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第三章 新しい日々
第六十一話 レインヴェール伯夫妻の朝
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「あれ、大将は?」
「今日は休みだと」
「大将が休み?」
書類を書く手を止め、「珍しいですね」と呟いた部下に、フリッツは「そうだな」と頷く。
「ご両親が屋敷にいらっしゃるらしい」
「え!? それはまた急ですね」
昨晩のホルガーの取り乱しようを思い出し、食堂にいた者は皆気の毒そうに目を伏せた。
アルシラから帰ったばかりだというのに、息つく間もなく両親を迎える準備とは。
「ルコットさんは大丈夫でしょうか」
「無理して気を張ってないといいけどな」
アサトは、ぼんやりとため息をつき、頬にガーゼを貼ったルコットの姿を思い出していた。
* * *
「奥さま、奥さま、起きてください」
ばあやに揺り起こされ、ルコットは眩しげに目を細めた。
窓から明るい朝日が燦々と差し込んでいる。
清々しい秋晴れだった。
思わずうつ伏せに寝転がり、「もう少し寝かせて」と呟くと、ヘレンの「だめよ、ルコット起きて」という声が聞こえてくる。
そのとき、その場にいるはずのない人物の低い声が耳に飛び込んできた。
「殿下、おはようございます」
はっと息を飲むと、弾かれたように身を起こす。
そこには案の定、困ったように縮こまるホルガーが立っていた。
「ホ、ホルガーさま!?」
思わずベッドから跳ね降りようとしたところで、夜間着であることに気がつく。
急いで毛布をかぶり直し、「どうしてここにホルガーさまがいらっしゃるのですか……」と涙声で訴えた。
ホルガーは、「んんっ!」と妙な唸り声を上げると、「平常心……平常心……」と小さく呟く。
それからヘレンの胡乱な視線を無視し、できるだけ爽やかそうな笑顔を浮かべた。
「申し訳ありません、殿下。急ぎお伝えしたいことがございまして」
「旦那さまは早くからずっと、奥さまが起き出されるのを待ってらっしゃったんですよ?」
ばあやの言葉に、ルコットは「そんな!」と声を上げた。
「今日は早く起きてホルガーさまと一緒に朝食を食べたかったのに……」
「んんっ!」
「ホルガーさん、ルコットは今若干寝ぼけてるから、とんでもないこと口走るわよ」
ヘレンの忠告に、ホルガーは「心得た」と頷いた。
さながら敵地へ赴く一番槍の如き表情だった。
「殿下、実は今日仕事が休みになったのです」
「まぁ、でしたら朝食はまだなのですね」
ふわりと微笑み、「良かったです」と幸せそうに頬を染めたルコットに、ホルガーは片手で顔を覆った。
「……はい、ですがゆっくりはできないのです。両親が今日この屋敷にやって来るそうで」
「ご両親? ホルガーさまのですか?」
「……本当に申し訳ありません。この大変なときに」
心底申し訳なさそうなホルガーに、ルコットは瞳をぱちくりと瞬いた。
「いいえ、謝らないでください。私嬉しいです。やっとホルガーさまのご両親にお会いできるのですね」
今度はホルガーが、目をぱちぱちと瞬く。
「会われたかったのですか?」
「まぁ、勿論ですわ。大切な方のご両親ですもの」
ホルガーは言葉を失くしてルコットを見つめた。
今のは、どういう意味なのだろう。
問い詰めようにも、ルコットはいまだに眠気でぽわぽわとしている。
「いつ頃いらっしゃるのですか?」
「それが、昼頃に伺うと」
その瞬間、ルコットの目がさっと見開かれた。
「お昼……!」
「はい、あと数時間ほどで」
ルコットは夜間着姿であることも忘れ、ベッドから飛び降り、ホルガーに迫った。
「どうしましょうホルガーさま! 初めてご両親にお会いするのに私何の準備もしていませんわ……!」
白いガーゼのふんわりした夜間着をまともに視界に入れてしまったホルガーは、目を白黒させて後ずさる。
「あ、あの、殿下、」
しかしルコットは、起き抜けの混乱のあまり、そんな彼の様子に気づかない。
さらに距離を詰め、「どうしましょう……!」と顔を見上げる。
「あああの、殿下、ち、ち近、」
