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短編・中編や他の人物を中心にした物語
医聖 張仲景28
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「なんでだ!なんでこんなにたくさん!」
張機は絶叫し、卓が割れんばかりの力を込めて竹簡を叩きつけた。
竹簡を縛っていた紐が千切れ、バラバラになる。そして親族たちの名前が床に散らばった。
そのことに申し訳ない気持ちになった張機は少しだけ頭が冷えた。
竹簡に書いてある名前の人間たちは、もう誰もが故人だ。死者を悪く扱ってしまった気がして、すぐに竹簡を集めた。
「なんで……なんで……」
同じ言葉を繰り返しながら竹簡を抱きしめる。目からはいつの間にか涙が流れていた。
父が死んだ。
自分の幸せを、涙を流して喜んでくれた父が死んでしまった。
泣きながら笑ってくれた父の顔が脳裏に浮かび、胸をえぐられたような気分になる。
苦しい。本当に苦しかった。
父だけではない。多くの親族が死んだ。
張機の一族は多く、戦乱の前には二百人を超えていた。それが四割以上も亡くなったという話だった。
「傷寒……全員が傷寒で死んだって……」
傷寒とは急性の発熱性疾患全般を指す。親族たちの死因は全て傷寒とのことだった。
張一族は仲が良く、何かあればすぐに集まって宴会になっていた。互いを頼れるだけの信頼、繋がりがある一族だ。
だからその繋がりの強さの分だけ張機の心は激しく鞭打たれたのだった。
「きちんとした治療を受けててこれだけ死ぬのはおかしい」
一族の四割超。医師である張機から見て、異常な致死率だった。
戦や災害にでも巻き込まれたならまだしも、この人数は異常だ。
だから張機は各人の症状や治療など、出来るだけ詳細な経過を求める文を母に送った。
本当なら何を差し置いても帰郷したいところだが、そうすると長沙郡の死者が増えるだろう。太守、そして医師という責任ある立場が張機を縛っている。
そして返ってきた母からの文を見て、張機は竹簡をまた卓に叩きつけてしまった。
「馬鹿な!こんな治療があるか!」
書かれていた治療内容は張機にとってありえないものだった。
まず第一に、どの患者に対しても全く同じ処方しか出していないと言うのだ。
ありえない。張機の認識では患者個々人によって体質は異なり、それを見極めて治療せねばならない。
そして第二に、治療の経過に関わらず、ずっと同じ処方を出し続けていた。
疾病には病期というものがあって、その経過によって内容を修正していくべきなのだ。今の状態に合わない薬を続けてしまうと治らないどころか、悪くすることもある。
「それにこの処方内容……副作用が多いだろうに」
第三に、そもそもその処方内容自体が張機から見て危険なものだった。
天然物由来の医薬品だからといって副作用がないわけがない。
附子(トリカブト)のアコニチン類は有名だが、それ以外にも頻用される麻黄のエフェドリン、甘草のグリチルリチンでも量や体質によっては副作用を生じうる。
これらは加工によって弱毒化したり、用量を調節したりして用いなければならない。
逆に言えば間違った処方さえしなければ過度な心配なく使えるものなのだが、残念ながら張機の弟弟子たちは間違った処方をしているようだった。
「あいつら……少ない症例で効果を決めつけたのか!!」
張機は苛立ちを拳に込めて卓を殴った。
そういう経緯が事態の裏に見え隠れしている。恐らくこの推測は正解だろう。
初めに診た幾人かがこの処方で軽快し、疫病の特効薬だと勘違いしてしまったのだ。その患者の治癒は恐らく薬のおかげではなく、何もせずとも自然経過として治ったはずだ。
彼らは医学書よりも己の経験を優先していた。その傾向が単一の処方を盲信するという愚行に走らせてしまったのだろう。
(あの時、喧嘩してでも指導していれば……!!)
張機はひどい後悔とともに、また卓を殴りつけた。頑丈なはずの卓に小さなヒビが入った。
握られた拳がそのヒビの上で震える。
(くそ……くそ……馬鹿な医師の、馬鹿な治療のせいで……)
と、そこまで思ってから、張機の拳の震えはピタリと止まった。
(いや……それは違うか……)
諸々よく考えてみて、少しずつ結論は変わった。
張機の苛立ちはその結論によってやや落ち着き、代わりに別の感情が胸の奥底から湧いてきた。
「それよりも……医学書だ……信頼できる医学書が少ないのが問題なんだ」
張機はこの事態の原因を医師個々人に求めるべきではないと考え直した。
これは自身が医師であるからこそ得られた結論だ。
今出回っている医学書は内容の怪しげなものも多く、情報を自分で取捨選択せねばならない。
そういう医師を取り巻く環境が分かるからこそ、やぶ医者の愚行だと切り捨てることはできなかった。
「医学書だ……信頼できる医学書が要る」
つぶやく張機の胸から湧いてくる感情、それは使命感というものだったろう。
天命と言い換えてもいい。
張機は絶叫し、卓が割れんばかりの力を込めて竹簡を叩きつけた。
竹簡を縛っていた紐が千切れ、バラバラになる。そして親族たちの名前が床に散らばった。
そのことに申し訳ない気持ちになった張機は少しだけ頭が冷えた。
竹簡に書いてある名前の人間たちは、もう誰もが故人だ。死者を悪く扱ってしまった気がして、すぐに竹簡を集めた。
「なんで……なんで……」
同じ言葉を繰り返しながら竹簡を抱きしめる。目からはいつの間にか涙が流れていた。
父が死んだ。
自分の幸せを、涙を流して喜んでくれた父が死んでしまった。
泣きながら笑ってくれた父の顔が脳裏に浮かび、胸をえぐられたような気分になる。
苦しい。本当に苦しかった。
父だけではない。多くの親族が死んだ。
張機の一族は多く、戦乱の前には二百人を超えていた。それが四割以上も亡くなったという話だった。
「傷寒……全員が傷寒で死んだって……」
傷寒とは急性の発熱性疾患全般を指す。親族たちの死因は全て傷寒とのことだった。
張一族は仲が良く、何かあればすぐに集まって宴会になっていた。互いを頼れるだけの信頼、繋がりがある一族だ。
だからその繋がりの強さの分だけ張機の心は激しく鞭打たれたのだった。
「きちんとした治療を受けててこれだけ死ぬのはおかしい」
一族の四割超。医師である張機から見て、異常な致死率だった。
戦や災害にでも巻き込まれたならまだしも、この人数は異常だ。
だから張機は各人の症状や治療など、出来るだけ詳細な経過を求める文を母に送った。
本当なら何を差し置いても帰郷したいところだが、そうすると長沙郡の死者が増えるだろう。太守、そして医師という責任ある立場が張機を縛っている。
そして返ってきた母からの文を見て、張機は竹簡をまた卓に叩きつけてしまった。
「馬鹿な!こんな治療があるか!」
書かれていた治療内容は張機にとってありえないものだった。
まず第一に、どの患者に対しても全く同じ処方しか出していないと言うのだ。
ありえない。張機の認識では患者個々人によって体質は異なり、それを見極めて治療せねばならない。
そして第二に、治療の経過に関わらず、ずっと同じ処方を出し続けていた。
疾病には病期というものがあって、その経過によって内容を修正していくべきなのだ。今の状態に合わない薬を続けてしまうと治らないどころか、悪くすることもある。
「それにこの処方内容……副作用が多いだろうに」
第三に、そもそもその処方内容自体が張機から見て危険なものだった。
天然物由来の医薬品だからといって副作用がないわけがない。
附子(トリカブト)のアコニチン類は有名だが、それ以外にも頻用される麻黄のエフェドリン、甘草のグリチルリチンでも量や体質によっては副作用を生じうる。
これらは加工によって弱毒化したり、用量を調節したりして用いなければならない。
逆に言えば間違った処方さえしなければ過度な心配なく使えるものなのだが、残念ながら張機の弟弟子たちは間違った処方をしているようだった。
「あいつら……少ない症例で効果を決めつけたのか!!」
張機は苛立ちを拳に込めて卓を殴った。
そういう経緯が事態の裏に見え隠れしている。恐らくこの推測は正解だろう。
初めに診た幾人かがこの処方で軽快し、疫病の特効薬だと勘違いしてしまったのだ。その患者の治癒は恐らく薬のおかげではなく、何もせずとも自然経過として治ったはずだ。
彼らは医学書よりも己の経験を優先していた。その傾向が単一の処方を盲信するという愚行に走らせてしまったのだろう。
(あの時、喧嘩してでも指導していれば……!!)
張機はひどい後悔とともに、また卓を殴りつけた。頑丈なはずの卓に小さなヒビが入った。
握られた拳がそのヒビの上で震える。
(くそ……くそ……馬鹿な医師の、馬鹿な治療のせいで……)
と、そこまで思ってから、張機の拳の震えはピタリと止まった。
(いや……それは違うか……)
諸々よく考えてみて、少しずつ結論は変わった。
張機の苛立ちはその結論によってやや落ち着き、代わりに別の感情が胸の奥底から湧いてきた。
「それよりも……医学書だ……信頼できる医学書が少ないのが問題なんだ」
張機はこの事態の原因を医師個々人に求めるべきではないと考え直した。
これは自身が医師であるからこそ得られた結論だ。
今出回っている医学書は内容の怪しげなものも多く、情報を自分で取捨選択せねばならない。
そういう医師を取り巻く環境が分かるからこそ、やぶ医者の愚行だと切り捨てることはできなかった。
「医学書だ……信頼できる医学書が要る」
つぶやく張機の胸から湧いてくる感情、それは使命感というものだったろう。
天命と言い換えてもいい。
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