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第二部 三章
秘め事と思惑 1
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ガタガタと不規則な音を立て、馬車が揺れる。
アルトは隣りに座るエルの横顔をそっと見上げた。
普段ならば向かいに座るというのに、声が出せないためか近くに居たいのか分からないが、狭い馬車の中が更に狭く感じてしまう。
こちらとしてはくっ付けるのは嬉しいが、それ以上にアルトにはどうしても分からない事があった。
(……エルは嫌じゃないのかな)
公爵邸へ行こうと言った時、一瞬考え込む素振りがあった。
『本当に行ってもいいのか』という紙を見せてきたが、文面だけでは心理などすべて伝わらない事は、エルとて百も承知だろう。
実際、アルバートから手紙が来たのは事実だ。
しかし内容はこちらやエルの体調を気遣うことのみで、邸に来て欲しいというのはただの一つも書いていなかったのだ。
だからこれはアルトの我儘で、エルを王宮から連れ出すための方便に過ぎない。
この一週間エルの傍に付きっきりだったが、少しずつ身体が動くようになっても、やはりどこか落ち着かないのか気を張っているようだった。
結婚式を挙げた時、涙ながらにアルバートは『いつでも戻ってきてくれていい』と言ってくれた。むしろそうしてくれ、とも。
『私は旦那様の味方です。ローガンも貴方様を裏切るような事は致しませんし、ウィル様も何かあれば駆け付ける心づもりでいらっしゃいます』
深い青の瞳はただただ『アルト・ムーンバレイ』を案じており、これから王宮で暮らすアルトが心配でならないと言った口調だった。
『そんな、大丈夫だって。アルバートは心配しすぎ──』
『能天気に構えていては今に足元を掬われてしまいますぞ! 貴方様の性格は熟知しておりますが、ただでさえ愛憎蔓延る王宮へ嫁ぐなど胃に穴が開きそうだというのに……! やはり私がお傍に居るべきか』
アルトの言葉を半ば被せるように遮り、アルバートが悲痛な声で言い募る。
(さ、さすがに過保護過ぎないか)
よもやアルバートの忠誠心がここまでとは思わず、知らず背中に汗が伝う。
『──アルバート殿』
どうしたものか考えあぐねていると、隣りで静観していたエルが控えめに口を挟んだ。
『我が王族の一員となったからには、ムーンバレイ公爵をこの命に変えても守りきると約束する』
『っ』
不意にぐっと肩を寄せられ、アルトは反射的に少し上にある顔を見上げる。
エルはその反応に甘く微笑むと、ゆっくりと続けた。
『……これはまず有り得ないが、危険な目に遭わせてしまったらどんな罰を受けても構わない』
まっすぐにアルバートを見つめる瞳は王太子としての威厳と、こちらを思いやる愛で満ちていた。
『貴殿ほど公爵を大事にしている人間も、そうそういないだろう。ただ、私とて負ける気はない。……神に誓って、守りきると約束しよう』
エルはゆっくりと、もう一度同じ言葉を口にする。
聞いているこちらとしては、羞恥心やら不甲斐ないやらでこのまま消えて無くなってしまいたいほどだ。
(お前が大事にしてくれてるのはもう充分ってくらい分かるけど、それをアルバートの前で言うか……!?)
幼い頃から仕えてくれているであろう人間に向けて、公開処刑もいいところだ。
しかし、それほどアルトのことが大事だという気持ちが伝わったのだろうか。
『そのお言葉、今ばかりは信じましょう。……ただ、ただ一つでも顔に擦り傷を付けてしまった時には、いくら王太子殿下とて許しませんぞ』
アルバートはエルを軽く睨み付けた。
事が事であれば、不敬罪になると疑われかねない。
けれどエルはどこ吹く風で、ただ美しい笑みを浮かべるだけだ。
『それは怖いな。まぁ私も公爵に痛い思いはしてほしくないし、どんな小さな傷も作らせはしない。その変わり、下手人には地獄を見てもらうが』
半ば物騒極まりない二人の、特にエルの言葉にアルトは終始口を噤んでいるしかなかった。
(あれから三ヶ月、か)
それからすぐに忙しくなり、二人の時間がしっかりと取れなかったのは事実だ。
まさかエルが己の知らないうちに思い悩み、一人で抱え込んでいることに気付けなかったのはこちらの落ち度だった。
「……エル」
アルトはごく小さな声で囁いた。
「ん」
緩く首を傾げ、エルがこちらを覗き込んでくる。
柔らかに細められた水色の瞳は至って普段通りで、ともすれば愛おしいという感情が身体から滲み出ていた。
(俺が守るって言ったら、絶対『そんな事しなくていい』って言うんだろうな)
エルは一度こうと決めたら頑固で、自分を卑下するきらいがある。
ただ、それはアルトとて同じだと自覚しているからこそ、エルの考えている事が手に取るように分かるのだ。
エルは一人で抱え込み過ぎた。
現にレティシアを目にした時から、エルの行動や仕草には少しずつ違和感が生じていた。
おかしいと思った時、すぐに退室していたらここまでエルが苦しむ事も無かったはずだと今なら思う。
過ぎてしまった事を今更嘆いても仕方ないと、自分でも理解している。
それに、仮に言ったとて『自分を責めなくていい』と言わせてしまう気がして、そんな自分が情けなかった。
まるでこちらのことを拒絶しているような、弱い者の力を借りる必要はない、という錯覚にすら陥る。
(確かにエルは強い。……けど、我慢してたら元も子もない)
いくら体術や剣技に優れていても、エルとて一人の人間だ。
王宮の外に安らげる場所を作ってやりたい、という気持ちは一週間を経て大きくなっていた。
こちらの手を借りないというのならば、アルトが出来る事は一つしかない。
(身体はもちろんだけど、心も休ませないと)
王太子はある時から体調が悪く、気心の知れた医師を部屋に常駐させるほど重篤だ──という噂が流れるほどの場所だ。
万に一つも暗殺される可能性があり、エルが起き上がれるようになってからはローガンだけでなくアルトも気を張り詰めていた。
幸い何事もなく過ぎ去ったが、近いうちに大きな問題が起こるかもしれない。
そんな悪い予感がしてならなかった。
(でも、ちゃんと声が出せるようになったらまた逆戻りだ)
ただでさえ王宮には元凶であるレティシアがおり、逃げられない。
こちらから避けようとしても、本調子に戻った暁にはソフィアーナを歓迎するためのパーティーに出席しなければならないだろう。
(俺、なんであの時返事したんだろう。軽く躱してたら何もなかったのに)
いや、事前に分かっていたとしても自分ならば是が非でも頷いてしまう可能性の方が高い。
それもこれも、元の世界で染み付いてしまった癖だった。
「っ」
不意に手を取られた事で意識が現実に戻り、アルトは無意識に小さく肩を跳ねさせる。
『どうしたの』
手の平にそっと人差し指が触れ、ゆっくりと指先が動いていき言葉として伝わった。
「あ……えっ、と」
名を呼んだはいいものの、何を言おうとしたのか頭の中から抜けてしまっている。
ただ、じっとこちらを見つめるエルの瞳は、アルトの言葉を今か今かと待っていた。
その顔を見れなくて、アルトは顔を俯ける。
『名前、呼んだだけ?』
するとこちらの意思を汲み取ったのか、摑んでいた手にわずかに力が込められた。
『俺と話したくなったの?』
尚も手の平に言葉を書こうとするエルに、アルトの頬が次第に緩んでいく。
「……くすぐったい」
『我慢して』
堪らずふっと笑うと、エルも口元に淡い笑みを浮かべた。
触れるか触れないかの指先が手の平の上で言葉を紡ぐたび、軽い瘙痒感に襲われる。
くすくすとアルトが小さく笑っていると、いつの間にか添えられていた手が、きゅうと深く絡め合わされた。
自分よりも大きな手に包まれる感触に、アルトはややあって顔を上げた。
「エル……?」
すぐに交わった水色の瞳の奥には、じんわりと情欲の炎が見え隠れしていた。
とくとくと心臓の音がわずかに大きくなり、次第に早くなっていくのが分かる。
ゆっくりとエルの顔が近付いてきて、アルトは無意識に目を伏せた。
ちゅ、と小さな音を立てて頬に、こめかみに、伏せた瞼に短く口付けられる。
至近距離で甘く見つめられ、愛おしそうに『朔真』と唇が動いた。
「っ、もう終わ、り……?」
自分でも驚くほどの甘えた声が出てしまい、狭い馬車の中にいやに大きく響く。
きっとエルに向けられた顔は期待で満ちており、キスを強請っていることだろう。
エルは笑みを浮かべたまま、空いている方の手で頬に触れてくる。
手の平は先程よりもきつく握り締められ、振りほどけない。
「くち、にも」
して、と言い終わる前にエルの温かな唇がアルトのそれに重ねられた。
「ん、ぅ……」
ただ触れ合わせているだけだというのに、身体が熱くなっていくのを抑えられない。
アルトは無意識に握られている手に力を込め、小さく声を漏らした。
外では御者が手綱を操っており、いくら声を殺していても少なからず聞こえてしまっていることだろう。
その事がなんとも言えない背徳感を感じてしまい、ぞくりと背が震える。
「エ、ル……」
アルトはキスの合間に何度もエルの名を呼んだ。
今は声が出せない分、こちらが想いを伝えなければいけないという使命感に駆られた。
そっと重ね合わされては離れてを何度か繰り返すと、やがて小さな音を立てて唇が離れていく。
「あ……」
とろりとした瞳はそのままに、アルトは至近距離でエルを見つめた。
『そろそろ着くみたいだよ』
ふっと小さく笑い、エルがわずかに唾液で濡れた唇を動かす。
「も、う……?」
ふわふわとした頭の中でそろりと小窓を見れば、公爵邸へ向かう時の見慣れた道が視界に入った。
どうやら戯れているうちにいつの間にか時間が経っていたらしく、あと数分もしないうちに着くようだった。
とん、と肩を優しく叩かれ、アルトは気怠げにエルに視線を戻す。
『夜、もっと触ってもいいかな』
「へ」
アルトが小さく声を上げると同時に、にこりと手本のようにエルが微笑む。
何を言っているのか理解するのが遅れ、そこでアルトの霞みのかかりつつあった頭が動き始めた。
「え、ちょ、さわ……え!?」
やや声が裏返りつつも、もう一度言ってほしくて反射的にエルの袖を摑んだ。
しかし微笑むばかりで、唇が動く気配も手が何かを紡ぐ気配もない。
(な、なんなんだよ。人をからかって……!)
ふふ、とエルが更に笑みを深くするのを横目にしながらアルトは公爵邸の門を潜る間、少しも気が休まらなかった。
アルトは隣りに座るエルの横顔をそっと見上げた。
普段ならば向かいに座るというのに、声が出せないためか近くに居たいのか分からないが、狭い馬車の中が更に狭く感じてしまう。
こちらとしてはくっ付けるのは嬉しいが、それ以上にアルトにはどうしても分からない事があった。
(……エルは嫌じゃないのかな)
公爵邸へ行こうと言った時、一瞬考え込む素振りがあった。
『本当に行ってもいいのか』という紙を見せてきたが、文面だけでは心理などすべて伝わらない事は、エルとて百も承知だろう。
実際、アルバートから手紙が来たのは事実だ。
しかし内容はこちらやエルの体調を気遣うことのみで、邸に来て欲しいというのはただの一つも書いていなかったのだ。
だからこれはアルトの我儘で、エルを王宮から連れ出すための方便に過ぎない。
この一週間エルの傍に付きっきりだったが、少しずつ身体が動くようになっても、やはりどこか落ち着かないのか気を張っているようだった。
結婚式を挙げた時、涙ながらにアルバートは『いつでも戻ってきてくれていい』と言ってくれた。むしろそうしてくれ、とも。
『私は旦那様の味方です。ローガンも貴方様を裏切るような事は致しませんし、ウィル様も何かあれば駆け付ける心づもりでいらっしゃいます』
深い青の瞳はただただ『アルト・ムーンバレイ』を案じており、これから王宮で暮らすアルトが心配でならないと言った口調だった。
『そんな、大丈夫だって。アルバートは心配しすぎ──』
『能天気に構えていては今に足元を掬われてしまいますぞ! 貴方様の性格は熟知しておりますが、ただでさえ愛憎蔓延る王宮へ嫁ぐなど胃に穴が開きそうだというのに……! やはり私がお傍に居るべきか』
アルトの言葉を半ば被せるように遮り、アルバートが悲痛な声で言い募る。
(さ、さすがに過保護過ぎないか)
よもやアルバートの忠誠心がここまでとは思わず、知らず背中に汗が伝う。
『──アルバート殿』
どうしたものか考えあぐねていると、隣りで静観していたエルが控えめに口を挟んだ。
『我が王族の一員となったからには、ムーンバレイ公爵をこの命に変えても守りきると約束する』
『っ』
不意にぐっと肩を寄せられ、アルトは反射的に少し上にある顔を見上げる。
エルはその反応に甘く微笑むと、ゆっくりと続けた。
『……これはまず有り得ないが、危険な目に遭わせてしまったらどんな罰を受けても構わない』
まっすぐにアルバートを見つめる瞳は王太子としての威厳と、こちらを思いやる愛で満ちていた。
『貴殿ほど公爵を大事にしている人間も、そうそういないだろう。ただ、私とて負ける気はない。……神に誓って、守りきると約束しよう』
エルはゆっくりと、もう一度同じ言葉を口にする。
聞いているこちらとしては、羞恥心やら不甲斐ないやらでこのまま消えて無くなってしまいたいほどだ。
(お前が大事にしてくれてるのはもう充分ってくらい分かるけど、それをアルバートの前で言うか……!?)