壊れたからくり人形のように両手を上げ、ガクガクと体を震わせるホルガー。
頭がショートしかけている彼を気の毒に思ったのか、助けに入ったのはエドワードだった。
「旦那さま、いつまでそうしているおつもりですか。奥さまも、早く着替えて朝食に降りてきてください。ヘレン嬢、奥さまを手伝って差し上げなさい」
「は、はい!」
茫然と成り行きを見守っていたヘレンは、我に帰ると二人の間に入った。
* * *
「すまないエドワード、助かった」
先に朝食の席に座り、ぐったりとうなだれたホルガーの前に、エドワードは無表情でコーヒーを置いた。
「いいえ、仕事ですから。それに、奥さま相手に、子犬のように怯えられる旦那さまのご様子は、大変愉快でしたし」
「泣きそうだ」
いじめすぎたかと、ホルガーの好きなクロスワードパズルをカップの隣にそっと置いた。
「これが好きな話なんてしたか?」
訝しげにペンを持ったホルガーに、エドワードは「いいえ」と首を振る。
「しかし旦那さまのお好きなものは大抵存じ上げております」
「優秀すぎて怖いんだが」
「恐縮です」と頭を下げる男に、「褒めてないぞ」と釘を刺した。
「お前、言葉尻は丁寧だが、随所に毒がありすぎないか」
「慣れてください」
「そこは一応否定くらいはしてほしかった」
ホルガーは深くため息をつくと、最初の問題文に目を落とす。
「それにしても、意外なご趣味ですね」
「まぁ、じじくさいとは言われるが」
冥府の悪魔がすらすらと答えを埋めていく様は、なかなか見ごたえがあった。
最後の問い。
――レインヴェール伯の最も大切なものは?
現在埋まっているのは「ル」と「コ」と「ッ」の三文字である。もはや考えるまでもない。
「エドワード、まさかとは思うが、このパズルを作ったのはお前か?」
「おや、気づかれましたか」
顔を赤くし、キッと食えない執事を睨むも、彼はどこか楽しげに笑うばかりだ。
「『ト』を書けば完成ですね」
「……勘弁してくれ」
「あら、ホルガーさま、パズルをされているんですか?」
朗らかな声に、ホルガーの心臓がどきんと跳ねる。
食堂の入り口に現れたルコットは、白いモスリンのゆったりとしたワンピースに着替えていた。
薄緑色のつる唐草と小花の刺繍、縁の控えめなレースが、彼女の雰囲気によく合っている。
ドレープを描く袖と裾が、どこか優美だった。
淡い茶色の豊かな髪は、三つ編みでふんわりとまとめられ、白い花の髪飾りが差されていた。
「アフタヌーンドレスにしようと思ったのですが、ばあやが『病み上がりにドレスは負担が重い』と」
ぽーっとしながら、ホルガーはルコットの姿を眺める。
どこかの絵画から抜け出てきたかのようだ。
「ご義両親にお会いするときくらいは着飾ろうと思っていたのですけれど……」
「いえ、殿下、本当に、お美しいです」
たどたどしく賛辞を述べるホルガーに、ルコットの頬が染まった。
「そんなふうに言ってくださるのはお優しいホルガーさまだけですわ」
赤い顔のまま眉を下げて笑うルコット。
その表情を見ながら、ホルガーは「一体自分たちはどこをどうすれ違っているのだろう」と訝しんだ。
「パズル、見ても良いですか?」
「い、いえ、これは……!」
途端に慌てふためくホルガーに、エドワードがくすりと笑いをこぼし、さりげなく間に入る。
「さぁ奥さま、早く朝食を食べないと、お客さまが到着してしまいますよ。お腹も空かれたはずです」
ルコットは、「あ! そうでした」と頷き、おとなしく席に着いた。
朝食用の小食堂には、明るい陽の光が差し込み、庭からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
大きすぎないテーブルの向かいに座ったホルガーは、朝日の中でとても優しく笑っていた。
「本日の朝食は、じゃがいものバターオムレツに、フレンチトースト、トマトスープです。食後にデザートもございます」
こんがりふわっと焼かれたオムレツ。
じゅわりとしみたフレンチトースト。
みずみずしく光るトマトスープ。
いずれもエドワードとヘレンとばあやが腕によりをかけたものだった。
「殿下、いただきましょう」
「はい」
初めてこの屋敷で過ごす朝。
