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短編・中編や他の人物を中心にした物語
選ばれた子、選ばれなかった子28
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徐林は村長になったにも関わらず、村を留守にすることが多かった。
今までやっていた商売を続ける方が圧倒的に稼ぎになるからだ。
(もちろんずっと続けるわけじゃないけど、村の財政にもう少し余裕がないと……)
奴隷寸前まで落ちぶれていた村だから非常に貧しい。まずは稼ぎを優先した。
徐林がいない間は前の村長と雹華に代役を任せている。
前村長の言うことなら村人たちはよく聞いたし、雹華は徐林の意向をよく理解してくれている。
村人の気持ちに配慮しつつ、揉め事を少なく、そして村を豊かにするという視点で二人が相談し、諸事うまく処理してくれた。
実際、雹華はこういうことのあしらいが上手かった。裁定に困る揉め事などあると、
「夫が帰ってくるまで待ってからにしましょう」
と言って、棚上げにする。
すると当事者たちは時間経過で頭も冷えるし、雹華が周囲に働きかけて外堀を埋める時間も作れる。
徐林が帰った頃には解決の筋道がついており、『うん』と返事するだけで済むことも多かった。
それに結婚後の雹華は徐林の影響か、女としてうまく立ち回ることの利点を理解したらしい。
状況次第で男を立て、上手に利益を受けながら、時に油断を突く。そういうことができる女は強い。
「雹華さえいれば、俺はずっと留守でも大丈夫そうだな」
「駄目よ。たとえ村が安泰でも月に一回は絶対に帰ってきて」
「月一回?なんで?」
「子作り」
女には月のうち、妊娠しやすい日というものがある。
もし雹華が若ければそんなこと気にせず好きに夫婦生活を送れば良かっただろう。
しかし女の三十五は現実問題として、『妊娠できる機会があと何回』と数えるような齢だ。少なくとも子供を強く望んでいるなら、そういう認識を持った方がいい。
だから雹華は夫に日取りを指定して、そこから数日は絶対に村にいてもらうよう厳命した。
「そんなに気にしなきゃなんないことかな?」
「当たり前よ。林だって子供が欲しいんでしょ?」
「俺が欲しいっていうか……父さんの遺言だからな」
徐林の子供に対する意識はその程度のものだった。あえて欲しいとも思わないが、父の命は守ろうと思う。
「でも昔うちの家事をやってくれてた信者のおばちゃん、四十過ぎで子供産んでたぞ?」
「そりゃそういう人もいるわよ。でも年齢とともに段々と妊娠しにくくなるのは確かなんだから」
徐林はあまり納得していなかったが、それでも妻の希望を叶えてやりたいとは思う。それに、この齢で覚えた子作りは楽しかった。
そういう二人の努力のかいもあり、雹華はほどなく妊娠した。
村人は誰もがおめでとうと言い、笑顔で喜んでくれた。
徐林と雹華は村を豊かにしてくれている。皆それが分かっていたから、この新しい村長夫婦を好きになっていた。
「この村は居心地がいいわね」
妻は幸せそうに言った。幸いなことに、悪阻はひどくないので比較的穏やかに過ごせている。
夫もそれに同意してうなずいた。もともと居心地がいいと思って少し長めに滞在した結果が今に繋がったのだ。
とはいえ世の中は相変わらずの乱世で、徐林たちの村がある漢中も戦乱と無縁ではない。
北からは曹操、南からは劉備に狙われ、村からも幾人か兵に取られている。しかも曹操はすでに軍を動かしていた。
ただ、漢中は天嶮のおかげで非常に防御力が高い。
つい先日も難攻不落の陽平関という関で張魯軍が曹操軍を破り、撤退させたという報を受けた。
この乱世を鑑みるに、徐林の生活環境はまだ穏やかな方だと言えるだろう。それが分かっているから、幸せを噛みしめるべきだと理解している。
ただ口には出せないが、徐林には常日頃から思っていることがあった。
(ここに父さんがいてくれたら)
叶うはずもない望みを空想し、もしそうなら天界にも勝る楽園がここにあるだろうと思った。
しかしそれはしょせん空想で、現実に戻った徐林は胸にポッカリと空いた穴を自覚せざるを得ないのだ。しかも穴からは身を切るような冷たい風が吹いてくる。
幸せだが、満たされない。そんな思いがあることを徐林は初めて知った。
(親を探して荒野をさまよう子供か……)
許靖という著名な人物鑑定家に言われたことを思い出す。
胡散臭いと感じたこともあったが、この胸の穴を見下ろすとやはり本物だったのだろうと思う。
(子供が産まれたら、本当にこの穴が塞がるのかな?)
