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短編・中編や他の人物を中心にした物語

怪盗と女傑 玲綺の場合

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時は遡り、呂布の死から二年が経った頃。

***************

(ふむ……馬乳酒というのも、まぁ悪くはないな)

 解登カイトウは食堂の隅の卓につき、今しがた喉に流し込んだ酒を見下ろしていた。

 手の中の椀は白濁の液体で満たされている。わずかに発泡しているのは、馬乳酒が微炭酸の飲料であるからだ。

(酸味が強く、独特の香りがある。好みの分かれる酒ではあるな)

 ただ、解登は嫌いではない。だから悪くないと思った。

(酒としてあまり強くないのも助かるところだ)

 馬乳酒のアルコール度数は一パーセント程度で、葡萄酒と比べるとだいぶ低い。

 解登は強い酒を多く飲むと翌日に後悔する。そのおかげで酒に溺れることがないのだから、必ずしも悪い体質ではないと思ってきた。

 しかしあまり量を飲めないのは残念で、その点この馬乳酒なら気の済むまで飲めそうで良いと思う。

(わざわざ本場に近い并州へいしゅうまで足を伸ばしたかいがあったとというものだ)

 解登が今いるのは并州のとある街の食堂だ。

 馬乳酒は北方の騎馬民族がよく作る酒だから、北端の州である并州へ来てみたのだった。

 数年前、二度目の捕縛の憂き目に遭った時、解登は葡萄酒を飲んで世界にはまだ己の知らぬことが多いのだということを知った。

 その後すぐにまた脱獄できたのだが、それからは怪盗 龍としてただ富豪から盗むだけでなく、こうして漢の各地を巡って見聞を広げている。

(それに、こうしてあちこちを回っていれば師匠からの餞別が見つかるかもしれない)

 そういう気持ちもあって広範囲を動いていた。

 餞別とは、あるせいぬ師匠が去る時に置いていってくれた銀の食器だ。

 異国の彫刻がなされた杯、皿、匙の三点一揃えだが、今のところその所在は分からない。

(異国の銀器……なかなか見ない品だし、各地の富豪の宝物を物色していればあるいは)

 そんなことを考えながら馬乳酒に再び口をつけていると、店内の他の客たちの話し声が聞こえてきた。

「やめとけよ。あの集落からは絶対に盗めねぇって」

(絶対に盗めない?)

 その言葉に解登の耳は敏感に反応した。怪盗 龍として聴き逃せない一言だ。

 目を向けると、二人組の男たちが解登と同じように馬乳酒を飲みながら話している。

「そうなのか?ごく普通の集落だと思ってたんだが」

「ああ、ごく普通の集落だよ。自警団がいる以外はな」

「自警団くらい、普通の集落でもいるだろ」

「それがそこの自警団は普通じゃないんだよ。集落の規模に対して大きいだけじゃなく、腕利きが揃ってるらしい」

「なるほどな。でも絶対に盗めないってのは言い過ぎじゃないか?」

「いや、あそこの自警団は本当に優秀らしいんだよ。しかもしばらく前にかなりヤバい夫婦が帰って来たとかで、俺らみたいのは絶対に近づかない方がいいって話題になってる」

「夫婦?ってことは、女の方もヤバいってことか」

「むしろ女のほうかヤバいって噂だぜ。何年か前に略奪に入った奴らがいたんだが、その女に一寸刻みに刻まれたって話だ」

「一寸刻み?」

「そうだ。縛って抵抗できなくした上で、ただただ無表情に肉を刻んでいくらしい。泣いても命乞いしてもまるで反応なし。ひたすら剣を振り続けられるんだとよ」

「完全にヤバい女だな……」

 そこまで聞いて、解登は苦笑してしまった。

 一寸刻みに刻まれて生きている人間などいないだろう。死人が証言できるわけないのだから、この噂話は完全に嘘ということになる。

(とはいえ、『絶対に盗めない』という評判は見過ごせないな。世に怪盗 龍がいる限り、そのようなものが存在して良いわけがない)

 そういう矜持に突き動かされて、解登はその集落へ向かうことにした。

(絶対に盗んでやるぞ)


***************


(……と思って来たのだが、まさか盗むものがないとは)

 解登は集落の中を回りつつ、そのことに困ってしまっていた。

 くだんの集落に来たはいいが、怪盗 龍の標的になるような宝がないのだ。

 解登は貴金属や美術品を扱う商人として集落に潜入した。それらしく見えるよう、変装も五十前の落ち着いた男性を選択している。

 そうやって高級品の買い取りを持ちかける体で村の宝を探った。しかし大したものがない。

 そもそも集落の長からしてさして裕福でもないのだ。

(自警団に投資している分、普通の村長よりも貧しいという話だったな)

 長のかがみともいえる人間だが、怪盗 龍としてはそんな人間から盗むことなどできない。それは解登の目指す華麗さとは全くそぐわないのだ。

 解登がため息をついていると、巡回の自警団員から声をかけられた。

 どういう人間で何のために来ているのか、団員はそんなことを尋ねてくる。

 解登は集落へ入る時に渡された札を見せながらそれに答えた。この札も警備の一環という話だった。

(確かに自警団はしっかりしているな。もし盗みに入るのなら、手応えのある仕事になっただろうに……)

