71 / 137
第四章 知の都 リヒシュータ領 ダヴェニス
第七十一話 リヒシュータの誇り
しおりを挟む「リリアンヌ、今日も妖精の花冠に行っていたの?」
夕食の席。
長いテーブルの端から、ハップルニヒ侯爵夫人がため息がちにそう仰いました。
上座の侯爵も同じように眉をひそめられています。
私の正面のリリアンヌさまとターシャさまは、顔を上げずに「はい」と仰いました。
それ以降会話が途切れ、食堂内に重苦しい沈黙が落ちます。
見るに見かねて、私はおずおずと口を開きました。
「このさつまいものソテー、とても美味しいですわ」
はっとされた侯爵さまが後に続いてくださいます。
「お口に合って何よりです。ベルツ夫人も本日はお出かけでしたか?」
「はい、サンテジュピュリナ大学にお邪魔いたしました」
途端に、侯爵夫妻の表情が明るくなりました。
「大学にですか。いかがでした?」
「驚きましたわ。私学校に参るのは初めてでしたから、余計に」
「あの大学は他と比べても特殊ですからな」
ご夫妻はにこにこと、領内の大学の変遷や、卒業生のことまで教えてくださいます。
「リヒシュータの大学は皆それぞれ誇り高い歴史を持っていますのよ」
「それだけでなく、多くの卒業生は、議員や医師や博士になり、国を支えています。王宮に仕官する者も少なくありません。勿論、領地に帰り故郷を治める者もいますが」
現在のリヒシュータの姿になるまで、並々ならぬ努力があったのでしょう。なんといっても、ここは戦に戦を重ねた軍事大国。兵法以外の学問は、時に弾圧の対象になっていたはずです。
その中で「学び」を守り続けるなんて、並大抵のことではありません。
ハップルニヒ侯爵家は強い使命感と志を持って歩んでこられたのでしょう。
お二人の瞳にはこれまでの苦労と達成感、そして誇りがはっきりと光っていました。
私は最大限の敬意が伝わるよう微笑みました。
「『知のリヒシュータ』にふさわしいご功績ですわ」
そのとき、ごく小さな、絞り出すような声が、食堂に響きました。
「……何が『知のリヒシュータ』よ」
突然のことに茫然とされるお二人を、リリアンヌさまはキッと睨みつけられます。
「学ぶ権利を与えられる者なんて、ほんの一握りのお金持ちだけじゃない!」
「こら、お客さまの前で何を言い出すんだ」
声を荒げられる侯爵さまに、不安げな侯爵夫人さま、ハラハラと視線を彷徨わせるターシャさま。
私もお二人を交互に見つめることしかできませんでした。
「お父さまの誇りなんてただの自己満足よ! こんな形ばかりの教育で本当に民が幸せになると思っているの!?」
「お前はまだ子どもだから、現実というものがわかっていないんだ!」
穏やかな侯爵さまの激情に、食堂は水を打ったように静まり返りました。
皆が驚いたようにお二人を凝視します。
リリアンヌさまも、しばらくの間呆然とされていましたが、突然、ガタンッと立ち上がられました。
「リリアンヌ!」
侯爵夫人さまのささやくような叫びを無視し、リリアンヌさまは廊下へ飛び出されます。
散った涙のかけらがテーブルに落ち、ターシャさまが間髪入れずに後を追われました。
私も立ち上がりかけたのですが、ふと残されたご夫妻が気にかかりました。
案の定、お二人は青ざめたお顔で扉の向こうを凝視されています。
私は微かに浮いた腰を再び椅子に戻しました。
「……お二人も、リリアンヌさまも、きっとどちらも誤ってはいませんわ」
お二人は驚いたように目を見開かれると、力なく首を振られました。
「……いいえ、わかっているのです。『リヒシュータの知』は所詮侯爵家の自己満足でしかないのだと」
侯爵さまは窓へ目を向け、遠い過去を想うように目を細められました。
「しかし、全ての民に教育を行き渡らせるなど土台無理な話です。この国にはまだその基盤がありません」
基盤――それは、教師や施設、財源といった物理的なものから、制度や規則、法に至るまで。
確かにフレイローズには教育に関する基盤は皆無です。
「仮に実現可能になったとしましょう。しかし、それを民は喜ぶでしょうか。必要な働き手を取られ、家業が成り立つでしょうか。……あの子の理想は、机上の空論でしかありません」
市井の子どもは貴重な労働力。それはこの国のどこを取っても同じようなものです。
教育と労働。
その狭間で、侯爵さまは思い悩まれているようでした。
「……きっと、何とかなります。いえ、何とかいたしますわ」
自分でも気づかないうちに、私はそう囁いていました。
ぽかんとされるお二人に私はもう一度言葉を重ねます。
「人間は、実現可能なことしか想像できないのですよ」
誰もが望む知識を得られ、生まれに関係なく、将来の夢を語れる世界。
武力ではなく、知恵をもって話し合い、和解できる、そんな世界。
途方もない空想かもしれません。
しかしそんな未来ならきっと――無為に剣を取って戦う必要などなくなるのです。
(……きっと、彼だって)
瞼の奥に、勇ましくも優しい陸軍大将とその部下の方々が鮮明に蘇りました。
「……侯爵さま、侯爵夫人さま、どうか、信じてください。私たちの目指したい未来は、机上の空論などではないのです」
怯えることなく、奪うことも、奪われることもなく、穏やかな明日を迎えることができる。きっと――
「――きっと、この道の果てには、そんな未来が待っていますわ」
