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短編・中編や他の人物を中心にした物語
医聖 張仲景20
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「張機殿。色々あったが、こうして再び荊州の地に帰ることができたな。感慨もひとしおだろう」
劉表は酒杯を軽く掲げて祝意を示し、それから杯をクッと干した。
張機もそれに倣って杯に口を付けたのだが、劉表のように軽く干す気にならない。舐めるように飲んだ。
二人は劉表の執務室で向かい合って飲んでいる。
一杯だけと決めてはいるもののまだ日は高く、しかも仕事場で飲んでいるのだ。
(飲まなければやっていられない)
劉表は己のそんな心境に気づき、自ら笑った。
ただし張機の方はそう思い切れない。つい苦笑に頬を引きつらせてしまう。
「あの……劉表様……自分が思っていた帰郷と少し違うのですが……」
それが張機の正直な気持ちだ。
宦官の大粛清から七ヶ月、張機は念願叶って荊州へと帰ることができていた。
ただし、完全に希望通りの帰郷ではない。まずここは荊州の中でも産まれ故郷の南陽郡ではなく、その南隣りに位置する南郡だ。
そして張機の立場はというと、ただの医師ではなく劉表配下という形になっていた。
劉表の赴任に際し、請われて付いて来たのだ。
「張機殿の言わんとすることは理解しているつもりだが、現状仕方ないだろう」
劉表は友にだけ見せる無邪気な笑顔をして、張機の不満をなだめた。
言わんとするとことは分かっている。張機も仕方ないとは思っていた。
故郷の南陽郡は今、武力でもって占拠されている状態なのだ。
加えて世の中全体が大変な混乱に陥っていて、ただの医師に戻ることが果たして安全なのかはっきりしない。
「本当に……董卓という人はどうしようもありませんね」
世の乱れはひとえに董卓という男の暴政に起因する。
もちろんその前段階で多くの人間の多くの失策や悪事があったわけだが、直近で大きなものはやはり董卓だろう。
宦官の大粛清後、董卓はその所有する軍によって権力の頂点に登り詰めた。
しかしその後の横暴は目に余るものがある。この男はなんと帝の首をすげ替えた上に、元の帝を殺してしまった。
さらに望まれぬ遷都を強行し、洛陽に火を放ち、墓を暴いて副葬品を接収した。
反董卓を標榜する者たちが剣を掲げて立ち上がったのも当たり前の話だ。
今この国は大規模な内乱状態にあり、黄巾の乱を超える危機に見舞われている。
「ああ、あれは本当にどうしようもない」
劉表は大きくうなずいて同意した。
先ほど張機はこの国の最高権力者を堂々と批判した。危険なことだ。
しかし劉表も洛陽を出てからは誰にはばかることもなく非難しているから、この場で問題になることなど何もない。
それについ先月、許靖という大切な同期が傷つけられ、洛陽から逐電してしまった。
このことは張機が董卓を嫌うのに十分過ぎる理由となっていて、董卓のことを口にすれば悪口以外は出てきようがない。
(許靖、辛そうな顔をしていたな……)
許靖が逃げる前日、二人は顔を合わせている。
必死に平常通りを装ってはいたが、仲の良い張機から見れば、その顔は凄惨とすら感じられた。
『許靖……?』
心配した張機の呼びかけに、許靖は張機をじっと見てからほんの僅かに首を振った。
(いつも通りということにしておいてくれ)
そういう意図がありありと見えた。
だから張機は何も言わず、普段通りに仕事をした。
ただ、許靖は帰り際に張機の肩に手を置き、
『風邪引くなよ』
そう言ってきた。
医師に向かって言う台詞ではない。だから張機は何かを感じ、気合を込めて許靖の肩を殴った。
許靖はその痛みに驚いた顔をして、それから嬉しそうに微笑んだ。
これが二人の別れになった。
「許靖が人事を仕切り始めた時には清廉な役人が増えて良くなると思っていたのですが……」
逃げる前の許靖は董卓政権下で抜擢され、人事を担っていた。
腐敗した役人を除き、有能な者を要職に就けた。
が、その結果起こったのは董卓への反乱だ。
