月と闇夜の渡り方

江馬 百合子

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神出鬼没

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 しとしと、と雨音が響いている。

 私は、そんな心地よい音を聞きながら、そっと目を覚ました。

 初めは少し違和感を感じたこの屋敷にも、今ではすっかり慣れてしまって、ここ数日は、庭を歩き回ったり、屋敷を探検したり、晴明様と絵合わせをしたりと、恙無き毎日を過ごしている。

『今日は何をして過ごそうか…』

 そんな呑気なことを考えながら、私は温かな布団の中で外の雨音に耳を澄ませた。

 響いている、とは言えども、それはそれは微細な音だ。

 粉の様な雨粒が、地上にさらさらと降り積もっているかの様な、そんな柔らかな天気であった。

 しかし、昨夜からずっとこの調子である。

 いくら霧の様な雨であっても、こう降り続いてしまうと、何かと心配だ。

 土砂崩れが起こってしまったり、川が増水してしまったり…

 仮にそのようなことが起こらなくても、庭の土はすっかりぬかるんでしまっていて、外で遊ぶことすらままならない。

『今日は屋内でできることを探さないと…』

 そう考えた私は、名残惜しくも布団を後にした。
 布団がなくなってしまうと、やはり夜間着では少し肌寒い。
 私は小走りで部屋の隅の櫃の元へ駆け寄った。

 まず、夜間着を豪快に脱ぎ捨て、それから、傍らにかけてある単に袖を通し、緋袴を穿いた。

『あとは、袿衣を重ねて…』

 毎朝のことながら、流石に面倒であった。

 天崎の家では、割と簡易な服装でも許されていたのだが、ここではそうはいかないらしい。
 晴明様の御身分を鑑みれば仕様のないことなのかもしれない。
 それに、これは晴明様のご厚意なのだ。
 殆ど身一つでここまで辿り着いた私に、「衣類なども全て揃えてある」と言ってくださり、私は見事にそのお言葉に甘えている。

 しかし、如何せん、日々のこととなると、この手順の多さに気が滅入る。
 勿論、このような豪華な衣に袖を通せるのは、素直に嬉しいと思える部分もあるのだけれど。

 そこでふと、思い至った。

 この着物は、私のために「あの」晴明様がご用意してくださったものなのだろうか、と。

 …まぁ、その線はないだろう。

 大方、紅葉さんあたりに揃えさせたに違いない。
 妙に得心のいった私は、うんうんとうなづき、我ながら鋭い考察だと感心していた。
 恩知らずも甚だしい考察である。
 それ故、背後に迫る気配に、気づくことが出来なかったのだ。

「千代様、晴明様がお呼びでございます」

「………え!?」

 完全に頭が混乱してしまっていた。

「すみませんでした!晴明様には仰らないでください!」

 もしくは寝ぼけていたのかもしれない。
 不思議そうにこちらを見つめる紅葉さんに、私は精一杯の誠意を以て頭を下げた。

「…はい…千代様がそう仰るのでしたら…」

 上品に苦笑をこぼしながら、紅葉さんは、よくわからないなりに納得してくださったようだ。
 しかし、少々きまりが悪い。
 おかしな娘だと思われていないだろうか。

「あの…失礼いたしました…急に大きな声を出してしまって…」

 しかしそんな私の憂慮とは対象的に、

「…ふふ、いえいえ…」

 彼女は何だか楽しそうだ。

 上品に口元を押さえてはいるものの、普段の彼女の印象とは、大分かけ離れていた。

「…あの…?」

 そんな彼女の様子に戸惑ってしまった私は、おずおずと、そう声をかけてみた。
 また、これを機に、少し話がしてみたいと思ったのも事実である。
 しかし、彼女は、はっと我に返ったかのように目を見開き、

「…失礼致しました。それでは、お召し替えが済みましたら『露草の間』まで至急おいで下さいませ」

 そう言い残して、音もなく障子の向こうへと消えてしまった。

 彼女の行動に音が伴わないのは常なる事であるので、大して気にはならなかったのだが、本日の彼女の振る舞いには少し違和感を感じた気がした。

 しかし、それ以上に、晴明様がお呼びになっているということの方が私にとっては一大事であった。

『露草の間というと…確かいつも絵合わせを行っている…ということは、それ程急ぐ必要もなさそうだけれど…』

 そうは思えど、やはり師に呼ばれた弟子は、早急に行動すべきであろう。

 私は、会話の間中ずっと手に握っていた袿衣を急いで重ね、忙しなく廊下へと飛び出したのだった。

 幾分早足で歩いているため、廊下も常より軋んではいるが、この屋敷には晴明様と紅葉さんと私の他には誰もいない。

 故に、そのような瑣末事を気にする必要は全くないのだ。

 軽快に廊下を歩き進んだ私は、『露草の間』の障子を、先程の歩き方とは比べものにならない程丁重に開き「晴明様、千代です。紅葉さんに呼ばれて来たのですが…」と声をかけてみた。

 しかし、案の定返事はない。
 これもまた、常なることである。
 よって、私はいつものように、了承を得ぬまま勝手に入室させていただいた。

 この『露草の間』は、私が初めてこの屋敷に足を踏み入れた日に、晴明様から何かと説明をいただいた部屋である。
 また、前述したように、この部屋では普段、私と晴明様が、絵合わせをしたり、取り留めのない雑談を交わしたり、囲碁を行ったりしている。

 つまりは多目的な空間である。

 障子を開け放てば、細い廊下越しに広い庭や美しい空を眺めることができるので、月見酒と洒落込む際にも重宝している。

 本日も晴明様は、まだ早朝であるというのに、庭を眺めながら、悠々とお酒を召しておられた。

「お酒がお好きなのですね」

 私は、そんな晴明様の斜め後ろに、そう言って座した。

「随分早かったな」

 晴明様も、特に驚いた様子は見せない。
 ゆったりとこちらを振り返る程度だ。

「何故いつも返事をしてくださらないのですか」

 私が少し嫌味を言えば、

「次からは気をつけよう」

と、どこ吹く風。

 ちなみにこの会話は既に十回は繰り返されているのだが、その「次」がやって来ることは、ついぞなかった。
 私は少し溜息をつくと、傍に用意されていた朝餉を引き寄せた。
 よく見ると、晴明様の朝餉も、まだ仄かな湯気を上げている。

「あの…まさか待っていてくださったのですか?」

 このような呼び出しがなかった場合、朝餉は大抵紅葉さんが部屋に運んできてくださるので、晴明様と食事を共にすることは滅多にない。
 たまに夕餉をご一緒させていただくこともあるが、それは晩酌ついでのものだ。

「…まさかとは何だ」

 晴明様に指摘され、私は自らの失敬さを覚ったが、どう考えても普段の晴明様の行いに問題があろう。

 それでも一応、

「…申し訳ございません」

 不本意ながら、謝っておいた。

「かように不本意そうに謝罪をされてもな」

 読まれてはいたが。

 私が箸を握ると同時に、晴明様も盃を置いて、箸をお取りになった。

 どうやら本当に私を待ってくださっていたようだ。

『珍しいこともあるものだな…』

 私は勘付かれないように注意しながら、ちらりと晴明様の方を盗み見た。
 しかし、それは結果として失敗であった。
 何故かそのとき、ちょうど晴明様も私の方を眺めておられたようなのだ。

 すぐに視線を庭へと逃がし、何食わぬ顔で平静を装ったが、何だか頬が熱い気がする。

 特に悪いことをしていたわけでもないのに、非常に、気まずい。

 何なのだろうともどかしく思いながら、無言のうちに淡々と箸を動かした。

 恐らく晴明様は私の挙動不審とも言える態度を、さぞかし不思議に思っていらっしゃることだろう。

『晴明様のお心が乱れるものなんて、この世には存在しなさそうだし…』

 そのようなことを考えながら、落ち着こうとしていると、

眼前に、一人の男が座していた。

 ちょうど、私と晴明様の間の『コの字型』になるような位置である。

 折角落ち着いてきていた私の心が、再び乱されてしまったのは言うまでもない。

 驚きのあまり声が出ないという言葉は、つまりは、このようなときのためにあるのだ。

 私はじっとその男を凝視してしまっていた。

 真っ黒な衣はずたずたに破れていて、御髪も茫々だ。
 肌の色も、浅黒い。
 年の頃は…どのくらいなのだろう。
 顔貌は整っているのであろうが、その風変わりな風貌が全てを水泡に帰させているため、年齢をはかることすらままならなかった。

「お前の心が乱れることがあろうとは、全く世の中何が起こるかわからぬな、晴明」

 いつの間にやら、男はそう切り出し、にやにやと晴明様の方へ笑いを投げかけていた。

「…馬鹿を言え」

 晴明様も全く驚いた様子を見せない。

 先程までと同じように箸を動かし続けている。

 取り敢えず、敵では無いようなので、私も晴明様に倣い、朝餉を口へと運ぶことにした。

 男は、何食わぬ顔で腕を組みながら、にやにやと笑っている。

 こう見ると、正に晴明様とは対照的な男である。

「この女子が、例の『弟子』か?」

『例の…?』

 若干気にかかる単語が含まれてはいたが、晴明様に向けて放たれた問いであったので、黙って様子を窺うことにした。

「…お前には関わりの無いことであろう、道満」

 …珍しく、晴明様のお言葉に、棘が出たような気がした。

 気のせいか、そうでないか、わからない程度の棘ではあったが。

 それにしても、道満…とは…よもやかの「蘆屋道満」にこのような場で会うことになろうとは。

 二人の天才陰陽師を前にして、私はここが夢か現か分からぬ程に、困惑してしまっていた。

「まぁ、そう怒るな、晴明。
 今はまだ何もせぬ。
 …今は、な」

 そのような不吉なことを呟く道摩法師に、晴明様は、何の反応も示されない。

 しかし、彼が、

「今日はお前を呼んで来いという命を受けてやってきたのだ」

と言うと、晴明様はこれまた珍しく眉をひそめた。

「お前が『命を受けて』だと?
 一体何者の命だ?」

 その反応が可笑しかったのか、道摩法師は更に笑いを強めながら、

「天子様だ」

あっさりと、こう言った。

「え、えぇぇ!?」

 驚いたのは私の方で、既に空になった器をひっくり返してしまった。

 そんな私を一瞥し、尚も訝しげな晴明様は、

「例え天子の命であろうとも、お前が大人しくその命に従うとは思えぬ。
 …何が狙いだ…?」

 どことなく威圧的にこう言った。

「俺にも都合というものがあるのだ、晴明。
 しかし、天子様の命とあらばお前も無下には断れまい」

「…今からか」

「あぁ」

 道摩法師はそれだけ言うと、すっと立ち上がった。

「行くぞ。
 …そこの愛らしい『弟子』も共にな」

 その瞬間、

「…それ以上のご無礼は、容赦いたしませぬ」

 細く、鋭い針金のようなものが、道摩法師の喉元に突きつけられていた。

 その針金の主は、

「よい、紅葉。
 何事も無い。
 退がれ」

 紅葉さんであった。

 晴明様のお言葉を受け、彼女は喉元の針金を引き、すっと退がった。

「…では、行くか」

 道摩法師は何事もなかったかのように、悠々と退出していった。
 その後を晴明様もゆったりとついて行く。

 私もすぐに後を追おうとしたのだが、

「…千代様…」

そう、紅葉さんに呼び止められてしまった。

「はい、あの、何でしょうか…?」

 一体何を仰るのだろうと、少し身構えていると、

「どうか、あの男には、お気をつけください」

そう、何かを手渡された。

 手を開いて見てみると、それは、真っ赤な数珠であった。
 ちょうど、私の手首にはまりそうな大きさである。

「千代様…どうか、晴明様を…」

 そう言って不安げに頭を下げる紅葉さんは、先程とは打って変わって非常に儚げで、何とはなしに耐えられなかった。

 私は、手首にその数珠をはめると、紅葉さんの手をぎゅっと握った。

「大丈夫です!任せてください!」

 そうして、にっこり笑った。

 すると、紅葉さんもまた、穏やかに微笑んだ。

「いってらっしゃいませ、千代様。
 お待ち申しております」

「はい、行って参ります!」

 そうして私は二人の後を追うべく、急いでその場を後にしたのだった。


 
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