三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

文字の大きさ
上 下
374 / 391
短編・中編や他の人物を中心にした物語

医聖 張仲景38

しおりを挟む
 張懌チョウエキの心はぐちゃぐちゃだった。

 自分が遺伝性の病であることを告げられたのが一昨日のことだ。それから朝夕欠かさず張機の予防薬を飲んでいる。

 くそ不味い薬だったが、それさえ飲んでいれば発症をある程度予防できるということなので文句はない。言われた通り飲んだ。

 しかし、予防薬の効果は絶対ではないと言われている。

 それだけでも頭にずっと暗雲がかかったような気分なのに、いよいよ父が死にそうになっている。

「カハッ」

 という小さな咳とともに、赤い飛沫が口から飛び出した。

 血が止まらない。

 喀血しているし、鼻血も流れている。皮下出血で皮膚もあちこち紫色だ。

 医師である張機の話では、血を固める力が失われているのだという。そしてそれを治す方法は無い。

(治らないのであれば、診断がついても意味がないではないか!)

 患者やその親族は苛立ちとともにそう思う。張懌もそうだった。

 ただし、その苛立ちを医師にぶつけても意味がないことは分かっている。治療法がない病が存在することは、仕方のないことだと分かってはいるのだ。

 だから強烈な不満を抱えながらも、黙って父の手を握った。

「懌……」

 手を握られたことが分かったようで、張羨が薄っすら目を開けて名を呼んだ。

 張懌はすぐに顔を父の目の前に持っていき、その視界に入った。

「父上、父上、私はここにおります」

 張羨はその顔を見て安心したのか、そっと微笑んだ。

 それを見た張懌の目に涙が浮かんできた。これが父の最後の笑顔かもしれないと思ったからだ。

「お前は俺の……自慢の息子だ……」

 その弱々しい声によって、張懌の涙腺は崩壊した。滝のような涙が溢れてくる。

 父は厳しい人だった。特に息子に対してはそうで、他の生徒はよく褒めていたが張懌だけは滅多に褒められなかった。

(本当に嬉しい)

 張懌はその幸せを噛み締めながら、涙をこぼし続ける。

 幼い日、水練の授業をしている時に他の子が褒められていた。しかしその子よりも張懌の方が速く、長く泳げる。

 父にそう言うと、父からは将にとって重要なのは軍略であって一兵卒の技ではないと言われた。

 だから兵法書を読み込み、私塾で一番の知識を身に着けた。

 それを褒めてもらおうと父と兵法談義をしたら、今度は兵卒の尊敬を集めるには自身が強くなくてはならないと言われた。

 その前に一兵卒の技がどうのと言われていたのに矛盾を感じたが、言われた通り武術を磨いて強くなった。

 すると今度は学問こそが世を治める術であると言い渡された。

 コロコロと変わる父の言に、張懌はもはや疑問は抱かないようになっていた。そこの思考を放棄し、父に認めてもらうために、父の意を汲んで努力した。

 やはり父はあまり褒めてはくれなかったが、たまには褒めてくれる。張懌はそれだけでとても嬉しかった。

 そしてある日、同じことを他の人間にするとものすごく褒めてくれることに気がついた。相手の考えを肯定し、それに沿って動いてやるといたく喜ばれるのだ。

 褒められれば嬉しかった。だから人の意に沿うようになった。

 しかし張懌が本当に、心の底から褒めて欲しかったのは父だ。他から褒められることなど代替の慰みでしかない。

 父を世界で一番尊敬しているから、父に褒められるのは他とはまるで違うのだ。

 だから今はっきりと自慢の息子だと言われ、天地が逆さになるのではないかと思うほどの幸福感に包まれていた。

「父上……私にとっても、あなたは自慢の父です。父上はずっと私の誇りです」

 その言葉に、張羨は血に濡れた顔をいっそう綻ばせた。あざだらけの手で優しく息子の頬を撫でる。

 張懌はその感触をずっと味わっていたかったが、時間というものはいつも有限だ。しかも今は目に見えるほど終焉が近づいている。

「ゴホッ……」

 張羨は急に咳き込み、口から血しぶきを吹いた。

「父上!!」

 血は張懌の頬にかかり、涙と混ざって赤く広がっていく。

 張羨はそれを苦しげに見つめた。

「すまんな……これからお前が歩む道に……血は不要なのに……」

「……?それは、どういう……」

「俺が血染めの道を……無理やり歩かせて……だからもう……お前はお前の道を……そのために……」

 張懌からすれば意味不明なことをつぶやきながら、父は息子に付いてしまった血を擦った。

 先ほど優しく撫でていたのとは違い、必死の目で拭い取ろうとしている。

 しかし自分では拭えないことを悟ると、震える唇で言葉を絞り出した。

「……生きろっ!!」

 小さな叫びとともにまた血を吹き出し、息子を掴んでいた手はパタリと落ちた。

 たった三文字の、最期の望み。

 これが父子で交わした最後の言葉になった。
しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

黄金の檻の高貴な囚人

せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。 ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。 仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。 ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。 ※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129 ※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html ※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉
歴史・時代
 その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。  父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。  稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。  明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。  ◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇

処理中です...