有能な者ほど道義を理解し、行動力もあるため当たり前の結果ではあるかもしれない。
これに怒った董卓は人事を担わせていた官吏の一部を処刑した。
許靖はそれを免れたのだが、同じ仕事をしていた同僚が責任を問われて殺されたのだ。許靖が恐れて逐電したのも仕方のないことだろう。
「私も許靖殿の人事を喜んでいた一人なのだがな。まぁ、反董卓連合軍は起こるべきして起こったと言えるだろう」
「そうでしょうね。あれでは反発するなという方が無理です」
「とはいえ、董卓のお陰で私は荊州の刺史になれたわけだが」
劉表は前任者の死去によって荊州刺史の後任を命じられたのだが、これは董卓政権下で出された正式な辞令だ。
言わば董卓によって要職に就けられたようなものではある。
しかし張機にはその言い分が正しいとは思えない。
「董卓のお陰ってことはありませんよ。こんな無茶振り、辞令なんかじゃありません」
張機の言う通り、劉表への辞令はあまりに無茶振りだった。
刺史として荊州を治めろと言われても、そこら中に反抗勢力が散らばっていてまともに治められる状況にないのだ。
「あちこちに宗賊(各地の有力者が起こした一揆)がいて、従わない太守、県長がいて、しかもそれは自分でなんとかしろなんて……」
これは間違いなく、完全な無茶振りの辞令だった。宗賊の数だけでもゆうに五十は越える。
もちろん全地域が従わないわけではないが、少なくともこれらを押さえるための軍勢を中央からは出してくれないのだ。
「聞いていればついて来なかったか?」
劉表は友達にいたずらした子供のような調子で聞いた。実際、そんなつもりだったのかもしれない。
張機は張機でそれにはっきりと答えた。
「ええ、来ませんでしたよ。自分は劉表様に『合法的に荊州へ帰れるぞ』と言われてついて来たんです。『穏便に中央政府を抜けられるぞ』ともおっしゃいましたね」
確かにこの二点は魅力的な話ではあった。
董卓の元を出奔したがる官吏が多いことは問題になっていて、逃さぬための監視も置かれていた。
もし止められたとしたら、それを振り切って去るのには身の危険がある。
「そうだ。何も嘘は言っていない」
「それはそうなのですが、まさかこんなドギツい状況の刺史に付くことになるとは思いませんよ」
「ハッハッハ!言ってくれる!正直に言うと私も不安でな、友人がそばにいてくれると嬉しいから張機殿を連れて来てしまった」
こういう言い方をされると張機も責める気になれない。
投げやりな苦笑一つで済まし、付き合うことにした。
「それで、今日会うお二人についてですが」
具体的な仕事の話を始めた。
今日は別に飲みに来ているわけではないのだ。この後、荊州をまとめ上げるために有力者から話を聞く予定にしている。
劉表はその人物たちの名を挙げた。
「蒯良殿、蒯越殿だな」
「はい。ここ南郡の方々にも改めて話を聞いてみましたが、自分の持っている情報とそう変わりありませんでしたね。要は荊州の名士です」
張機は荊州が地元であるため、ある程度この手の知識がある。その張機が再度調べ直して劉表へ報告しているわけだ。
「蒯良殿は学問的素養が非常に高いと昔から評判でした。蒯越殿は一時は中央で一緒でしたからよくご存知でしょうが、大変な切れ者です」
蒯越は劉表と同じく、大将軍何進の下に一時だがいた。
その後は豫州の県令を自ら希望して赴任していたのだが、地元である荊州に帰りたくなったらしい。荊州を治めることになった劉表の配下になることを了承してくれた。
「学のある男と、切れ者か」
劉表のそのまとめがどこか己に刺さり、張機は思わず頭をかいた。
「どうした?」
「いえ……自分の学友に本当に優秀で何でも出来るやつがいたのですが、あいつは切れ者だったなと思い出しまして。自分は努力で学のある人間にはなれても、切れ者にはなれないのだなと思い知りました」
知識と知恵の違いというところか。
劉表も学問で讃えられた男だから、それはよく分かる。
「なるほどな。その学友のことも気にはなるが……」
「失礼しました。今は蒯良殿、蒯越殿のことでしたね。お二人の背景をもう少し掘り下げて調べておきましたので、そちらも知っておいていただければ……」
