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第二部 四章

忍び寄る陰 1

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「……本当に帰るのか?」

 アルバートが呼んでくれた馬車に揺られながら、アルトは真正面に座る男に視線を向け、ぽつりと呟いた。

「ん?」

 小窓から流れていく外の景色を見ていたエルは、ややあってこちらに顔を向ける。

 ただ見つめてくる表情ひとつ取っても、この男は絵になった。

 惚れた弱味から来るものだという自覚はあるが、それでも今日ばかりはこの後に続く言葉を言うのが不安でならなかった。

 しかしエルは何を言うでもなく、アルトの言葉を待ってくれている。

 そのことにありがたく思う反面、どうしても喉から声が出ない。

 まるでエルの病がこちらに移ってしまったように感じ、同時にくらりとした目眩すら覚える。

「駄目、だった?」

 わずかに掠れた、同性にしては少し高い声が馬車の中に響く。

「駄目……じゃ、ないけど」

 アルトはエルの視線から逃れるように顔を俯けた。
 昨日、孤児院に滞在して数時間後の事だった。

 空が茜色になろうとしていたため、普段よりも少し早く帰路に就こうという事になり、その道中でふとエルが『明日王宮に戻る』と言ったのだ。

『まだ治ってないんじゃ、ないのか……?』

 つい引き留めようとする口調になってしまったのは否めないが、エルはアルトの言葉に柳眉をわずかに曇らせた。

『そう、だね。でも……あまり長く滞在したら、俺の噂が広まる』

 エルは言葉を選びつつ、アルトにだけ聞こえるよう小声で続ける。

『病でせってるだけならまだ良いけど……街に出て療養してる、っていうのは外聞が悪いんだ。護衛も付けてないし、現に二人だけで街に出てる。だから今頃……いや、俺がいないのをいい事に、貴族たちは父上に罵詈雑言を浴びせてると思う』

 聞けば、貴族らは国王に何事かを直談判しようにもできないというのが現状だという。

 それは間にエルが居るからで、要は恐怖しているのだ。

 リネスト国ではもちろん、国外にもエルの強さは知れ渡っている。

 ひとたび剣を抜けば他者を圧倒させるのはもちろん、他の武器を使用してもエルに適う者は貴族の中にいない。

 むしろエルとほぼ同等なのは、王宮の中でもミハルドくらいだという。

『──貴方のお陰で少し楽になったし、なにより……これ以上世話になる訳にはいかないから』

 ぽつりと言うと、エルは壊れ物に触れるようにアルトの手を握ってきた。

 自分以外の熱が手の平から伝わり、じんわりと温かくなっていく。

 どんな気持ちで言っているのか、外套のフードを目深に被っているため見えない。

 しかし、しっかりと摑まれた手は振りほどけそうになく、そのまま公爵邸の門が見えるまでアルトは一言も話せなかった。

(エルの言ったこと、本音なんだろうな)

 アルトは馬車の揺れに身を任せながら、昨日の事を思い出しつつそっと目を伏せる。

 これ以上邸に滞在すると公爵邸を起点に噂が立つのは事実で、巡り巡って王宮にも伝わるだろう。

 一部のお偉方は、婚約後から今もアルトに対して悪態を吐いている。

 自分だけならばまだしも、エルの『お忍び』が分かったとあっては何を言われるか分からない──そう言外に匂わせてたのだ。

 ただ、一週間ほど王太子が不在という事実は変えられない。

 エルは普段通りにしているが、内心では気になってならないはずだ。

 馬車に乗っている間に何が起きているのかを知るには王宮に向かうしかなく、結果的に帰る事になってしまうのは皮肉なものだと思う。

 朝食もそこそこに公爵邸を発ったのが、つい数分前の事。

 公爵邸から呼び寄せた辻馬車のため庶民らの目が向くことはないが、あと十分ほどすれば城が見えるはずだ。

 王宮に脚を踏み入れれば、エルはまた王太子として忙しく公務にあたる事になるだろう。

「──けど、どうしたの」

「っ!」

 不意に頬に触れられ、アルトは反射的に顔を上げる。

 いつの間にかエルが隣りに座っており、より至近距離で顔を合わせる形になった。

 黙ってしまったためか水色の瞳が困惑に揺れており、そこでアルトは気付く。

(また俺は心配させて)

 エルとて王宮内のことで気が気ではないはずだ。

 今に始まった事ではないが、エルはアルト──『朔真』を何よりも気にかけてくれている。

 それこそ自身に別の心配事があっても、こちらを優先するほどなのだ。

 己ですら気付かないほどの変化に目敏めざとく気付き、声を掛けてくれることはありがたいと思う反面、申し訳なく思う。

(エルに何か返したい)

