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第二話 初夏の出会い
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一葉がバスを降りると、辺りは人でごった返していた。
航空会社側も、ある程度は予想していたのか、各所に警備の者や案内の者を配置し、混乱に備えてはいるものの、それでは到底間に合わないように見受けられる。
一葉は、早くも気を挫かれそうになりながら、とりあえず、人波に乗って空港内へと入った。
中へ入れたのはいいものの、人が多すぎて、自分の意思では全く進むことができない。
一葉は、あっちへ引きずられ、こっちへ突き飛ばされ、とうとう、完全に人波から弾かれてしまった。
「…これは、無理そうだ」
考えてみれば、あの春が生で見られる初の機会なのだ。人々が見逃すはずがない。
春は五年前、突然現れた、まるで人形のような俳優である。
温かみのある陶器のような肌、陽の光を糸に紡いだかのような髪、そして、ビー玉のような金色の瞳。すらりとした体躯。
その全てが、どこか現実離れしていて、とても生身の人間には見えない。
しかし、彼が人形と呼ばれる理由は、それだけではなかった。
春は、映画やドラマの他には、どのような番組にも、決して出演しないのである。よって、セリフを読んでいるとき以外の彼の姿は、完全に非公開となっており、その素顔は誰にも分からない。
これだけの人気を誇りながら、どんな人気番組にも登場しない彼に、世間は、CG説やロボット説など、ありえない説を唱え始めていた。
それが、ここにきて、番組出演どころか、生で登場するというのだ。
彼を一目見ようという人々は、着々と増え続けていた。
一葉は、一つため息をつくと、人波から外れた方へ歩き出した。
こんなことで諦めてしまうつもりはなかったが、時間まで、まだ三十分以上ある。三十分もあの中で待ち続けるのは、体力的に厳しい。どこかで座って、体力を温存しておくのが賢明だろうと考えたのだ。
人混みから外れた辺りは見事に無人だった。
一葉は、大きな観葉植物の影に小さなベンチがあるのを見つけた。
もし、授業時間内に終わればそのまま学校へ向かおうと思っていたため、制服で来てしまったのが、やはり少し居心地悪い。さすがに補導されることはないだろうけれども、あの影に隠れていられれば、何となく気が楽な気がした。
足早にそのベンチへ向かう。歩きながら、もし、あの影に先客がいたらという可能性に思い至った。立派に育った観葉植物の葉は、青々と周囲からの視線を遮っている。
とりあえず、覗いてみよう。一葉は鬱蒼と茂った葉に手をかけた。
――――……
「春様、そろそろお時間です」
日向は、まだ遠く眼下に広がる故郷を冷めた目で見下ろした。
ひとたびこの地に足をつければ、また「日向」としての重圧と閉塞感にさいなまされるのだろう。春乃宮家のワケあり跡継ぎとして。
遠い記憶の彼方にある空色の目をした美しい母。日向をあの家に置き去りにして、一人祖国へと旅立った、世界にただ一人だけの母親は、今も息災なのだろうか。
そうだといいと、日向は思った。裏切られたとは思っていない。捨てられたと恨んでいるわけでもない。そう、日向は幼い頃から何度も自分に言い聞かせてきた。
全ての元凶はあの家にあるのだと。
それでも日向は、適度に距離を置きながら、未だ春乃宮家を捨ててはいない。捨てられるはずもない。
自身の責任を投げうち逃げ出せば、数多の人々が路頭に迷うことになる。つけは全て何の罪もない弱者の元へ降りかかるのだ。日向は両手をきつく握りしめた。
身にあまる重責と、日々向けられる蔑みの視線に耐えながら、日向はそれでも空を見つめ続けた。
遠い祖国の地に暮らす母を想い。
そして、一人膝を抱え暮らす、たった一人の少女のために。
「…無月」
無意識にその名を呟いて、はっと首を振る。
幼い頃から常に彼女を守ろうとしてきた。悪意と作為と虚偽と策謀の渦巻くあの世界の中で。
無月は美しかった。恐らく世界中の誰よりも美しい。幼い頃からその容姿は人のものとは思われなかった。