 残念には思うものの、仕事の対象がなければどうしようもない。

 自警団員から開放された解登はまたため息をつきながら歩を進めた。

 もうこれ以上この集落にいても仕方ないのだが、一応は商人としての行動を一通りしておかなければ怪しまれる。

 そこは職人芸として、村人に売買の声をかけながら一回りはすることにした。

(とはいえ、裕福な人間のいない村だ。高級品を扱う商人に化けていても客などいないだろう)

 そう思って歩いていたのだが、意外にも客がいた。しかも、わざわざ走ってまで追いかけてきた。

「あの、色々な物の買い取りをされていると伺ったのですが……」

 現れたのは中年の女だったが、走ったせいで赤くなった頬がまるで少女のようだった。

 しかも可愛らしい無邪気な笑い方をするものだから、いっそう幼げに見える。

「うちでいくつか処分したいものがあるんです。良かったら、見に来ていただけませんか?」

 化けている解登としては断るわけにはいかない。商人らしい愛想の良い笑顔を返した。 

「もちろん、喜んで」

 その女に連れられて行くと、家は中身をひっくり返したような様相になっていた。様々な物が床に散乱している。

 と言っても、別に空き巣などが入ったわけではない。解登にも事情はすぐに察せられた。

「ああ、お引っ越しをされるのですか」

 そのために家中の物という物を全て出し、整理しているようだった。

「そうなんですよ。近くこの村を出ていく予定なんですが、全部は持っていけそうにはないので……重いものは処分して貴金属にでも換えようと思ってるんです」

 そう答えた女へ、家の奥から声がかかった。

「奥様、この棚は川沿いの新婚さんにあげるんでしたよね?もう持って行っちゃいますよ」

 そう言いながら現れたのは若い男だった。

 かなり鍛えているのか、板の分厚い重そうな棚を軽々と抱えて来た。

「あ、龐舒ホウジョちゃんちょっと待って。この方が色々な物を買い取ってくださるらしいから、先に売却候補になってた物を持ってきてちょうだい」

 龐舒と呼ばれた男は棚を下ろし、そこで初めて解登を見た。それから頭を下げてくる。

「ああ、どうも。商人さんですか?ちょうど良かった。壺とか、それなりの値打ちはあるけど持ち運びが面倒なものが結構あるんです」

 解登は会釈を返しながら、念のため断りを入れた。

「ぜひお見せください。ただ私が扱うのは、例えば壺なら美術品としての価値があるものなどに限られますので……」

 ただの壺など買えと言われたら面倒だ。むしろさっさと去りたいのだから対象商品を絞った方が良い。

 しかし龐舒の方は一つうなずいただけで話を進めた。

「それなら多分大丈夫ですよ。ここに持ってきてもいいけど隣りの部屋にまとめてありますから、こっちに来てください」

 言われた通り隣りの部屋に行ってみて、解登は正直驚いた。

 龐舒が大丈夫と請け合った通り、美術品として素晴らしい壺が置いてあったのだ。

 いや、壺だけではない。玉の彫物や金銀の宝飾品、見事な書画などもあった。この集落には不似合いな宝物の数々が並んでいるのだ。

「これは……素晴らしい。どれも美術、工芸品として一級の価値があります」

 解登は怪盗 龍として良いものをたくさん見てきている。目が肥えているので、こういった審美眼には自信があった。

「この村にこれほどの富豪がいらっしゃるとは思いませんでした。羨ましい限りです」

 そう言いながら、内心では引っ越しまでに予告と盗みが完了できるかを検討し始めていた。

 まさかそうとは思わない龐舒は明るく笑って首を横に振った。

「富豪なんかじゃないですよ。本当に、謙遜とかでもなく」

「いやいや、これほどのものを持ってらっしゃって……」

「確かに結構な価値かもしれませんけど、ここから交州までの旅費を捻出しないといけないのでかなり減ります」

「……交州?」

 解登は思わず聞き返した。

 ここ并州は漢の北端で、交州は南端になる。相当な距離の移動だ。

「交州へ引っ越されるのですか。国の端から端まで縦断するのですから、結構な旅費になるでしょうね」

「そうなんですよ。それに向こうでの生活基盤を整えるのに必要な銭を考えたら、富豪だなんてとても言えません」

 解登は龐舒の話を聞き、怪盗 龍としてこの家の宝を狙うことを諦めた。

 解登の見たところ、旅費などを考えてもそれなりの余裕がありそうではある。しかし少なくとも富豪とまでは言えそうにない。

(ならばせっかくだし、めぼしい物は普通に買い取ってやるか)

 盗んだものでなくとも、本物の美術品は心を豊かにしてくれる。それに上手く転売すれば怪盗 龍としての活動資金にもなるだろう。

 そのつもりで部屋をあらためて見回した解登だったが、その目が部屋の隅でピタリと止まった。

 そこには一匹の犬が寝そべっている。この家の飼い犬なのだろうが、見たことのない犬種でつぶらな瞳と豊かな毛並みが非常に愛らしい。

 ただし解登の目が止まったのは犬がいたからでも、その犬が可愛かったからでもない。

 犬が小さな木箱を抱くようにして丸まっていたからだ。

 それは解登がずっと探し求めていた師匠からの餞別の品、銀の匙が収められていた木箱だった。


***************


 二年前、呂布は曹操へ降伏する前に、逃げる家族へ結構な量の宝物を持たせた。逃亡後の生活資金にするためだ。

 どうせ降伏後は曹操の懐に入るのだから、惜しむ必要は全くない。

 龐舒ホウジョ玲綺レイキ魏夫人ギフジンの三人はそれらを馬に積めるだけ積んだ。重くはあったが、もし逃走中に追われれば目くらましに撒きながら逃げようという算段もあった。