幼い頃から仕えてくれているであろう人間に向けて、公開処刑もいいところだ。
しかし、それほどアルトのことが大事だという気持ちが伝わったのだろうか。
『そのお言葉、今ばかりは信じましょう。……ただ、ただ一つでも顔に擦り傷を付けてしまった時には、いくら王太子殿下とて許しませんぞ』
アルバートはエルを軽く睨み付けた。
事が事であれば、不敬罪になると疑われかねない。
けれどエルはどこ吹く風で、ただ美しい笑みを浮かべるだけだ。
『それは怖いな。まぁ私も公爵に痛い思いはしてほしくないし、どんな小さな傷も作らせはしない。その変わり、下手人には地獄を見てもらうが』
半ば物騒極まりない二人の、特にエルの言葉にアルトは終始口を噤んでいるしかなかった。
(あれから三ヶ月、か)
それからすぐに忙しくなり、二人の時間がしっかりと取れなかったのは事実だ。
まさかエルが己の知らないうちに思い悩み、一人で抱え込んでいることに気付けなかったのはこちらの落ち度だった。
「……エル」
アルトはごく小さな声で囁いた。
「ん」
緩く首を傾げ、エルがこちらを覗き込んでくる。
柔らかに細められた水色の瞳は至って普段通りで、ともすれば愛おしいという感情が身体から滲み出ていた。
(俺が守るって言ったら、絶対『そんな事しなくていい』って言うんだろうな)
エルは一度こうと決めたら頑固で、自分を卑下するきらいがある。
ただ、それはアルトとて同じだと自覚しているからこそ、エルの考えている事が手に取るように分かるのだ。
エルは一人で抱え込み過ぎた。
現にレティシアを目にした時から、エルの行動や仕草には少しずつ違和感が生じていた。
おかしいと思った時、すぐに退室していたらここまでエルが苦しむ事も無かったはずだと今なら思う。
過ぎてしまった事を今更嘆いても仕方ないと、自分でも理解している。
それに、仮に言ったとて『自分を責めなくていい』と言わせてしまう気がして、そんな自分が情けなかった。
まるでこちらのことを拒絶しているような、弱い者の力を借りる必要はない、という錯覚にすら陥る。
(確かにエルは強い。……けど、我慢してたら元も子もない)
いくら体術や剣技に優れていても、エルとて一人の人間だ。
王宮の外に安らげる場所を作ってやりたい、という気持ちは一週間を経て大きくなっていた。
こちらの手を借りないというのならば、アルトが出来る事は一つしかない。
(身体はもちろんだけど、心も休ませないと)
王太子はある時から体調が悪く、気心の知れた医師を部屋に常駐させるほど重篤だ──という噂が流れるほどの場所だ。
万に一つも暗殺される可能性があり、エルが起き上がれるようになってからはローガンだけでなくアルトも気を張り詰めていた。
幸い何事もなく過ぎ去ったが、近いうちに大きな問題が起こるかもしれない。
そんな悪い予感がしてならなかった。
(でも、ちゃんと声が出せるようになったらまた逆戻りだ)
ただでさえ王宮には元凶であるレティシアがおり、逃げられない。
こちらから避けようとしても、本調子に戻った暁にはソフィアーナを歓迎するためのパーティーに出席しなければならないだろう。
(俺、なんであの時返事したんだろう。軽く躱してたら何もなかったのに)
いや、事前に分かっていたとしても自分ならば是が非でも頷いてしまう可能性の方が高い。
それもこれも、元の世界で染み付いてしまった癖だった。
「っ」
不意に手を取られた事で意識が現実に戻り、アルトは無意識に小さく肩を跳ねさせる。
『どうしたの』
手の平にそっと人差し指が触れ、ゆっくりと指先が動いていき言葉として伝わった。
「あ……えっ、と」