劉表と張機はしばらく話し込み、そして昼食を挟んでから蒯良、蒯越と面会した。
劉表は酒杯を軽く掲げて祝意を示し、それから杯をクッと干した。
張機もそれに倣って杯に口を付けたのだが、劉表のように軽く干す気にならない。舐めるように飲んだ。
二人は劉表の執務室で向かい合って飲んでいる。
一杯だけと決めてはいるもののまだ日は高く、しかも仕事場で飲んでいるのだ。
(飲まなければやっていられない)
劉表は己のそんな心境に気づき、自ら笑った。
ただし張機の方はそう思い切れない。つい苦笑に頬を引きつらせてしまう。
「あの……劉表様……自分が思っていた帰郷と少し違うのですが……」
それが張機の正直な気持ちだ。
宦官の大粛清から七ヶ月、張機は念願叶って荊州へと帰ることができていた。
ただし、完全に希望通りの帰郷ではない。まずここは荊州の中でも産まれ故郷の南陽郡ではなく、その南隣りに位置する南郡だ。
そして張機の立場はというと、ただの医師ではなく劉表配下という形になっていた。
劉表の赴任に際し、請われて付いて来たのだ。
「張機殿の言わんとすることは理解しているつもりだが、現状仕方ないだろう」
劉表は友にだけ見せる無邪気な笑顔をして、張機の不満をなだめた。
言わんとするとことは分かっている。張機も仕方ないとは思っていた。
故郷の南陽郡は今、武力でもって占拠されている状態なのだ。
加えて世の中全体が大変な混乱に陥っていて、ただの医師に戻ることが果たして安全なのかはっきりしない。
「本当に……董卓という人はどうしようもありませんね」
世の乱れはひとえに董卓という男の暴政に起因する。
もちろんその前段階で多くの人間の多くの失策や悪事があったわけだが、直近で大きなものはやはり董卓だろう。
宦官の大粛清後、董卓はその所有する軍によって権力の頂点に登り詰めた。
しかしその後の横暴は目に余るものがある。この男はなんと帝の首をすげ替えた上に、元の帝を殺してしまった。
さらに望まれぬ遷都を強行し、洛陽に火を放ち、墓を暴いて副葬品を接収した。
反董卓を標榜する者たちが剣を掲げて立ち上がったのも当たり前の話だ。
今この国は大規模な内乱状態にあり、黄巾の乱を超える危機に見舞われている。
「ああ、あれは本当にどうしようもない」
劉表は大きくうなずいて同意した。
先ほど張機はこの国の最高権力者を堂々と批判した。危険なことだ。
しかし劉表も洛陽を出てからは誰にはばかることもなく非難しているから、この場で問題になることなど何もない。
それについ先月、許靖という大切な同期が傷つけられ、洛陽から逐電してしまった。
このことは張機が董卓を嫌うのに十分過ぎる理由となっていて、董卓のことを口にすれば悪口以外は出てきようがない。
(許靖、辛そうな顔をしていたな……)
許靖が逃げる前日、二人は顔を合わせている。
必死に平常通りを装ってはいたが、仲の良い張機から見れば、その顔は凄惨とすら感じられた。
『許靖……?』
心配した張機の呼びかけに、許靖は張機をじっと見てからほんの僅かに首を振った。
(いつも通りということにしておいてくれ)
そういう意図がありありと見えた。
だから張機は何も言わず、普段通りに仕事をした。
ただ、許靖は帰り際に張機の肩に手を置き、
『風邪引くなよ』
そう言ってきた。
医師に向かって言う台詞ではない。だから張機は何かを感じ、気合を込めて許靖の肩を殴った。
許靖はその痛みに驚いた顔をして、それから嬉しそうに微笑んだ。
これが二人の別れになった。
「許靖が人事を仕切り始めた時には清廉な役人が増えて良くなると思っていたのですが……」
逃げる前の許靖は董卓政権下で抜擢され、人事を担っていた。
腐敗した役人を除き、有能な者を要職に就けた。
が、その結果起こったのは董卓への反乱だ。
有能な者ほど道義を理解し、行動力もあるため当たり前の結果ではあるかもしれない。
これに怒った董卓は人事を担わせていた官吏の一部を処刑した。
許靖はそれを免れたのだが、同じ仕事をしていた同僚が責任を問われて殺されたのだ。許靖が恐れて逐電したのも仕方のないことだろう。