 しかし実際にはそういったこともなく、気づかれないまま無事に包囲を抜けることに成功した。

 そして三人は宝物を抱え、以前に暮らしていた并州の集落へと落ち延びていった。

 ここは大して裕福でないにも関わらず、強力な自警団が組織されている。だからこの乱世でも比較的治安がいいし、玲綺と龐舒は頼りにもされていた。

 思った通り集落は三人を快く迎え入れてくれて、それからは平穏無事に過ごせている。

 龐舒と玲綺は自警団の一員として、また団員たちの教官としても働いた。

 呂布に鍛えられた二人は集落の誰よりも強く、龐舒は軍にいたから武装組織の運営知識もある。集落にとって極めて有用な人材だ。

 村人たちから喜ばれ、慕われる生活は良いものだった。

(幸せな結婚生活……だったんだろうな)

 玲綺は村長の家からの帰り道、この二年間を振り返りながら空を見上げた。

 今歩いている道から空を見上げると、山の形が天の色に映えて一番美しい。だから玲綺はこの道が好きだった。

 龐舒と二人でこの道を散歩し、母の待つ家まで歩く時間が何よりも幸せだった。

 もちろんそこに父もいてくれたらと何度も思ったが、超現実主義者の父なら、

『そんな無駄な感傷に浸るよりも、現実に対処すべく行動しろ』

というようなことを言ってくるだろう。

 夫婦でそんな話をして笑い合い、父を偲んで互いを慰め合った。

(一生ここで、こんなふうに暮らしていけたら……)

 玲綺は本気でそう思っていたのだが、そうもいかない状況が現れた。

 乱世の情勢が思わぬ方へと転がってしまったのだ。

官渡かんとの戦い、か……)

 世間でそう呼ばれる袁紹・曹操の戦がつい先日その幕を下ろした。結果は曹操の大勝だ。

 戦力的に圧倒的不利だった曹操が袁紹を下してしまったのだ。まだ袁紹は存命だが、再起が簡単でないほどの大敗を喫した。

 玲綺たちのいる并州は今のところ袁紹の勢力範囲なのだが、曹操がこのまま袁紹を飲み込むようなら曹操の支配地になってしまう。

 そして呂布ほど曹操を苦しめた人間もいないから、その家族は皆殺しにされてもおかしくはない。最悪、集落にまで迷惑がかかる可能性もあるだろう。

 それで玲綺たちは悩み、家族で様々話し合った結果、この地を後にすることにした。

 目指すは曹操の手が伸びづらいであろう南、交州だ。もし曹操が完全勝利をおさめたならば、まずは袁紹の勢力圏だった北を落ち着かせることを優先するだろう。

「交州か……まぁ正直ほとんど知らない土地だけど、もう踏み出しちゃったし。なんとかなると思って行くしかないわね」

 玲綺は小さくつぶやいて、また空を見上げた。

 先ほど村長の家に行っていたのは、龐舒と玲綺が抜けた後の自警団について細々したことを話すためだ。

 ここの自警団は二人がいなくなっても十分やっていけるだろうが、いる前提の体制になっているから多少の見直しや引き継ぎが必要だった。

 しかしこれで世話になった集落に対してやらなければならない事はほぼ終わった。あとは本当に自分たちの準備や片付けになる。

「もうだいぶ終わったかしら?」

 龐舒の馬鹿力なら家具の片付けもすぐだろう。

 家が見えてくると、思った通り人にあげる予定の家具がいくつも外の荷車に乗せられていた。

(……ん?誰かいる?)

 玲綺は父に似て感覚が鋭敏だ。屋内の話し声を聞き取り、龐舒と魏夫人以外の人間がいることを悟った。

(ああ、そういえば村長さんが商人が来てるって言ってたわね)

 おそらく不用品の買い取りを頼んでいるのだろう。

 そう検討をつけた玲綺は玄関前を素通りし、話し声のする部屋の外へと向かった。

 すぐに入らなかったのは、人の好い二人が安く買い叩かれていないかこっそり調べるためだ。

(一応、言い聞かせてはいるけど)

 玲綺から売るべき物とその相場は伝えているのだが、下手を打っていないか確認し、もしそうなら今後を考えて説教してやろうと思った。

 窓からそっと中を見ると、二人と貂蝉チョウセンの他に壮年の男がいる。いかにも商人らしい愛想笑いを浮かべていた。

「こちらの銀の匙でしたら、かなりの玉と交換してさしあげられます。いかがでしょう、ご再考くださいませんか?」

 商人は小さな木箱を手に、二人へそう声をかけていた。

(銀の匙?……ああ、そういえば異国の彫刻がされた銀の匙があったわね)

