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第三部 人間とイェルフ
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翌日、足の負傷もほぼ完治したシュイは、村を後にした。
ポロノシューと、別れの挨拶らしいものはなかった。改まるのもおこがましいし、一日働いたことで義理は果たしたつもりだ。
妙な男だった。
一応、イェルフ族に対して、偏見のようなものは持っていなかった。傷ついている彼女を助けるなど、優しい一面もあった。
「でもね……ちょっと暗すぎるのがなあ」
決して気が合うタイプではなかった。
「キローネと話してるときの反応は面白かったけど」
そのときの様子を思いだすと、今でも笑ってしまう。
「ばればれなのに、意地張っちゃってさ」
たった一日で、一人の男の様々な面を見ることができた。
シュイは何度も思いだし笑いを繰り返しながら、険しい山道を登っていった。人間には判らない、イェルフ族だけの目印を辿って。
やがて生まれ育った里が見えてきた。
イェルフ族の隠れ里。部族がここに移って、まだ三十年だが、シュイにとっては間違いなく生まれ故郷だった。
恵まれた暮らしであることは、口うるさい老人たちから嫌というほど聞かされていた。彼らも、ここに辿り着くまでに相当な艱難辛苦を乗り越えてきたのだろう。
今までは比較対象がなかったからピンと来ていなかったが、人間たちの貧相な生活を目の当たりにして、そのことをひしひしと実感することができた。
少し大人になった気分で、シュイは意気揚々と凱旋するのであった。
ところが、里は大騒ぎになっていた。
「二日もどこをほっつき歩いていた!」
いきなり、父イグセトーンの雷が落ちた。
父は普段から、長の家の品格だの家格だのにやたら厳しい。
「おまえは、私の娘である前に、里長の娘なのだぞ。もっと自覚を持たぬか」
シュイが悪戯を仕出かすたびに、父はこの言葉を口にする。
うんざりだ。
たかが二日の外泊で、あれこれ言われたくない。
せっかくの良い気分を台無しにされて、ふて腐れているところへ、イグセトーンのさらなる追及が続いた。
「今日まで、どこに行っていたのだ?」
「……その辺」
「足を痛めているようだな」
さすがに父は目ざとい。
「もう治ってるわよ」
「ほほう。包帯を巻くのが、ずいぶん巧くなったものだな」
「あっ……」
動揺が顔に出た。
あっさり嘘が露見して、シュイは一部始終を話さざるを得なくなった。
「人間に助けられただと……!」
よほどショックだったのか、それとも怒りのためか、イグセトーンはしばらく体を小刻みに震わせていた。
「当分の間、里から出ることを禁じる」
「えっ、ちょっと待って……」
「口答えは許さん」
イグセトーンの顔は本気だった。触れれば焼けてしまいそうなほど、真っ赤に激昂している。
「あ…謝るから……」
「これは里長としての命だ!」
取りつく島もない。
もはやシュイに抵抗する術はなかった。
「……あんな頭ごなしに言わなくてもさ」
部屋に戻るなり、シュイはベッドの上に飛び乗って、ふて寝した。
「あたしだって、好きであいつの世話になったんじゃないのに」
不慮の事故なのだ。もっとも、己れの過失だと言われれば、身も蓋もないのだが。
寝返り。
二日ぶりのベッドの感触は快適だ。
ポロノシューの診療所のベッドは、寝返りをうつたびに板の感触がして、ちっとも休まらなかった。
対する我が家のそれは、干し草を何重にも敷いていて、柔らかく、草の匂いがする。
「せめて病人くらい、ちゃんとしたベッドで寝かせてやればいいのに」
ヤナンの痩せた体や、キローネの弱々しい笑みが蘇る。
戸が開き、部屋に母のシューンと兄のイクルが入ってきた。
