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第二部 四章

忍び寄る影 6

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 王宮に滞在するようになってから、ソフィアーナは暇さえあれば図書室に居る、という噂がどこかから聞こえてきたのだ。

 アルトとてそう頻繁に行く訳ではないため、すれ違っている可能性もあるが、居るかどうかを確認しにいく権利はあるはずだった。

(エルの姿が見えないのも、ソフィアーナ王女やレティシア様が原因だったら……)

 何か良からぬ噂が王女の、特にレティシアの周囲で起こっているとしか考えられない。

 図書室へ向かう途中で、ミハルドを見掛けた時は声を掛けるつもりだ。

 ただ、まずはすべての原因かもしれないレティシアは無理でも、姪である王女と少しでも話をしたいのだ。

 エルが倒れる前に見せた不自然な表情や仕草は、ソフィアーナも関わっていると思ったから。

「──あれ、アルト?」

 少し足早に図書室に続く廊下を進んでいると、向かいからケイトが軽く手を上げ、こちらに歩いて来るのが見えた。

「久しぶりだな。元気にしてたか?」

 声の抑揚は違うものの、笑った表情がどことなくエルと似た雰囲気を思わせる。

「……ああ。ごめん、顔見せなくて」

 アルトは曖昧に返事をすると、小さく謝罪の言葉を口にした。

 ケイトは初めて会った時からよく話し掛けてくれ、ただ廊下ですれ違った時でも他愛ない会話をしていたほどだ。

 公爵邸から王宮に帰ってから部屋を訪ねようと思っていたが、エルの傍に居たためすっかり頭から抜け落ちていた。

「へ、そんなの気にしなくていいのに。変なところ律儀だよなぁ、アルトは」

 しかしケイトはさして気にした素振りはなく、ころころと肩を揺らして笑う。

 その言葉を聞くと、どうしてか視界にうっすらと膜が張った。

(多分、似てるからだ)

 ケイトと同じかそれ以上にエルはこちらを気遣ってくれ、アルトの欲しい言葉をくれる。

 その度に『大丈夫』と安心させてくれる声も、頭や頬を撫でてくれたり、大きな手で肩を包み込んでくれる温もりも、今は無いからだろうか。

 不思議とエルの顔を見て、声を聞きたい衝動に駆られた。

「おーい、アルト~? どした?」

 突然黙ってしまったからか、ケイトがひらひらと顔の前で手を振ってくる。

 そこでアルトはきゅうと唇を噛み締め、ゆっくりと息を吸い込んだ。

(泣くな。……泣いてもエルはいないんだから)

 ちらほらとだが、廊下には使用人らが忙しなく行き交っている。

 このまま涙の一滴でも零してしまえば、こちらの異変を察知した使用人が気付いてやって来るのも時間の問題だ。

 王宮内で肩身が狭いであろうケイトが、なぜ王配が泣いているのか、と詰問されてしまうだろう。

 自分の弱さが原因でケイトに迷惑は掛けられない。

 アルトはぐっと目に力を込めると、囁くように言葉を紡いだ。

「最近、その、エルは……見るか?」

「どうしたんだよ、突然」

 アルトの言葉の意味がとんと分からないといったふうに、ケイトが首を傾げる。

「一ヶ月くらい部屋に戻ってないし、顔も見てないんだ。……でも、知らないならいい」

 ケイトならばエルと共に公務をする事があるため知っていると思ったが、きょとんとした表情を見るに知らないらしい。

 ただ、あまり二人の関係は分からないが、片方が『このことは黙っておけ』と言われたら律儀に守る、そんな信頼にも似た絆がある気がした。

「あー……まぁそのうち戻って来るんじゃね?」

 ケイトは明後日の方向を見つめ、頬を掻く。

「いやに他人行儀なんだな。心配じゃないのか」

 この男らしい言葉だと思う反面、何か知っているかもしれない可能性が高まる。

 しかし先程立てた仮説が正しければ教えてくれそうもないため、少し責めた口調になる。

「そりゃあ、さ」

 ケイトは一度口をつぐむと、やがて緩く口角を上げてアルトを見つめた。

「──でも、あいつは黙っていなくならない。……仮にこの暮らしが嫌になって逃げようってなっても、アルトを連れていくと思う」

「へ」

 ケイトが何を言ったのか、一瞬理解するのが遅れた。

 どうしてそう言い切れるのかという疑問と、なぜ逃げることになるのか、という困惑が頭の中を支配する。

(王太子として振る舞うのが嫌になったら、有り得るかもしれないけど)