 玲綺はそれを思い出した。

 めったに見ないものなので価値はよく分からないが、とりあえず今回の売却対象には入っていない。

 売るのは重い物、大きな物で、持ち運びに困らない匙などはむしろ一番に所持していたい資産だ。

(それになんとなくだけど、良いものだってことは分かるのよね)

 ただ銀器というだけでも価値はあるが、彫刻の見事さを思うとそんじょそこらの一品ではないように感じられた。

 魏夫人は龐舒と顔を見合わせ、困り顔で商人に答えた。

「ごめんなさい。繰り返しになるけど、それは今回売るつもりのない物なんです」

 龐舒も魏夫人の言うことに相槌を打った。

「そうなんですよ。それにたくさんの玉に替えてもらったところで、そっちの方が重くてかさばりますしね」

 玲綺は二人の返答に満足したが、商人には不満だったらしい。愛想笑いをいっそう深めて言葉を重ねた。

「ですが今お売りいただいた方がお得なのは保証いたしますよ。このような異国の品は正当な評価を下せる人間が少ないのです。もし私にお売りくださるなら、このくらいのお支払いが可能ですが……」

 龐舒と魏夫人は商人が見せた玉の数と大きさに息を飲んだ。確かに結構な額ではある。

 しかし、それでも玲綺は売るのに反対だった。

(つまり、あの銀の匙にはあれ以上の価値があるってことよね)

 商人はものを安く買って高く売るのが仕事だ。それが買おうとしているわけだから、提示された額以上の価値があると見ていいだろう。

 魏夫人は龐舒とまた顔を見合わせたが、やはり首を横に振った。

 ただし、その理由は玲綺が考えていたものとは別だった。

「……良いお話に聞こえるんですけど、娘が『これは売らない』って言ってたから売れません。勝手をするとすごく怒られるんです。だからごめんなさい」

 龐舒もまたそれに同意してうなずく。

「そうなんですよ。最近の妻はどんどん父親に似てきてて、怒ると凄まじく怖いんです」

 さらに貂蝉が龐舒の言葉に同意するように、『わんっ』と歯切れよく鳴いた。

 玲綺は片頬を引きつらせ、窓の外から二人と一匹のことを睨んでやった。

 結果として己の望む通りに拒否されたわけだが、手放しで喜べない。

 ただ二人の物言いは商人にとっては効果絶大だった。

『家族に怒られるから』

 というのは、もはや断ることを決めている時の常套句だ。それ以上の働きかけもしづらい。

「そうですか……残念ですが仕方ありませんね」

 商人は肩を落として木箱の蓋を閉めた。

 ……のだが、

(あっ!!あの男、今袖に入れたわよね!?)

 それは目の良い玲綺でなければ気づかないような早技だった。

 蓋を閉める瞬間、指先で匙を弾いて己の袖の中へと飛ばしたのだ。

 角度的に龐舒と魏夫人からは見えないし、見えたとしても見逃してしまったかもしれない。

 それほど玄人芸だった。

(あの男、普通の商人じゃないわね)

 それは確かだと思えた。

 初めはきちんと買い取るつもりだったようなので、商人ではあるのかもしれない。しかし今の動きは常人にできるものではなかった。

 玲綺は早足で玄関へ回ると、何食わぬ顔で三人のいる部屋へと入った。

 そしてごく自然体で挨拶をする。

「ただいま~って、あれ?そちらは?」

 魏夫人と龐舒はなんの違和感も覚えず玲綺を迎えた。

「おかえり玲ちゃん。こちらは貴金属とか美術品とかの買い取りをされてる商人の方よ」

「ちょうどこの村に来てたらしいんだ。売りに行く手間が省けて助かったよ」

 玲綺は完全に今知ったという顔をして男へ会釈した。

「助かります。この壺なんか重いからさっさと処分したくて……」

 そう言って、壺を一つ抱えて男の前に置いた。

 男は慇懃に玲綺へ頭を下げてから、壺へと手を伸ばした。

「どうも、お邪魔しております。こちらの壺でしたら……」

 と、そこまで言ったところで、男の手は重力に引かれてだらりと下がった。

 完全に力を失っており、それを追うように体も頭も床へと吸い込まれていく。

 どうやら意識を失っているらしい。

 驚いた魏夫人がその背後を見ると、冷たい目をした娘が鞘ぐるみの剣を振り抜いていた。


***************


 解登は全身に何か冷たいものを感じて目を覚ました。

 目を開いてから、その冷たい何かは水なのだとすぐに気づいた。顔を伝う水が目に入ってきたし、視界の中には水桶を持った女がいる。

「起きた?」

 そう尋ねてくる女の声になんの感情も感じられず、解登は底知れぬを恐怖を覚えた。

 女はもちろん玲綺だ。

 玲綺は解登を縛り上げた上で、水をぶっかけてその目を覚まさせた。

「今どうなってるのか、何でこうなってるのかは分かるわね」

 確認のように言われたことだが、正直なところ解登は言われて初めて己の状態を理解した。

(ただ縛り上げられているだけじゃない。逆さに吊られている)