「人間に何かされたんじゃないだろうな」
開口一番、尋問するようにイクルが問い詰めてきた。実直で頭の固いところは、父親そっくりだ。
「乙女に向かって、なんてことを訊くのよ」
怒るよりむしろ呆れて、シュイは溜め息を吐いた。さすがにばつが悪くなったのか、イクルは言葉を濁した。
「怪我をしたって聞いたけど、大丈夫なの?」
シューンは温厚で、常にシュイの味方だった。
父も兄も、母には弱い。悪戯をして叱られたときも、母だけは庇ってくれる。
「医者に診てもらったからね。一応」
一応、という部分を強調する。
シューンの口から安堵の息が漏れた。
「無茶しないでね。あなたの身に、もしものことがあったら……」
「わーかってるって」
「本当に判ってるのか」
イクルはあくまで懐疑的だ。
日に日に、父に似てくる。いずれは里長となるべき器で、仲間からの人望も厚い。だが時々、無理をしているようにも見える。
「とにかく、二度と人間の村には近付くなよ」
「はいはい。もうお父様に散々言われたわ」
「ちゃんと返事をしろ」
「だから、判ったって言ってんじゃない」
妹の反抗的な態度が気に入らないらしく、なおも小言を続けようとしたイクルを、シューンが宥めてくれた。
「この子も今は疲れてるでしょうから、休ませてあげましょう」
母らしい気遣いだった。
結局イクルは、シューンに連れられて渋々部屋を出ていった。
疲れていないと言えば嘘になる。
だがまだ日も高いし、体を動かしたい気分だった。誰かの仕事を手伝ってもいいし、近所のガキ共と遊んでやってもいい。
「のんびりしてるわ」
丸一日、人間の話し相手をしなければならなかった昨日とは大違いだ。
村の男たちの、土臭い笑顔が浮かぶ。
彼らは一日じゅう畑を耕し、家では内職をして、ようやくその日その日を食い繋いでいるという。
かぶりを振って、彼らの残像を頭から消した。
しかし、一人だけ、どうしても離れない顔があった。
シュイは強引に目を閉じた。
ポロノシューと、別れの挨拶らしいものはなかった。改まるのもおこがましいし、一日働いたことで義理は果たしたつもりだ。
妙な男だった。
一応、イェルフ族に対して、偏見のようなものは持っていなかった。傷ついている彼女を助けるなど、優しい一面もあった。
「でもね……ちょっと暗すぎるのがなあ」
決して気が合うタイプではなかった。
「キローネと話してるときの反応は面白かったけど」
そのときの様子を思いだすと、今でも笑ってしまう。
「ばればれなのに、意地張っちゃってさ」
たった一日で、一人の男の様々な面を見ることができた。
シュイは何度も思いだし笑いを繰り返しながら、険しい山道を登っていった。人間には判らない、イェルフ族だけの目印を辿って。
やがて生まれ育った里が見えてきた。
イェルフ族の隠れ里。部族がここに移って、まだ三十年だが、シュイにとっては間違いなく生まれ故郷だった。
恵まれた暮らしであることは、口うるさい老人たちから嫌というほど聞かされていた。彼らも、ここに辿り着くまでに相当な艱難辛苦を乗り越えてきたのだろう。
今までは比較対象がなかったからピンと来ていなかったが、人間たちの貧相な生活を目の当たりにして、そのことをひしひしと実感することができた。
少し大人になった気分で、シュイは意気揚々と凱旋するのであった。
ところが、里は大騒ぎになっていた。
「二日もどこをほっつき歩いていた!」
いきなり、父イグセトーンの雷が落ちた。
父は普段から、長の家の品格だの家格だのにやたら厳しい。
「おまえは、私の娘である前に、里長の娘なのだぞ。もっと自覚を持たぬか」
シュイが悪戯を仕出かすたびに、父はこの言葉を口にする。
うんざりだ。
たかが二日の外泊で、あれこれ言われたくない。