まだ膨らみもあまり分からない妻の腹を見ていても、正直なところ何も感じない。
ただやはり家族がいる幸せは大きく、最近は夏侯淵のことを思い出すことも少なくなった。妻という幸せが憎しみを薄めてくれているようだ。
(もしかしたら、このまま憎しみを忘れられるのかもしれない)
そう思った矢先のことだった。
のどかな昼下がりに自宅で雹華とくつろいでいると、外から慌てた声で呼ばれた。
「じょ、徐林さん!!軍がやってきました!!この村の長を出せって!!」
軍と聞き、徐林はすぐさま流星錘を取り上げながら聞き返した。
「軍って、漢中の軍じゃないのか?」
「曹操軍の夏侯淵と名乗っています!!」
「なっ、なんだって!?」
徐林が急いで村の入口まで行くと、そこには数十騎の兵が整然と並んでいた。
その先頭に夏侯淵がいる。
「綝、久しぶりだな」
なんでもない挨拶を聞いただけなのに、徐林の胸の穴からはドス黒いものが溢れ出してきた。
それに背中を押され、睨み殺さんばかりの視線を送りつける。とても憎しみを忘れられるものではないと再認識した。
「お前……なんでここにいる?いや、何をしに来た?」
徐林は二つの質問のうち、後者の方を優先して聞き直した。村長として、村の安全をまず気にしてのことだ。
そういう小さな機微を感じ取った夏侯淵は、親として感慨深いものを覚えた。
「本当にこの村の長をやっているのだな。里正の一覧の中にお前の名を見つけた時はまさかと思ったが……」
「質問に答えろ」
「安心しろ、村には何もせん。私はお前と話をしたくて来ただけだ」
その回答に徐林はひとまずホッとしたが、世界で一番嫌いな人間に対して心地良い返事はできない。
「なら帰れ。俺はお前と話したいことなんてない」
「そう言うな。一つ目の質問に答えておくと、私は漢中を治める者としてここにいるのだ」
「漢中を治める!?……どういうことだ?曹操軍は陽平関で負けて漢中から撤退したんじゃないのか」
本当につい最近、そういう報を受けたのだ。しかもその戦場にいたという人間の言だったので、信憑性は高いと思っていた。
しかし曹操軍が逃げたのなら漢中に守将など置かれるはずがない。
夏侯淵は笑って経緯を教えてやった。
「ああ、本当に撤退しようとしてたんだがな。夜間の撤退中に張魯の軍に大量の鹿が迷い込んだのだ」
「鹿?」
「そうだ、鹿だ。それで混乱したらしい。奇襲だと思ったのだろう」
「そんなことで……」
「もちろんこれだけなら『そんなこと』で終わりだったが、丁度うちの馬鹿が夜間の撤退で道に迷ってな。偶然にも張魯軍の陣地に入り込み、しかも味方を呼ぼうと軍鼓を打ち鳴らしたらしい。それで本格的な大混乱に陥ったそうだ」
まるで他人事のように言う夏侯淵だったが、陽平関は難攻不落と言われた要衝だ。現に曹操は撤退しようとしていた。
それがこんな偶然で落とせたのだと思うと、笑うしかない。
「とはいえ、その機を逃さず再攻撃を進言した優秀な人材が我が軍にいた結果でもある。やはり勝ちは勝ちで、負けた張魯は南へ逃げていったよ。その内ここにもその報が届くだろう」
徐林は奥歯を噛み締めながら、今の話を信じるしかないと理解した。わざわざこんな嘘をつく理由がない。
つまり徐林が村長を務める村は、憎き養父の仇によって治められる村になるわけだ。
「……状況は分かった。村人には家から出ないよう指示しておくから、お前も兵たちに動かないよう命じてくれ。揉め事はごめんだ」
徐林はやはり村長として、まずそれを依頼した。
侵略軍と現地人だ。どんなきっかけで喧嘩になるか分からない。
「お前自身は物分かりがいいんだな。それなら兵たちは村の外で待機させ、村には私一人で入ろう。よければお前の自宅で話をさせてくれ」
そんなことを言い出した夏侯淵の袖を副官が引いた。
それから困り顔で首を横に振る。
夏侯淵の立場は今後の漢中の長ということになる。そういう人間がたった一人で動いていいわけがない。
が、夏侯淵は慣れた風にその手を払った。
「いい。ちょっと息子の家にお邪魔するだけだ」
その言葉に徐林はムッとしたものの、背を向けて一言だけ答えてやった。
「こっちだ」
二人が徐林の家に着くと、玄関で雹華が待っていた。
挙措を正し、初対面の義父へ静かな声で尋ねる。
「夏侯淵様でいらっしゃいますか?」
「そうだ」