窓から見える紅い落ち葉と、湯気を立てる料理、ゆっくりと流れる時間。
二人は遅い朝食を共にしながら、静かに微笑み合った。
「今日は休みだと」
「大将が休み?」
書類を書く手を止め、「珍しいですね」と呟いた部下に、フリッツは「そうだな」と頷く。
「ご両親が屋敷にいらっしゃるらしい」
「え!? それはまた急ですね」
昨晩のホルガーの取り乱しようを思い出し、食堂にいた者は皆気の毒そうに目を伏せた。
アルシラから帰ったばかりだというのに、息つく間もなく両親を迎える準備とは。
「ルコットさんは大丈夫でしょうか」
「無理して気を張ってないといいけどな」
アサトは、ぼんやりとため息をつき、頬にガーゼを貼ったルコットの姿を思い出していた。
* * *
「奥さま、奥さま、起きてください」
ばあやに揺り起こされ、ルコットは眩しげに目を細めた。
窓から明るい朝日が燦々と差し込んでいる。
清々しい秋晴れだった。
思わずうつ伏せに寝転がり、「もう少し寝かせて」と呟くと、ヘレンの「だめよ、ルコット起きて」という声が聞こえてくる。
そのとき、その場にいるはずのない人物の低い声が耳に飛び込んできた。
「殿下、おはようございます」
はっと息を飲むと、弾かれたように身を起こす。
そこには案の定、困ったように縮こまるホルガーが立っていた。
「ホ、ホルガーさま!?」
思わずベッドから跳ね降りようとしたところで、夜間着であることに気がつく。
急いで毛布をかぶり直し、「どうしてここにホルガーさまがいらっしゃるのですか……」と涙声で訴えた。
ホルガーは、「んんっ!」と妙な唸り声を上げると、「平常心……平常心……」と小さく呟く。
それからヘレンの胡乱な視線を無視し、できるだけ爽やかそうな笑顔を浮かべた。
「申し訳ありません、殿下。急ぎお伝えしたいことがございまして」
「旦那さまは早くからずっと、奥さまが起き出されるのを待ってらっしゃったんですよ?」
ばあやの言葉に、ルコットは「そんな!」と声を上げた。
「今日は早く起きてホルガーさまと一緒に朝食を食べたかったのに……」
「んんっ!」
「ホルガーさん、ルコットは今若干寝ぼけてるから、とんでもないこと口走るわよ」
ヘレンの忠告に、ホルガーは「心得た」と頷いた。
さながら敵地へ赴く一番槍の如き表情だった。
「殿下、実は今日仕事が休みになったのです」
「まぁ、でしたら朝食はまだなのですね」
ふわりと微笑み、「良かったです」と幸せそうに頬を染めたルコットに、ホルガーは片手で顔を覆った。
「……はい、ですがゆっくりはできないのです。両親が今日この屋敷にやって来るそうで」
「ご両親? ホルガーさまのですか?」
「……本当に申し訳ありません。この大変なときに」
心底申し訳なさそうなホルガーに、ルコットは瞳をぱちくりと瞬いた。
「いいえ、謝らないでください。私嬉しいです。やっとホルガーさまのご両親にお会いできるのですね」
今度はホルガーが、目をぱちぱちと瞬く。
「会われたかったのですか?」
「まぁ、勿論ですわ。大切な方のご両親ですもの」
ホルガーは言葉を失くしてルコットを見つめた。
今のは、どういう意味なのだろう。
問い詰めようにも、ルコットはいまだに眠気でぽわぽわとしている。
「いつ頃いらっしゃるのですか?」
「それが、昼頃に伺うと」
その瞬間、ルコットの目がさっと見開かれた。
「お昼……!」
「はい、あと数時間ほどで」
ルコットは夜間着姿であることも忘れ、ベッドから飛び降り、ホルガーに迫った。
「どうしましょうホルガーさま! 初めてご両親にお会いするのに私何の準備もしていませんわ……!」
白いガーゼのふんわりした夜間着をまともに視界に入れてしまったホルガーは、目を白黒させて後ずさる。
「あ、あの、殿下、」
しかしルコットは、起き抜けの混乱のあまり、そんな彼の様子に気づかない。
さらに距離を詰め、「どうしましょう……!」と顔を見上げる。
「あああの、殿下、ち、ち近、」
壊れたからくり人形のように両手を上げ、ガクガクと体を震わせるホルガー。
頭がショートしかけている彼を気の毒に思ったのか、助けに入ったのはエドワードだった。
「旦那さま、いつまでそうしているおつもりですか。奥さまも、早く着替えて朝食に降りてきてください。ヘレン嬢、奥さまを手伝って差し上げなさい」