せっかくの良い気分を台無しにされて、ふて腐れているところへ、イグセトーンのさらなる追及が続いた。
「今日まで、どこに行っていたのだ?」
「……その辺」
「足を痛めているようだな」
さすがに父は目ざとい。
「もう治ってるわよ」
「ほほう。包帯を巻くのが、ずいぶん巧くなったものだな」
「あっ……」
動揺が顔に出た。
あっさり嘘が露見して、シュイは一部始終を話さざるを得なくなった。
「人間に助けられただと……!」
よほどショックだったのか、それとも怒りのためか、イグセトーンはしばらく体を小刻みに震わせていた。
「当分の間、里から出ることを禁じる」
「えっ、ちょっと待って……」
「口答えは許さん」
イグセトーンの顔は本気だった。触れれば焼けてしまいそうなほど、真っ赤に激昂している。
「あ…謝るから……」
「これは里長としての命だ!」
取りつく島もない。
もはやシュイに抵抗する術はなかった。
「……あんな頭ごなしに言わなくてもさ」
部屋に戻るなり、シュイはベッドの上に飛び乗って、ふて寝した。
「あたしだって、好きであいつの世話になったんじゃないのに」
不慮の事故なのだ。もっとも、己れの過失だと言われれば、身も蓋もないのだが。
寝返り。
二日ぶりのベッドの感触は快適だ。
ポロノシューの診療所のベッドは、寝返りをうつたびに板の感触がして、ちっとも休まらなかった。
対する我が家のそれは、干し草を何重にも敷いていて、柔らかく、草の匂いがする。
「せめて病人くらい、ちゃんとしたベッドで寝かせてやればいいのに」
ヤナンの痩せた体や、キローネの弱々しい笑みが蘇る。
戸が開き、部屋に母のシューンと兄のイクルが入ってきた。
「人間に何かされたんじゃないだろうな」
開口一番、尋問するようにイクルが問い詰めてきた。実直で頭の固いところは、父親そっくりだ。
「乙女に向かって、なんてことを訊くのよ」
怒るよりむしろ呆れて、シュイは溜め息を吐いた。さすがにばつが悪くなったのか、イクルは言葉を濁した。
「怪我をしたって聞いたけど、大丈夫なの?」
シューンは温厚で、常にシュイの味方だった。
父も兄も、母には弱い。悪戯をして叱られたときも、母だけは庇ってくれる。
「医者に診てもらったからね。一応」
一応、という部分を強調する。
シューンの口から安堵の息が漏れた。
「無茶しないでね。あなたの身に、もしものことがあったら……」
「わーかってるって」
「本当に判ってるのか」
イクルはあくまで懐疑的だ。
日に日に、父に似てくる。いずれは里長となるべき器で、仲間からの人望も厚い。だが時々、無理をしているようにも見える。
「とにかく、二度と人間の村には近付くなよ」
「はいはい。もうお父様に散々言われたわ」
「ちゃんと返事をしろ」
「だから、判ったって言ってんじゃない」
妹の反抗的な態度が気に入らないらしく、なおも小言を続けようとしたイクルを、シューンが宥めてくれた。
「この子も今は疲れてるでしょうから、休ませてあげましょう」
母らしい気遣いだった。
結局イクルは、シューンに連れられて渋々部屋を出ていった。
疲れていないと言えば嘘になる。
だがまだ日も高いし、体を動かしたい気分だった。誰かの仕事を手伝ってもいいし、近所のガキ共と遊んでやってもいい。
「のんびりしてるわ」
丸一日、人間の話し相手をしなければならなかった昨日とは大違いだ。
村の男たちの、土臭い笑顔が浮かぶ。
彼らは一日じゅう畑を耕し、家では内職をして、ようやくその日その日を食い繋いでいるという。
かぶりを振って、彼らの残像を頭から消した。
しかし、一人だけ、どうしても離れない顔があった。
シュイは強引に目を閉じた。
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