 そういう状況だった。

 手は後ろ手に縛られ、足に結ばれた縄で吊るされているのだ。縄は天井から下がった複数の滑車に伸びている。

 解登は無駄かも知れないと思いながら、まずはとぼけてみせた。

「あの……私はただの商人で……」

「ただの商人があんな手際で盗めるわけないでしょ。見てたのよ」

 玲綺は無駄話をするつもりがないから、二の句を継がせない調子でピシャリと言った。

 そしてすぐにこれからの処理の話をした。

「で、あんたが今からどうなるかだけど、それも分かるかしら?」

 解登は近くの街で聞いた噂を思い出した。

 この村に手を出した犯罪者は、自警団の恐ろしい女によって一寸刻みにされるという噂だ。

 玲綺は腰から剣を下げている。

 解登は思わずそれを見つめつつ、生唾を飲み込んだ。

 玲綺はその視線に気づき、剣の柄を指さした。

 それからその指先を剣から離し、解登の頭の上、というか逆さになっているから頭の下へと向けた。

 そこには水がなみなみと溜められた水槽があった。湯浴みできるほどの水槽だ。

「斬るんじゃなくて、そっちよ。案外察しが悪いわね」

 玲綺はそばにある縄へと手を伸ばし、巻き付けてある棒から外した。

 その縄は滑車を通り、解登の足へと繋がっている。

 解登の体は重力に引かれて下がり、腰下まで水に浸かった。当然、息はできない。

「ゴボゴボッ……ボッ……!!」

 空気を求めて体をねじるが、ギリギリで口が出なかった。

 苦しい。このままだとそのうち死ぬだろう。

 解登は本気で死を考え始めた時、玲綺はようやく縄を引いて解登を上げてくれた。

「ガハッ……ゴホッゴホッ!!」

「…………」

 玲綺は咳をする解登つまらなさそうに見下ろし、三つだけ数えてからまた縄を離した。

 咳の最中にいきなりそうされたものだから、解登は思い切り水を吸い込んでしまった。

 だからまた激しく咳き込んだのだが、顔の周りに空気はない。どうしようもなく苦しい状況になった。

(し、死ぬ……死んでしまう……)

 解登の意識が薄くなりかけた時、玲綺はまた縄を引いて水から上げてやった。

 が、それで息が整うどころか、咳が治まらないうちに再び水へと落とされる。

 また水を吸ってしまった解登は不覚といえば不覚だったが、こんな状況で正しい判断などできるわけがない。それに息を吸うのも咳をするのも生物としての反射だ。

 それから玲綺は解登が最も苦しくなるよう見計らい、何度も何度も水に出し入れした。

 意識を失ってしまうと楽になるから、そうなる直前に上げるよう心がけた。

「ゴボボボ…………ガハァッ、ゴホゴホッ……ゴボボボ…………ガハァッ、ゴホゴホッ……ゴボボボ…………」

(苦しい……死ぬ……苦しい……死ぬ……)

 解登の脳内にはすでに苦痛と死への恐怖の二つしかない。

 そして時が経つごとに苦痛の方が大きくなっていき、死への恐怖はやがて死への渇望へと変わっていった。

(苦しい……死ぬ……苦しい……苦しい……苦しい……苦しいのは……もう嫌だ……死にたい……)

 解登がついにそれを望み始めた時、玲綺はあることに気がついてその手を止めた。

 もちろん水から上げた時に止めてやった。

「あんた……何その顔?皮膚が剥がれてる?」

 何度も水に沈められたため、変装のために貼り付けておいた粘土が剥がれていた。

 玲綺はそれが気になって、いったん咳が収まるまで待ってやることにした。

「ゴホッ……ゴホッ……ゴホッ……ゴホッ……ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」

「よく分からないけど、ただのこそ泥じゃないのかしら?」

 ほとんど心を折りかけていた解登だったが、その単語への怒りで少し心を持ち直した。

「こ、こそ泥だと!?ゴホッ……わ、私はかの有名なる怪盗……怪盗 龍だぞ!?」

 その名を聞いた玲綺は脳内の記憶を探り、視線を虚空に漂わせた。

「怪盗 龍?……あー、そういえば聞いたことあるわね。なんか、わざわざ予告してから金持ちの宝を盗むんだっけ?」

「そ、そうだ。その怪盗 龍だ」

「でもうちは先々を考えたら金持ちとは言えないし、予告も受けてないわよ」

 ぐっ、と解登は言葉に詰まった。確かに今回の盗みは怪盗 龍らしくないものだった。

「……私にとっても不本意なことだったのだよ。あの銀の匙は尊敬する師匠からのいただきもので、私が一度捕縛された時に奪われたものなのだ。だからどうしても取り戻したかった」

