上 下
348 / 391
短編・中編や他の人物を中心にした物語

医聖 張仲景12

しおりを挟む
「それで、どうして雪梅さんが張機の家に住むことになったんだ?」

 張機と合流した許靖は、張機本人ではなくそのやや後ろに目を向けて尋ねた。

 そこには雪梅が背負われている。

 三人は張機の家へ向かい、通りを歩いていた。

 許靖が劉表の屋敷に着いたところで二人が出てきたのだ。張機は許靖を見るなり、

『とりあえず僕の屋敷へ行く。道すがら話すよ』

と言われてついて来ていた。

「だからさ、劉表様は準備が整い次第、洛陽から逃亡されるんだよ。でも雪梅さんは足を怪我してるから逃げるのには足手まといになってしまうだろ?それで僕の家でしばらく面倒見てくれないかって頼まれて」

 許靖は友人の的外れな回答に眉を寄せた。

 同期だからよく知った男なのだが、たまにこんなことがある。

「いや、だからそういうことじゃなくて……」

「ああ、使用人の雪梅さんまで逃げる必要があるのかって話?それなんだけど、近く党錮の禁の対象範囲が広がるらしいんだ。今までは本人だけだったのが、一族郎党まで対象になるんだって」

 実はその噂は許靖も聞いたことがあるから承知している。

 史実として党錮の禁は第一次と第二次の二回に分けられるのだが、第二次より七年も経ってからわざわざ一族郎党まで範囲が広げられた。

 執念深いというか、恨みがましいというか、しつこいというか……宦官たちの性格的傾向がよく分かるようで、面白い話ではある。

 ただ、許靖のした質問の要点はそこではない。

「いや、だからな……こう言ってはなんだが、張機は今日たまたまああいう場面に出くわしただけだろう」

 要は、そこまでするだけの義理があるのか?、と問いたいわけだ。

 張機は別に劉表と懇意にしていたわけでもないし、無理を頼まれるような間柄ではない。

 むしろ使用人を助けてやった分の恩があるはずなのに、さらなる面倒事を押し付けられている。

 しかも下手をすると宦官たちの権力で身を滅ぼされかねないような面倒事だ。

 雪梅自身はその点よく理解しているようで、張機の背で小さくなっていた。

 申し訳無さそうにうつむき、消え入りそうな声と共に頭を下げた。

「あの……張機様……やはりこれ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきません。そこらの道端に下ろしておいてください」

 張機は肩越しに振り返り、わざと笑い声を上げた。無論、雪梅の心情に気を遣ってのことだ。

「あっはっは!ご心配なく、雪梅さん。許靖はこんなこと言ってますけど、もし僕が雪梅さんを置いていったら自分が背負って自分の家まで連れて帰る男です。そういうやつなんですから」

 言われた許靖自身も多分そうするだろうと自分で分かるから、眉をしかめて閉口した。

 ただし、もし自分が本当に連れて帰ることになったら一点大きな懸念が持ち上がる。

「でも許靖の奥さんは結構な焼きもち妬きらしいから、やっぱり僕が連れて帰りますよ」

 そこまで内心を暴露されてしまうと、許靖はそれ以上の反対意見を言えなくなる。

 とはいえ、何の対策もせずに雪梅を受け入れるのはさすがにどうかと思われた。

「せめて雪梅さんを追っていた兵たちには何か処置をしておくべきだと思うが……ただの窃盗犯だと思われてるのは幸いだったが」

 意外なことだったが、兵たちは劉表との関係を疑って追ってきたわけではなかったそうだ。

 雪梅は兵に見つかった際、高級品の筆とすずりを手に持っていた。それでただの手癖が悪い雑仕女だと思ったようだ。

 その兵たちは雑仕女の小犯罪よりも、官僚に怪我をさせたことに恐怖していたらしい。張機の予想通り、すごすごと帰って行くその顔は随分と青ざめていたという。

 兵たちも結構な怪我だったので許靖が、

『張機が帰ってきたら治療させよう』

と言ってやったのだが、身を低くして後ずさるばかりだった。名前や部隊名を聞かれる前に去りたい、というのが本音だったのだろう。

(雪梅さん、間者をやるだけあって抜け目ないな。普通の女性というわけではないようだ)

 許靖は張機から事情を聞いて、まずそう感じた。

 とはいえ、一応は兵たちには何らかの対処をしておいた方がいいだろう。

 雪梅が犯罪者扱いなのは間違いないし、張機の家に出入りしているところを見られでもしたら面倒だ。

「それに関してなんだけど……劉表様から高価な玉を押し付けられてて……」

「玉?」

「それで兵たちの上司を買収しろって言われたんだ。『助けた雑仕女が気に入ったから妾にする。犯罪歴があるのは不都合だから無かったことにしてくれ』と頼めって」

 許靖はそのありそうな話に苦笑した。

 多少の権力を持った男が困っている女を助けた。男は女に惚れ、女も助けてくれた男に悪い気持ちはない。

 権力と賄賂を使って妾にする。誰もが鼻で笑って納得する話になるだろう。

「なるほどな。それなら雪梅さんを家に置いておいても大丈夫そうだな」

 許靖も完全に納得したが、当の張機は完全に困り顔だった。

「いや、でもさ……」

「なんだ?何か問題があるか?」

「賄賂って、どうんなふうにやったらいいか分からなくて……」

 それを聞いた許靖はそういえば、という顔をして、張機とよく似た顔になった。

 そんな二人の様子に、雪梅は思わず笑ってしまった。

「ふふふ……ごめんなさい、失礼いたしました」

「え?何か可笑しなことありました?」

「いえ、こんな時代にこんなお役人様もいらっしゃるんだなと思いまして」

「あぁ、まぁ……確かに僕も許靖も少数派かもしれませんね」

「私、張機様のところでお世話になれて本当に良かったです」

 雪梅は張機の首に回していた腕に少し力を込めて、体を押し付けた。

 未だ女を知らない張機はドキリとして、思わず振り返ってしまう。

 ただなぜか、背中の柔らかい感触よりもチラリと視界に入ったそばかすの方が張機の心を動揺させた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

大和型戦艦4番艦 帝国から棄てられた船~古(いにしえ)の愛へ~

花田 一劫
歴史・時代
東北大地震が発生した1週間後、小笠原清秀と言う青年と長岡与一郎と言う老人が道路巡回車で仕事のために東北自動車道を走っていた。 この1週間、長岡は震災による津波で行方不明となっている妻(玉)のことを捜していた。この日も疲労困憊の中、老人の身体に異変が生じてきた。徐々に動かなくなる神経機能の中で、老人はあることを思い出していた。 長岡が青年だった頃に出会った九鬼大佐と大和型戦艦4番艦桔梗丸のことを。 ~1941年~大和型戦艦4番艦111号(仮称:紀伊)は呉海軍工廠のドックで船を組み立てている作業の途中に、軍本部より工事中止及び船の廃棄の命令がなされたが、青木、長瀬と言う青年将校と岩瀬少佐の働きにより、大和型戦艦4番艦は廃棄を免れ、戦艦ではなく輸送船として生まれる(竣工する)ことになった。 船の名前は桔梗丸(船頭の名前は九鬼大佐)と決まった。 輸送船でありながらその当時最新鋭の武器を持ち、癖があるが最高の技量を持った船員達が集まり桔梗丸は戦地を切り抜け輸送業務をこなしてきた。 その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。 それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。 ~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。 この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。 桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。

鈍亀の軌跡

高鉢 健太
歴史・時代
日本の潜水艦の歴史を変えた軌跡をたどるお話。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

戦国の華と徒花

三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。 付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。 そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。 二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。 しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。 悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。 ※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません 【他サイト掲載:NOVEL DAYS】

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

処理中です...