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第六章 美しき世界

第百三十三話 賑やかな家族

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「ルコットちゃん、いる?」

 窓辺で髪を梳きながら、ぼんやりと夜空を見上げていたルコットは、はっとして立ち上がり、急いで廊下の扉を開いた。

 案の定、そこにはロゼが立っていた。
 両手に持つトレイの上で、二つのティーカップが湯気を立てている。

「ごめんなさい、夜遅くに。驚かせちゃったかしら……」

 ためらいがちに眉を下げるロゼに、ルコットは慌てて両手を振る。

「いえ、そんなことはありません。お越しくださって嬉しいです。お茶まで、ありがとうございます。どうぞ」

 トレイを受け取り、ローテーブルを挟んで向かい合う。
 ロゼもルコットも、髪を背中に流し、ゆったりとしたナイトドレスを身にまとっていた。
 窓から吹き込む秋風が、そんな二人の髪や裾をふわふわと揺らす。

 情景だけ見れば、とても安らいだ空間だった。
 楽な服装で、香りの良いお茶を囲み、寝る前のひとときをともに過ごす義母娘。
 それなのに、ルコットの表情はどこかぎこちなく、ともすれば緊張さえしているように見えた。
 二人の間にしばらくの間沈黙が落ちた。
 ルコットは強いて話題を探しているようだったが、結局自然な言葉は出てこなかった。
 そんなルコットを見て、ロゼは小さく微笑み、一度目を伏せて、それから控えめに口を開いた。

「ルコットちゃんは、私たちに合わせる顔がないと思ってるのよね」

 図星を突かれ、ルコットははっとした。
 その表情を見て、ロゼは「夕食のときもすごく気を遣ってたでしょ」と困ったように笑った。

「ルコットちゃんは真面目だから、感じる必要のない責任を感じてしまってるのかもしれないけど……」

 そう言って、ロゼはティースプーンでカップの中をくるくるとかき混ぜた。
 揺れる水面を見つめ、次の言葉を探しているようだった。否、どんな言葉なら、この胸の内が伝わるだろうかと考えていたのかもしれない。
 とうとう、ロゼは泣きそうな瞳でこう言った。
 
「……私は……私たちは、もう一度あなたに会えた、それだけで嬉しいの」

 ルコットの脳裏に、玄関口で出迎えてくれたベルツ家の人々の顔が浮かんだ。
 ハイドル、ロゼ、オルト、ルイ、それからアスラとマシュー。
 皆隠しきれない喜びを顔中に浮かべて、迎え入れてくれた。
 夕食のときも、まるで小さな子どもにするように、たくさんの料理をすすめ、取り分けてくれた。
 ルコットの前に料理の山ができたほどだ。
 楽しい、笑いの絶えないひとときだった。
 それでも、どこかでルコットは、罪悪感を感じてしまっていた。
 この数年、一体どれほど心配させてしまったことか。
 しかしロゼは、少しミステリアスな微笑を浮かべて、首を振った。

「実を言うとね、私、それほど心配はしてなかったのよ」

 ぽかんとするルコットを見つめ、ロゼははにかむ。

「だって、あの子にはあなたしかいないし、あなたにはあの子しかいないもの。気づいてる? あなたたち一緒にいるとすごくいい顔してるのよ」

 だから、いつか必ずまた会えると信じていたわ。
 そう言って、ロゼはルコットの手を握った。
 ルコットの瞳に、透明な涙の膜が揺れる。
 それを見たロゼもつられて涙声になったが、照れをごまかすように咳払いをし、強いて明るく言った。

「それにね、若いときはどんな無茶をしたっていいの。私だって、随分色々やらかしたもの。ね、あなた。そこにいるんでしょう?」

 ルコットが驚いて振り返ると、扉が控えめに開かれた。
 向こうからハイドルが大きな肩をすぼめてこちらの様子を窺っている。
 さらにその後ろには、ホルガーを始め、ルイ、オルト、アスラ、マシュー、ばあやまで全員が揃っていた。

「盗み聞きするつもりはなかったんです……ただ、ルコットさんに夜食でもと思って」

 決まり悪そうなホルガーの後ろで、ルイが明るく笑う。

「ほんと、母上の破天荒に比べれば、ルコットちゃんのやんちゃなんて可愛いもんだよな、親父」
「……まったくだ」

 当時の苦労を偲ばせるような声のトーンに、ルコットも思わず笑ってしまう。
 するとロゼは一瞬、安心したような嬉しそうな、今日初めて見せる表情を浮かべた。

「……もう! 失礼しちゃうわね! でも否定はしないわ」

 ロゼはルコットにいたずらな目配せをし、立ち上がる。
 ルコットもつられて立ち上がった。

「さぁさ、ルコットちゃんは長旅で疲れてるのよ。寝かせてあげましょ。ルコットちゃん、また明日ね」
「は、はい、また明日」
 
 ロゼはどこか嬉しそうに戸口へ向かい、一度その向こう側へと消えていった。
 しかし、数秒もしないうちに、再びひょいと顔をのぞかせた。

「ルコットちゃん」
「はい」

 忘れ物だろうか。
 小首を傾げるルコットに、ロゼは先ほどまでと打って変わって、どこか真剣な眼差しで言った。

「この家に嫁いだからには、一生自由に生きたらいいのよ。あなたはあなたの空を、自由に羽ばたいて頂戴ね」

 思ってもみない言葉だった。
 そして同時に、とてもロゼらしい言葉だとも思った。
 自由に生きたらいい。
 それは、あるがままのルコットを受け入れ、愛する言葉だった。
 たおやかな見た目のロゼと、筋骨たくましいホルガー。見た目にはあまり似ていないけれど、確かに二人は親子なのだなと、噛みしめるように感じた。
 
「ありがとうございます……お義母さま」

 今はまだ少し躊躇いがちになってしまう「母」という呼び名。それもそう遠くない未来、自然に呼べるようになるだろう。
 ロゼは花開くように微笑んだ。

「明日から、楽しいことがたくさん待ってるわ。きのこやきのみを採ったり、町へお忍びで行くのも楽しそう。村娘の衣装、貸してあげるから一緒に着ましょうね。それから――」

 そこへ、ハイドルが戻ってきて、ロゼの手を引いた。

「ほら、ルコットさんを寝かせてあげるんだろう? あまり困らせてはいけない。……ルコットさん、何かするときは父さんも仲間に入れてほしい」
「姉さんもね!」
「僕たちにも声をかけてくれ」

 気がつくと、また全員が戻ってきていた。
 ホルガーが困ったように眉を下げながら、しかし幸せそうな眼差しで言った。

「おやすみなさい、ルコットさん。また明日」

 また明日。
 当たり前のように出てきたその言葉に、ルコットは幸せを噛みしめた。

「はい、おやすみなさい。また明日」

 皆口々に、おやすみなさい、良い夢を、と微笑み去って行く。
 見送りを済ませたルコットが部屋の中へ入ると、廊下の向こうから、ルイの声が響いてきた。

「いやぁ、我が弟は硬派だねぇ……いてっ!」

 ルコットは微笑み、もう一度窓から夜空を見上げた。
 賑やかな家族とともに過ごす明日からの毎日が、楽しみで仕方がない。

 ヒシャーリャ山脈からの眺めを思い出しながら、東国辺境シュタドハイスに想いを馳せた。
 彼が生まれ育ったこの地。一体どのようなところなのだろう。
 ベッドに入ってからも、ルコットはまだ見ぬ明日に心を躍らせていた。

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