肯定の返事を聞くと、慇懃に頭を下げて挨拶を口にした。
「お義父様、お初にお目にかかります。嫁の雹華と申します」
徐林は妻の言うことを咎めた。
「やめろ。こんなやつをお義父様なんて呼ぶんじゃない」
しかし雹華は夫を無視し、夏侯淵だけを見ながら言葉を続けた。
「お義父様がここに来られたということは、張魯様が敗れて曹操様がここ漢中の主になられたということでよろしいでしょうか?」
夏侯淵は嫁の聡明さに感心した。
そして実利というものが分かっている。どうやら息子は良い妻を持ったようだ。
「その通りだ。曹操様は漢中の民をいたわるつもりでいるから、無用の心配はしなくていい。もちろん叛意の無い者だけだが」
「心得ております。夫の襟首も私の方でしっかりと捕まえておきますので」
その物言いに、夏侯淵は愉快な気分になった。思わず哄笑を上げる。
「ハッハッハ!!強い妻を選んでしまうのは遺伝かもしれんな!!」
徐林の方は不快もあらわにそっぽを向いた。
「そんなもんが遺伝してたまるか。俺は自分の目だって嫌いなんだぞ」
雹華は二人の目を改めて見比べた。そしてやはり親子なのだと納得する。
「林の目はお義父様譲りなのね。私は好きよ」
「茶化すな。奥で話をする」
徐林は夏侯淵を客間に通した。
雹華はすぐに茶と菓子を用意しようと動いたが、夫がそれを止める。
「こんなやつをもてなす必要はない」
しかし、相変わらず妻は夫の言うことを聞かない。
「夏侯淵様はあなたにとって父でなくても、私にとっては義理の父なのよ。そしてお腹の子のお祖父様でもあるわ」
徐林は妻の言うことを心の中で反すうし、首を傾げた。
「……んん?そんなことはないだろ。俺の父親でなければ、雹華や子供とは関係のない人間だ」
「人と自分との関係を他人にまで強要してはいけないわ」
「いや……それはそうかもしれないが……」
「私とお腹の子は義理の娘として、孫として夏侯淵様に可愛がっていただく権利があります」
夏侯淵はそんな嫁に再び哄笑を上げた。
「ハッハッハ!!雹華さんの言う通りだ!!そして私には義理の父として、祖父として、嫁と孫を可愛がる権利がある」
「おっしゃる通りですわ、お義父様。お茶は濃いのと薄いの、どちらがお好みですか?」
「濃い方だ」
「かしこまりました」
雹華は愛想のいい笑顔を見せ、ひとまず干した果物を卓に置いた。それから茶を淹れに下がっていく。
夏侯淵はその背中を見送ってから息子に話しかけた。
「本当にいい妻を持ったな」
「ああ、自慢の妻だよ。でもお前とのことは憎しみたっぷりに話したはずなんだがな」
徐林は雹華に自分の生い立ちからのことを全て話していた。その時に夏侯淵のことも伝えている。
今も言った通り憎しみを込めて話したつもりなのだが、単純に雹華は頭が良い。徐林の主観を除き、起こった事実を客観的に理解できた。
それで夏侯淵へさしたる悪印象を持たなかっただけだ。
それは夏侯淵にとってありがたいことだったのだが、息子が今もまだ自分のことを憎んでいるという事実は辛かった。
ただ、覚悟はしてきたつもりだ。
「桃花からの文で、お前が私に生き地獄を味わわせたいのだということはよく分かっている。私としてもそれでお前の気が済むならそうしてやりたいのだがな」
「じゃあその方法を教えろ」
「しかしお前はもう人を殺したくないのだろう?なら私にも方法は分からん」
「……幸せなやつだな」
徐林は苦々しく吐き捨てた。
「しかも今はうちの村が人質に取られてるようなもんだ。お前を傷つけたくても傷つけられない」
成り行きで村長になったとはいえ、この村は徐林にとって大切なものになっている。
村長が夏侯淵に危害を加えたとなれば、村もただでは済まないだろう。
しかし夏侯淵の覚悟も決して小さくはなかった。
「それでも私は、お前が私を殺したいなら受け入れようと思って来た」
「それができない状況で言われても説得力はないぞ」
「お前が指定した時間、指定した場所に一人で行こう。お前ならそれで誰にも見つからずに殺してのけるだろう」
瞬間、徐林の頭に幾通りものやり方が浮かんだ。
誰にも見つからず、それこそ夏侯淵の死すら誰にも知られないまま処理する方法がいくつも想定できる。
本当に夏侯淵が指定した場所、時間に一人で来るなら間違いなく暗殺できるのだ。
徐林は黙ってそれを考え続け、そして最後に別のことを考えて、大きく舌打ちした。