『貴方と一緒に、この国のために生きていく。……そう決めた』

 結婚式を挙げてから数時間後の初夜、愛おしそうに頬を撫でて言ってくれた言葉が脳裏を掠める。

『勝手に決めてごめんね。でも、俺は朔真じゃないと嫌なんだ』

 その時の少し寂しそうな、けれど独占欲が隠しきれていない表情も一緒に思い出し、知らず頬が熱くなる。

「なんか、分かる気がする」

 誰にともなく呟いた言葉はケイトの耳にしっかりと届いたようで、ふっと小さく笑う気配がした。

「そういう奴だよ、エルは。……妬けるなって思うくらいだ」

「妬ける……?」

 今度はアルトが首を傾げる番だった。

「いや、なんでもない」

 それより、とどこか楽しげなケイトの声が続けて廊下に響く。

「今日は何するんだ? 街に行くのか? それとも図書室?」

 歌うようにアルトの周囲をくるくると回り、にっこりと微笑みかけてくる。

「えっと、ソフィアーナ王女が図書室に居るみたいだから、今から行こうと思って。あと聞きたいんだけど、王女が他に行きそうな所って知ってるか?」

「……っ!」

 ケイトはわずかに目を見開いたがそれも一瞬で、すぐさま普段通りの飄々とした笑みを浮かべた。

「いや、知らないな。それにしてもソフィアーナ……って、本が好きなのか。俺には無理だ、どうしても眠くなる」

 エルと同じことを言うんだな、と思うと同時にアルトはケイトの態度に違和感を感じた。

(何か隠してるのか……?)

 ソフィアーナの名を口にすると、ケイトはこちらから見ても分かるほど忙しなく目を泳がせ、少なからず額に汗を浮かべていた。

「そ、そういえばさ! 時々街に出てるけどどこに行ってるんだよ。公爵邸か?」

 ケイトは淡く口角を上げ、明るく問い掛けてくる。

「一旦邸に顔見せてから孤児院に行ってるんだ。結構昔に設立されたらしくて──」

 それきり顔には出さなかったものの、己の疑問をぶつけて必死にアルトの気を逸らしたいかのように見えた。

(俺には絶対言えないんだろうな)

 ケイトの違和感に気付いていないふりをしながら、アルトはそう心の中で呟く。

 エルが釘を刺しているのは理解したが、それだけでは一ヶ月もの間寝室や執務室にはもちろん、朝食の席にすら顔を見せない理由が分からない。

 何か訳があると踏んでいるが、その『訳』がどんなに考えても正解を導き出せなかった。

 ああでもないこうでもない、と今の今まで顔を見せなかった分ケイトと話していると、いつの間にか図書室の近くまでやってきた。

 普段はいない衛兵が配置されており、そこで今日は民に向けた解放日だと気付く。

 少し距離があっても子供らの声が聞こえ、それだけで気持ちが落ち着く気がした。

「──って、着いたな」

 ケイトが小さく呟くと、やがてこちらに視線を移した。

 ほんの少しケイトの方が身長が高く、紫にも見える不思議な紺碧の瞳を見ていると、心まで見透かされている気持ちになる。

(綺麗だ)

 きっと困惑させてしまうだろうが、率直な感想が喉から出そうになった。

「じゃ、俺はここら辺で戻るよ。話せて楽しかった」

「え、ちょ──」

 にこりと太陽のような笑みを向けたかと思えば、アルトが引き止める間もなくケイトは手を振って廊下を戻っていく。

「またな~」

 顔を少し振り向かせながらもう一度手を振られ、その変わりようにアルトは何も言えなかった。

(じ、自由過ぎでは……!?)

 わなわなと震えそうになる身体を、手を握り締めて耐える。

 ケイトがこういう性格なのは知っているため今に始まった事ではないが、あまりにも自分勝手だと思った。

(いや、違う)

 しかしアルトは思い直す。

 ソフィアーナを探していると言った時、ケイトが何を考えていたかは漠然とながら分かったつもりだ。

 幼い頃から二人は交流があると仮定すると、成長して同じ王宮で顔を合わせるのは気まずいものがあるのだろう。

 特にケイトは王宮で肩身が狭く、そうした境遇だと知られては心配させてしまう可能性があった。

 それに、王配と自分が親しげに図書室へ入っては良からぬ噂も立つため、ケイトは図書室の手前で戻ったのだ。

(忘れてたけど、あいつも苦労してるんだよな……)

 知らない人間の機嫌を伺いながら、加えて目の敵にされるのは可哀想だと思う。

 元の世界での己の境遇と重なり、少し同情してしまう。

「っ、また俺は」

 人の置かれた環境から伝播でんぱして、関係ない自身まで落ち込んでしまうのは悪い癖だ。

 アルトは一度二度と深呼吸し、気持ちを切り替えた。

 開け放たれている扉の左右を守る騎士らに会釈し、図書室へ一歩踏み出す。

 すぐに子供らの声が聞こえ、本特有の匂いが鼻腔を擽る。

 アルトは不自然にならない程度に周囲を見回しながら、ソフィアーナらしき少女を探す。

(確か金髪っぽい感じの……)

