め。そんな時代か? 私を頼る手だって在った筈だ。親指の爪を噛んだ。治った筈の癖だ。また爪がボロボロに成るな。黄泉戸喫。か。もっと強く止めるべきだったか。奥歯を噛んだ。止せ、歯まで壊す心算か。もう終わった話だろう。其れでも考えて仕舞う。連れて行ったのは十数年前にあの部屋で自殺したと云う女だろう。自分を捨てた男か、其れに代わる者を探していたようだ。
「全く、何でもかんでも抱え込むのは奴の悪い癖だったな。」
彼は其の影に抱かれて死んだ。只其れだけの話だ。
黄昏、全てが赤く染まる。アスファルトの上にそれは居た。俺はベランダで煙草を咥えたままそれを見ている。人形、だろう。道の端に立ってはいるが、サイズが人間ではない。誰かが悪戯でもして立たせているのか、元々そう言う人形なのかは分からない。朝には無かった筈だ。今日は捨てられたにしては随分と綺麗に見える。気にする事でもないか。そう思った時に部屋でスマホが鳴った。友人から明日の飲み会に参加できるというメッセージだった。適当に返してベランダに戻るとまだ人形はあった。そりゃそうだろう。また煙草に火を点けようと思って止めた。人形が僅かに近付いているように見えた。気のせいだろう。夕飯の支度をする。風呂を沸かす。動画を見る。その間に気になった。カーテンを開けて外を見る。居た。距離はもう殆ど無い。俺を見上げる翡翠色の瞳が光った。部屋に戻ってカーテンを引いた。見なかった事にすれば良い。どうせ悪戯だ。明日にはそこらに放り投げられているだろう。そう思う程に鮮明に思い出される。西洋の少女人形。白いエプロンドレスにブルーの装飾。大きさは、大人の膝程だろうか。金髪と翡翠色の瞳が妙に記憶に焼き付いていた。
駄目だ。忘れよう。眠ってしまえ、明日になれば笑い話になる。
真夜中。何時だろう。音がして目が覚めた。眠ったまま見た。常夜灯の弱い光の中には見慣れた部屋。その中、翡翠色の大きな瞳の目が微笑んでいた。
廃墟を幾つも撮影して来た。金にも名声にもならなかったが、只の趣味だ、それで構わない。寂れた風景と人の痕跡。想像が頭を駆け巡り、胸を掻く。それで充分だ。
ある日、夏の日、近所の少女が指差した。
「だれ?」
知っている筈だが。
「となりのおんなのひと、だれ?」
背筋が一気に凍った。
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