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短編・中編や他の人物を中心にした物語

医聖 張仲景27

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 張機は床で眠る老人の脈を取り、顔を覗き込んだ。

 脈は消え入りそうなほど弱々しく、顔からは生気がほとんど感じられない。

 脈を取るのは切診、顔を見るのは望診という診察行為だ。

 しかし本当のところ、やっている張機自身がそれをする必要性を感じていなかった。本当は、病室に入ってひと目で見立てはついていたのだから。

 張機は老人の腕をそっと戻し、立ち上がって部屋から出た。

 廊下では老人の息子夫婦が待っていた。

「先生……いえ、太守様。父はどうでしょうか?」

 張機は静かに首を振り、頭を下げた。

 それから無言で踵を返し、夫婦に背を向けて歩き出した。

 今日の張機は太守というより、医師としてここにいる。それがなんの処方もしないまま去ろうとしているのだ。

 しかし、患者の家族にも特に文句はない。それどころか感謝していた。

 まず、家族から見てもこの老人はもう助からないだろうと感じられていた。だから処方がなくても仕方ないと思っている。

 次に、今の荊州は疫病の大流行に見舞われている。薬は貴重品だ。それを死にゆく者に使うべきではないことは理解している。

 そして何より、張機が来てくれた事自体をありがたく思っているのだ。

 戦乱と疫病の流行。この併発は全ての領民にとって危険この上ない。

 当然のことながら太守は多忙を極めている。

 それが政務の合間を縫い、民の家を診療して回っているのだ。太守として全体を見ながら、医師として一人一人を診てくれる。

 まさに身を粉にして人を救おうとする男の背に、夫婦はお伽噺のひじりを目にしたように感じた。

(次の患者がいる)

 その思いが、命がかかっているという切迫感が張機を急がせ、患者の家族へ薄い態度を取らせていた。

 だが一人の医師として、このまま無言で去るのはどうかと思った。

 師である張伯祖から、医師が相手をするべきなのは病そのものではなく、人だと教わっている。

 だから振り返り、少しだけ言葉を残した。

「今のうちにお別れの言葉を伝えてあげてください。意識がないからといって、聞こえていないわけではありませんから」

 本当は聞こえているかどうかなど分からない。意識のない状態でかけられた言葉を認識できるのか、そんなことは誰にも分からないのだ。

 しかし、それはありえないと一笑に付す根拠もない。夢のように後から思い出せないだけで、その時は認識しているかもしれないだろう。

 だから家族にとってだけでなく、患者本人にとってもそれは意味があることだと張機は信じている。

 祈りながら、願いながら、夫婦の深く下げられた頭に背を向けて再び歩き出した。

 外に出ると、空は暗闇に閉ざされていた。新月だ。

 張機は公務を終えてから診療に回っているからどうしても遅い時間になる。

 ただし太守が夜に動くのだから護衛くらいいて、松明の明かりで十分な明るさはあった。

「ご苦労様でした。しかしもう遅いですし、今日は休まれては?」

 出てきた太守の顔を見て、護衛はそう声をかけてきた。そこに濃い疲労の色が見えたからだ。

 張機は疲れていた。とても疲れていた。

 乱世のせいで誰もが貧しい。貧しいから疫病が流行している。

 近代でも戦乱による貧困で疫病が猛威を振るった例は多い。貧困は栄養状態と衛生環境を悪化させる。

 栄養状態が悪ければ体の抵抗力は弱くなり、衛生環境が悪ければ感染は拡大しやすくなる。

 病名としてはインフルエンザや発疹チフスなどが疫病の正体であることが多いが、古い歴史書に書かれた『疫病』が具体的に何であるかは明確でない場合が多い。

 ただ原因に関してはたった一つのことに行き着くのだ。

(戦だ……戦なんて馬鹿なことが起こってるから疫病なんてものが流行るんだ)

