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短編・中編や他の人物を中心にした物語

選ばれた子、選ばれなかった子26

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「ようこそおいで下さいました」

 という歓迎の言葉を耳にして、徐林は内心首を傾げた。

 それは目の前の女が発したものなのだが、言葉とは裏腹に歓迎の意思がまるで読み取れなかったからだ。

 というか、むしろ冷ややかな拒絶のようなものを感じる。声音や少し伏した目から、そういう印象を受けるのだ。

(俺は父さんの文を読みに来ただけなんだが)

 そのために司馬倶の自宅を訪ね、来訪を告げたところ女が一人出てきた。

 女は徐林が来ることを聞かされているようで、冒頭の挨拶を述べてすぐに徐林を中に引き入れた。

「こちらへ」

 短くそう言った女の背中からは、やはり冷たい雰囲気しか感じられない。

(まぁ……別に父さんの文が読めればそれでいいんだけど)

 そう思いながらついて行くと、女は奥の部屋の前で足を止めた。

 そして戸を開く。

「どうぞ。父が待っております」

 その言葉で、徐林はようやく女が司馬倶の娘であることを知った。

(でも……司馬倶様に娘がいるなんて初耳だぞ。しかもこんな齢の)

 こんな齢、というのは失礼な話だが、女はどう見ても三十をいくつも越えている。徐林とほぼ同年代だろう。

 つまり徐林が司馬倶と働いていた頃からいたはずの娘で、長い付き合いなのにそれを知らなかったのだ。

 その司馬倶は徐林に笑顔を向けてきた。

「徐林、よく来てくれた。まぁ入ってくれ。雹華ヒョウカも入りなさい」

 司馬倶の娘、雹華は返事もせずに無言で部屋に入った。そして隅に座り、無表情に徐林を眺めてくる。

 不機嫌そうにすら見える態度だった。

 司馬倶はそれを取り繕うように少し高い声を出した。

「じょ……徐林には言っていなかったが、実は秘密で組織の外に妻を持っていてな。雹華はその娘だ」

「あぁ、そうですか」

 徐林はそういうこともあるだろうと思った。

 自分たちは公に対して不服従を続ける武装勢力だったのだ。

 いつ身内に危害が及ぶとも知れないから、秘密裏に女を囲うということがあってもおかしくはない。

「八年前に逃げた時、私は雹華と妻を連れて行くことにした。ごく近しい部下の中には二人のことを知っている者もいたから、置いていけば見せしめに殺される可能性があったのだ」

「なるほど」

「妻は三年前に流行り病で亡くなってしまったが、雹華は体が強い娘でな。小さい頃からほとんど風邪も引かずに過ごしてきた」

「はぁ」

「それにな、女だてらに学識があるし、字だってそれは立派なものを書く。家のことだってそつなくこなすし、料理は美味い。銭の管理もしっかり出来るしな」

 徐林は急に娘を持ち上げ始めた司馬倶にいぶかしげな目を向けた。

 娘が可愛いのかもしれないが、今日は父の文を読みに来たのだ。

「あの、そんなことより父さんの文を見せてもらっていいですか?」

 カリッ

 と部屋の隅から音がした。

 振り向くと、雹華の爪が床を掻いている。

 相変わらず不機嫌そうな様子だ。

(なんなんだ)