「ふーん……?まぁ泥棒に言われても胡散臭い話にしか聞こえないけど」

「ふん……なんとでも言うがいい。しかし私はもし買い取れるものなら、いくら払ってでも買い取るつもりだった。別に信じてくれとは言わないが」

 玲綺は実際に解登が大量の玉を提示していたのを見ている。だから少しこの男の言うことを信じる気になった。

「じゃあそれはそういうことにしてあげるけど、だから盗んでいいってことにはならないわよね?」

「……だから私は殺されるわけか」

「え?いや、殺さないわよ?」

 その返事に解登は耳を疑った。しかし、この女は間違いなく殺さないと言った。

「な、何だと?しかしたった今……死の寸前を何度も往復させられたが……」

「本当に殺したらこの村の恐ろしさを吹聴してもらえないでしょ。でも死の寸前まで苦しめないと、恐ろしい村だと思ってもらえないし」

 解登は五度ほど瞬きしてから、ようやく目の前の冷酷女の意図を理解した。

 つまりこれは自分を殺すためではなく、村の治安を良くするために行われている行為なのだ。

 来た犯罪者を自警団の宣伝として使うようなものとも言える。

「なんだ……殺されはしないのか……」

 ほっと息をついた瞬間、解登の頭はまた水の中に落とされた。

「ゴッ……ゴボボボボッ……」

 またしばらくその状況に置かれた上で、意識が遠のく直前に上げられた。

「ガッ、ガハッ……ガハッ……」

「殺されはしないけど、殺された方がマシだとは思わせるわよ」

「ヒッ……ヒィッ……」

 解登は玲綺への恐怖のあまり、引きつけるような音を喉から出した。

 殺されないからといって、安心などまるでできない。

(か、勘弁してくれ……)