 思い返せば、エルが心から笑った顔をこの数日はあまり見ていないように思う。

 微笑んでくれこそすれ、どこか無理をしているようなそんな表情が多かった。

 すべては声が出ない事によるものだろうが、ほとんど回復しているようだった。

 ただ、エルがこうなった原因のレティシアと出くわせば元に戻るかもしれないのだ。

 そうなる前に、いや最悪の場合そうなってからも、エルのことを守ると決めているのだが。

「なに、か」

 エルは何をあげたら喜ぶだろうか。

 何をしたら心から笑ってくれるだろうか。

 仮に何もいらない、と言われても感謝を伝えるくらいは許して欲しい、そんな気持ちが湧き上がっていく。

「──朔真」

 不意に低く、いつもより掠れた声が耳朶じだを擽った。

 かと思えばくいとおとがいを摑まれ、強制的に目を合わせられる。

「え、エル……?」

 アルトは目を瞬かせ、エルを見つめた。

 水色の瞳は真摯で、ともすれば怒っているようにも見受けられた。

「また変なこと考えてるでしょ」

 少し拗ねたような口調で、エルは続ける。

「貴方は顔に出やすいって言ったの、覚えてるよね? ……それなら簡単」

「へ」

 ぐいと肩を抱かれ、唇にエルのそれが触れる。

 アルトは小さく目を見開き、そのまま美しい瞳を見つめるしかできない。

 色素の薄い瞳の奥には青みのかった色が映っており、その近さを自覚した途端、心臓が大きく跳ねる。

「……っ」

 エルは何度も角度を変えて短く、時に長く唇だけを触れ合わせる。

 ちゅ、と口付けられる音がやけに大きく響き、馬車を操っている御者に聞こえやしないかという不安に駆られた。

 アルトは反射的にエルの服の袖をぎゅうと摑み、しかしこちらから唇を解こうとは思わなかった。

 自分でもおかしなものだが、エルから与えられるものならばどんなものでも気持ちがいいと身体が覚えてしまっている。

(もしかしてこれ、か……?)

 エルが喜ぶものは己なのかと思い至ると同時に、舌先で唇の端を舐められた。

「っ、ぁ……」

 それを合図に唇が離れていき、温もりが無くなったむなしさに小さな吐息が零れた。

「俺はね、朔真」

 ぎゅうと抱き締められ、肩口にエルの頭が乗る。

 近くで聞く声はやはり掠れていたが、憂いにも似た感情が見え隠れしていた。

「貴方が傍に居てくれる、それだけで嬉しいし笑っていられる。逆に俺の前からいなくなったら……その時は、自分でも何をするか分からない」

 その言葉に、アルトは小さく唇を噛み締める。

 そして、一時的とはいえ小屋に監禁されていた事を思い出して身震いがした。

 エルにも、考えがあったのだと今なら理解出来るが、それでもあの時の恐怖や不安は未だにあり、時として心までも巣食われるかのような錯覚に陥らせる。

 そんなアルトの様子に気付き、エルは腕の力を強くした。

「……でも」

 安心させるように大きな手で背中を摩られ、エルは言葉を選びながらゆっくりと、しかしわずかに息を詰まらせながら続ける。

「貴方が隣りで笑ってくれるだけで、俺は嬉しいんだ。王太子としても、貴方を愛する男としても。……だから、何か返そうとしなくていい」

 エルはもう一度同じ言葉を繰り返し、抱き締める腕に更に力が込めた。

(なんで、全部分かるんだ)

 己が考えていることはもちろん、こちらが何か言う前に先回りされる。

 そのどれもがアルトにとって嬉しいもので、口を開く暇も与えられないのは少し悔しく思う。

「……朔真?」

 応えがないのを疑問に思ったのか、エルがわずかに身体を離して顔を覗き込んでくる。

 徐々に離れていく体温に俯けていた顔を上げると、先程とは打って変わって拗ねている自分がエルの瞳の中に映っていた。

 形勢逆転したようでなんとも言えない気持ちになったが、アルトとて言いたいことは沢山あるのだ。

(俺だって同じだ)

 エルが笑っているとこちらまで嬉しくなり、傷付いているとその辛さを分け合いたいとと思う。

 ただ、後者に至ってはすべて隠し通されているため、今回のように無理がたたってしまったのだが。

(お前が嫌だって言っても、隠そうとしても……もう傷付くところなんか見たくない)

 アルトはきゅうと手の平に力を込め、エルを真正面から見つめ返した。

 小さく息を吸い込み、そっと唇を開く。

「隠れて無理するんだろ、エルは」

 知ってるんだぞ、とアルトは続ける。

「応接室でローガンにくれぐれも無理はするな、って言われてたよな。あれ、お前はどこかで破りそうだし……バレたらめちゃくちゃ怒られると思う」

 幼い頃の『アルト』とローガンの関係は分からないが、エルが倒れた時のローガンの様子は今も脳裏に焼き付いている。

『殿下は必ず目を覚ます、たったそれだけをお前は信じてやれないのか!?』

 エルが倒れてしまったのは己のせいだ、と責めて泣いてばかりでいるアルトにローガンは喝を入れてくれた。

『そもそも俺が死なせやしない。絶対に、だ』

 虚ろな瞳をしたアルトの肩を揺さぶってくれ、治療している間に何度も『信じろ』と勇気付けてくれた。

 それだけでローガンの人となりを漠然とながら理解し、『アルト』への信頼も同時に把握したのだ。

 幼い頃から『アルト』を見てきた故か、ローガンは一国の王太子だというのを抜きにしても、エルのことを同じくらい大切に思ってくれていると。

 それに、普段は温和な人間がひとたび怒ると怖いというのは、どうやら共通しているようだ。

 アルトは言葉を選びながら、そろりとエルから視線を外す。

 あまり思い出したくない事を脳裏に浮かべつつ、心からの言葉を口にした。

「目の前で倒れた時、一回でも変わってやりたいと思った。なのに、二回もあんなエルを見るのは嫌だ」

 そこでアルトは言葉を切り、今度はエルから目を逸らさずに言う。

「エルがずっと守ってくれてるのは知ってる。でも、これからは俺にも守らせてくれ。レティシア様からも、王宮の敵からも。……先に言っとくけど、拒否権なんかないからな」

 にこりと微笑むと、アルトの視界が黒く染まる。

 エルの纏う外套の中に閉じ込められたのだと理解するまで、少しの時間を要した。

「ちょ、エル……!?」

 何も見えない、と抗議する声はくぐもってあまり聞こえない。

 ただ、二人分の体温で身体が温かくなるのはすぐだった。

 気付けばアルトはエルに抱えられたまましばらく微睡まどろみ、馬車が停まったことでぼんやりと意識が覚醒したほどだ。
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