 己の髪よりもややくすみのある色だったな、と思いながら棚と棚の間や子供らに紛れていないかを確認して歩いていると、奥のテーブルに空色のドレスを着た女性の姿が視界の端に見えた。

「あ」

 その髪色は見えないが、年頃らしい女性が王宮の図書室に居るのは珍しい。

 傍に侍女が居るかもしれないが、アルトは逸る気持ちを抑えながらその人に向けて歩を進める。

「エルヴィズ様!」

「──あまり声を上げてはいけませんよ、ソフィアーナ王女」

「は、っ……?」

 あと数十メートルのところで、アルトが聞きたくて堪らない声が聞こえた。

 低く、どこか甘さを含んだ声色がじんわりと耳に響く。

「だって遅いのですもの。待ちくたびれてしまいました」

「これは失礼を。なにぶん、あまりこういったものを探すのは得意ではないもので」

 小さく苦笑し、エルは王女に頼まれたらしい本をテーブルに置いた。

「あら、エルヴィズ様にも苦手なことがあるのですね。いいことを聞いたわ」

 ふふ、と女性──ソフィアーナが小さく笑う。

 エルもソフィアーナに向けて柔らかな笑みを浮かべており、どこかエルではない別の人間に見えた。

(なんでエルが……いや、それよりも隠れないと)

 アルトは震えそうになる脚を叱咤し、手近にある本棚の影に身を潜めた。

 幸いエルは王女に視線を向けているため、こちらには気付いていないようだ。

「──今日は何を持って来てくれたのですか?」

 ふと聞こえたソフィアーナの声に、無意識に耳をそばだてる。

「本日は王女が読みたいと仰っていたものを。あとは私のお勧めをいくつか」

 聞きたくないのに、人間というものは言葉だけで想像力が増してしまうらしい。

 アルトは本棚の影から顔だけを覗かせ、二人が居るであろうテーブルを見た。

「っ……!」

 声が漏れそうになり、慌てて両手で口元を抑えて耐える。

 エルはソフィアーナと間近で視線を交わし、くすくすと何かを話していた。

 少しでもどちらかが顔を傾ければ、そのままキス出来そうな距離だ。

 その光景にくらりと目眩がし、同時に心の奥深くをどす黒いものでいっぱいにした。

 これ以上ここに居てはいけない、と脳が警鐘を鳴らしている。

 しかし脚は竦んでしまったようで、その場から一歩たりとも動けなかった。

「は、っ……はぁ……」

 アルトは浅く呼吸を繰り返し、震えそうになる身体を落ち着ける。

 エルがソフィアーナの傍に居るのはもちろん気になるが、それ以上に自分の感情の変化が怖かった。

(なん、で……エルが……それに、王女は……)

 頭の中で言葉にすらならない何かが渦巻く。

 一ヶ月もの間アルトの前に姿を見せなかったのは、ソフィアーナの傍に居たからなのか。

『少し出てくる。すぐに昼食を運ばせるから、もう少し寝ていろ』

 何気ない言葉だが、あの時『王太子』として放たれた冷たい声音が脳裏を掠める。

 このまま夢であればいいと思いながら、アルトはその場に膝を突いた。

 もう何も考えたくないし、動きたくない。

(……ケイトが言ってたこと、間違ってると思う)

 エルの隣りに立つのは、細身だが男である自分よりも可憐で可愛らしいソフィアーナの方が相応しい。

 たった少し二人で居るところを見ただけだが、そう思うしかなかった。

 アルトが入る余地などないと思わされ、ケイトの前で我慢していた熱い雫が頬を流れる。

 そっと瞼を伏せると顎から涙が一筋流れ落ち、床に小さな染みを作った。

 ソフィアーナに向けて笑顔を浮かべる愛しい男が、今ばかりは嫌で嫌で堪らない。

 こんなことは思いたくないのに、自分で思っている以上に二人の衝撃が強過ぎて、無意識に肯定するしかなかった。

(エルの傍にはソフィアーナ王女がお似合いだ)

 リネスト国では同性同士で結婚出来るといっても、一国の王太子ともなれば話は違ってくる。

 この結婚ですら、一部の貴族やお偉方の強い反対を押し切ってエルと国王が認めさせたに過ぎない。

 その点、ソフィアーナであれば満場一致で祝福されることだろう。

 忘れてしまっているが、自分の身の上はあくまで『突然知らない世界に放り出された人間』で、『その国の王太子を好きになった』男だ。

 そもそもエルが好きだったのは、この身体の持ち主である『アルト』であって『朔真』ではないのだ。

(勘違いしてるんだ、俺も……エルも)

 一度でもそうだと自覚してしまえば、それ以外のことなど考えられない。

 アルトはぎゅうと膝を抱え、顔を伏せた。

 図書室に反響する賑やかな子供らの声に紛れ、気が済むまで声を殺して泣いた。
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