今にして思えば、この旅の始まりは、ただ引きずられていただけでした。
お姉さまや彼の目指す漠然とした平和な世界を見てみたい。
そんなあやふやな動機で私は歩き始めたのです。
しかし今、私は自分だけの意思でここにいました。
誰の背を追うでもなく、誰の代わりでもなく、私には私の目指す先ができたのです。
脳裏に浮かぶ鮮やかな未来。
そこにたどり着くためなら、私は何だってできる気がしました。
「……どんな夜会でも俯かれていたルコット殿下が、そんな目をされるようになったんですね」
沈黙されていた侯爵さまが、おもむろに口を開かれました。この侯爵家の歴史を感じさせる重々しくも温かな声でした。
「わかりました――やりましょう。そんな途方もない計画を実現できるのは、このリヒシュータをおいて他にはありませんから」
侯爵さまの澄んだダークブラウンの瞳に、明るい光が差しました。
侯爵夫人さまもまた、強く顔を上げ、微笑まれます。
「ええ、知の聖地リヒシュータの誇りにかけて、必ず成し遂げましょう」
この国の未来を決する計画が、今始まろうとしていました。
(……ホルガーさま)
祈りのように彼の姿を脳裏に描きます。
竦みそうになる足を、強く前に踏み出せるように。
(……こんな私を信じ、協力してくださる方が増えました)
瞳を閉じ、静かに胸の内で語りかけます。
永遠に届くことのない言葉で。
(どうか、たどり着く未来のどこかで、あなたが笑っていますように)
0
お気に入りに追加
91
あなたにおすすめの小説
記憶がないので離縁します。今更謝られても困りますからね。
せいめ
恋愛
メイドにいじめられ、頭をぶつけた私は、前世の記憶を思い出す。前世では兄2人と取っ組み合いの喧嘩をするくらい気の強かった私が、メイドにいじめられているなんて…。どれ、やり返してやるか!まずは邸の使用人を教育しよう。その後は、顔も知らない旦那様と離婚して、平民として自由に生きていこう。
頭をぶつけて現世記憶を失ったけど、前世の記憶で逞しく生きて行く、侯爵夫人のお話。
ご都合主義です。誤字脱字お許しください。
多産を見込まれて嫁いだ辺境伯家でしたが旦那様が閨に来ません。どうしたらいいのでしょう?
あとさん♪
恋愛
「俺の愛は、期待しないでくれ」
結婚式当日の晩、つまり初夜に、旦那様は私にそう言いました。
それはそれは苦渋に満ち満ちたお顔で。そして呆然とする私を残して、部屋を出て行った旦那様は、私が寝た後に私の上に伸し掛かって来まして。
不器用な年上旦那さまと割と飄々とした年下妻のじれじれラブ(を、目指しました)
※序盤、主人公が大切にされていない表現が続きます。ご気分を害された場合、速やかにブラウザバックして下さい。ご自分のメンタルはご自分で守って下さい。
※小説家になろうにも掲載しております
【完結】夫は王太子妃の愛人
紅位碧子 kurenaiaoko
恋愛
侯爵家長女であるローゼミリアは、侯爵家を継ぐはずだったのに、女ったらしの幼馴染みの公爵から求婚され、急遽結婚することになった。
しかし、持参金不要、式まで1ヶ月。
これは愛人多数?など訳ありの結婚に違いないと悟る。
案の定、初夜すら屋敷に戻らず、
3ヶ月以上も放置されーー。
そんな時に、驚きの手紙が届いた。
ーー公爵は、王太子妃と毎日ベッドを共にしている、と。
ローゼは、王宮に乗り込むのだがそこで驚きの光景を目撃してしまいーー。
*誤字脱字多数あるかと思います。
*初心者につき表現稚拙ですので温かく見守ってくださいませ
*ゆるふわ設定です
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
自殺した妻を幸せにする方法
久留茶
恋愛
平民出身の英雄アトラスと、国一番の高貴な身分の公爵令嬢アリアドネが王命により結婚した。
アリアドネは英雄アトラスのファンであり、この結婚をとても喜んだが、身分差別の強いこの国において、平民出のアトラスは貴族を激しく憎んでおり、結婚式後、妻となったアリアドネに対し、冷たい態度を取り続けていた。
それに対し、傷付き悲しみながらも必死で夫アトラスを支えるアリアドネだったが、ある日、戦にて屋敷を留守にしているアトラスのもとにアリアドネが亡くなったとの報せが届く。
アリアドネの死によって、アトラスは今迄の自分の妻に対する行いを激しく後悔する。
そしてアトラスは亡くなったアリアドネの為にある決意をし、行動を開始するのであった。
*小説家になろうにも掲載しています。
*前半は暗めですが、後半は甘めの展開となっています。
*少し長めの短編となっていますが、最後まで読んで頂けると嬉しいです。
【完結】今夜さよならをします
たろ
恋愛
愛していた。でも愛されることはなかった。
あなたが好きなのは、守るのはリーリエ様。
だったら婚約解消いたしましょう。
シエルに頬を叩かれた時、わたしの恋心は消えた。
よくある婚約解消の話です。
そして新しい恋を見つける話。
なんだけど……あなたには最後しっかりとざまあくらわせてやります!!
★すみません。
長編へと変更させていただきます。
書いているとつい面白くて……長くなってしまいました。
いつも読んでいただきありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる