364 / 391
短編・中編や他の人物を中心にした物語
医聖 張仲景28
しおりを挟む
「なんでだ!なんでこんなにたくさん!」
張機は絶叫し、卓が割れんばかりの力を込めて竹簡を叩きつけた。
竹簡を縛っていた紐が千切れ、バラバラになる。そして親族たちの名前が床に散らばった。
そのことに申し訳ない気持ちになった張機は少しだけ頭が冷えた。
竹簡に書いてある名前の人間たちは、もう誰もが故人だ。死者を悪く扱ってしまった気がして、すぐに竹簡を集めた。
「なんで……なんで……」
同じ言葉を繰り返しながら竹簡を抱きしめる。目からはいつの間にか涙が流れていた。
父が死んだ。
自分の幸せを、涙を流して喜んでくれた父が死んでしまった。
泣きながら笑ってくれた父の顔が脳裏に浮かび、胸をえぐられたような気分になる。
苦しい。本当に苦しかった。
父だけではない。多くの親族が死んだ。
張機の一族は多く、戦乱の前には二百人を超えていた。それが四割以上も亡くなったという話だった。
「傷寒……全員が傷寒で死んだって……」
傷寒とは急性の発熱性疾患全般を指す。親族たちの死因は全て傷寒とのことだった。
張一族は仲が良く、何かあればすぐに集まって宴会になっていた。互いを頼れるだけの信頼、繋がりがある一族だ。
だからその繋がりの強さの分だけ張機の心は激しく鞭打たれたのだった。
「きちんとした治療を受けててこれだけ死ぬのはおかしい」
一族の四割超。医師である張機から見て、異常な致死率だった。
戦や災害にでも巻き込まれたならまだしも、この人数は異常だ。
だから張機は各人の症状や治療など、出来るだけ詳細な経過を求める文を母に送った。
本当なら何を差し置いても帰郷したいところだが、そうすると長沙郡の死者が増えるだろう。太守、そして医師という責任ある立場が張機を縛っている。
そして返ってきた母からの文を見て、張機は竹簡をまた卓に叩きつけてしまった。
「馬鹿な!こんな治療があるか!」
書かれていた治療内容は張機にとってありえないものだった。
まず第一に、どの患者に対しても全く同じ処方しか出していないと言うのだ。
ありえない。張機の認識では患者個々人によって体質は異なり、それを見極めて治療せねばならない。
そして第二に、治療の経過に関わらず、ずっと同じ処方を出し続けていた。
疾病には病期というものがあって、その経過によって内容を修正していくべきなのだ。今の状態に合わない薬を続けてしまうと治らないどころか、悪くすることもある。
「それにこの処方内容……副作用が多いだろうに」
第三に、そもそもその処方内容自体が張機から見て危険なものだった。
天然物由来の医薬品だからといって副作用がないわけがない。
附子(トリカブト)のアコニチン類は有名だが、それ以外にも頻用される麻黄のエフェドリン、甘草のグリチルリチンでも量や体質によっては副作用を生じうる。
これらは加工によって弱毒化したり、用量を調節したりして用いなければならない。
逆に言えば間違った処方さえしなければ過度な心配なく使えるものなのだが、残念ながら張機の弟弟子たちは間違った処方をしているようだった。
「あいつら……少ない症例で効果を決めつけたのか!!」
張機は苛立ちを拳に込めて卓を殴った。
そういう経緯が事態の裏に見え隠れしている。恐らくこの推測は正解だろう。
初めに診た幾人かがこの処方で軽快し、疫病の特効薬だと勘違いしてしまったのだ。その患者の治癒は恐らく薬のおかげではなく、何もせずとも自然経過として治ったはずだ。
彼らは医学書よりも己の経験を優先していた。その傾向が単一の処方を盲信するという愚行に走らせてしまったのだろう。
(あの時、喧嘩してでも指導していれば……!!)
張機はひどい後悔とともに、また卓を殴りつけた。頑丈なはずの卓に小さなヒビが入った。
握られた拳がそのヒビの上で震える。
(くそ……くそ……馬鹿な医師の、馬鹿な治療のせいで……)
と、そこまで思ってから、張機の拳の震えはピタリと止まった。
(いや……それは違うか……)
諸々よく考えてみて、少しずつ結論は変わった。
張機の苛立ちはその結論によってやや落ち着き、代わりに別の感情が胸の奥底から湧いてきた。
「それよりも……医学書だ……信頼できる医学書が少ないのが問題なんだ」
張機はこの事態の原因を医師個々人に求めるべきではないと考え直した。
これは自身が医師であるからこそ得られた結論だ。
今出回っている医学書は内容の怪しげなものも多く、情報を自分で取捨選択せねばならない。
そういう医師を取り巻く環境が分かるからこそ、やぶ医者の愚行だと切り捨てることはできなかった。
「医学書だ……信頼できる医学書が要る」
つぶやく張機の胸から湧いてくる感情、それは使命感というものだったろう。
天命と言い換えてもいい。
張機は絶叫し、卓が割れんばかりの力を込めて竹簡を叩きつけた。
竹簡を縛っていた紐が千切れ、バラバラになる。そして親族たちの名前が床に散らばった。
そのことに申し訳ない気持ちになった張機は少しだけ頭が冷えた。
竹簡に書いてある名前の人間たちは、もう誰もが故人だ。死者を悪く扱ってしまった気がして、すぐに竹簡を集めた。
「なんで……なんで……」
同じ言葉を繰り返しながら竹簡を抱きしめる。目からはいつの間にか涙が流れていた。
父が死んだ。
自分の幸せを、涙を流して喜んでくれた父が死んでしまった。
泣きながら笑ってくれた父の顔が脳裏に浮かび、胸をえぐられたような気分になる。
苦しい。本当に苦しかった。
