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第四章 知の都 リヒシュータ領 ダヴェニス

第七十一話 リヒシュータの誇り

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「リリアンヌ、今日も妖精の花冠に行っていたの?」

 夕食の席。
 長いテーブルの端から、ハップルニヒ侯爵夫人がため息がちにそう仰いました。
 上座の侯爵も同じように眉をひそめられています。
 私の正面のリリアンヌさまとターシャさまは、顔を上げずに「はい」と仰いました。

 それ以降会話が途切れ、食堂内に重苦しい沈黙が落ちます。
 見るに見かねて、私はおずおずと口を開きました。

「このさつまいものソテー、とても美味しいですわ」

 はっとされた侯爵さまが後に続いてくださいます。

「お口に合って何よりです。ベルツ夫人も本日はお出かけでしたか?」
「はい、サンテジュピュリナ大学にお邪魔いたしました」

 途端に、侯爵夫妻の表情が明るくなりました。

「大学にですか。いかがでした?」
「驚きましたわ。私学校に参るのは初めてでしたから、余計に」
「あの大学は他と比べても特殊ですからな」

 ご夫妻はにこにこと、領内の大学の変遷や、卒業生のことまで教えてくださいます。

「リヒシュータの大学は皆それぞれ誇り高い歴史を持っていますのよ」
「それだけでなく、多くの卒業生は、議員や医師や博士になり、国を支えています。王宮に仕官する者も少なくありません。勿論、領地に帰り故郷を治める者もいますが」

 現在のリヒシュータの姿になるまで、並々ならぬ努力があったのでしょう。なんといっても、ここは戦に戦を重ねた軍事大国。兵法以外の学問は、時に弾圧の対象になっていたはずです。
 その中で「学び」を守り続けるなんて、並大抵のことではありません。
 ハップルニヒ侯爵家は強い使命感と志を持って歩んでこられたのでしょう。
 お二人の瞳にはこれまでの苦労と達成感、そして誇りがはっきりと光っていました。
 私は最大限の敬意が伝わるよう微笑みました。

「『知のリヒシュータ』にふさわしいご功績ですわ」

 そのとき、ごく小さな、絞り出すような声が、食堂に響きました。

「……何が『知のリヒシュータ』よ」

 突然のことに茫然とされるお二人を、リリアンヌさまはキッと睨みつけられます。

「学ぶ権利を与えられる者なんて、ほんの一握りのお金持ちだけじゃない!」
「こら、お客さまの前で何を言い出すんだ」

 声を荒げられる侯爵さまに、不安げな侯爵夫人さま、ハラハラと視線を彷徨わせるターシャさま。
 私もお二人を交互に見つめることしかできませんでした。

「お父さまの誇りなんてただの自己満足よ! こんな形ばかりの教育で本当に民が幸せになると思っているの!?」
「お前はまだ子どもだから、現実というものがわかっていないんだ!」

 穏やかな侯爵さまの激情に、食堂は水を打ったように静まり返りました。
 皆が驚いたようにお二人を凝視します。
 リリアンヌさまも、しばらくの間呆然とされていましたが、突然、ガタンッと立ち上がられました。

「リリアンヌ!」

 侯爵夫人さまのささやくような叫びを無視し、リリアンヌさまは廊下へ飛び出されます。
 散った涙のかけらがテーブルに落ち、ターシャさまが間髪入れずに後を追われました。
 私も立ち上がりかけたのですが、ふと残されたご夫妻が気にかかりました。
 案の定、お二人は青ざめたお顔で扉の向こうを凝視されています。
 私は微かに浮いた腰を再び椅子に戻しました。

「……お二人も、リリアンヌさまも、きっとどちらも誤ってはいませんわ」

 お二人は驚いたように目を見開かれると、力なく首を振られました。

「……いいえ、わかっているのです。『リヒシュータの知』は所詮侯爵家の自己満足でしかないのだと」

 侯爵さまは窓へ目を向け、遠い過去を想うように目を細められました。

「しかし、全ての民に教育を行き渡らせるなど土台無理な話です。この国にはまだその基盤がありません」

 基盤――それは、教師や施設、財源といった物理的なものから、制度や規則、法に至るまで。
 確かにフレイローズには教育に関する基盤は皆無です。

「仮に実現可能になったとしましょう。しかし、それを民は喜ぶでしょうか。必要な働き手を取られ、家業が成り立つでしょうか。……あの子の理想は、机上の空論でしかありません」

 市井の子どもは貴重な労働力。それはこの国のどこを取っても同じようなものです。
 教育と労働。
 その狭間で、侯爵さまは思い悩まれているようでした。

「……きっと、何とかなります。いえ、何とかいたしますわ」

 自分でも気づかないうちに、私はそう囁いていました。
 ぽかんとされるお二人に私はもう一度言葉を重ねます。

「人間は、実現可能なことしか想像できないのですよ」

 誰もが望む知識を得られ、生まれに関係なく、将来の夢を語れる世界。
 武力ではなく、知恵をもって話し合い、和解できる、そんな世界。
 途方もない空想かもしれません。
 しかしそんな未来ならきっと――無為に剣を取って戦う必要などなくなるのです。

(……きっと、彼だって)

 瞼の奥に、勇ましくも優しい陸軍大将とその部下の方々が鮮明に蘇りました。

「……侯爵さま、侯爵夫人さま、どうか、信じてください。私たちの目指したい未来は、机上の空論などではないのです」

 怯えることなく、奪うことも、奪われることもなく、穏やかな明日を迎えることができる。きっと――

「――きっと、この道の果てには、そんな未来が待っていますわ」

 今にして思えば、この旅の始まりは、ただ引きずられていただけでした。
 お姉さまや彼の目指す漠然とした平和な世界を見てみたい。
 そんなあやふやな動機で私は歩き始めたのです。

 しかし今、私は自分だけの意思でここにいました。
 誰の背を追うでもなく、誰の代わりでもなく、私には私の目指す先ができたのです。
 脳裏に浮かぶ鮮やかな未来。
 そこにたどり着くためなら、私は何だってできる気がしました。

「……どんな夜会でも俯かれていたルコット殿下が、そんな目をされるようになったんですね」

 沈黙されていた侯爵さまが、おもむろに口を開かれました。この侯爵家の歴史を感じさせる重々しくも温かな声でした。

「わかりました――やりましょう。そんな途方もない計画を実現できるのは、このリヒシュータをおいて他にはありませんから」

 侯爵さまの澄んだダークブラウンの瞳に、明るい光が差しました。
 侯爵夫人さまもまた、強く顔を上げ、微笑まれます。

「ええ、知の聖地リヒシュータの誇りにかけて、必ず成し遂げましょう」

 この国の未来を決する計画が、今始まろうとしていました。

(……ホルガーさま)

 祈りのように彼の姿を脳裏に描きます。
 竦みそうになる足を、強く前に踏み出せるように。

(……こんな私を信じ、協力してくださる方が増えました) 

 瞳を閉じ、静かに胸の内で語りかけます。
 永遠に届くことのない言葉で。
 
(どうか、たどり着く未来のどこかで、あなたが笑っていますように)


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