 眉をひそめる徐林に、司馬倶は妙に焦った様子で手紙を差し出した。

「おお、そうだ。そのために来たのだからな。ほら」

 受け取って紙を広げると、そこには懐かしい筆跡が踊っていた。間違いなく父の字だ。

 徐林は胸を熱くしながら一度読んだ。そしてさらに二度読み、三度読んだ。

 それだけ読み返してから、目を閉じて手紙を胸に押し当てた。

 心の奥から涙が湧いてくる。それが目からあふれて頬に筋を作った。

「父さんは、俺の幸せを願ってくれてたんですね」

 徐和が息子に遺した最期の言葉は、そういう気持ちがよく伝わるものだった。

 文の冒頭、徐和は息子の幸せが何かをよく考えてみたと書いていた。そしてそれはきっと『家族がいることだと思った』、と続けられている。

 決して今のような暗殺稼業の継続は望まない。むしろ出来るだけ人を傷つけなくてよいよう生き、その平穏の中で家族と生きるのが息子の幸せだろうと父は考えた。

 だから戦から遠ざかり、結婚し、子を成し、その子を抱いて幸せそうな顔をしていてくれと、願いが滲むような字で書かれていた。

「そういえば、つい先日にも結婚を勧められました」

 徐林は涙を拭いながら、著名な人物鑑定家の顔を思い出していた。

 許靖という初めて会った男が、長い時を共にした父と同じ助言をくれていた。それはすごいというより、不思議なことのような気がする。

 司馬倶も大きくうなずいた。過剰なほど大きくだ。

「そうそう、私もそう思う。それに徐和が遺言でそう言っているからには結婚せねばならんだろう」

「ええ、そうしようと思います」

「そうか!……で、相手はいるのか?」

 なぜか勢い込んで尋ねる司馬倶に違和感を感じながら、徐林は首を横に振った。

「いえ、いません」

「そうか!!」

「でも従妹が紹介……」

「では雹華などどうだ!?」

「……は?」

 思いもしなかった展開に、徐林の口は馬鹿みたいに開いてしまった。

 その顔のまま雹華へと目を向ける。

 雹華の方はいっそう不機嫌そうな目で見返してきた。

 見つめ合う二人だが、良い感じになりそうな男女の雰囲気はない。

 しかし司馬倶はそれをかき消すように喋り続けた。

「さ、さっきも言ったが雹華は健康で体の強い娘だ。しかも頭が良く、器用で気も利くぞ。およそ苦手というものがない」

「いや、そう言われても……」

「妻にするには悪い女ではないと思うのだ。家事もできるし、安心感というのかな、そういうものがある。若い娘のような華やいだ楽しさはないかもしれんが……」

 ガリッ

 と、先ほどと同じように雹華が床を掻いた。いや、先ほどよりもかなり強くだ。

 見ると、雹華の形相は不機嫌を通り越してはっきりと怒っている。

 触れれば火傷でもしそうな視線を司馬倶へと向けた。

「お父様、もうやめてください。何を言ったところで答えは決まっています」

「しかし」

「しかしも何もありません。私は今年でもう三十五ですよ?嫁にもらおうと思う人がいますか」

 この感覚は現代人には分かりづらい。最近は三十五での結婚などあまりにも当たり前になっている。

 しかしこの時代、多くの女性は十五から二十の間に結婚していた。三十五は結婚適齢期をとうに超えているという認識が普通だ。

 時代を遡って漢代以前を見ると、なんと十七で未婚の女性に罰則を定めた国まであった。

 少し前の前漢でも三十までに結婚しなければ罰金が課せられた時代がある。人口を増やすための富国政策なのだが、早い結婚が善いこととされていたのは確かなようだ。

「どうせこの方も、この齢まで未婚だった問題のある女だとしか思っていませんよ」

(未婚なのか)