一点の曇りも存在しない、真っ白な肌。滑らかに広がる手足。そして、華奢な指先。
大きく黒目がちな瞳は、濃く長く、けれどもすっきりとしたまつげに覆われ、左右にすっと広がった眉の間から、作り物のような鼻が通る。控えめな、けれどもふっくらとした薔薇色の口元。柔らかな頬。
腰まで揃う黒髪は、光の加減で青にも緑にも赤にも見える不思議な色。風に吹かれると、水が流れるように靡く。
初めて無月を見たとき、天女が舞い降りたのかと日向は半ば本気で思った。それほどまでに、彼女の姿は現実離れしていた。
周囲の大人たちも、視線を釘付けにされながら、しかし声をかけることもできずに慄き惑う。
大人になった今も、それは変わらない。いや、豊かに膨らんだ胸元や、柔らかく丸みを帯びた腰は、以前よりずっと多くの視線を集めるようになった。
「月の女神」無月の存在は人々の間でそう囁かれた。
日向は、密かに恐れていた。彼女は生まれてくる世界を間違えてしまったのかもしれない。そしていつか、故郷の者に連れ去られて、あるべき世界へ帰ってしまうのではないだろうか。あれほど美しい彼女が、この黒い靄が渦巻く世界で長く生きていけるとは、到底思えない。
しかし無月は、周囲の視線にも、そして日向の恐れにも全く関心を示さなかった。
「日向!」
そうして、日向に幼い頃のままの笑顔を向ける。
彼は無月の笑顔を見ると、確かな安堵とともに底無しの罪悪感を感じた。雛鳥への刷り込みさながらの信頼を利用して、日向は無月をその腕に抱き続けてきたのだ。戸惑っているはずだ。しかし無月はその行為を、いつも微笑んで受け止めた。
日向には、分かっていた。自身の抱く感情と、無月の抱く感情は全く別種のものであるということに。分かっていながら、その身も心も全て自分のものにしてしまいたい。
誰より彼女の未来を想いながらも、その幸せを与えるのが自分であればいいと願う。
日向は、窓硝子に立てた腕に、そっと頭を沈めた。
――――……
一葉は、その情景に、瞬きすら忘れてしまった。
差し込む午後の強い日差し。紺色のワンピースから覗く、はっとするほど白い肌。流れる絹のような髪。そして、気だるげに伏せられた大きな瞳。
絵の中ですら、こんな人は見たこともない。
一葉は、喉のつかえを飲みくだした。
見たこともない、想像も及ばないような存在。それなのに、何故か一葉は、何処かで彼女に会ったことがあるような気がした。
そのとき、彼女の伏せられた瞳が、緩慢に一葉を捉えた。
頭の中が真っ白になる感覚。何も考えられない。ただ、その真っ黒な瞳に映る自分を、呆然と見つめるしかない。
対する無月も同様に、ゆっくりと目を見開いた。
「槙…?」
りん、と鈴のように響く声音。
その瞬間、一葉の体に、電流が走った。
ようやく悟る。この人が、あの「無月」さんなのだと。
「…私は、槙の妹です。深草一葉といいます」
かろうじて、そう切り出す。
一度声を出すことで、何とか現実へと戻れた気がした。
「…そう、貴女が一葉さんなのね。貴女のこと、彼からよく聞いていたわ」
無月は、どこか悲しげに微笑む。
「すごい偶然ね。こんなところで会うなんて」
無月は、どうぞと隣を示した。
一葉は、一瞬躊躇った後、そっと腰を下ろす。それから、意を決して口を開いた。
「偶然ではないんです。私は、無月さんを探していました」
そう、ずっと探していたのだ。しかし、調べても調べても、「無月」は愚か「藤泉院」の家名すら見つけることはできなかった。
そんなことには全く思い至らなかった無月は「私を?」と不思議そうに目を見開く。
「何故、槙と別れてしまったんですか?貴女と別れてから槙は、ろくに家にも帰らないんです。…夜も戻って来ないんです」
何とか、感情を押し殺そうとしながらも、その声には僅かに涙が滲んだ。
無月は困ったように眉を下げると、また寂しげに微笑んだ。
「別れたかったわけではないの」
ぽつり、とただそれだけが呟かれた。
一葉は、その言葉に唖然とする。てっきり、兄が一方的に別れを告げられたのだとばかり思っていた。兄は、弄ばれたのだと。