「チッ……そんな話をしに来たんなら、さっさと帰れ。俺から言いたいことは何もない」
そういう返事は夏侯淵にとって、必ずしも意外ではなかった。
息子は一度、自分を殺せるのに殺さなかったのだ。
「やはり私を生かしたまま苦しめるのでなければ復讐だと感じないか」
「それもあるけど、それだけじゃない。父さんの遺言だ」
「遺言?」
「出来るだけ人を傷つけないよう生きろって、最期の手紙に書いてあったんだよ。だからお前が憎くても出来るだけ殺さない」
夏侯淵は息子の養父、徐和を斬る前に話したことを思い出した。
腹立たしいことだが、あの男が息子の父だと思わざるを得ない会話だった。
「そういえば、徐和はそんなことを言っていたな。お前を戦いから引き離したいようだった」
「お前らが来なければ漢中も戦いから離れたままでいられたんだけどな」
「それはすまなかったが、この乱世だ。どの土地も早かれ遅かれ、といったところだろう。もしくは運次第だな」
それがたとえ真実だったとしても、侵略軍の将から言われては腹が立つ。
徐林は実父の顔を睨みつけ、卓を叩いた。
「もういい!さっさと帰れ!お前がこの村に何かしない限り、俺の方からは何もしない!それでいいだろうが!」
「そうはいかないわよ。お義父様は嫁と談笑してから帰るんだから」
と、雹華が茶を持ってきて夫の気勢をくじいた。
しかも堂々と建前を乗り越え、本音を付け加える。
「現実問題として、お義父様との関係性は村の生き死ににすら関わるのよ。村長ならその辺りのことを考えてちょうだい」
「ぐっ……」
雹華の言うことは完全に正論で、徐林としては反論もできない。
夏侯淵にはそんな息子夫婦が可笑しくて仕方なかった。クックと喉を鳴らす。
「まるで自分と妻を見てるようだが……雹華さん、あなたのような人が嫁になってくれて嬉しい。そして祝いを口にする機会を逃してしまったが、妊娠しているのだな。おめでとう、そしてありがとう」
「こちらこそありがとうございます。遅い結婚だったので子ができるか心配だったのですが……」
「なんの。うちは子沢山だが、妻は最後の子を四十過ぎで産んでいるからな。まだまだだよ」
そんな普通の嫁・舅の会話を始めてしまった二人に徐林は苛立ち、また卓を叩いて立ち上がった。
「じゃあ村長としての仕事は雹華に任せる!俺はもう引っ込んでるからな!」
部屋を出て行こうとする徐林の背中を夏侯淵は引き止めた。
「ちょっと待て。あと少し話を聞いてくれ」
「嫌だ」
「徐和からの伝言がある」
養父の名を出された徐林はさすがに足を止めた。
表情を変えて振り返る。
「なんだって?」
「だから、徐和からの伝言だ。あの男に言い遺すことはないかと尋ねたら、お前への伝言を頼まれた。最期の手紙に書き忘れたらしい」
父の言葉ほど徐林にとって重いものはない。
それが今際の際の言葉となれば、居住まいを正して聞くしかなかった。
真剣な顔をして夏侯淵に向き合う。
「父さんは何て言い遺したんだ?」
「徐和はこう言っていた。『私はお前を残して逝くが、決して置き去りにするわけではない。私はお前の胸に深く刻み込まれていて、そこを探せばいるはずだ』、と」
夏侯淵はこの言葉を聞いた時、自分に対する当てつけかと思った。
実際に息子を置き去りにしてしまった自分にこれを言わせようという、ただの嫌がらせだと感じたのだ。
しかし実際に伝言を聞いた息子の様子を見ると、当てつけでも嫌がらせでもないことがよく分かった。
徐林は己の胸を見下ろし、手のひらで押さえて必死に何かを探している。
そしてその何かを確かに感じ取れたようで、初めて笑顔を見せてくれた。
五歳以来の笑顔だから、随分と久しぶりになる。
「そうか……俺は置いていかれたわけじゃないんだな……父さんは間違いなくここにいる」
それで胸の穴が塞がるわけではなかったが、穴から吹いてくる風が少し暖かくなったように感じられた。
夏侯淵はその様子に、徐和の言葉をきちんと伝えて良かったと思った。
(綝にとってはこの上なく大切なことで、きっと生きる力にすらなる言葉だったのだ)
笑顔がとても暖かく、そう理解できた。
そしてやはり、徐和は間違いなく息子の父だったのだと再認識させられる。
(ただし……自分も綝の父で間違いない。だから綝にそう思ってもらえる日が来るよう、この家族を暖かく見守っていこう)