 徐林は初めてそれを知り、あらためて雹華を見た。

 確かにこの齢だと未亡人か出戻りかだと思われてもおかしくはない。しかし未婚だという。

 娘の言葉を受け、司馬倶は徐林が尋ねてもいないのに事情を話し始めた。

「徐林、雹華は決して問題がある娘というわけではないのだ。むしろ何度も言うようだが、結婚すれば良き妻になると思う。ただ、少し男のより好みが激しくてな……」

「私はより好みなどしていませんっ」

 雹華はピシャリと音が出るような言い方で父を否定した。

 父はそれに苦虫を噛み潰したような顔で応じる。

「私が連れてきた男たちを全て拒絶したのはどこの誰だ」

 言われた娘はプイとそっぽを向いた。

「それはお父様が連れてきた方々が良くないのです。誰も彼も女を男の付属物のように見ていて、腹立たしいったらありませんでした」

「お前、そうは言ってもな……」

「妻は夫を支えるもの、男は女の上にいるという考え方が見え見えなのですよ。そういう女を馬鹿にした男と生活などできません」

「…………」

 司馬倶は閉口して、助けを求めるように徐林の方を見た。

 見られても困る徐林は身じろぎくらいしかできない。

 しかし司馬倶は徐林になんとか言ってほしかった。

「まぁ……こんなふうに変わったこだわりのある娘なのだが……徐林はそういう事はないな?」

「はい?そういう事とは?」

「女を下に見たり、馬鹿にしたりということだ」

 助けになるかは分からないが、徐林は自分の考えをそのまま口にした。

「俺は女を下に見るどころか、女の方が上だと思ってますけど」

「えっ?」

 と、雹華の方が声を上げたため、徐林はそちらを向いてあらためて答えた。

「だから、俺は男よりも女の方が上だと思ってます。少なくとも有能だ」

 男の口から初めてそのようなことを聞いた雹華は驚いた。

 しかし信じられずに問い返す。

「それは……本心からの言葉ですか?」

「もちろん本心ですよ。実際、俺が女だったら良かったのにと思ったことが何度もありました」

「嘘」

「嘘なもんですか。女だったらもっと容易に成し遂げられたと思う事が多かったんです」

「それはどんな事で?」

「過去のこととはいえ、俺には言えないことが多いので」

 徐林は具体的なことは言わなかったが、要は暗殺絡みだ。

 女であれば色仕掛けが使えるし、相手が油断もしてくれる。こと暗殺においては女の方が有利になる場合が多い。

「でも、女の方が体が小さくて力も弱いですよ」

「それは道具と工夫でなんとでもなります」

「女だからとすぐにあなどられてしまいますし」

「それはつまり、相手の油断を誘えるということです。その隙を突きやすいのも女の能力の一つでしょう」

「そうかもしれませんが……あなたは男の方が女より偉いとは思わないのですか?」

「ぇえ?」

 徐林は思わず笑った。この不機嫌な女が冗談を言ったと思ったのだ。

「もし男なだけで偉いと思ってる馬鹿がいたとしたら、そいつは馬鹿などころか頭が狂ってますよ」

 そう言って細められた目に、雹華は心臓を射抜かれた気がした。

 頬を赤らめて下を向き、上目がちに徐林を見る。

「で……でもどうせ、三十も半ばの女なんて嫌でしょう?」

 徐林はまた笑ってから答えた。

「いやいや、俺だって同じ三十半ばですし。そっちがいいなら俺の方は全然いいんですけどね」

「……え?それって……どういう?」

「だから、雹華さんさえ良ければ結婚するってことですよ」

 雹華の心は舞い上がり、舞い上がり過ぎてめまいを起こした。床に手をついて体を支える。

 こんな経験は初めてだ。

 一方の徐林の方はそれほど重大なことを言った様子もなく、軽い調子で言葉を続けようとした。

「でもまぁ、雹華さんの方が男って生き物を嫌ってるならどうしようもな……」

「よ、よろしくお願いします!!」

「……ん?」

 徐林は完全な拒絶を予期していたから、すぐに事態が把握できなかった。

 雹華は初めて会った時から自分のことを嫌っているように見えた。そして話を聞いて、男自体を毛嫌いしているのだと理解した。

 だから絶対に成立しない縁談だと考えたのだ。

(これ……本当に結婚決まっちゃうな)

 徐林は唐突にそのことを理解し、それから初めて本気で考えた。

 ただ、暗殺者という特殊な人生を歩んだ徐林はこの辺りの思考回路か常人と違う。相手が誰でも大したことではないと思った。

(でもまぁ……こういう女がいいとかも無いし、別にいいか)

 と、安易な気持ちで受け入れようとした。

 ただし、その前に父が自分のために嫁を選んでくれるはずだったことを思い出した。

 あの時の父はたった一つだけ嫁選びの要件を提示してくれていたのだ。

「あの……雹華さんって、信心深い方ですか?」

「え?信心?」

「太平道とか五斗米道とかの教えに関して、どう思ってます?」

「ああ……そうですね、お父様の前なので少し言いづらいのですが……」

 雹華は横目にチラリと父を見てから答えた。

「クソくらえって思ってますわ」

 言いづらいと言ったくせに、平然とそう言ってのける。

 当然司馬倶は頭を抱えたが、徐林の方はむしろこの女と結婚したいと思うようになっていた。
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