しかし、一方的に相手を弄んだ女が、果たしてこんな顔をするだろうか。
「…日向さんが、いるからですか」
やっとのことで絞り出されたその低い声に、無月ははっとした。
「どうして、他に恋人がいるのに、槙のことを…」
それ以上、一葉は続けられなかった。涙が次から次へと溢れる。
無月は、どうすれば良いのかも分からずに、ただ反射的に溢れる涙に手を伸ばした。
しかし、その手はすぐに、取りつく島もなく払われる。
「触らないでください!」
明らかな拒絶の一言に、無月は肩を揺らした。
伸ばした手が、ゆっくりと降ろされる。
それから、潤んだ目を伏せた。
「…日向は、恋人なんかじゃないわ」
今度は一葉が目を見開いた。
「でも…槙が…」
無月はまた、微笑んだ。
「日向は、私自身なのよ」
一葉は固まる。言っている意味が、まるで分からない。しかし、次の言葉はするりと口から滑り出た。
「それなら、どうして、槙と一緒にいられないんですか」
言いながら、何故か一葉の胸はじくじくと痛む。無月は、そんな彼女を痛ましげに見つめた。
「彼にはもう、心に決めた人がいるのよ」
全てを見透かされているような気がした。分かっているのでしょう?と問われているかのような。
悲しい過去に捨て去った言葉が、一葉の胸に蘇る。
「…一葉、俺たち…」
しかしすぐに、一葉はその記憶に蓋をした。
溢れ出る感情を、強引に押し戻す。
一葉は、小さく息をついた。
「…私が、誤解していたみたいです。すみませんでした」
そう言って、頭を下げた。
無月は、自分より頭一つ分背の低い少女を、眩しげに見つめる。
「…似ているわね。顔は、あまり似ていないけれど、雰囲気が、とても似ているわ」
一葉は、微笑んだ。
「…家族ですから」
無月は、鞄からハンカチを取り出して、一葉の頬に当てた。ふわりと百合のような香りが漂う。
一葉は、目を閉じた。
かつて、まだ母が生きていた頃、こんな風に涙を拭いてもらったことが、あった気がする。
一葉の頬に、また新たな涙が一筋加わった。
そのとき、華奢なヒールの小走りに駆け寄ってくる音が辺りに響いた。一葉は、後ろを振り返り、またも息を飲む。
ふわふわと靡く蜂蜜のような髪に、琥珀のような瞳。桜の蕾のような唇に、薔薇色の頬。小柄で華奢な体躯は、触れれば折れてしまいそうなほど。
そこには、童話の中から抜け出してきたかのような少女が立っていた。
「無月様、こちらにいらっしゃったのですね」
安堵の息を吐きながら、無月の無事を確かめる。
そして、一葉を不思議そうに眺めた。
無月は、「ごめんなさい、少し一人で休みたくて」と謝罪すると、「こちらは、深草一葉さん」と、呆然とする一葉を示した。
蜜華の顔に、一瞬、はっとした表情が浮かんだ。しかし、すぐに可憐な笑顔を貼り付ける。「花の妖精」と呼ばれる彼女の、精一杯の笑顔だった。
「一葉さん、初めまして」
一葉は急いで頭を下げる。
「は、始めまして」
「それから、こちらは成宮蜜華さん」
蜜華は、少しだけ膝を折った。
一葉は、目眩がしそうだった。もしかしなくとも、彼女はあの成宮家の「成宮蜜華」嬢なのだ。この二人が、どれほど遠い世界に住んでいるのか、瞬時に思い知らされる。
蜜華は、一葉に複雑な視線を投げかけると、無月に向き直った。
「無月様、日向様がご到着なさいましたわ。そろそろお車へ」
「えぇ、分かったわ」
無月は、すっと立ち上がると、蜜華と並んだ。
「では、無月様参りましょう」
蜜華が身を翻す。無月は、ちらりと一葉を見た。
一葉は、さっと立ち上がったものの、言葉に詰まってしまい、ただ見送ることしかできない。
無月は一度口を開いた。しかし、何かを言おうとしては躊躇い、とうとう一葉から視線を外してしまった。
蜜華に続いて、足を運ぶ。一歩、二歩。しかし、三歩目は踏み出せなかった。意を決して、再び振り返る。
「一葉さん、また会えるわよね?」
その横顔に、一葉はまた、強い既視感を覚えた。どこでとも分からない。けれど、強く切ない感情が渦巻く。
一葉が呆然としているうちに、無月は鞄の中から一枚の紙を取り出し、そこに何かを書き付け、ぎゅっと一葉の手に握らせる。