夏侯淵はそういう決心をして、濃く淹れられた茶に口をつけた。
今までやっていた商売を続ける方が圧倒的に稼ぎになるからだ。
(もちろんずっと続けるわけじゃないけど、村の財政にもう少し余裕がないと……)
奴隷寸前まで落ちぶれていた村だから非常に貧しい。まずは稼ぎを優先した。
徐林がいない間は前の村長と雹華に代役を任せている。
前村長の言うことなら村人たちはよく聞いたし、雹華は徐林の意向をよく理解してくれている。
村人の気持ちに配慮しつつ、揉め事を少なく、そして村を豊かにするという視点で二人が相談し、諸事うまく処理してくれた。
実際、雹華はこういうことのあしらいが上手かった。裁定に困る揉め事などあると、
「夫が帰ってくるまで待ってからにしましょう」
と言って、棚上げにする。
すると当事者たちは時間経過で頭も冷えるし、雹華が周囲に働きかけて外堀を埋める時間も作れる。
徐林が帰った頃には解決の筋道がついており、『うん』と返事するだけで済むことも多かった。
それに結婚後の雹華は徐林の影響か、女としてうまく立ち回ることの利点を理解したらしい。
状況次第で男を立て、上手に利益を受けながら、時に油断を突く。そういうことができる女は強い。
「雹華さえいれば、俺はずっと留守でも大丈夫そうだな」
「駄目よ。たとえ村が安泰でも月に一回は絶対に帰ってきて」
「月一回?なんで?」
「子作り」
女には月のうち、妊娠しやすい日というものがある。
もし雹華が若ければそんなこと気にせず好きに夫婦生活を送れば良かっただろう。
しかし女の三十五は現実問題として、『妊娠できる機会があと何回』と数えるような齢だ。少なくとも子供を強く望んでいるなら、そういう認識を持った方がいい。
だから雹華は夫に日取りを指定して、そこから数日は絶対に村にいてもらうよう厳命した。
「そんなに気にしなきゃなんないことかな?」
「当たり前よ。林だって子供が欲しいんでしょ?」
「俺が欲しいっていうか……父さんの遺言だからな」
徐林の子供に対する意識はその程度のものだった。あえて欲しいとも思わないが、父の命は守ろうと思う。
「でも昔うちの家事をやってくれてた信者のおばちゃん、四十過ぎで子供産んでたぞ?」
「そりゃそういう人もいるわよ。でも年齢とともに段々と妊娠しにくくなるのは確かなんだから」
徐林はあまり納得していなかったが、それでも妻の希望を叶えてやりたいとは思う。それに、この齢で覚えた子作りは楽しかった。
そういう二人の努力のかいもあり、雹華はほどなく妊娠した。
村人は誰もがおめでとうと言い、笑顔で喜んでくれた。
徐林と雹華は村を豊かにしてくれている。皆それが分かっていたから、この新しい村長夫婦を好きになっていた。
「この村は居心地がいいわね」
妻は幸せそうに言った。幸いなことに、悪阻はひどくないので比較的穏やかに過ごせている。
夫もそれに同意してうなずいた。もともと居心地がいいと思って少し長めに滞在した結果が今に繋がったのだ。
とはいえ世の中は相変わらずの乱世で、徐林たちの村がある漢中も戦乱と無縁ではない。
北からは曹操、南からは劉備に狙われ、村からも幾人か兵に取られている。しかも曹操はすでに軍を動かしていた。
ただ、漢中は天嶮のおかげで非常に防御力が高い。
つい先日も難攻不落の陽平関という関で張魯軍が曹操軍を破り、撤退させたという報を受けた。
この乱世を鑑みるに、徐林の生活環境はまだ穏やかな方だと言えるだろう。それが分かっているから、幸せを噛みしめるべきだと理解している。
ただ口には出せないが、徐林には常日頃から思っていることがあった。
(ここに父さんがいてくれたら)
叶うはずもない望みを空想し、もしそうなら天界にも勝る楽園がここにあるだろうと思った。
しかしそれはしょせん空想で、現実に戻った徐林は胸にポッカリと空いた穴を自覚せざるを得ないのだ。しかも穴からは身を切るような冷たい風が吹いてくる。
幸せだが、満たされない。そんな思いがあることを徐林は初めて知った。
(親を探して荒野をさまよう子供か……)
許靖という著名な人物鑑定家に言われたことを思い出す。
胡散臭いと感じたこともあったが、この胸の穴を見下ろすとやはり本物だったのだろうと思う。
(子供が産まれたら、本当にこの穴が塞がるのかな?)