父だけではない。多くの親族が死んだ。
張機の一族は多く、戦乱の前には二百人を超えていた。それが四割以上も亡くなったという話だった。
「傷寒……全員が傷寒で死んだって……」
傷寒とは急性の発熱性疾患全般を指す。親族たちの死因は全て傷寒とのことだった。
張一族は仲が良く、何かあればすぐに集まって宴会になっていた。互いを頼れるだけの信頼、繋がりがある一族だ。
だからその繋がりの強さの分だけ張機の心は激しく鞭打たれたのだった。
「きちんとした治療を受けててこれだけ死ぬのはおかしい」
一族の四割超。医師である張機から見て、異常な致死率だった。
戦や災害にでも巻き込まれたならまだしも、この人数は異常だ。
だから張機は各人の症状や治療など、出来るだけ詳細な経過を求める文を母に送った。
本当なら何を差し置いても帰郷したいところだが、そうすると長沙郡の死者が増えるだろう。太守、そして医師という責任ある立場が張機を縛っている。
そして返ってきた母からの文を見て、張機は竹簡をまた卓に叩きつけてしまった。
「馬鹿な!こんな治療があるか!」
書かれていた治療内容は張機にとってありえないものだった。
まず第一に、どの患者に対しても全く同じ処方しか出していないと言うのだ。
ありえない。張機の認識では患者個々人によって体質は異なり、それを見極めて治療せねばならない。
そして第二に、治療の経過に関わらず、ずっと同じ処方を出し続けていた。
疾病には病期というものがあって、その経過によって内容を修正していくべきなのだ。今の状態に合わない薬を続けてしまうと治らないどころか、悪くすることもある。
「それにこの処方内容……副作用が多いだろうに」
第三に、そもそもその処方内容自体が張機から見て危険なものだった。
天然物由来の医薬品だからといって副作用がないわけがない。
附子(トリカブト)のアコニチン類は有名だが、それ以外にも頻用される麻黄のエフェドリン、甘草のグリチルリチンでも量や体質によっては副作用を生じうる。
これらは加工によって弱毒化したり、用量を調節したりして用いなければならない。
逆に言えば間違った処方さえしなければ過度な心配なく使えるものなのだが、残念ながら張機の弟弟子たちは間違った処方をしているようだった。
「あいつら……少ない症例で効果を決めつけたのか!!」
張機は苛立ちを拳に込めて卓を殴った。
そういう経緯が事態の裏に見え隠れしている。恐らくこの推測は正解だろう。
初めに診た幾人かがこの処方で軽快し、疫病の特効薬だと勘違いしてしまったのだ。その患者の治癒は恐らく薬のおかげではなく、何もせずとも自然経過として治ったはずだ。
彼らは医学書よりも己の経験を優先していた。その傾向が単一の処方を盲信するという愚行に走らせてしまったのだろう。
(あの時、喧嘩してでも指導していれば……!!)
張機はひどい後悔とともに、また卓を殴りつけた。頑丈なはずの卓に小さなヒビが入った。
握られた拳がそのヒビの上で震える。
(くそ……くそ……馬鹿な医師の、馬鹿な治療のせいで……)
と、そこまで思ってから、張機の拳の震えはピタリと止まった。
(いや……それは違うか……)
諸々よく考えてみて、少しずつ結論は変わった。
張機の苛立ちはその結論によってやや落ち着き、代わりに別の感情が胸の奥底から湧いてきた。
「それよりも……医学書だ……信頼できる医学書が少ないのが問題なんだ」
張機はこの事態の原因を医師個々人に求めるべきではないと考え直した。
これは自身が医師であるからこそ得られた結論だ。
今出回っている医学書は内容の怪しげなものも多く、情報を自分で取捨選択せねばならない。
そういう医師を取り巻く環境が分かるからこそ、やぶ医者の愚行だと切り捨てることはできなかった。
「医学書だ……信頼できる医学書が要る」
つぶやく張機の胸から湧いてくる感情、それは使命感というものだったろう。
天命と言い換えてもいい。
10
お気に入りに追加
47
あなたにおすすめの小説
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
クロワッサン物語
コダーマ
歴史・時代
1683年、城塞都市ウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲されていた。
第二次ウィーン包囲である。
戦況厳しいウィーンからは皇帝も逃げ出し、市壁の中には守備隊の兵士と市民軍、避難できなかった市民ら一万人弱が立て籠もった。
彼らをまとめ、指揮するウィーン防衛司令官、その名をシュターレンベルクという。
敵の数は三十万。
戦況は絶望的に想えるものの、シュターレンベルクには策があった。
ドナウ河の水運に恵まれたウィーンは、ドナウ艦隊を蔵している。
内陸に位置するオーストリア唯一の海軍だ。
彼らをウィーンの切り札とするのだ。
戦闘には参加させず、外界との唯一の道として、連絡も補給も彼等に依る。
そのうち、ウィーンには厳しい冬が訪れる。
オスマン帝国軍は野営には耐えられまい。
そんなシュターレンベルクの元に届いた報は『ドナウ艦隊の全滅』であった。
もはや、市壁の中にこもって救援を待つしかないウィーンだが、敵軍のシャーヒー砲は、連日、市に降り注いだ。
戦闘、策略、裏切り、絶望──。
シュターレンベルクはウィーンを守り抜けるのか。
第二次ウィーン包囲の二か月間を描いた歴史小説です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる