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短編・中編や他の人物を中心にした物語
医聖 張仲景12
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「それで、どうして雪梅さんが張機の家に住むことになったんだ?」
張機と合流した許靖は、張機本人ではなくそのやや後ろに目を向けて尋ねた。
そこには雪梅が背負われている。
三人は張機の家へ向かい、通りを歩いていた。
許靖が劉表の屋敷に着いたところで二人が出てきたのだ。張機は許靖を見るなり、
『とりあえず僕の屋敷へ行く。道すがら話すよ』
と言われてついて来ていた。
「だからさ、劉表様は準備が整い次第、洛陽から逃亡されるんだよ。でも雪梅さんは足を怪我してるから逃げるのには足手まといになってしまうだろ?それで僕の家でしばらく面倒見てくれないかって頼まれて」
許靖は友人の的外れな回答に眉を寄せた。
同期だからよく知った男なのだが、たまにこんなことがある。
「いや、だからそういうことじゃなくて……」
「ああ、使用人の雪梅さんまで逃げる必要があるのかって話?それなんだけど、近く党錮の禁の対象範囲が広がるらしいんだ。今までは本人だけだったのが、一族郎党まで対象になるんだって」
実はその噂は許靖も聞いたことがあるから承知している。
史実として党錮の禁は第一次と第二次の二回に分けられるのだが、第二次より七年も経ってからわざわざ一族郎党まで範囲が広げられた。
執念深いというか、恨みがましいというか、しつこいというか……宦官たちの性格的傾向がよく分かるようで、面白い話ではある。
ただ、許靖のした質問の要点はそこではない。
「いや、だからな……こう言ってはなんだが、張機は今日たまたまああいう場面に出くわしただけだろう」
要は、そこまでするだけの義理があるのか?、と問いたいわけだ。
張機は別に劉表と懇意にしていたわけでもないし、無理を頼まれるような間柄ではない。
むしろ使用人を助けてやった分の恩があるはずなのに、さらなる面倒事を押し付けられている。
しかも下手をすると宦官たちの権力で身を滅ぼされかねないような面倒事だ。
雪梅自身はその点よく理解しているようで、張機の背で小さくなっていた。
申し訳無さそうにうつむき、消え入りそうな声と共に頭を下げた。
「あの……張機様……やはりこれ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきません。そこらの道端に下ろしておいてください」
張機は肩越しに振り返り、わざと笑い声を上げた。無論、雪梅の心情に気を遣ってのことだ。
「あっはっは!ご心配なく、雪梅さん。許靖はこんなこと言ってますけど、もし僕が雪梅さんを置いていったら自分が背負って自分の家まで連れて帰る男です。そういうやつなんですから」
言われた許靖自身も多分そうするだろうと自分で分かるから、眉をしかめて閉口した。
ただし、もし自分が本当に連れて帰ることになったら一点大きな懸念が持ち上がる。
「でも許靖の奥さんは結構な焼きもち妬きらしいから、やっぱり僕が連れて帰りますよ」
そこまで内心を暴露されてしまうと、許靖はそれ以上の反対意見を言えなくなる。
とはいえ、何の対策もせずに雪梅を受け入れるのはさすがにどうかと思われた。
「せめて雪梅さんを追っていた兵たちには何か処置をしておくべきだと思うが……ただの窃盗犯だと思われてるのは幸いだったが」
意外なことだったが、兵たちは劉表との関係を疑って追ってきたわけではなかったそうだ。
雪梅は兵に見つかった際、高級品の筆と硯を手に持っていた。それでただの手癖が悪い雑仕女だと思ったようだ。
その兵たちは雑仕女の小犯罪よりも、官僚に怪我をさせたことに恐怖していたらしい。張機の予想通り、すごすごと帰って行くその顔は随分と青ざめていたという。
兵たちも結構な怪我だったので許靖が、
『張機が帰ってきたら治療させよう』
と言ってやったのだが、身を低くして後ずさるばかりだった。名前や部隊名を聞かれる前に去りたい、というのが本音だったのだろう。
(雪梅さん、間者をやるだけあって抜け目ないな。普通の女性というわけではないようだ)
許靖は張機から事情を聞いて、まずそう感じた。
とはいえ、一応は兵たちには何らかの対処をしておいた方がいいだろう。
雪梅が犯罪者扱いなのは間違いないし、張機の家に出入りしているところを見られでもしたら面倒だ。
「それに関してなんだけど……劉表様から高価な玉を押し付けられてて……」
「玉?」
「それで兵たちの上司を買収しろって言われたんだ。『助けた雑仕女が気に入ったから妾にする。犯罪歴があるのは不都合だから無かったことにしてくれ』と頼めって」
許靖はそのありそうな話に苦笑した。
多少の権力を持った男が困っている女を助けた。男は女に惚れ、女も助けてくれた男に悪い気持ちはない。
権力と賄賂を使って妾にする。誰もが鼻で笑って納得する話になるだろう。
「なるほどな。それなら雪梅さんを家に置いておいても大丈夫そうだな」
許靖も完全に納得したが、当の張機は完全に困り顔だった。
「いや、でもさ……」
「なんだ?何か問題があるか?」
「賄賂って、どうんなふうにやったらいいか分からなくて……」
それを聞いた許靖はそういえば、という顔をして、張機とよく似た顔になった。
そんな二人の様子に、雪梅は思わず笑ってしまった。
「ふふふ……ごめんなさい、失礼いたしました」
「え?何か可笑しなことありました?」
「いえ、こんな時代にこんなお役人様もいらっしゃるんだなと思いまして」
「あぁ、まぁ……確かに僕も許靖も少数派かもしれませんね」
「私、張機様のところでお世話になれて本当に良かったです」
雪梅は張機の首に回していた腕に少し力を込めて、体を押し付けた。
未だ女を知らない張機はドキリとして、思わず振り返ってしまう。
ただなぜか、背中の柔らかい感触よりもチラリと視界に入ったそばかすの方が張機の心を動揺させた。
張機と合流した許靖は、張機本人ではなくそのやや後ろに目を向けて尋ねた。
そこには雪梅が背負われている。
三人は張機の家へ向かい、通りを歩いていた。
許靖が劉表の屋敷に着いたところで二人が出てきたのだ。張機は許靖を見るなり、
『とりあえず僕の屋敷へ行く。道すがら話すよ』
と言われてついて来ていた。
「だからさ、劉表様は準備が整い次第、洛陽から逃亡されるんだよ。でも雪梅さんは足を怪我してるから逃げるのには足手まといになってしまうだろ?それで僕の家でしばらく面倒見てくれないかって頼まれて」
許靖は友人の的外れな回答に眉を寄せた。
同期だからよく知った男なのだが、たまにこんなことがある。
「いや、だからそういうことじゃなくて……」
「ああ、使用人の雪梅さんまで逃げる必要があるのかって話?それなんだけど、近く党錮の禁の対象範囲が広がるらしいんだ。今までは本人だけだったのが、一族郎党まで対象になるんだって」
実はその噂は許靖も聞いたことがあるから承知している。
史実として党錮の禁は第一次と第二次の二回に分けられるのだが、第二次より七年も経ってからわざわざ一族郎党まで範囲が広げられた。
執念深いというか、恨みがましいというか、しつこいというか……宦官たちの性格的傾向がよく分かるようで、面白い話ではある。
ただ、許靖のした質問の要点はそこではない。
「いや、だからな……こう言ってはなんだが、張機は今日たまたまああいう場面に出くわしただけだろう」
要は、そこまでするだけの義理があるのか?、と問いたいわけだ。
張機は別に劉表と懇意にしていたわけでもないし、無理を頼まれるような間柄ではない。
むしろ使用人を助けてやった分の恩があるはずなのに、さらなる面倒事を押し付けられている。
しかも下手をすると宦官たちの権力で身を滅ぼされかねないような面倒事だ。
雪梅自身はその点よく理解しているようで、張機の背で小さくなっていた。
申し訳無さそうにうつむき、消え入りそうな声と共に頭を下げた。
「あの……張機様……やはりこれ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきません。そこらの道端に下ろしておいてください」
張機は肩越しに振り返り、わざと笑い声を上げた。無論、雪梅の心情に気を遣ってのことだ。
「あっはっは!ご心配なく、雪梅さん。許靖はこんなこと言ってますけど、もし僕が雪梅さんを置いていったら自分が背負って自分の家まで連れて帰る男です。そういうやつなんですから」
言われた許靖自身も多分そうするだろうと自分で分かるから、眉をしかめて閉口した。
ただし、もし自分が本当に連れて帰ることになったら一点大きな懸念が持ち上がる。
「でも許靖の奥さんは結構な焼きもち妬きらしいから、やっぱり僕が連れて帰りますよ」
そこまで内心を暴露されてしまうと、許靖はそれ以上の反対意見を言えなくなる。
とはいえ、何の対策もせずに雪梅を受け入れるのはさすがにどうかと思われた。
「せめて雪梅さんを追っていた兵たちには何か処置をしておくべきだと思うが……ただの窃盗犯だと思われてるのは幸いだったが」
意外なことだったが、兵たちは劉表との関係を疑って追ってきたわけではなかったそうだ。
雪梅は兵に見つかった際、高級品の筆と硯を手に持っていた。それでただの手癖が悪い雑仕女だと思ったようだ。
その兵たちは雑仕女の小犯罪よりも、官僚に怪我をさせたことに恐怖していたらしい。張機の予想通り、すごすごと帰って行くその顔は随分と青ざめていたという。
兵たちも結構な怪我だったので許靖が、
『張機が帰ってきたら治療させよう』
と言ってやったのだが、身を低くして後ずさるばかりだった。名前や部隊名を聞かれる前に去りたい、というのが本音だったのだろう。
(雪梅さん、間者をやるだけあって抜け目ないな。普通の女性というわけではないようだ)
許靖は張機から事情を聞いて、まずそう感じた。
とはいえ、一応は兵たちには何らかの対処をしておいた方がいいだろう。
雪梅が犯罪者扱いなのは間違いないし、張機の家に出入りしているところを見られでもしたら面倒だ。
「それに関してなんだけど……劉表様から高価な玉を押し付けられてて……」
「玉?」
「それで兵たちの上司を買収しろって言われたんだ。『助けた雑仕女が気に入ったから妾にする。犯罪歴があるのは不都合だから無かったことにしてくれ』と頼めって」
許靖はそのありそうな話に苦笑した。
多少の権力を持った男が困っている女を助けた。男は女に惚れ、女も助けてくれた男に悪い気持ちはない。
権力と賄賂を使って妾にする。誰もが鼻で笑って納得する話になるだろう。
「なるほどな。それなら雪梅さんを家に置いておいても大丈夫そうだな」
許靖も完全に納得したが、当の張機は完全に困り顔だった。
「いや、でもさ……」
「なんだ?何か問題があるか?」
「賄賂って、どうんなふうにやったらいいか分からなくて……」
それを聞いた許靖はそういえば、という顔をして、張機とよく似た顔になった。
そんな二人の様子に、雪梅は思わず笑ってしまった。
「ふふふ……ごめんなさい、失礼いたしました」
「え?何か可笑しなことありました?」
「いえ、こんな時代にこんなお役人様もいらっしゃるんだなと思いまして」
「あぁ、まぁ……確かに僕も許靖も少数派かもしれませんね」
「私、張機様のところでお世話になれて本当に良かったです」
雪梅は張機の首に回していた腕に少し力を込めて、体を押し付けた。
未だ女を知らない張機はドキリとして、思わず振り返ってしまう。
ただなぜか、背中の柔らかい感触よりもチラリと視界に入ったそばかすの方が張機の心を動揺させた。
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