 そう思う張機の目は暗い。もし目の前にその元凶がいたならば、視線だけで呪い殺せていただろう。

 しかし乱世は時代であって、時代の原因は単一の個人に求めることなどできない。さらに言えば、乱世は個人の努力で何とかできるようなものでもないのだ。

 張機はそんな中で太守として、医師として出来うるだけのことをしているつもりだ。実際、この男は相当数の民を救ってきた。

 しかし張機の肩には救えなかった命がのしかかる。その重さは張機の表情にもへばりついており、周囲の者を不安にさせるのだった。

「張機様が倒れられてはなんにもなりません。今日はこの辺りで……」

 護衛は再び休養を促した。太守の身を案じているのだ。

 張機はそれをありがたく感じつつも、首を横に振った。

「僕は医師だぞ?自分の体調くらい自分で管理できてるさ」

 嘘だ。本当は今晩にでも倒れておかしくはない気がする。

 しかし張機は次の患家へ向けて無理やり足を動かした。

 いや、無理やり足を止められなかったというのが正しいかもしれない。一つ患家を訪問すれば、一つ命が助かるかもしれない。

 そう考えると張機の足は疲れなど関係なく動いてしまうのだった。

 それからさらに幾人もの診療を終えた張機が自宅に帰ったのは、もう深夜もかなり遅い時間になってからだった。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 雪梅は起きて待っていてくれた。

 しかもただ起きていただけでなく、薬の調製をしてくれていたようだ。指先に丸薬の色が染みて茶色くなっている。

「寝ててくれていいのに」

「あなたがこんなに頑張ってるのに、そういうわけにもいかないでしょう」

「僕は好きでやってることだからね」

 張機はそう言ってからふと、己の言葉に驚いた。

 自分が医師になったのは失恋が原因だ。言ってみればただの成り行きで、医業に命を捧げる気など毛頭なかった。

 しかし今は自身が倒れても構わないというほどに傾倒している。こんなはずではなかったのだが。

「ふふ……好きでやってる、か」

 張機は自分で言ったことに笑ってから床にうつ伏せた。

 そのそばに雪梅が座る。

 雪梅は張機が疲れていると、寝る前にあん摩してくれるのだ。

「何か可笑しいことがありました?」

 夫の背中を親指で押しつつ、そう尋ねた。

 力加減がちょうどいい塩梅で、疲労がほぐされていく。

「いや、いつの間にか医師をやってるのが好きになってるなと思って」

「元々は好きじゃなかったんですか?」

「好きとまではいかなかったかなぁ。人に喜ばれる仕事だし、悪くないくらいには思ってたけど」

「意外ですね。私から見たら初めから好きそうでしたけど」

「多分だけど、初めに無理して『自分は医師になりたいんだ!』って思い込もうとしてたからその反動かな」

「思い込んで勉強を頑張った感じですか」

「そうそう。そんな感じ」

「もしかして、玉梅さんが絡んでます?」

「……」

 妻の妙な勘の良さに、張機は無言で片頬を吊り上げた。

 そんな夫の背中を雪梅はかなり強く押した。

「痛っ」

「アハハ。ま、このくらいで許してあげますよ」

 張機は妻が明るく笑ってくれたのでホッとした。

 だが考えてもみれば、そもそも許してもらわないといけない事など何も無いはずだ。

「っていうか、昔のことだし」

「まさにその通りですよ。どんなことも結局は昔のことになるんです。昔がどうであれ、今のあなたは私のことを一番愛してるでしょう?」

 自信満々に言う妻に、今度は張機が笑った。

「アハハ、そうだね。世界で一番愛してるよ」

「私もですよ。多分ですけど、医師という仕事への気持ちとその事は同じだと思うんです。きっかけが何であれ、今のあなたは医師という仕事が好きで、それはとても素敵なことです」