名を呼んだはいいものの、何を言おうとしたのか頭の中から抜けてしまっている。
ただ、じっとこちらを見つめるエルの瞳は、アルトの言葉を今か今かと待っていた。
その顔を見れなくて、アルトは顔を俯ける。
『名前、呼んだだけ?』
するとこちらの意思を汲み取ったのか、摑んでいた手にわずかに力が込められた。
『俺と話したくなったの?』
尚も手の平に言葉を書こうとするエルに、アルトの頬が次第に緩んでいく。
「……くすぐったい」
『我慢して』
堪らずふっと笑うと、エルも口元に淡い笑みを浮かべた。
触れるか触れないかの指先が手の平の上で言葉を紡ぐたび、軽い瘙痒感に襲われる。
くすくすとアルトが小さく笑っていると、いつの間にか添えられていた手が、きゅうと深く絡め合わされた。
自分よりも大きな手に包まれる感触に、アルトはややあって顔を上げた。
「エル……?」
すぐに交わった水色の瞳の奥には、じんわりと情欲の炎が見え隠れしていた。
とくとくと心臓の音がわずかに大きくなり、次第に早くなっていくのが分かる。
ゆっくりとエルの顔が近付いてきて、アルトは無意識に目を伏せた。
ちゅ、と小さな音を立てて頬に、こめかみに、伏せた瞼に短く口付けられる。
至近距離で甘く見つめられ、愛おしそうに『朔真』と唇が動いた。
「っ、もう終わ、り……?」
自分でも驚くほどの甘えた声が出てしまい、狭い馬車の中にいやに大きく響く。
きっとエルに向けられた顔は期待で満ちており、キスを強請っていることだろう。
エルは笑みを浮かべたまま、空いている方の手で頬に触れてくる。
手の平は先程よりもきつく握り締められ、振りほどけない。
「くち、にも」
して、と言い終わる前にエルの温かな唇がアルトのそれに重ねられた。
「ん、ぅ……」
ただ触れ合わせているだけだというのに、身体が熱くなっていくのを抑えられない。
アルトは無意識に握られている手に力を込め、小さく声を漏らした。
外では御者が手綱を操っており、いくら声を殺していても少なからず聞こえてしまっていることだろう。
その事がなんとも言えない背徳感を感じてしまい、ぞくりと背が震える。
「エ、ル……」
アルトはキスの合間に何度もエルの名を呼んだ。
今は声が出せない分、こちらが想いを伝えなければいけないという使命感に駆られた。
そっと重ね合わされては離れてを何度か繰り返すと、やがて小さな音を立てて唇が離れていく。
「あ……」
とろりとした瞳はそのままに、アルトは至近距離でエルを見つめた。
『そろそろ着くみたいだよ』
ふっと小さく笑い、エルがわずかに唾液で濡れた唇を動かす。
「も、う……?」
ふわふわとした頭の中でそろりと小窓を見れば、公爵邸へ向かう時の見慣れた道が視界に入った。
どうやら戯れているうちにいつの間にか時間が経っていたらしく、あと数分もしないうちに着くようだった。
とん、と肩を優しく叩かれ、アルトは気怠げにエルに視線を戻す。
『夜、もっと触ってもいいかな』
「へ」
アルトが小さく声を上げると同時に、にこりと手本のようにエルが微笑む。
何を言っているのか理解するのが遅れ、そこでアルトの霞みのかかりつつあった頭が動き始めた。
「え、ちょ、さわ……え!?」
やや声が裏返りつつも、もう一度言ってほしくて反射的にエルの袖を摑んだ。
しかし微笑むばかりで、唇が動く気配も手が何かを紡ぐ気配もない。
(な、なんなんだよ。人をからかって……!)
ふふ、とエルが更に笑みを深くするのを横目にしながらアルトは公爵邸の門を潜る間、少しも気が休まらなかった。
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