 解登が祈るようにそう思った時、その祈りが誰かに届いたのか、玲綺は急に言葉をひるがえしてくれた。

「でも、もしあんたが私と契約するなら勘弁してあげてもいいかなって思い始めてるんだけど」

「け……けけけ……契約?」

 解登は聞き返したが、声が震えて上手く言葉にならない。

 しかしそんな相手には慣れている玲綺なので、全く気にせず話を続けた。

「それどころか、もし上手くいったらあの銀の匙をあげてもいいわよ」

 解登の心は少しだけ落ち着いたが、同時に眉をひそめた。

 恐怖の対象だった冷酷女が急にありがたいことを言い始めたのだ。その温度差に頭がついていかない。

「………どういうことだ?」

 玲綺はその質問に直接は答えず、解登の顔からぶら下がった変装用の粘度に視線を落とした。

「怪盗なんて馬鹿げたおとぎ話の存在みたいに思ってたけど……技術自体は本物だったわけね。それは使えるわ」

 玲綺はそう言って冷酷な表情を緩め、初めて笑みを見せた。

 その笑顔が美しいことは解登にも理解できるのだが、今は恐ろしい妖女が微笑んだようにしか見えなかった。


***************


「解登さんのおかげでとっても順調な旅になってます。本当に助かりました」

「いえ……まぁ……お役に立ててよかったです」

 魏夫人から無邪気に礼を言われた解登は、少し困り顔で笑った。

 手放しの笑顔になれないのは、一度この婦人から物を盗もうとしたからだ。

 しかし魏夫人はそのことに関して一切解登を責めず、しかも一切の含みもない態度を取っている。だから解登としても困ってしまうのだった。

 その魏夫人と解登、そして玲綺と龐舒の四人は馬を並べて街道を南下していた。

 荷運び用の馬も二頭いるから、計六頭の馬がいる。もちろん貂蝉も一緒で、こちらは荷の上で気持ちよさそうに昼寝中だ。

 別におかしなことはないが、それなりに大所帯になっているからどうしても目を引く一行になっているだろう。

 そういう自覚のある龐舒は、魏夫人ほど無邪気ではないにせよ改めて解登に謝意を伝えた。

「僕もここまで見事に関所を抜けられるとは思いませんでしたよ。ご協力、ありがとうございます」

 魏夫人たちが住んでいた并州は国の北端で、目指す交州は南端だ。そしてその間には曹操の支配地が広がっている。

 前述の通り魏夫人たちは曹操の仇敵一家ということで、捕まれば処刑されてもおかしくはない。

 そこをどうやって切り抜けるか頭を悩ましていたのだが、怪盗 龍の存在がこれを解決してくれた。

 関所や役所の上級役人に変装した解登が三人を先導したのだ。

 どこの役人もお偉いさんには弱い。解登が厳しい口調で一言、

『急いでいる』

と言えばなんの質問もなく通してくれた。

「私、感動しちゃいました。解登さんの変装って本当にすごいですよね。関所の人たちも誰一人疑わなかったし」

「僕もですよ。顔も声もあそこまで似せられるなんて、とても人間技とは思えません」

 魏夫人と龐舒は道中、同じ褒め言葉を何度も繰り返した。本当にそれくらい驚いたのだ。

 解登としてもこれに関しては何度褒められても嫌な気はしない。まんざらでもない顔で小さく胸を張った。

「まぁ怪盗 龍にかかればあのくらいの関所、無いも同然ですよ」

「頼もしいわ」

「なんなら関所どころか、曹操軍の軍営を歩いて横断してみますよ」

 おー、と魏夫人と龐舒の二人はパチパチ拍手した。

 その後ろでただ一人、玲綺だけが白い目を解登に向けている。

「二人とも、ちょっと気を許し過ぎよ。そいつは契約で私たちを手助けしてくれてるけど、そもそもはうちに入った泥棒なんだからね」

 解登はその言い草に腹が立ったが、何も言い返しはしない。

 本当のことではあるし、正直なところ水攻めにあってから玲綺のことが怖いのだ。

 魏夫人は相変わらず手厳しい娘を母としてたしなめた。

「こら、玲ちゃん。そんなこというもんじゃありません。たとえ契約でも解登さんはとっても頑張ってくださってるでしょう?」

 龐舒もそれに同意してうなずく。

「そうだよ。関所の度にしっかり下調べして、準備して、完璧な変装をしてくれてるじゃないか」

 解登のなす仕事はやろうとして即日できるわけではない。

 まず変装すべき対象を選定し、その人物の容姿や声、仕草などを調査し、それに化けるための準備をする。

 顔に貼り付ける粘土を作り、声や仕草を練習する。

 そうしてようやく関所を越えられるわけだが、その間魏夫人たちはただの旅人を装って街でのんびりするだけだ。

「なんだか私たちだけ楽してて、申し訳ないわ」

 そう言って土産など買って来てくれる魏夫人に、解登は幼い日に戦火で失った母を思い出した。

 それに野営した時に作ってくれる料理は母を思わせる温かい味だった。

 ただし、その娘は好きになれそうにないが。

「下調べも準備も、そういう契約だっていうだけよ。やり遂げたら窃盗未遂を見逃すし、例の銀の匙だってあげるんだから」

 玲綺の言うことは正しいが、だからといって腹が立たないわけではない。

 いくら相互利益の関係とはいえ、感謝されて働いた方が気分はいいに決まっている。

(母親と夫はこうまで人が好いのに、どうしてこの女はこうなってるんだ)

 そんなことを思いながらも、やはり文句は言わない。言った結果として何が起こるかを想像すると恐ろしい。

 玲綺は玲綺で、母と夫がお人好しすぎるから意識して厳しくしているのだ。

「とにかく妙なことは考えず、ちゃんと契約を履行することね。軍営を横断とかなんとか言ってたけど、私と龐舒は実際にその軍営を断ち割ってるんだから」

「……って言っても、呂布様に率いられてだけどね」

 龐舒はまるで謙遜するように言ったが、この夫婦の異常な強さは解登もすでに知っている。

 目の前で実戦形式の鍛錬などしているのを見たのだが、それなりに強いつもりの解登の目にも化け物に映った。

(とはいえ、人中の呂布の娘と弟子だからな……化け物くらいにはなるか)

 あらためてそれを思うとともに、見ぬままこの世を去った呂布という豪傑に思いを馳せた。

 と言っても、龐舒からすれば解登の技術も十分化け物並ではあるのだが。

 その龐舒は妻をなだめるように笑った。

「玲綺の心配が根拠のないことだとは言わないけど、関所はあと一つだよ?ここまで来て裏切ることなんてないだろ」

 次の関所を通れば曹操の支配地を抜けられる。

 それで龐舒は安心しているのだが、実はそのことが解登の心を焦がしていた。

(そうだ……あと一つ関を越えたら契約が完了してしまう。それはつまり、この玲綺という女に怪盗 龍が負けたということを意味する……)

 それは解登にとっては小さくない問題なのだった。

 これまで通りきっちり契約を果たせば銀の匙が返ってくることは分かっている。玲綺という女は冷たいが、むしろ契約はしっかりと履行する女に思えた。

 しかしそれでは怪盗として負けを認めるようなものなのだ。

 捕まり、拷問にあい、そして拒否できない状況で働かされた上で報酬を与えられる。

 屈辱だ。

(やはり怪盗は盗んでこそ怪盗……そしてそれこそが、怪盗 龍の華麗なる所以でもある)

 そう考えた解登は、今夜の野営に己の矜持をかけようと心に決めた。


***************


 人が音を立てずに活動するのは難しい。

 服を着ていれば嫌でも衣擦れの音はするし、移動すれば地面や床は音を出す。

 関節が鳴ってしまうこともあるし、呼吸も乱れれば人は敏感にそれを感じ取る。

 しかし解登はあるせいぬ師匠からそれらを極力減らす動き方を教わっていた。もし音がなる場合でも、人が気にならないような音になるように動けるのだ。

 解登は宵闇の中、その技術を駆使しつつ荷物の封を開けた。そして中の物を少しずつ出していく。

 この荷物のどの辺りに目指す銀の匙が入っているかは分かっている。玲綺は解登を警戒していたから、その動きからある程度察せられるのだ。

(焦るなよ、怪盗 龍……三人はしっかり寝入っている。落ち着いてやれば大丈夫だ)

 己にそう言い聞かせながら、はやる気持ちを抑えて指を動かした。

 焦ってしまうのは、玲綺のことが恐ろしいからだ。水攻めで植え付けられた恐怖で平常心を失いそうになった。

(しかし……ここで盗めれば怪盗 龍の勝ちだ)

 解登はそういう矜持を取り戻すため、恐怖と戦いながら荷物を漁っているのだった。

 魏夫人と龐舒のことはこの旅の中で好きになったから、最後まで助けてやりたい気持ちはある。

 しかしあの冷酷女に負けたままでいるのはどうしても我慢ならない。

 解登は己の技術の粋を尽くし、ほとんど音を鳴らさずに荷物を取り出していった。

 どうしても音が出る時にはあえて大きめの寝息を自ら出した。人は誰かと寝ている時、不思議と寝息の音なら気にならないものだ。

 そんな静かな努力の結果、ついに目的の木箱へと手が触れた。

(まだだ)

 解登はそれでも油断しなかった。玲綺は油断できるような女ではないと分かっている。

(……やはり、鈴が付いている)

 木箱に鈴の付いた紐が結び付けられていた。

 あの女ならこのくらいはやるだろうと思っていたのだ。

 解登はごく小さな革袋を取り出し、その先からドロドロした液体を鈴にかけた。麦の粉を濃く溶いたもので、これが鈴の中に入れば音は鳴らない。

(やった!!完全勝利だ!!)