「は、はい!」
茫然と成り行きを見守っていたヘレンは、我に帰ると二人の間に入った。
* * *
「すまないエドワード、助かった」
先に朝食の席に座り、ぐったりとうなだれたホルガーの前に、エドワードは無表情でコーヒーを置いた。
「いいえ、仕事ですから。それに、奥さま相手に、子犬のように怯えられる旦那さまのご様子は、大変愉快でしたし」
「泣きそうだ」
いじめすぎたかと、ホルガーの好きなクロスワードパズルをカップの隣にそっと置いた。
「これが好きな話なんてしたか?」
訝しげにペンを持ったホルガーに、エドワードは「いいえ」と首を振る。
「しかし旦那さまのお好きなものは大抵存じ上げております」
「優秀すぎて怖いんだが」
「恐縮です」と頭を下げる男に、「褒めてないぞ」と釘を刺した。
「お前、言葉尻は丁寧だが、随所に毒がありすぎないか」
「慣れてください」
「そこは一応否定くらいはしてほしかった」
ホルガーは深くため息をつくと、最初の問題文に目を落とす。
「それにしても、意外なご趣味ですね」
「まぁ、じじくさいとは言われるが」
冥府の悪魔がすらすらと答えを埋めていく様は、なかなか見ごたえがあった。
最後の問い。
――レインヴェール伯の最も大切なものは?
現在埋まっているのは「ル」と「コ」と「ッ」の三文字である。もはや考えるまでもない。
「エドワード、まさかとは思うが、このパズルを作ったのはお前か?」
「おや、気づかれましたか」
顔を赤くし、キッと食えない執事を睨むも、彼はどこか楽しげに笑うばかりだ。
「『ト』を書けば完成ですね」
「……勘弁してくれ」
「あら、ホルガーさま、パズルをされているんですか?」
朗らかな声に、ホルガーの心臓がどきんと跳ねる。
食堂の入り口に現れたルコットは、白いモスリンのゆったりとしたワンピースに着替えていた。
薄緑色のつる唐草と小花の刺繍、縁の控えめなレースが、彼女の雰囲気によく合っている。
ドレープを描く袖と裾が、どこか優美だった。
淡い茶色の豊かな髪は、三つ編みでふんわりとまとめられ、白い花の髪飾りが差されていた。
「アフタヌーンドレスにしようと思ったのですが、ばあやが『病み上がりにドレスは負担が重い』と」
ぽーっとしながら、ホルガーはルコットの姿を眺める。
どこかの絵画から抜け出てきたかのようだ。
「ご義両親にお会いするときくらいは着飾ろうと思っていたのですけれど……」
「いえ、殿下、本当に、お美しいです」
たどたどしく賛辞を述べるホルガーに、ルコットの頬が染まった。
「そんなふうに言ってくださるのはお優しいホルガーさまだけですわ」
赤い顔のまま眉を下げて笑うルコット。
その表情を見ながら、ホルガーは「一体自分たちはどこをどうすれ違っているのだろう」と訝しんだ。
「パズル、見ても良いですか?」
「い、いえ、これは……!」
途端に慌てふためくホルガーに、エドワードがくすりと笑いをこぼし、さりげなく間に入る。
「さぁ奥さま、早く朝食を食べないと、お客さまが到着してしまいますよ。お腹も空かれたはずです」
ルコットは、「あ! そうでした」と頷き、おとなしく席に着いた。
朝食用の小食堂には、明るい陽の光が差し込み、庭からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
大きすぎないテーブルの向かいに座ったホルガーは、朝日の中でとても優しく笑っていた。
「本日の朝食は、じゃがいものバターオムレツに、フレンチトースト、トマトスープです。食後にデザートもございます」
こんがりふわっと焼かれたオムレツ。
じゅわりとしみたフレンチトースト。
みずみずしく光るトマトスープ。
いずれもエドワードとヘレンとばあやが腕によりをかけたものだった。
「殿下、いただきましょう」
「はい」
初めてこの屋敷で過ごす朝。
窓から見える紅い落ち葉と、湯気を立てる料理、ゆっくりと流れる時間。
二人は遅い朝食を共にしながら、静かに微笑み合った。
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