 そう言われ、張機は少し考えて納得した。

「ああ……そうか。初めが素敵でなくても、今が素敵なら全部ひっくるめて素敵になっちゃうんだな」

 これはきっと真理だろう。

 時は流れる。止めようはない。

 ならばどんな苦しみも、時の流れの中で幸福にしていけばいいのだ。

「今満点に思えないことでも、後から振り返って良かったと思えるように前を向いて生きよう」

「そうですね。ちなみに太守の方はどうです?」

「そっちは『嫌』だったのが、今は『悪くない』くらいかな」

 太守という、おそらく世のほとんどの人間がなれるものならなりたいと思う役職に対し、張機はそんな認識を持っていた。正直な気持ちだ。

「それは良かった」

 雪梅は笑い、今度は適度に力を込めて夫の背中を押した。

 『悪くない』程度でここまで頑張れる夫は偉いと思う。

「長沙は荊州の中でも群を抜いて疫病の死者が少ないという話を聞きました。あなたはきっと、良き太守なんだと思いますよ」

「ありがとう。確かにうちはまだマシな方らしい」

 雪梅の聞いた噂通り、大流行している疫病の被害はこれでも小さい方なのだった。

 自身が医師である張機は為すべきことが完全に分かっているし、他所とは力の入れ方も違う。

 劉表を通して他地域にも提言を行っているが、当事者でなければ臨機応変な対応は無理だ。それに張機は戦への備えを一時的に丸無視して人、物、銭を医療・衛生へと回していた。

 他地域では絶対にここまでやらないし、もし急侵攻されたら張機の方が失敗ということになるので、ここの良し悪しは何とも言えない。

「あと、張羨が県令をやってた土地の死者も少ないんだ。全部あいつのおかげだよ」

 張羨の方は神霊治療を潰したのが効いているようだ。

(張羨の政策、正解だったな)

 あの時はかなり不安を感じたのだが、結局は民にとって良い結果になっている。

 宗教反乱などにも繋がっていないし、相変わらず民の間で張羨の人気は高いという話だった。

(やっぱり僕が張羨を心配するなんて無駄なことだったんだ)

 張機は自慢の親友を思い浮かべ、ついニヤニヤした。幸せな顔で妻の按摩に身を委ねる。

「でもこうなると、あなたのご実家が心配ですね」

 雪梅はそれが心配だった。

 張機の実家がある南陽郡はここ長沙郡とは隣接しておらず、多少の距離がある。張機が出来ることは多くない。

「そうだね。伯先生が現役だったら安心して任せられたんだけど……」

 張伯祖はもう高齢で、医師としてはとうの昔に引退していた。今は山中の庵で悠々自適に暮らしていて、治療に携わることはない。

「あなたの弟弟子さんたちはどうなんですか?」

「うーん……」

 張機は言葉を濁した。

 正直に言うと、張機の印象ではかなり不安がある。

 前に実家へ帰った時、医療談義をしてみて首を傾げることが多かったのだ。

 張伯祖は医学書をしっかり読み込んで、それを基礎に己の経験も混じえて診療を行っていた。しかし、弟弟子たちは経験の方を過度に優先しているように思えたのだ。

 それが必ずしも悪いとは言わない。医学書にも間違いはあり、盲信してはいけない。

 とはいえ医師一人の診療経験は治療効果を検討するのに十分とは言えない。効く効かないの結論を出すには症例数が圧倒的に足りないのだ。

 だから医師は医学書でしっかりと学び、それと己の経験とを上手く融合させる必要がある。

「彼らの診療が少し独善的だったのが気になるけど……」

 どうやら張伯祖が引退してからその傾向がかなり強くなったようだった。

 色々思うところはあったものの、医師同士が互いの治療法を批判するのは気を使う。下手をすると喧嘩になりかねないので、お勧めの医学書を譲るだけにとどめておいた。

「でもまぁ……張羨じゃないけど神霊的な治療には頼らず、きちんと医師の治療を受けるように実家の皆には伝えているから。酷いことにはならないだろう」

 張機は自らにそう言い聞かせ、己の不安を払拭しようとした。

 しかし悲しいことに、張機の不安は的中してしまうことになる。

 次に受け取った実家からの便りには、父を含めた多くの親族の訃報が記されていた。
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