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短編・中編や他の人物を中心にした物語
医聖 張仲景38
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張懌の心はぐちゃぐちゃだった。
自分が遺伝性の病であることを告げられたのが一昨日のことだ。それから朝夕欠かさず張機の予防薬を飲んでいる。
くそ不味い薬だったが、それさえ飲んでいれば発症をある程度予防できるということなので文句はない。言われた通り飲んだ。
しかし、予防薬の効果は絶対ではないと言われている。
それだけでも頭にずっと暗雲がかかったような気分なのに、いよいよ父が死にそうになっている。
「カハッ」
という小さな咳とともに、赤い飛沫が口から飛び出した。
血が止まらない。
喀血しているし、鼻血も流れている。皮下出血で皮膚もあちこち紫色だ。
医師である張機の話では、血を固める力が失われているのだという。そしてそれを治す方法は無い。
(治らないのであれば、診断がついても意味がないではないか!)
患者やその親族は苛立ちとともにそう思う。張懌もそうだった。
ただし、その苛立ちを医師にぶつけても意味がないことは分かっている。治療法がない病が存在することは、仕方のないことだと分かってはいるのだ。
だから強烈な不満を抱えながらも、黙って父の手を握った。
「懌……」
手を握られたことが分かったようで、張羨が薄っすら目を開けて名を呼んだ。
張懌はすぐに顔を父の目の前に持っていき、その視界に入った。
「父上、父上、私はここにおります」
張羨はその顔を見て安心したのか、そっと微笑んだ。
それを見た張懌の目に涙が浮かんできた。これが父の最後の笑顔かもしれないと思ったからだ。
「お前は俺の……自慢の息子だ……」
その弱々しい声によって、張懌の涙腺は崩壊した。滝のような涙が溢れてくる。
父は厳しい人だった。特に息子に対してはそうで、他の生徒はよく褒めていたが張懌だけは滅多に褒められなかった。
(本当に嬉しい)
張懌はその幸せを噛み締めながら、涙をこぼし続ける。
幼い日、水練の授業をしている時に他の子が褒められていた。しかしその子よりも張懌の方が速く、長く泳げる。
父にそう言うと、父からは将にとって重要なのは軍略であって一兵卒の技ではないと言われた。
だから兵法書を読み込み、私塾で一番の知識を身に着けた。
それを褒めてもらおうと父と兵法談義をしたら、今度は兵卒の尊敬を集めるには自身が強くなくてはならないと言われた。
その前に一兵卒の技がどうのと言われていたのに矛盾を感じたが、言われた通り武術を磨いて強くなった。
すると今度は学問こそが世を治める術であると言い渡された。
コロコロと変わる父の言に、張懌はもはや疑問は抱かないようになっていた。そこの思考を放棄し、父に認めてもらうために、父の意を汲んで努力した。
やはり父はあまり褒めてはくれなかったが、たまには褒めてくれる。張懌はそれだけでとても嬉しかった。
そしてある日、同じことを他の人間にするとものすごく褒めてくれることに気がついた。相手の考えを肯定し、それに沿って動いてやるといたく喜ばれるのだ。
褒められれば嬉しかった。だから人の意に沿うようになった。
しかし張懌が本当に、心の底から褒めて欲しかったのは父だ。他から褒められることなど代替の慰みでしかない。
父を世界で一番尊敬しているから、父に褒められるのは他とはまるで違うのだ。
だから今はっきりと自慢の息子だと言われ、天地が逆さになるのではないかと思うほどの幸福感に包まれていた。
「父上……私にとっても、あなたは自慢の父です。父上はずっと私の誇りです」
その言葉に、張羨は血に濡れた顔をいっそう綻ばせた。あざだらけの手で優しく息子の頬を撫でる。
張懌はその感触をずっと味わっていたかったが、時間というものはいつも有限だ。しかも今は目に見えるほど終焉が近づいている。
「ゴホッ……」
張羨は急に咳き込み、口から血しぶきを吹いた。
「父上!!」
血は張懌の頬にかかり、涙と混ざって赤く広がっていく。
張羨はそれを苦しげに見つめた。
「すまんな……これからお前が歩む道に……血は不要なのに……」
「……?それは、どういう……」
「俺が血染めの道を……無理やり歩かせて……だからもう……お前はお前の道を……そのために……」
張懌からすれば意味不明なことをつぶやきながら、父は息子に付いてしまった血を擦った。
先ほど優しく撫でていたのとは違い、必死の目で拭い取ろうとしている。
しかし自分では拭えないことを悟ると、震える唇で言葉を絞り出した。
「……生きろっ!!」
小さな叫びとともにまた血を吹き出し、息子を掴んでいた手はパタリと落ちた。
たった三文字の、最期の望み。
これが父子で交わした最後の言葉になった。
自分が遺伝性の病であることを告げられたのが一昨日のことだ。それから朝夕欠かさず張機の予防薬を飲んでいる。
くそ不味い薬だったが、それさえ飲んでいれば発症をある程度予防できるということなので文句はない。言われた通り飲んだ。
しかし、予防薬の効果は絶対ではないと言われている。
それだけでも頭にずっと暗雲がかかったような気分なのに、いよいよ父が死にそうになっている。
「カハッ」
という小さな咳とともに、赤い飛沫が口から飛び出した。
血が止まらない。
喀血しているし、鼻血も流れている。皮下出血で皮膚もあちこち紫色だ。
医師である張機の話では、血を固める力が失われているのだという。そしてそれを治す方法は無い。
(治らないのであれば、診断がついても意味がないではないか!)
患者やその親族は苛立ちとともにそう思う。張懌もそうだった。
ただし、その苛立ちを医師にぶつけても意味がないことは分かっている。治療法がない病が存在することは、仕方のないことだと分かってはいるのだ。
だから強烈な不満を抱えながらも、黙って父の手を握った。
「懌……」
手を握られたことが分かったようで、張羨が薄っすら目を開けて名を呼んだ。
張懌はすぐに顔を父の目の前に持っていき、その視界に入った。
「父上、父上、私はここにおります」
張羨はその顔を見て安心したのか、そっと微笑んだ。
それを見た張懌の目に涙が浮かんできた。これが父の最後の笑顔かもしれないと思ったからだ。
「お前は俺の……自慢の息子だ……」
その弱々しい声によって、張懌の涙腺は崩壊した。滝のような涙が溢れてくる。
父は厳しい人だった。特に息子に対してはそうで、他の生徒はよく褒めていたが張懌だけは滅多に褒められなかった。
(本当に嬉しい)
張懌はその幸せを噛み締めながら、涙をこぼし続ける。
幼い日、水練の授業をしている時に他の子が褒められていた。しかしその子よりも張懌の方が速く、長く泳げる。
父にそう言うと、父からは将にとって重要なのは軍略であって一兵卒の技ではないと言われた。
だから兵法書を読み込み、私塾で一番の知識を身に着けた。
それを褒めてもらおうと父と兵法談義をしたら、今度は兵卒の尊敬を集めるには自身が強くなくてはならないと言われた。
その前に一兵卒の技がどうのと言われていたのに矛盾を感じたが、言われた通り武術を磨いて強くなった。
すると今度は学問こそが世を治める術であると言い渡された。
コロコロと変わる父の言に、張懌はもはや疑問は抱かないようになっていた。そこの思考を放棄し、父に認めてもらうために、父の意を汲んで努力した。
やはり父はあまり褒めてはくれなかったが、たまには褒めてくれる。張懌はそれだけでとても嬉しかった。
そしてある日、同じことを他の人間にするとものすごく褒めてくれることに気がついた。相手の考えを肯定し、それに沿って動いてやるといたく喜ばれるのだ。
褒められれば嬉しかった。だから人の意に沿うようになった。
しかし張懌が本当に、心の底から褒めて欲しかったのは父だ。他から褒められることなど代替の慰みでしかない。
父を世界で一番尊敬しているから、父に褒められるのは他とはまるで違うのだ。
だから今はっきりと自慢の息子だと言われ、天地が逆さになるのではないかと思うほどの幸福感に包まれていた。
「父上……私にとっても、あなたは自慢の父です。父上はずっと私の誇りです」
その言葉に、張羨は血に濡れた顔をいっそう綻ばせた。あざだらけの手で優しく息子の頬を撫でる。
張懌はその感触をずっと味わっていたかったが、時間というものはいつも有限だ。しかも今は目に見えるほど終焉が近づいている。
「ゴホッ……」
張羨は急に咳き込み、口から血しぶきを吹いた。
「父上!!」
血は張懌の頬にかかり、涙と混ざって赤く広がっていく。
張羨はそれを苦しげに見つめた。
「すまんな……これからお前が歩む道に……血は不要なのに……」
「……?それは、どういう……」
「俺が血染めの道を……無理やり歩かせて……だからもう……お前はお前の道を……そのために……」
張懌からすれば意味不明なことをつぶやきながら、父は息子に付いてしまった血を擦った。
先ほど優しく撫でていたのとは違い、必死の目で拭い取ろうとしている。
しかし自分では拭えないことを悟ると、震える唇で言葉を絞り出した。
「……生きろっ!!」
小さな叫びとともにまた血を吹き出し、息子を掴んでいた手はパタリと落ちた。
たった三文字の、最期の望み。
これが父子で交わした最後の言葉になった。
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