まだ膨らみもあまり分からない妻の腹を見ていても、正直なところ何も感じない。
ただやはり家族がいる幸せは大きく、最近は夏侯淵のことを思い出すことも少なくなった。妻という幸せが憎しみを薄めてくれているようだ。
(もしかしたら、このまま憎しみを忘れられるのかもしれない)
そう思った矢先のことだった。
のどかな昼下がりに自宅で雹華とくつろいでいると、外から慌てた声で呼ばれた。
「じょ、徐林さん!!軍がやってきました!!この村の長を出せって!!」
軍と聞き、徐林はすぐさま流星錘を取り上げながら聞き返した。
「軍って、漢中の軍じゃないのか?」
「曹操軍の夏侯淵と名乗っています!!」
「なっ、なんだって!?」
徐林が急いで村の入口まで行くと、そこには数十騎の兵が整然と並んでいた。
その先頭に夏侯淵がいる。
「綝、久しぶりだな」
なんでもない挨拶を聞いただけなのに、徐林の胸の穴からはドス黒いものが溢れ出してきた。
それに背中を押され、睨み殺さんばかりの視線を送りつける。とても憎しみを忘れられるものではないと再認識した。
「お前……なんでここにいる?いや、何をしに来た?」
徐林は二つの質問のうち、後者の方を優先して聞き直した。村長として、村の安全をまず気にしてのことだ。
そういう小さな機微を感じ取った夏侯淵は、親として感慨深いものを覚えた。
「本当にこの村の長をやっているのだな。里正の一覧の中にお前の名を見つけた時はまさかと思ったが……」
「質問に答えろ」
「安心しろ、村には何もせん。私はお前と話をしたくて来ただけだ」
その回答に徐林はひとまずホッとしたが、世界で一番嫌いな人間に対して心地良い返事はできない。
「なら帰れ。俺はお前と話したいことなんてない」
「そう言うな。一つ目の質問に答えておくと、私は漢中を治める者としてここにいるのだ」
「漢中を治める!?……どういうことだ?曹操軍は陽平関で負けて漢中から撤退したんじゃないのか」
本当につい最近、そういう報を受けたのだ。しかもその戦場にいたという人間の言だったので、信憑性は高いと思っていた。
しかし曹操軍が逃げたのなら漢中に守将など置かれるはずがない。
夏侯淵は笑って経緯を教えてやった。
「ああ、本当に撤退しようとしてたんだがな。夜間の撤退中に張魯の軍に大量の鹿が迷い込んだのだ」
「鹿?」
「そうだ、鹿だ。それで混乱したらしい。奇襲だと思ったのだろう」
「そんなことで……」
「もちろんこれだけなら『そんなこと』で終わりだったが、丁度うちの馬鹿が夜間の撤退で道に迷ってな。偶然にも張魯軍の陣地に入り込み、しかも味方を呼ぼうと軍鼓を打ち鳴らしたらしい。それで本格的な大混乱に陥ったそうだ」
まるで他人事のように言う夏侯淵だったが、陽平関は難攻不落と言われた要衝だ。現に曹操は撤退しようとしていた。
それがこんな偶然で落とせたのだと思うと、笑うしかない。
「とはいえ、その機を逃さず再攻撃を進言した優秀な人材が我が軍にいた結果でもある。やはり勝ちは勝ちで、負けた張魯は南へ逃げていったよ。その内ここにもその報が届くだろう」
徐林は奥歯を噛み締めながら、今の話を信じるしかないと理解した。わざわざこんな嘘をつく理由がない。
つまり徐林が村長を務める村は、憎き養父の仇によって治められる村になるわけだ。
「……状況は分かった。村人には家から出ないよう指示しておくから、お前も兵たちに動かないよう命じてくれ。揉め事はごめんだ」
徐林はやはり村長として、まずそれを依頼した。
侵略軍と現地人だ。どんなきっかけで喧嘩になるか分からない。
「お前自身は物分かりがいいんだな。それなら兵たちは村の外で待機させ、村には私一人で入ろう。よければお前の自宅で話をさせてくれ」
そんなことを言い出した夏侯淵の袖を副官が引いた。
それから困り顔で首を横に振る。
夏侯淵の立場は今後の漢中の長ということになる。そういう人間がたった一人で動いていいわけがない。
が、夏侯淵は慣れた風にその手を払った。
「いい。ちょっと息子の家にお邪魔するだけだ」
その言葉に徐林はムッとしたものの、背を向けて一言だけ答えてやった。
「こっちだ」
二人が徐林の家に着くと、玄関で雹華が待っていた。
挙措を正し、初対面の義父へ静かな声で尋ねる。
「夏侯淵様でいらっしゃいますか?」
「そうだ」
肯定の返事を聞くと、慇懃に頭を下げて挨拶を口にした。
「お義父様、お初にお目にかかります。嫁の雹華と申します」
徐林は妻の言うことを咎めた。
「やめろ。こんなやつをお義父様なんて呼ぶんじゃない」
しかし雹華は夫を無視し、夏侯淵だけを見ながら言葉を続けた。
「お義父様がここに来られたということは、張魯様が敗れて曹操様がここ漢中の主になられたということでよろしいでしょうか?」
夏侯淵は嫁の聡明さに感心した。
そして実利というものが分かっている。どうやら息子は良い妻を持ったようだ。
「その通りだ。曹操様は漢中の民をいたわるつもりでいるから、無用の心配はしなくていい。もちろん叛意の無い者だけだが」
「心得ております。夫の襟首も私の方でしっかりと捕まえておきますので」
その物言いに、夏侯淵は愉快な気分になった。思わず哄笑を上げる。
「ハッハッハ!!強い妻を選んでしまうのは遺伝かもしれんな!!」
徐林の方は不快もあらわにそっぽを向いた。
「そんなもんが遺伝してたまるか。俺は自分の目だって嫌いなんだぞ」
雹華は二人の目を改めて見比べた。そしてやはり親子なのだと納得する。
「林の目はお義父様譲りなのね。私は好きよ」
「茶化すな。奥で話をする」
徐林は夏侯淵を客間に通した。
雹華はすぐに茶と菓子を用意しようと動いたが、夫がそれを止める。
「こんなやつをもてなす必要はない」
しかし、相変わらず妻は夫の言うことを聞かない。
「夏侯淵様はあなたにとって父でなくても、私にとっては義理の父なのよ。そしてお腹の子のお祖父様でもあるわ」
徐林は妻の言うことを心の中で反すうし、首を傾げた。
「……んん?そんなことはないだろ。俺の父親でなければ、雹華や子供とは関係のない人間だ」
「人と自分との関係を他人にまで強要してはいけないわ」
「いや……それはそうかもしれないが……」
「私とお腹の子は義理の娘として、孫として夏侯淵様に可愛がっていただく権利があります」
夏侯淵はそんな嫁に再び哄笑を上げた。
「ハッハッハ!!雹華さんの言う通りだ!!そして私には義理の父として、祖父として、嫁と孫を可愛がる権利がある」
「おっしゃる通りですわ、お義父様。お茶は濃いのと薄いの、どちらがお好みですか?」
「濃い方だ」
「かしこまりました」
雹華は愛想のいい笑顔を見せ、ひとまず干した果物を卓に置いた。それから茶を淹れに下がっていく。
夏侯淵はその背中を見送ってから息子に話しかけた。
「本当にいい妻を持ったな」
「ああ、自慢の妻だよ。でもお前とのことは憎しみたっぷりに話したはずなんだがな」
徐林は雹華に自分の生い立ちからのことを全て話していた。その時に夏侯淵のことも伝えている。
今も言った通り憎しみを込めて話したつもりなのだが、単純に雹華は頭が良い。徐林の主観を除き、起こった事実を客観的に理解できた。
それで夏侯淵へさしたる悪印象を持たなかっただけだ。
それは夏侯淵にとってありがたいことだったのだが、息子が今もまだ自分のことを憎んでいるという事実は辛かった。
ただ、覚悟はしてきたつもりだ。
「桃花からの文で、お前が私に生き地獄を味わわせたいのだということはよく分かっている。私としてもそれでお前の気が済むならそうしてやりたいのだがな」
「じゃあその方法を教えろ」
「しかしお前はもう人を殺したくないのだろう?なら私にも方法は分からん」
「……幸せなやつだな」
徐林は苦々しく吐き捨てた。
「しかも今はうちの村が人質に取られてるようなもんだ。お前を傷つけたくても傷つけられない」
成り行きで村長になったとはいえ、この村は徐林にとって大切なものになっている。
村長が夏侯淵に危害を加えたとなれば、村もただでは済まないだろう。
しかし夏侯淵の覚悟も決して小さくはなかった。
「それでも私は、お前が私を殺したいなら受け入れようと思って来た」
「それができない状況で言われても説得力はないぞ」
「お前が指定した時間、指定した場所に一人で行こう。お前ならそれで誰にも見つからずに殺してのけるだろう」
瞬間、徐林の頭に幾通りものやり方が浮かんだ。
誰にも見つからず、それこそ夏侯淵の死すら誰にも知られないまま処理する方法がいくつも想定できる。
本当に夏侯淵が指定した場所、時間に一人で来るなら間違いなく暗殺できるのだ。
徐林は黙ってそれを考え続け、そして最後に別のことを考えて、大きく舌打ちした。
「チッ……そんな話をしに来たんなら、さっさと帰れ。俺から言いたいことは何もない」