「メールでも、電話でも、してくれたら嬉しいわ」
そして、一葉が返事をする間もなく、彼女たちは空港から姿を消した。
航空会社側も、ある程度は予想していたのか、各所に警備の者や案内の者を配置し、混乱に備えてはいるものの、それでは到底間に合わないように見受けられる。
一葉は、早くも気を挫かれそうになりながら、とりあえず、人波に乗って空港内へと入った。
中へ入れたのはいいものの、人が多すぎて、自分の意思では全く進むことができない。
一葉は、あっちへ引きずられ、こっちへ突き飛ばされ、とうとう、完全に人波から弾かれてしまった。
「…これは、無理そうだ」
考えてみれば、あの春が生で見られる初の機会なのだ。人々が見逃すはずがない。
春は五年前、突然現れた、まるで人形のような俳優である。
温かみのある陶器のような肌、陽の光を糸に紡いだかのような髪、そして、ビー玉のような金色の瞳。すらりとした体躯。
その全てが、どこか現実離れしていて、とても生身の人間には見えない。
しかし、彼が人形と呼ばれる理由は、それだけではなかった。
春は、映画やドラマの他には、どのような番組にも、決して出演しないのである。よって、セリフを読んでいるとき以外の彼の姿は、完全に非公開となっており、その素顔は誰にも分からない。
これだけの人気を誇りながら、どんな人気番組にも登場しない彼に、世間は、CG説やロボット説など、ありえない説を唱え始めていた。
それが、ここにきて、番組出演どころか、生で登場するというのだ。
彼を一目見ようという人々は、着々と増え続けていた。
一葉は、一つため息をつくと、人波から外れた方へ歩き出した。
こんなことで諦めてしまうつもりはなかったが、時間まで、まだ三十分以上ある。三十分もあの中で待ち続けるのは、体力的に厳しい。どこかで座って、体力を温存しておくのが賢明だろうと考えたのだ。
人混みから外れた辺りは見事に無人だった。
一葉は、大きな観葉植物の影に小さなベンチがあるのを見つけた。
もし、授業時間内に終わればそのまま学校へ向かおうと思っていたため、制服で来てしまったのが、やはり少し居心地悪い。さすがに補導されることはないだろうけれども、あの影に隠れていられれば、何となく気が楽な気がした。
足早にそのベンチへ向かう。歩きながら、もし、あの影に先客がいたらという可能性に思い至った。立派に育った観葉植物の葉は、青々と周囲からの視線を遮っている。
とりあえず、覗いてみよう。一葉は鬱蒼と茂った葉に手をかけた。
――――……
「春様、そろそろお時間です」
日向は、まだ遠く眼下に広がる故郷を冷めた目で見下ろした。
ひとたびこの地に足をつければ、また「日向」としての重圧と閉塞感にさいなまされるのだろう。春乃宮家のワケあり跡継ぎとして。
遠い記憶の彼方にある空色の目をした美しい母。日向をあの家に置き去りにして、一人祖国へと旅立った、世界にただ一人だけの母親は、今も息災なのだろうか。
そうだといいと、日向は思った。裏切られたとは思っていない。捨てられたと恨んでいるわけでもない。そう、日向は幼い頃から何度も自分に言い聞かせてきた。
全ての元凶はあの家にあるのだと。
それでも日向は、適度に距離を置きながら、未だ春乃宮家を捨ててはいない。捨てられるはずもない。
自身の責任を投げうち逃げ出せば、数多の人々が路頭に迷うことになる。つけは全て何の罪もない弱者の元へ降りかかるのだ。日向は両手をきつく握りしめた。
身にあまる重責と、日々向けられる蔑みの視線に耐えながら、日向はそれでも空を見つめ続けた。
遠い祖国の地に暮らす母を想い。
そして、一人膝を抱え暮らす、たった一人の少女のために。
「…無月」
無意識にその名を呟いて、はっと首を振る。
幼い頃から常に彼女を守ろうとしてきた。悪意と作為と虚偽と策謀の渦巻くあの世界の中で。
無月は美しかった。恐らく世界中の誰よりも美しい。幼い頃からその容姿は人のものとは思われなかった。
一点の曇りも存在しない、真っ白な肌。滑らかに広がる手足。そして、華奢な指先。