 解登はゆっくりと木箱を上げながら、そう確信した。

 勝利の証をしっかり握りしめ、忍び足で三人から離れていく。

 魏夫人と龐舒に別れを言えないのは心残りだが、今はそれよりもあの冷酷女に勝った興奮の方が勝っている。

 解登はかなりの距離を進み、音が聞こえないところまで行ってからさらに走った。

 そして息が切れ、もういいだろうという所まで行ってようやく足を止めた。

「ハァ……ハァ……ハァ……師匠、あるせいぬ師匠、やりましたよ。ようやく取り戻しました」

 解登は夜空を見上げ、月に向かってそう報告した。遥か高い天が、遥か遠い師匠へと思いを届けてくれる気がしたからだ。

 そして蓋に手をかけ、ゆっくりと木箱を開けた。

 その中には月明かりに照らされて美しく光る銀の匙が収められている。

 ……はずだったのだが。

 中にあるのはただの紙切れ一枚だった。

 そしてその紙には、

『残念でした』

とだけ書かれている。

「なっ……!?」

 解登は絶句するとともに、己の不明を呪った。

 中身のすり替えだ。

 思えば何年か前、二度目の捕縛に遭った時にも同様の手で騙された。

「同じ轍をまた踏んでしまった……」

 自分自身に腹が立ったものの、まだ勝利を諦めたわけではない。

 三人はぐっすりと寝ていたし、今から戻って盗み直しても時間は足りるだろう。

 そう思って急いで野営の場所へと駆け戻った。

 少し離れたところで息を整え、木陰から三人の夜具を確認する。

 幸いなことに三つともまだ盛り上がったまま横になっていた。

(よ、よし!ここから仕切り直しだ!)

 解登が気合を入れ直して一歩を踏み出した瞬間、

 ゴッ

という音とともに、後頭部に重い衝撃を受けた。

 意識が急速に遠のいていく。

 倒れざま、解登の目には玲綺の夜具に荷物が詰められているのが映った。


***************


「起きなさい」

 冷水を浴びせかけたような声で解登は目を覚ました。

 そして反射的に言われた通り起き上がろうとした。

 が、起き上がれない。体を起こそうとしても両腕が引っ張られ、起き上がれないのだ。

「両手両足とも木にくくりつけてるから身動きは取れないわよ」

 見ると、確かに自分の手首足首から縄が伸びており、それが太い木にくくりつけられていた。全く動けない。

 その様子を解登がこの世で一番恐ろしいと思うもの、玲綺が冷たい表情で見下ろしていた。

 氷を思わせるような凍える視線が降ってくる。

 その右手にはなぜか布が握られ、足元には水桶が置かれていた。

「わ……私をどうする気だ?」

 解登は震える声で尋ねた。

 玲綺は相変わらずの無表情で答える。

「んー……村にいた時と違って、怖さを吹聴してもらう必要はないんだけど」

(な、ならあの時のような思いはしなくていいのか!?)

 そう思った解登だったが、玲綺の台詞は逆説の語尾を取っている。その続きをすぐに口にした。

「それでもあと一つ関所は残ってるし、絶対に裏切らないよう教育を施す必要はあるわね」

 どうやら予想通り、ただでは済まないらしい。

 恐怖に引きつる解登の顔へ、布がかけられた。

「な、何を……」

「こうするのよ」

 玲綺は足元の桶を持ち上げ、中の水を解登の顔にかけた。

 濡れた布が顔にへばりつき、鼻と口とを塞ぐ。

「モガ……グ……バハァ……!!」

 こうなると息を吐くことはできても、吸うことはできない。

 しかも強く息を吸い込もうとするものだから、口に入ってきた水が気管に入ってしまった。

「ゴホッ!ゴホッ!……バ……ボ……」

 苦しい。なんとか息を吸おうとするが、吸えば吸うほど布は強く張り付いて空気の通り道を塞ぐ。

 先日の水攻めとほとんど同じような状況になった。

「ボ……ボ……」

 息を吸おうとする音が虚しく響き、その中で解登の意識は薄れていった。

 が、それが完全に消える前に布が外され、呼吸を戻された。

「ガッハァ!!ハァ!ハァ!ハァ!」

 玲綺はそれから三つだけ数え、また顔に布をかけた。そして水をダバダバとかける。

 解登は苦しみのあまり全身を引きつらせ、ビクビクと海老のように背筋を反らした。

 その苦しみが最高潮に達した頃、玲綺は布を取って少しだけ息を吸わせてから、また布をかけ直して水を注ぐ。この繰り返しだ。

「も、もう勘弁して……ゴボボッ」

 玲綺は何を言われても、慈悲の欠片も見せずにただただ作業を繰り返していく。

 地獄だ。さしずめ玲綺は地獄の鬼といったところだろう。

 ただ地獄に仏とでもいうべきか、しばらくすると魏夫人と龐舒が起きてきて鬼の所業を止めてくれた。

 しかしその頃の解登はすでに、水音を聞くだけで震えてしまう体になっていた。
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