そういう返事は夏侯淵にとって、必ずしも意外ではなかった。
息子は一度、自分を殺せるのに殺さなかったのだ。
「やはり私を生かしたまま苦しめるのでなければ復讐だと感じないか」
「それもあるけど、それだけじゃない。父さんの遺言だ」
「遺言?」
「出来るだけ人を傷つけないよう生きろって、最期の手紙に書いてあったんだよ。だからお前が憎くても出来るだけ殺さない」
夏侯淵は息子の養父、徐和を斬る前に話したことを思い出した。
腹立たしいことだが、あの男が息子の父だと思わざるを得ない会話だった。
「そういえば、徐和はそんなことを言っていたな。お前を戦いから引き離したいようだった」
「お前らが来なければ漢中も戦いから離れたままでいられたんだけどな」
「それはすまなかったが、この乱世だ。どの土地も早かれ遅かれ、といったところだろう。もしくは運次第だな」
それがたとえ真実だったとしても、侵略軍の将から言われては腹が立つ。
徐林は実父の顔を睨みつけ、卓を叩いた。
「もういい!さっさと帰れ!お前がこの村に何かしない限り、俺の方からは何もしない!それでいいだろうが!」
「そうはいかないわよ。お義父様は嫁と談笑してから帰るんだから」
と、雹華が茶を持ってきて夫の気勢をくじいた。
しかも堂々と建前を乗り越え、本音を付け加える。
「現実問題として、お義父様との関係性は村の生き死ににすら関わるのよ。村長ならその辺りのことを考えてちょうだい」
「ぐっ……」
雹華の言うことは完全に正論で、徐林としては反論もできない。
夏侯淵にはそんな息子夫婦が可笑しくて仕方なかった。クックと喉を鳴らす。
「まるで自分と妻を見てるようだが……雹華さん、あなたのような人が嫁になってくれて嬉しい。そして祝いを口にする機会を逃してしまったが、妊娠しているのだな。おめでとう、そしてありがとう」
「こちらこそありがとうございます。遅い結婚だったので子ができるか心配だったのですが……」
「なんの。うちは子沢山だが、妻は最後の子を四十過ぎで産んでいるからな。まだまだだよ」
そんな普通の嫁・舅の会話を始めてしまった二人に徐林は苛立ち、また卓を叩いて立ち上がった。
「じゃあ村長としての仕事は雹華に任せる!俺はもう引っ込んでるからな!」
部屋を出て行こうとする徐林の背中を夏侯淵は引き止めた。
「ちょっと待て。あと少し話を聞いてくれ」
「嫌だ」
「徐和からの伝言がある」
養父の名を出された徐林はさすがに足を止めた。
表情を変えて振り返る。
「なんだって?」
「だから、徐和からの伝言だ。あの男に言い遺すことはないかと尋ねたら、お前への伝言を頼まれた。最期の手紙に書き忘れたらしい」
父の言葉ほど徐林にとって重いものはない。
それが今際の際の言葉となれば、居住まいを正して聞くしかなかった。
真剣な顔をして夏侯淵に向き合う。
「父さんは何て言い遺したんだ?」
「徐和はこう言っていた。『私はお前を残して逝くが、決して置き去りにするわけではない。私はお前の胸に深く刻み込まれていて、そこを探せばいるはずだ』、と」
夏侯淵はこの言葉を聞いた時、自分に対する当てつけかと思った。
実際に息子を置き去りにしてしまった自分にこれを言わせようという、ただの嫌がらせだと感じたのだ。
しかし実際に伝言を聞いた息子の様子を見ると、当てつけでも嫌がらせでもないことがよく分かった。
徐林は己の胸を見下ろし、手のひらで押さえて必死に何かを探している。
そしてその何かを確かに感じ取れたようで、初めて笑顔を見せてくれた。
五歳以来の笑顔だから、随分と久しぶりになる。
「そうか……俺は置いていかれたわけじゃないんだな……父さんは間違いなくここにいる」
それで胸の穴が塞がるわけではなかったが、穴から吹いてくる風が少し暖かくなったように感じられた。
夏侯淵はその様子に、徐和の言葉をきちんと伝えて良かったと思った。
(綝にとってはこの上なく大切なことで、きっと生きる力にすらなる言葉だったのだ)
笑顔がとても暖かく、そう理解できた。
そしてやはり、徐和は間違いなく息子の父だったのだと再認識させられる。
(ただし……自分も綝の父で間違いない。だから綝にそう思ってもらえる日が来るよう、この家族を暖かく見守っていこう)
夏侯淵はそういう決心をして、濃く淹れられた茶に口をつけた。
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