大きく黒目がちな瞳は、濃く長く、けれどもすっきりとしたまつげに覆われ、左右にすっと広がった眉の間から、作り物のような鼻が通る。控えめな、けれどもふっくらとした薔薇色の口元。柔らかな頬。
腰まで揃う黒髪は、光の加減で青にも緑にも赤にも見える不思議な色。風に吹かれると、水が流れるように靡く。
初めて無月を見たとき、天女が舞い降りたのかと日向は半ば本気で思った。それほどまでに、彼女の姿は現実離れしていた。
周囲の大人たちも、視線を釘付けにされながら、しかし声をかけることもできずに慄き惑う。
大人になった今も、それは変わらない。いや、豊かに膨らんだ胸元や、柔らかく丸みを帯びた腰は、以前よりずっと多くの視線を集めるようになった。
「月の女神」無月の存在は人々の間でそう囁かれた。
日向は、密かに恐れていた。彼女は生まれてくる世界を間違えてしまったのかもしれない。そしていつか、故郷の者に連れ去られて、あるべき世界へ帰ってしまうのではないだろうか。あれほど美しい彼女が、この黒い靄が渦巻く世界で長く生きていけるとは、到底思えない。
しかし無月は、周囲の視線にも、そして日向の恐れにも全く関心を示さなかった。
「日向!」
そうして、日向に幼い頃のままの笑顔を向ける。
彼は無月の笑顔を見ると、確かな安堵とともに底無しの罪悪感を感じた。雛鳥への刷り込みさながらの信頼を利用して、日向は無月をその腕に抱き続けてきたのだ。戸惑っているはずだ。しかし無月はその行為を、いつも微笑んで受け止めた。
日向には、分かっていた。自身の抱く感情と、無月の抱く感情は全く別種のものであるということに。分かっていながら、その身も心も全て自分のものにしてしまいたい。
誰より彼女の未来を想いながらも、その幸せを与えるのが自分であればいいと願う。
日向は、窓硝子に立てた腕に、そっと頭を沈めた。
――――……
一葉は、その情景に、瞬きすら忘れてしまった。
差し込む午後の強い日差し。紺色のワンピースから覗く、はっとするほど白い肌。流れる絹のような髪。そして、気だるげに伏せられた大きな瞳。
絵の中ですら、こんな人は見たこともない。
一葉は、喉のつかえを飲みくだした。
見たこともない、想像も及ばないような存在。それなのに、何故か一葉は、何処かで彼女に会ったことがあるような気がした。
そのとき、彼女の伏せられた瞳が、緩慢に一葉を捉えた。
頭の中が真っ白になる感覚。何も考えられない。ただ、その真っ黒な瞳に映る自分を、呆然と見つめるしかない。
対する無月も同様に、ゆっくりと目を見開いた。
「槙…?」
りん、と鈴のように響く声音。
その瞬間、一葉の体に、電流が走った。
ようやく悟る。この人が、あの「無月」さんなのだと。
「…私は、槙の妹です。深草一葉といいます」
かろうじて、そう切り出す。
一度声を出すことで、何とか現実へと戻れた気がした。
「…そう、貴女が一葉さんなのね。貴女のこと、彼からよく聞いていたわ」
無月は、どこか悲しげに微笑む。
「すごい偶然ね。こんなところで会うなんて」
無月は、どうぞと隣を示した。
一葉は、一瞬躊躇った後、そっと腰を下ろす。それから、意を決して口を開いた。
「偶然ではないんです。私は、無月さんを探していました」
そう、ずっと探していたのだ。しかし、調べても調べても、「無月」は愚か「藤泉院」の家名すら見つけることはできなかった。
そんなことには全く思い至らなかった無月は「私を?」と不思議そうに目を見開く。
「何故、槙と別れてしまったんですか?貴女と別れてから槙は、ろくに家にも帰らないんです。…夜も戻って来ないんです」
何とか、感情を押し殺そうとしながらも、その声には僅かに涙が滲んだ。
無月は困ったように眉を下げると、また寂しげに微笑んだ。
「別れたかったわけではないの」
ぽつり、とただそれだけが呟かれた。
一葉は、その言葉に唖然とする。てっきり、兄が一方的に別れを告げられたのだとばかり思っていた。兄は、弄ばれたのだと。
しかし、一方的に相手を弄んだ女が、果たしてこんな顔をするだろうか。
「…日向さんが、いるからですか」
やっとのことで絞り出されたその低い声に、無月ははっとした。
「どうして、他に恋人がいるのに、槙のことを…」