「私も許靖殿の人事を喜んでいた一人なのだがな。まぁ、反董卓連合軍は起こるべきして起こったと言えるだろう」
「そうでしょうね。あれでは反発するなという方が無理です」
「とはいえ、董卓のお陰で私は荊州の刺史になれたわけだが」
劉表は前任者の死去によって荊州刺史の後任を命じられたのだが、これは董卓政権下で出された正式な辞令だ。
言わば董卓によって要職に就けられたようなものではある。
しかし張機にはその言い分が正しいとは思えない。
「董卓のお陰ってことはありませんよ。こんな無茶振り、辞令なんかじゃありません」
張機の言う通り、劉表への辞令はあまりに無茶振りだった。
刺史として荊州を治めろと言われても、そこら中に反抗勢力が散らばっていてまともに治められる状況にないのだ。
「あちこちに宗賊(各地の有力者が起こした一揆)がいて、従わない太守、県長がいて、しかもそれは自分でなんとかしろなんて……」
これは間違いなく、完全な無茶振りの辞令だった。宗賊の数だけでもゆうに五十は越える。
もちろん全地域が従わないわけではないが、少なくともこれらを押さえるための軍勢を中央からは出してくれないのだ。
「聞いていればついて来なかったか?」
劉表は友達にいたずらした子供のような調子で聞いた。実際、そんなつもりだったのかもしれない。
張機は張機でそれにはっきりと答えた。
「ええ、来ませんでしたよ。自分は劉表様に『合法的に荊州へ帰れるぞ』と言われてついて来たんです。『穏便に中央政府を抜けられるぞ』ともおっしゃいましたね」
確かにこの二点は魅力的な話ではあった。
董卓の元を出奔したがる官吏が多いことは問題になっていて、逃さぬための監視も置かれていた。
もし止められたとしたら、それを振り切って去るのには身の危険がある。
「そうだ。何も嘘は言っていない」
「それはそうなのですが、まさかこんなドギツい状況の刺史に付くことになるとは思いませんよ」
「ハッハッハ!言ってくれる!正直に言うと私も不安でな、友人がそばにいてくれると嬉しいから張機殿を連れて来てしまった」
こういう言い方をされると張機も責める気になれない。
投げやりな苦笑一つで済まし、付き合うことにした。
「それで、今日会うお二人についてですが」
具体的な仕事の話を始めた。
今日は別に飲みに来ているわけではないのだ。この後、荊州をまとめ上げるために有力者から話を聞く予定にしている。
劉表はその人物たちの名を挙げた。
「蒯良殿、蒯越殿だな」
「はい。ここ南郡の方々にも改めて話を聞いてみましたが、自分の持っている情報とそう変わりありませんでしたね。要は荊州の名士です」
張機は荊州が地元であるため、ある程度この手の知識がある。その張機が再度調べ直して劉表へ報告しているわけだ。
「蒯良殿は学問的素養が非常に高いと昔から評判でした。蒯越殿は一時は中央で一緒でしたからよくご存知でしょうが、大変な切れ者です」
蒯越は劉表と同じく、大将軍何進の下に一時だがいた。
その後は豫州の県令を自ら希望して赴任していたのだが、地元である荊州に帰りたくなったらしい。荊州を治めることになった劉表の配下になることを了承してくれた。
「学のある男と、切れ者か」
劉表のそのまとめがどこか己に刺さり、張機は思わず頭をかいた。
「どうした?」
「いえ……自分の学友に本当に優秀で何でも出来るやつがいたのですが、あいつは切れ者だったなと思い出しまして。自分は努力で学のある人間にはなれても、切れ者にはなれないのだなと思い知りました」
知識と知恵の違いというところか。
劉表も学問で讃えられた男だから、それはよく分かる。
「なるほどな。その学友のことも気にはなるが……」
「失礼しました。今は蒯良殿、蒯越殿のことでしたね。お二人の背景をもう少し掘り下げて調べておきましたので、そちらも知っておいていただければ……」
劉表と張機はしばらく話し込み、そして昼食を挟んでから蒯良、蒯越と面会した。
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