それ以上、一葉は続けられなかった。涙が次から次へと溢れる。
無月は、どうすれば良いのかも分からずに、ただ反射的に溢れる涙に手を伸ばした。
しかし、その手はすぐに、取りつく島もなく払われる。
「触らないでください!」
明らかな拒絶の一言に、無月は肩を揺らした。
伸ばした手が、ゆっくりと降ろされる。
それから、潤んだ目を伏せた。
「…日向は、恋人なんかじゃないわ」
今度は一葉が目を見開いた。
「でも…槙が…」
無月はまた、微笑んだ。
「日向は、私自身なのよ」
一葉は固まる。言っている意味が、まるで分からない。しかし、次の言葉はするりと口から滑り出た。
「それなら、どうして、槙と一緒にいられないんですか」
言いながら、何故か一葉の胸はじくじくと痛む。無月は、そんな彼女を痛ましげに見つめた。
「彼にはもう、心に決めた人がいるのよ」
全てを見透かされているような気がした。分かっているのでしょう?と問われているかのような。
悲しい過去に捨て去った言葉が、一葉の胸に蘇る。
「…一葉、俺たち…」
しかしすぐに、一葉はその記憶に蓋をした。
溢れ出る感情を、強引に押し戻す。
一葉は、小さく息をついた。
「…私が、誤解していたみたいです。すみませんでした」
そう言って、頭を下げた。
無月は、自分より頭一つ分背の低い少女を、眩しげに見つめる。
「…似ているわね。顔は、あまり似ていないけれど、雰囲気が、とても似ているわ」
一葉は、微笑んだ。
「…家族ですから」
無月は、鞄からハンカチを取り出して、一葉の頬に当てた。ふわりと百合のような香りが漂う。
一葉は、目を閉じた。
かつて、まだ母が生きていた頃、こんな風に涙を拭いてもらったことが、あった気がする。
一葉の頬に、また新たな涙が一筋加わった。
そのとき、華奢なヒールの小走りに駆け寄ってくる音が辺りに響いた。一葉は、後ろを振り返り、またも息を飲む。
ふわふわと靡く蜂蜜のような髪に、琥珀のような瞳。桜の蕾のような唇に、薔薇色の頬。小柄で華奢な体躯は、触れれば折れてしまいそうなほど。
そこには、童話の中から抜け出してきたかのような少女が立っていた。
「無月様、こちらにいらっしゃったのですね」
安堵の息を吐きながら、無月の無事を確かめる。
そして、一葉を不思議そうに眺めた。
無月は、「ごめんなさい、少し一人で休みたくて」と謝罪すると、「こちらは、深草一葉さん」と、呆然とする一葉を示した。
蜜華の顔に、一瞬、はっとした表情が浮かんだ。しかし、すぐに可憐な笑顔を貼り付ける。「花の妖精」と呼ばれる彼女の、精一杯の笑顔だった。
「一葉さん、初めまして」
一葉は急いで頭を下げる。
「は、始めまして」
「それから、こちらは成宮蜜華さん」
蜜華は、少しだけ膝を折った。
一葉は、目眩がしそうだった。もしかしなくとも、彼女はあの成宮家の「成宮蜜華」嬢なのだ。この二人が、どれほど遠い世界に住んでいるのか、瞬時に思い知らされる。
蜜華は、一葉に複雑な視線を投げかけると、無月に向き直った。
「無月様、日向様がご到着なさいましたわ。そろそろお車へ」
「えぇ、分かったわ」
無月は、すっと立ち上がると、蜜華と並んだ。
「では、無月様参りましょう」
蜜華が身を翻す。無月は、ちらりと一葉を見た。
一葉は、さっと立ち上がったものの、言葉に詰まってしまい、ただ見送ることしかできない。
無月は一度口を開いた。しかし、何かを言おうとしては躊躇い、とうとう一葉から視線を外してしまった。
蜜華に続いて、足を運ぶ。一歩、二歩。しかし、三歩目は踏み出せなかった。意を決して、再び振り返る。
「一葉さん、また会えるわよね?」
その横顔に、一葉はまた、強い既視感を覚えた。どこでとも分からない。けれど、強く切ない感情が渦巻く。
一葉が呆然としているうちに、無月は鞄の中から一枚の紙を取り出し、そこに何かを書き付け、ぎゅっと一葉の手に握らせる。
「メールでも、電話でも、してくれたら嬉しいわ」
そして、一葉が返事をする間もなく、彼女たちは空港から姿を消した。
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